泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話   作:天狗猿

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百鬼夜行までで一旦、一区切りにして、次は貞操逆転禪院家書きたくなっているのは俺なんだよね


拾壱:境界線 -弐-(二〇一七年、十一月)

 

 

 

視界は、どこまでも白く爆ぜていた。

それは真冬の河川敷を包む、乾いたヴェールのような霧だった。

買い物帰りのビニール袋が、凍てつく風に煽られてカサカサと乾いた悲鳴を上げている。

繋いだ母の手は、驚くほど温かかった。

 

「瑠璃、ほら。あそこ、鳥がいるわよ」

 

母の指差す先、鉛色の水面に一羽の白鷺が静止している。

そのあまりに完璧な静止は、死という名の剥製を思わせた。

幼い瑠璃にとって、その細い指先が示す世界だけが世界のすべてであり、母の温もりこそが唯一の正解だった。

 

月末の夜には、いつも特別な風呂を用意してくれた。

場面は、湯気の立ち込める浴室へと滑り落ちる。

瑠璃が子供の頃から変わらず愛していた、冬の夜の温もり。

バスタブに放り込まれた安価な入浴剤が、シュワシュワと音を立てて純白の泡を生成していく。

 

「わあ、雪みたい……」

 

瑠璃が小さな手で泡を掬うと、それは頼りなく、しかし確かな弾力を持って掌で踊った。

母は笑って、瑠璃の背中を流してくれる。

界面活性剤の混ざった石鹸の匂いが、肺の奥まで清廉に満たしていく。

 

 

風呂上がりの寝室。

パジャマ姿の瑠璃は、母の膝に頭を預けていた。

膝枕の柔らかさと、石油ストーブの爆ぜる音。

母が柘植(つげ)の櫛を使い、瑠璃の濡れた髪をゆっくりと解かしていく。

 

 

「……瑠璃」

  

 

一撫でごとに、絡まった思考が(ほど)けていくような心地よさ。

 

 

「……瑠璃ちゃん」

 

 

あわいまどろみの中で、その声のトーンが次第に変質していくことに、瑠璃は気づかなかった。

温かかった母の指先が、徐々に粘り気を帯びた「泥」のような感触に変わり、耳元で囁かれる名前が、慈愛を欠いた、湿った肉の響きへと堕ちていく。

  

「──ねえ、瑠璃ちゃん。起きて?楽しいこと、い~っぱいしよ?」

 

意識の浮上は、泥濘の底から引き摺り出されるような不快感を伴った。

重い。

眼蓋の裏側に残る蛍光灯の残像が、網膜に突き刺さる。

 

「……っ」

 

瑠璃は、自分の頬に触れる異様な「柔らかさ」に目を見開いた。

視覚が焦点を結ぶ。最初に見えたのは、白。

それから、視界を圧迫するような圧倒的な質量の「山」だった。

 

瑠璃は、膝枕をされていた。

それも、彼女の全神経を逆撫でするような、肉感的な太腿の上で。

眼前に聳えるのは、白い修道服の布地を限界まで引き絞り、ボタンの隙間からその肉感的な質量を主張する、愛裏の二つの巨峰だった。

 

「あははっ!瑠璃ちゃん、おはよ〜」

 

愛裏は、はにかむような、どこか幼さの残る笑みを浮かべて瑠璃を覗き込んでいた。

その瞳には、かつて埼玉で会った時の無垢な少女の面影があるが、纏っている雰囲気はどこか異質だった。

 

「……あ、愛裏……さん?」

 

膝に頭を預けながら、瑠璃は混乱した。

記憶が断片的に火花を散らす。

埼玉での邂逅。

あの時、彼女はもっと無垢で、救いを求める側にいたはずだ。

しかし、今、純白の修道服に身を包み、ヘアブラシを持った彼女から感じるものは、まるですべての罪を赦し、救いを与えようとする聖女のようであった。

愛裏は、まるで宝物を手入れするかのような慈しみを持って、瑠璃の黒髪をゆっくりと解かし続けていた。

 

「髪、すごく綺麗だね。最初に見た時からずっと触ってたいな〜って思ってたんだ」

 

「な……っ」

 

瑠璃は弾かれたようにその膝から飛び退いた。

石造りの冷たい床に足が触れ、脳内にアラートが鳴り響く。

岐阜、宗教施設、呪詛師、潜入、そして──毒。

背後から何者かに麻痺剤を嗅がされた瞬間までの記憶が、鮮明に繋がる。

 

