夜7時半。夕食も風呂も済ませたぼくは座り慣れた椅子に腰を下ろす。目の前には読みかけの小説と、淹れたばかりの温かいコーヒー。ぼくの体重を受けた椅子がぎい、と音を立てる。ぼくはふう、と息を吐いて本を開いた。はらり、という紙が擦れる音と同時にぼくはこの世界から断絶される。雨が窓を叩く音と時計の秒針が忙しく動く音だけを聞きながら、ぼくの意識は本の中に吸い込まれる。ぼくとこの部屋とを繋げているのは、温かいコーヒーだけだ。宇宙に溶け込むようなこの浮遊感が、ぼくはたまらなく好きだ。
――ピンポーン
心地良い酩酊感に浸っていると、無機質なインターホンの音が割って入ってきた。一気に現実に引き戻され、時計を見ると8時41分を指していた。こんな時間に来客……どんな非常識な奴だ?と内心で毒づき、あからさまに足音を立てて手荒く玄関を開けた。
「……は?」
虚を突かれたぼくの眼前には、頭からつま先まですっかりずぶ濡れのブランくんの姿があった。
「ごめんノワール、いきなりだし色々気になると思うんだけど今夜泊めてくれない。」
「と、とりあえずシャワー浴びるかい……?」
突然現れた哀れな友人の姿にすっかり毒気を抜かれたぼくはそう呟く。ブランくんは俯いたまま小さく頭を縦に振り、おもむろに玄関を跨いだ。
「ほい、寒かっただろ?ホットカフェオレだぜ。」
「ぇ……ぁ、ありがとう。」
湯気のたちのぼるマグを2つ、机上にことりと置くと、ブランくんは震える手で遠慮がちに受け取った。ふーふーと息を吹きかける度に、カフェオレと石鹸の混じったような甘い匂いが漂ってきた。
「家族と大喧嘩した、そうだろ?」
「んぐム……ッえ、なんで分かったの?」
「なんでもなにも、思いっきり顔に書いてあるぜ?」
口に含んだカフェオレを吹き出しそうになりながら目を丸くしてそう答えるブランくん。本当言うと半ば当てずっぽうだったんだが、彼女のリアクションを見るに図星だったらしい。やっぱりキミは素直でからかい甲斐があるね。なんて言うときっと怒るから、代わりにしたり顔で温かいコーヒーをすすった。
「ところで、なんでぼくんとこに?キミ、おばあさんにすっごく懐いてただろ?」
「この時間はきっともう寝てるし……いきなり行くのも迷惑と思って。」
「おいおい迷惑って、ぼくはいいのかよ?」
「ノワールはだって……ボクのたった一人の親友だから……、他に頼れる人もいないし……、えと、迷惑だった……?」
少し悪戯するつもりで軽く笑いながら言ってみたが、しおらしいブランくんの表情につい目を逸らしてしまう。
「すまんすまん、今のは意地が悪かったな。素直に言うよ、頼ってくれて嬉しいぜ。」
「よかったぁ。」
ブランくんは安堵した表情で、思い出したようにカフェオレに口をつけた。
「で……結局何があったって?」
「ちょっとね……ママと進路の話で揉めて、家を飛び出してきたの。」
「……ふーん。」
――なんで言う通りに生きなかったの?あなたは私達に従っていれば幸せになれたのに。生返事を返すぼくの脳内では、そんな言葉を反芻していた。
「ねね、もしかしてなんだけどノワールも同じ経験したことあるの?」
「……なんでわかった?」
「顔に書いてあったもん。ノワールって時々めちゃめちゃわかりやすいよね。」
その言葉から、さっきの意趣返しかと思いむっとしたが、彼女のことだから本当にただの天然だろう。ブランくんの方に顔を向けると、厄介なことに彼女の無垢な瞳が真っ直ぐ前のめりに向けられていた。
「じゃあさ、ノワールは具体的に何があって家出したの?というか、ご両親って今どこにいるの?」
……ただ、悪意が無いというのはかえってタチが悪い。あまり話したくない話題なのだが、はぐらかすのも感じが悪い気がするし……そもそもこう見えて案外強かな彼女のことだ、一度気になったことは意地でも聞き出そうとするだろう。結局、ぼくは大きなため息を一つ落としてから、無言で棚の上の一枚の写真を差し出した。
「ん……これがママとパパ?なんか二人ともノワールにはあんまり似てないね。」
「『なんで私は母さんと肌の色が違うの』『なんで私は父さんと目の数が違うの』『なんで私はみんなと違うの』って、子どもの頃からたくさん困らせたもんさ。その度に返ってくるのは的を射ない、いい加減な返答。そのくせ『あなたはみんなと違うんだから』ってぼくの進路や就職のこと、生き方に色々と口を出してくるんだもの。結局はそんな小さい不満の積み重ね、今になって思えばお互い様だったけどな。会わなくなってもう一年近くなるかなぁ。」
「今も喧嘩中ってこと?でも……ノワールはさ、」
「ノワールはご両親のこと、本気で嫌いなの?」
写真に視線を落としたままのブランくんから投げかけられたその質問に一瞬、ぼくの時は凍った。喉の奥から空気が漏れるような音がした。