周囲を見渡せば、そこは沈香(じんこう)の香りが立ち込める、窓のない地下倉庫だった。

積み上げられた土嚢、備蓄用の保存食が詰められた段ボール、そしてそれらを覆うビニールシートの擦れる音。

神聖な施設とは程遠い、即物的な「備え」の空間。

なぜ、かつて出会った少女がここにいるのか。なぜ、彼女は修道服を着ているのか。

宮國のように冷徹な論理(ロジック)を組み立てる余裕はなかったが、瑠璃の心臓は「呪術師」としての本能を優先した。

 

(毒で術式が乱れてる……呪力出力が不安定だ…でも、守らなきゃ)

 

「愛裏さん、ここは危険です……どうしてあなたがここにいるのか分かりませんが、私が、あなたを外へ……」

 

自分よりも年上だが、呪術師として、目の前の一般人を守らねばならないという、危ういまでの使命感。

瑠璃は、愛裏の瞳の奥で、泥のような暗い愉悦が鎌首をもたげていることに、まだ気づいていなかった。

 

「えへへ、自分も大変なのに私を守ろうとしてくれるなんて瑠璃ちゃんって本当に優しいんだね」

 

愛裏はヘアブラシを胸元に抱きかかえ、首をコテンと傾けた。

その仕草は、純粋な好奇心に満ちた優しげな笑み。

だが、その瞳に「情」は一切存在しない。

その実、獲物を前にした蛇のような冷酷さを孕んでいる。

 

その時、地下倉庫の重い鉄扉が、錆びついた蝶番を軋ませて開いた。

沈香の芳香が淀む空間に、場違いなほど軽やかな足音が響く。

 

「愛裏先輩、瑠璃さん起きた~?」

 

入ってきたのは、二人の少女だった。

黒髪をタイトに結い、首に縄を巻いた不気味なぬいぐるみを抱えた枷場美々子。

そして、金髪をお団子にまとめ、手慣れた手つきで歩きながらスマートフォンの画面をフリックしている枷場菜々子。

 

「おはよー、呪術師さん。よく寝てたね。あんまり動かないから、このまま死んでるのかと思った」

 

菜々子が画面から目を離さず、冷ややかな、それでいてどこか退屈そうな視線を投げかける。

その言葉が、瑠璃の脳内で警報(アラート)となって鳴り響いた。

 

(……今の言葉。やっぱり、ここは完全に呪詛師の拠点……!)

 

瑠璃は、弾かれたように愛裏の膝から飛び退いた。

毒に侵され、麻痺の残る足取りはひどく不安定だったが、彼女の深層心理に刻まれた「正義」が、反射的に体を動かした。

瑠璃はふらつきながらも愛裏の前に立ち、彼女を背後に庇うようにして、入ってきた二人の少女を鋭く睨みつける。

 

「下がっていてください! 彼女たちは……」

 

「あははっ! 大丈夫だよ、瑠璃ちゃん。この子たちは私の可愛い後輩なんだから」

 

「……は?え?後輩……?」

 

瑠璃の思考が停止した。

背後で、愛裏がヘアブラシを胸元で弄びながら、くすくすと楽しげに笑っている。

美々子と菜々子は、そんな愛裏の様子を「いつものこと」として当然のように眺めていた。

 

「瑠璃さん、あんまり愛先輩を困らせないで。夏油様が待ってるんだから、早くして」

 

美々子が、感情の起伏を削ぎ落とした声でボソリと呟く。

 

「そうそう。ねえ愛裏先輩、瑠璃ちゃんと仲良くなれた? 苦戦してるなら私たちも手伝おっか? ほら、写真撮ってあげるよ」

 

菜々子が不敵な笑みを浮かべ、スマホのカメラレンズをこちらへ向ける。

 

「仲良く……?」

 

瑠璃の唇から、困惑の溜息が漏れた。

目の前の少女たちは、自分と同じ年頃の少女の形をしていながら、その内側にある倫理(ロゴス)が決定的に損なわれている。

彼女たちの「夏油様」という言葉に含まれる狂信的な熱。それが、瑠璃の背筋を冷たく撫でた。

 

「ねぇ、瑠璃ちゃん! 唐突だけどさ、好きな人っている?」

 

愛裏が、首をコテンと傾けて問いかけてくる。その表情は、どこまでも純粋な好奇心に満ちていた。

 

「な……何を……」

 

「やっぱりさぁ、女の子同士手っ取り早く仲良くなるなら恋バナだと思わない? 私はね、価値観の違う人間同士でも『恋愛』が一番共感できる話題と思うんだ!」

 

「愛ってね、瑠璃ちゃん。その人と永遠に一緒にいたくなる……つまり、相手を『永遠』にしちゃうことなんだよ。私ね、愛しいものは無性に傷つけたくなるし、誰かに憎まれると幸せを感じるんだ。だって、それって究極の『感情』でしょ?」

 

愛裏が、聖母のような慈愛に満ちた、しかし救いようのない絶望を孕んだ笑みを浮かべた。

瞬間。

倉庫の隅、暗がりに無造作に積み上げられていた数体の「寝袋」が、内側から激しく蠢き始めた。

 

術式───『堕靡泥外法(だびでげほう)

 

バリッ、という激しい音。

ジッパーが内部からの異様な圧力に耐えかねて弾け飛び、中からそれは這い出してきた。

全身の毛穴、眼窩、耳孔、そして裂けた粘膜から、どろりとした「黒い泥」を溢れさせた、かつて人間であったモノたちの成れの果て。

愛裏の術式は、呪力を帯びた「泥」を媒介に対象を侵食し、物理的に支配する。

死体という空っぽの器から臓物を引き摺り出し、その空洞に呪力の泥を満たし、『浴』によって防腐と定着を施す。

泥は筋肉の代わりとなり、呪力の脈動は神経の代用となる。

それは生前の記憶を、愛裏の「倒錯した愛情」という名のプログラムで上書きした、冒涜的な奴隷。呪霊でも呪骸でもない、死者の強制労働(ゾンビ・プロセス)である。

這い寄ってくるのは、赤ん坊の姿をした人骸だった。

愛裏はそれを愛おしそうに抱き抱え、そのドロドロに溶け崩れた頭部を撫でながら、瑠璃に解説を始める。

 

「見て、可愛いでしょ? 臓物を全部抜いて、代わりに私の()をたっぷり注ぎ込んであげたの。それから、腐らないようにゆっくりとお風呂に入れて……。こうすれば、この子は永遠に私のそばで、私のために動いてくれる。ね、優しい(救済)でしょ?」

 

「う、おえっ……!」

 

鼻を突くのは、重い沈香の奥に潜む、腐敗した内臓と湿った土の混ざり合った、この世の終わりのような悪臭。

瑠璃は堪えきれず、その場に膝をついて激しく嘔吐した。

胃液と共にこみ上げるのは、生命としての根源的な拒絶反応だった。

 

「……こんなの、絶対間違ってる……! お願いですから、自首してください! こんなことをしても、誰も救われない……!」

 

絞り出した瑠璃の言葉に、愛裏は心底不思議そうに目を丸くした。

その反応は、善悪の基準が最初から存在しない怪物のそれだった。

 

「どうして? 私は彼らを永遠にしてあげたんだよ。腐って消えるはずだった存在に、私の愛を流し込んで、形を保ってあげてるのに。ねえ、瑠璃ちゃん。私たち、友達になろうよ。君の中に眠ってる『空っぽ』、私の泥で埋めてあげる。そうすれば、もう悩まくて済むよ?」

 

分かり合えない。

 

瑠璃は、胃の底が氷つくような戦慄と共に悟った。

目の前の少女たちは、自分と同じような年頃の少女として振る舞いながら、その内側にある倫理が決定的に破綻している。

「自分の欠陥」を認めて成長しようとする瑠璃の在り方と、「世界の破壊」をもって自身の欠陥を埋め尽くそうとする彼女たちの在り方。

それは、決して交わることのない平行線だ。

 

「……あは、分かっちゃったかも」

 

愛裏が、瑠璃の顔を覗き込む。その距離、わずか数センチ。

愛裏の瞳には、瑠璃が今まで見たどの呪霊よりも深い「闇」が渦巻いていた。

瑠璃の心臓が、鐘を打ったように激しく、暴力的に跳ねた。

 

「最初に会った時は、一緒にいた男の子と恋人かなって思ったけど……よく考えると、あの人は瑠璃ちゃんのタイプっぽくないよね。もっと、こう……危うくて、冷たくて、放っておけない感じの……」

 

愛裏の言葉が、瑠璃の意識の深層にある「好み」を正確に射抜く。

 

「となると、瑠璃ちゃんの好きな人って……やっぱり、今日一緒に来ていたあの男の人かな?宮國蓮さん、だっけ?」

 

「……そんな、こと……っ」

 