「……あ、当たり前さ、じゃなきゃ今にでも連絡して顔合わせてる、一年もほったらかしだなんて……だろ?」
「それって……ノワール、本気?じゃあなんで写真なんか飾ってるの?」
どうにか絞り出した言葉を、ブランくんはそう突き返す。黒く大きな一つ目が、ぼくをじっと射止めていた。
「……残念ながら、ぼくは本気だよ。あの人たちは、ぼくが何したいかだなんてちっとも聞いてくれなかったからな。」
ブランくんは依然黙ってこちらを見つめている。
「……それでも時々、思い出すんだよ。家を出る前にママがぼくに言った言葉を。」
思わず声が震え、上擦る。
「――いい親になれなくてごめんね。って。」
手に持ったマグカップの水面の揺れがやけに目に入った。
「ノワール……」
「……ぼくの話はもういいだろう?ブランくんが話をしたくて来てくれたんだしな。その……どこまで話したんだっけ?」
「……うん、そうだったね、ごめん。」
居た堪れない気持ちに耐えかねて、ブランくんの手から写真を取り上げた。重ねて何か言いたげな顔で一瞬口を開けたが、それ以上の追及はしてこなかった。
「進路の話で揉めた、ってことだけど。」
「そう、実はボク……小学校の先生になりたくって。今日初めてママにその話をしたんだけど、猛反対でね。『亜人が人前に立つ仕事なんて』って……。」
「……ぼくの知人にもいたぜ。亜人で教員を務めてた変人が。」
「その人は今も――」
ぼくは黙って首を横に振る。ブランくんの瞳から光が消えた。
「お母さんとしては何よりキミを……愛娘を思っての発言、とは思うぜ。夢を追って叶えた先で破れるのは……死ぬほど辛いことだからな。」
「冷静になって思えばママの言ってることもわかるの。ボクみたいな亜人に先生なんて務まりっこないこと、本当はボクだって分かってたし。……だからこそ今日まで言えなかったんだしね。」
自嘲するように吐き捨てるブランくんの瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
「でも……ううん、やっぱり諦めたくなかった。ボク、亜人でも人間でも、子供が好きだもん。ママやパパには、せめて言葉だけでも応援して欲しかった。それだけなんだと思う。」
そう言うとブランくんは、すっかり冷めたカフェオレを飲み干した。机の上に、からっぽのマグと、ぼくのコーヒーの入ったままのマグが並んだ。
「ぼくはキミの夢を応援するぜ。……キミの母さんも、本心ではそう言ってやりたいと思ってるだろうしな。」
ブランくんは黙ったまま、しかし力強く頷いた。
「……ありがとう。」
「それは何に対しての『ありがとう』?」
「全部だよ、まるっと含めて。『ノワール、ありがとう』、って。」
「ははは、なんだよそれ。」
ブランくんも釣られて、少しだけ笑った。さっきまでの重たい空気が、ほんの少し軽くなる。会話の途切れた部屋には、時計と雨の音だけが残る。ブランくんがふぅ、と小さく息を吐いた。
「でもなんだか……久しぶりにたくさん悩んで頭使ったから、 ふぁ……疲れちゃった……。」
大きなあくびをしながらくしくしと目をこすってブランくんが呟く。時計を見ると時刻は11時を指していた。そのままソファで横になったブランくんに布団をかけてやると、小声で「ありがとぅ……」と呟いたかと思えばあっという間に寝息を立て始めた。
「おやすみ、きっと明日はいい日になるぜ。」
すでに夢の中のブランくんにそう呟き、ぼくも床に就いた。
目を覚ますと、先に起きていたらしいブランくんの、ケータイの淡い光に照らされた顔が目に入った。
「ふぁ……おはよう、ブランくん。」
「おはよノワール。ごめん、もしかして起こしちゃった?」
「んにゃあ別に。でもキミにしちゃ今朝は早起きだな。」
「なんだかあんまり寝られなくって。でも、きっともう大丈夫。」
そう言ってブランくんの差し出したケータイには母親からの不在着信通知と、「ごめんね」「今どこにいるの?」「早く帰っておいで」「ママが悪かったから」などのメッセージが映し出されていた。
「帰りは一人で大丈夫かい?」
「うん。本当に、色々とありがとうノワール。」
「いいってことよ。困った時はお互い様、だろ?」
「えへへ。いいこと言うね。」
晴れ渡る空の下、小走りで帰路に着くブランくんを、大きく手を振りながら見送る。
――なんでぼくは、こうなれなかったんだろう。
小さくなっていくブランくんの背中を眺めていると一瞬、そんな思考がよぎってズキ、と鋭い痛みがした。その時だった。
「おーい!」
突然立ち止まったブランくんがこちらを向いて叫ぶ。
「ノワールも意地張ってないで早く仲直りしなよー!」
ぼくは息が詰まって返事もできず、ただ黙って掲げていた右手を握り、親指を立てた。満足そうにして再び進むブランくんの小さな背中が、少し滲んだ。