「もう隠さなくていいよ〜!だって今、瑠璃ちゃんの中から漏れ出た呪力が、すごく甘くて、ドロドロに濃くなったもの。愛ほど歪んだ呪いはないって、夏油先生も言ってたよ。瑠璃ちゃんを友達にした後は、あの人も私の友達にしてあげなきゃ」

 

その言葉を聞いた瞬間。

瑠璃の心の底、暗い深淵のさらに奥から、何かが浮かび上がってきた。

それは彼女の術式である「泡」の胎動にも似ていたが、より熱く、より暴力的な、形を成さない質量を持った衝動だった。

宮國蓮。

自分を認め、形を与えてくれた拠り所。

その存在を、この薄汚い泥で塗り潰すと、この少女は笑った。

瑠璃の顔から、表情が抜け落ちていく。

 

ズルリ…ズルリ……

 

その時、天井の隙間から、石柱の影から。

音もなく、黒い泥を滴らせた無数の「人骸」が、瑠璃を包囲するように這い出してきた。

這いずり回る死者の指先が、床を掻きむしる不快な音が地下倉庫を埋め尽くしていく。

 

瑠璃は、自分の中に湧き上がる「それ」を、どう定義すればいいのか分からなかった。

それは今まで彼女が十七年の人生で経験してきたどの感情とも違っていた。

冷たい正義感でも、臆病な逃避でもない。

内側から「界面」を突き破り、あふれ出そうとする、沸騰した泡のような──。

瑠璃は、初めて感じるその衝動に突き動かされるまま、拳を握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「星道協会」の最奥。

そこは、沈香の香りが視覚を曇らせるほどに濃密な、閉鎖的な「静域」だった。

上座に座す特級呪詛師、夏油傑は、半ば仏の慈悲を模したような笑みを浮かべ、宮國蓮の返答を待っていた。

静寂が支配する空間。

 

宮國は、自身の指先に残る墨糸の感触を確かめるように、静かに口を開いた。

 

「……なんとなく、あなたが呪詛師(そっち)側に行った理由が分かりましたよ」

 

宮國の声は、凪いだ水面のように平坦だった。

怒りも、拒絶も、恐怖さえもそこには存在しない。

 

「夏油さん。あんたの言う通りだ。俺はこの世界に退屈している。退屈なルールに、退屈な奴らがあぐらをかいて座っている。強者が弱者に膝を折り、吐瀉物を飲み込むような日々に、どんな『熱』があるのかと問われれば……答えは『ゼロ』だ」

 

夏油の細められた瞳が、わずかに期待に揺れる。

だが、宮國は続けた。

 

「でも……多分、退屈って奴も案外悪くないんだ。しょうもなくて、意味もない。ただ起きて、飯を食って、誰かと他愛もない話をして寝る。そんな、どこまでもぬるい幸せが、俺はどうしようもなく好きなんだよ」

 

「……」

 

「それに……あんた、本当に非術師()のいない世界を作る気あるんですか?」

 

その問いは、鋭利な剃刀(かみそり)のように夏油の核心を掠めた。

 

十二年前。

あの凄惨な虐殺は、本来、衝動的な暴発に過ぎなかったのではないか。

目の前の「嫌いなもの」を、怒りに任せて踏み潰しただけの狂気。

しかし、理性的で正論に殉じてきた夏油傑という男にとって、その「正当性のない狂気」を認めることは、自己の完全な崩壊を意味した。

ゆえに彼は、正気に戻る前に「大義名分」という強固な鎧を纏った。

「大義のために虐殺した」という逆転した論理。

彼は自分自身に「非術師は嫌いである」と言い聞かせ続け、理想という名の毒に酔うフリを極めたのだ。

彼は「呪術師だけの世界」ができるなどと、心のどこかでは信じきれていない。

だが、そう信じて行動しなければ、彼の中の「夏油傑」という個が、内側から瓦解してしまうから。

宮國蓮の言葉はそんな理想に酔い潰れた夏油を射抜こうとしているようだった。

 

「……そうか、残念だ」

 

夏油の言葉は短かった。

その瞬間、室内に無数の「墨糸」が張り巡らされた。

 

『墨糸呪法』。

 

物理的な質量を持った漆黒の糸が、夏油の首、手首、そして心臓を狙い、最短距離で収束する。

だが、その糸は夏油に届く前に、横から割り込んだ影によって一瞬で切り裂かれた。

 

「夏油様。エイセンが秤金次と交戦中ですが……彼には荷が重いでしょう」

 

呪詛師、菅田真奈美が呪具の短刀を手に現れる。

 

「構わないよ。エイセンなら想定内だ。真奈美、君はラルゥと共に応援に行ってあげなさい。ここは私一人で十分だ」

 

夏油が指先を弾くと、彼の影から一つ目の猫又のような不気味な呪霊が数体、音もなく這い出した。

宮國の肩には、いつの間にか鋭い斬撃の跡が刻まれ、鮮血が黒い制服を濡らしていた。

 

「もう気付いているんじゃないかな?君の連れ(瑠璃や秤たち)も、今頃私の仲間の手の内だ」

 

夏油は優雅に歩を進める。呪霊たちが宮國を包囲するように低く唸る。

 

「おそらく彼女は今、人骸たちの坩堝の中に放り込まれているだろう。勧誘にこんな人質(やり方)は使いたくなかったが、背に腹は代えられない。少しは話を聞いてくれる気になったかな?」

 

「悪いけど……」

 

宮國は、自身の墨糸で傷口を強引に縫い止め、止血しながら、冷たく言い放った。

 

瑠璃(彼女)は、俺ほど優しくないよ」

 

直後。

重厚な黒檀(こくたん)の扉が、物理的な質量を超えた衝撃によって、内側から爆ぜた。

 

──慟ッ!!

 

砕け散った黒檀の破片が、沈香の煙を切り裂く。

爆心地から転がり込んだのは、粘着質な呪力を滴らせる数体の人骸。

そして返り血で純白を汚した瑠璃と、三日月のような笑みを湛えた愛裏だった。

 

「……っ、ハァッ、ハァッ……!」

 

潜入のために着ていた修道服は、もはや聖職の徴ではない。

幾層にも重なった赤黒い飛沫は、彼女が放った『柘榴・改』が人骸を粉砕した際に生じた「死の飛沫」によるマッピングだ。

沈香の甘ったるい芳香を、鉄錆の臭いが暴力的に塗り潰していく。

 

「どんな理由があっても……ッ! 人を、魂の尊厳を、あんな風に弄んでいいわけがあるか……ッ!」

 

喉の奥から絞り出された咆哮は、静域の静寂を鋭く引き裂いた。

対する愛裏は、飛散する木片をダンスのような軽やかさで回避し、冬の凍てつく空気を春の陽だまりに変えるような無邪気な声を上げる。

 

「あははっ! 夏油先生!見て見て、この子強い! もっと遊びたいな!」

 

「愛裏……あまり派手に壊さないでほしいんだけどね。彼女もこれからの『新世界』に必要な、質のいい原石なんだから」

 

上座に座す夏油傑は、乱入してきた瑠璃の凄惨な姿を眺めながらも、眉一つ動かさず答えた。

その仕草は、戦場を統べる指揮官というよりは、無邪気な子供の戯れを見守る慈父のそれだ。

しかし、その眼窩の奥に宿る熱量は、絶対的な選民意識に裏打ちされた冷徹な「断罪」の火である。

 

「瑠璃、落ち着け。状況を」

 

宮國が、墨糸で強引に縫い止めた自身の肩を庇いながら、静かに問いかける。

 

「……私は大丈夫……です。でも、あいつ……愛裏は死体を操る呪詛師です。外の廊下はもう……まともな場所じゃありません」

 

瑠璃の視線が、愛裏の喉元を射抜く。

その時、破壊された扉の向こうから、さらに二つの影が滑り込んだ。

 

枷場美々子と菜々子。

 

「夏油様~、もう時間ないよ。準備できちゃった」

 

「そうそう。こんな猿の遊び場に長居してたら、髪に安っぽいお香の匂いがついちゃう」

 

二人の少女は、宮國や瑠璃を路傍の石ころのように無視し、夏油の元へと駆け寄る。

 

「……もうそんな時間か」

 

夏油がふっと、窓のない壁の向こう──「未来」という名の決定事項を見据えるように視線を上げた。

 

「逃げられると思っているんですか?」

 

宮國の指先から、漆黒の墨糸が音もなく蠢き、夏油の退路を断つように三次元的な檻を構築していく。

だが、夏油はその絶望的な拘束を、慈悲深い笑み一つで一蹴した。

 

「逃げる? 違うよ、宮國くん。私には大事な『用事』があるんだ。愛裏、もう時間だ。そこまでにしておきなさい」

 

「えぇ~? せっかく仲良くなれそうだったのに……ね、瑠璃ちゃん」

 

愛裏は頬を膨らませ、不満を露わにしながらもしぶしぶと夏油の傍らへと歩み寄った。

その瞬間、夏油が一歩、前へ踏み出す。

彼から放たれる呪圧が、物理的な質量を伴って室内の酸素を食いつぶし、大気を歪ませる。

 

「高専の連中にも伝えるつもりだが、君たちにも教えてあげよう──十二月二四日。日没と同時に、我々は百鬼夜行を行う」

 

瑠璃の心臓が、その不吉な単語を拒絶するように跳ねた。

 

『百鬼夜行』。

 

それは、かつて呪術界を震撼させた千年前の呪いの王(悪夢)の再来ではない。

特級呪詛師・夏油傑が主導する、現代呪術史上最悪の宗教テロ。

数千、数万の呪霊を都市部へ解き放ち、非術師を無差別に屠る。

「大義」という名の濾過器によって、この国から「猿」を排除し、術師だけのユートピアを築くための、宣戦布告であった。

 

「場所は、猿の集いし新宿。そして、呪術の要所たる京都……そこを我々の新世界の礎とする」

 

夏油の瞳に宿る昏い情熱。

愛裏は、その隣で満足げに頷きながら、ふと思い出したように瑠璃を振り返った。

 

「じゃあ、最後にご褒美。瑠璃ちゃん、これ、解けるかな?」

 

愛裏が指を組み、歪な印を結ぶ。その瞬間、彼女の影が泥のように溶け、床を侵食し始めた。

 

「私の泥はね、死んだ人だけじゃない……生きてる人にも使えるんだよ。式神(人骸)にはできないけど、意識だけを濁らせて、肉体だけを私の『友達』にするくらいなら――」

 

『堕靡泥外法 拡張術式:人操々(ひとくくり)

 

壁の隠し扉が、重々しい音を立ててスライドした。

そこからなだれ込んできたのは、修道服を脱ぎ捨て、虚ろな瞳を剥き出しにした数十人の信者たちだった。

 

「あ……あへ……あへあへ……あ……」

 

彼らはもはや、人語を解さない。

喉を鳴らし、節々の関節が悲鳴を上げるような機械的な動きで、瑠璃と宮國へ向けて、指先を突き出す。

彼らは死体ではない。

泥によって脳を汚染され、強制的に「生」を駆動させられているだけの、脈打つ肉の塊だ。

 

「あははっ、この中の何人が私の人骸(式神)で、何人が信者さん達か分かるかな?」

 

「……じゃ、私たちはそろそろ行くよ。生きていれば、百鬼夜行で会おう」

 

夏油が指を鳴らした。

瞬間、天井を突き破るほどの質量を持った巨大な鳥の呪霊、『水虎餓鳥』が顕現した。

その翼から放たれる突風は、室内の沈香を霧散させ、血の臭いを撒き散らす。

夏油は美々子、菜々子、そして満足げに手を振る愛裏を連れ、その背へと跳躍した。

 

「思う存分、呪い合おうじゃないか」

 

巨大な羽ばたきが残骸を吹き飛ばし、呪霊は冬の夜空へと溶けていく。

 

後に残された石造りの大広間は、もはや聖域の面影を失っていた。

宙を舞う沈香の白煙は、爆ぜた扉から流れ込む冷気にかき乱され、そこに愛裏が撒き散らした粘着質な呪力の泥が混ざり合う。

 

視界を埋め尽くすのは、人間だったモノの群れだ。

 

ズルリ…ベチャリ…

 

泥を内臓の代わりに充填され、愛裏の術式による命令系統で駆動する死者の兵隊──人骸。

そしてその隙間を縫うようにして、意識を濁らされ、肉体の制御権を強引に奪われた生身の信者たちが、獣のような咆哮を上げて迫りくる。

 

「……ッ、宮國さん!これ、は……!」

 

瑠璃の放つ『柘榴・改』で、肉の壁を弾き飛ばす。

だが、その界面が剥離する瞬間の手応えが、瑠璃の心臓を凍り付かせた。

人骸の硬質な無機物感ではない。温かく、柔らかく、そして確かに脈打つ血管の振動。

 

「瑠璃、覚悟を決めろ……それはもう、選別できる段階じゃない」

 

乱戦の渦中、宮國の冷徹な声が飛ぶ。

彼は墨糸を指先に絡め、迫りくる肉の濁流を機械的に捌いていた。

その瞳には、救済を求める情など一欠片も存在しない。

 

愛裏の術式『堕靡泥外法』によって支配された戦場において、生者と死者の境界は完全に消失する。

泥は毛穴から浸食し、声帯を焼き、瞳孔を濁らせる。

暗がりのなか、同じ泥を滴らせ、同じ絶望の唸りを上げる彼らを、物理的な破壊以外で止める術はない。

迷いは「死」に直結し、躊躇は「敗北」を意味する。

呪術師にとって、これはもはや除霊ではなく、純粋な「処理」の領域であった。

 

「うぁ…ああぁ……あぁ…」

 

信者の一人が、瑠璃の修道服の裾を掴んだ。

泥にまみれた指。その隙間から覗く、恐怖に歪んだ生身の瞳。

助けて、と。その眼差しが訴えているような気がした。

 

だが、その背後から愛裏の「友達」──人骸の腕が、瑠璃の喉首を狙って突き出される。

 

「……ッ、ああああああッ!」

 

瑠璃は、自分の中に沸き上がったドロドロとした激情を、叫びと共に拳に凝縮させた。

それは愛裏への怒りであり、宮國を奪おうとした言葉への拒絶であり、そして、何よりこの救いのない現状に対する、剥き出しの自己防衛。

 

『柘榴・改』

 

瑠璃の呪力特性である「泡」が、対象との境界を物理的に、かつ概念的に切り離す。

彼女の拳が、縋り付く「人間」の胸にめり込んだ。

瞬間、肉体とその内側にある生命維持の機構が、強引に「剥離」される。

 

バチュンッ、という、湿った何かが弾ける音。

 

血飛沫が、瑠璃の頬を熱く濡らした。

崩れ落ちる肉の重み。それが人骸なのか、それとも先ほどまで生きていた誰かなのかを考える余地を、彼女の脳は既に遮断していた。

 

瑠璃は獣のように、あるいは精密な解体機械のように、迫りくる「形」を一つずつ、徹底的に破壊し続けた。

骨が砕け、肉が裂け、泥が飛散する。

そこには美学も、救済も、倫理も介在しない。

あるのは、ただ「死」という結果を量産し続ける、呪われた暴力だけだった。

 

 

数十分後。

 

轟音が止み、大広間に残ったのは、重苦しい沈黙と死の残り香だけだった。

 

「……よォ。随分と派手にやったじゃねえか」

 

血の匂いを嗅ぎつけ、山から駆け下りてきたのは、秤金次と星綺羅羅だった。

秤の腕には、外周で交戦し、既に骨抜きにされた元『Q』の刺客・エイセンが、ゴミのように引き摺られている。

 

だが、秤の足が止まった。

眼前に広がる光景に。

広間の床を埋め尽くす、無残な死体の山。

その中心で、返り血に染まった修道服を纏い、肩で荒い息を吐いている瑠璃。

彼女の拳からは、今なお剥離された肉の情報が、滴り落ちている。

 

「……瑠璃ちゃん」

 

綺羅羅が瑠璃の方へ歩み寄ろうとしたが、それを秤が制した。

宮國は、夏油が消えた天井の穴──冬の夜が覗き始めた山間を、ただ無言で見つめていた。

その背中は、かつてないほどに険しく、そして冷酷に研ぎ澄まされている。

 

「……行ったよ、夏油傑は。……あいつが、宣戦布告を残してね」

 

宮國の静かな声が、血の海のなかで響く。

瑠璃は、自分の手が静かに震えていることにようやく気づいた。

自分が壊したものの正体を。救いを求めて縋り付いてきた、あの温かい掌の感覚を。

 

「私……私は……」

 

瑠璃は空を仰いだ。

落ちていく赤い夕陽が、彼女の顔にこびりついた汚れを白日の下に晒していく。

 

呪術師。

 

人を守るはずの力が、人を肉の塊に変えた瞬間。

彼女のなかで、少女としての何かが決定的に剥離し、代わりに「呪い」という名の新しい芯が、音を立てて冷え固まっていった。

 

 

 

 

 

 

【報告書:岐阜県岐阜市、星道協会事後調査】

被害状況: 宗教施設信者 死亡15名。『人骸』(未登録呪骸)破壊31体。

特記: 白波二級術師、及び宮國準一級術師による信者の殺害は、呪詛師の術式支配下における非常事態と認定。呪術規定第九条【非術師への危害禁止】の例外条項を適用し、不問とする。

調査結了: 二〇一七年 十一月二十八日

 

 

 

 

澱んだ深夜の煙

窓の外は、凍てつくような冬の雨が叩きつけていた。

高専の奥深く、深夜二時を回った教職員用の休憩室は、安っぽい蛍光灯が不規則にまたたき、神経を逆撫でするような微かな羽音を立てている。

日下部篤也は、コートを脱ぎ捨てる気力もなく椅子に深く沈み込み、震える指先でライターの火を求めていた。

 

「……タバコ、やめたんじゃなかったのか」

 

背後から響いたのは、重厚な、それでいてどこか疲弊を滲ませた声だった。

夜蛾正道が、上層部からの長い審問を終え、首の凝りをほぐしながら入ってくる。

 

「……ああ、またすぐやめますよ。三日後くらいに」

 

日下部は紫煙を肺の奥まで吸い込み、吐き出した。

煙は、彼らの間に横たわる解決不能な現実を白く濁らせる。

 

「上層部のジジイ共は相変わらずだ。『特級の離反者一人に学生二人がかりで何をやっていた』だとよ……クソ食らえだ」

 

日下部は、まだ火のついたタバコを、半分ほど残った冷めたコーヒーの中に突き立てた。

ジュッ、という短い断末魔のような音がして、水面に灰色の油膜が広がる。

 

「宮國と白波の様子はどうだ」

 

夜蛾の問いに、日下部は天井を見上げた。

 

「宮國は……あいつは、最初からああいう奴だ。自己完結してやがる。だが、白波は……九条のところへ行かせた。あの惨状を『任務でした』で片付けられるほど、あいつの心は摩耗しちゃいねぇ」

 

日下部は二本目のタバコに手を伸ばそうとして、それを思いとどまり、代わりにポケットから安物のキャンディを取り出した。

 

「夏油の馬鹿が、とんでもねぇ爆弾を落としていきやがってね」

 

「……死体を操っていたのは夏油本人ではない。同行していた呪詛師だ」

 

夜蛾が、押収された資料の束をテーブルに置く。その最上段には、一人の少女の顔写真があった。

 

「禪院愛裏……聞いたことがあるか?」

 

「禪院、だと?」

 

日下部の眉がピクリと動いた。

そして、吐き出す煙の代わりに乾いた笑いを漏らした。

 

「上層部によれば既に破門されているらしいがな」

 

「死体をおもちゃにするか元禪院か……御三家の闇は、呪霊より質が悪ィ」

 

翌朝、高専に所属する呪術師達に一枚の指令書が通達された。

それは、学生たちの目に触れることのない、血の匂いのする決定事項だった。

 

 

 

【通達書】

禪院愛裏を軀倶留隊及び「炳」構成員6名への■■による呪術界からの永久追放に加え、非術師5■名への大量殺人における正犯とし、発見次第、即時執行の死罪を認定する。

 

 

 

「……大人(わたし)たちの後悔は、後で良い、か」

 

学長室で独り、夜蛾はかつて友人に語った教育論を反芻していた。

瑠璃が、自らの拳で何人もの「生きた人間」を砕いたという事実は、報告書のインクが乾いても消えることはない。

その事実が、夜蛾の脳裏を離れなかった。

そこにあるのは夏油傑という強大な個体への畏怖ではない。

ただ、かつて自分たちが守り、育て、そして救えなかった「夏油傑」という名の呪いそのものが、今、次の世代を侵食し始めていることへの、底知れない恐怖だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

神保町の冬の朝は、古い紙が放つ微かな腐敗臭と、凍てついたアスファルトが吐き出す無機質な拒絶が混ざり合っている。

路地裏に建つ雑居ビルは、築数十年という歳月の重みに耐えかねたように、都心の冷気の中でひっそりと蹲っていた。

 

三階にある診察室。

磨りガラスを透過して差し込む光は、温もりを剥奪された死後硬直のような白さだ。

宙を舞う埃の粒子は、窓際で踊る無垢な光などではなく、まるで剥がれ落ちた死者の欠片(ピース)のように、ただ虚無の中を浮遊していた。

 

瑠璃は、使い古された革のソファに深く沈み込んでいた。軋むバネの音が、彼女の精神の軋轢を代弁している。

彼女は、自身の右手首を無意識のうちに強く握りしめていた。爪が食い込み、指先が血の気を失って白く変色する。

そこには、岐阜の地で剥離させ、飛散させた「生きた肉」の感触が、幻肢痛のようにこびりついて離れない。

石鹸でいくら洗っても、呪力という名の界面を通り抜けたあの、ねっとりとした人間の熱量だけが、今も掌の裏側に癒着している。

 

「白波くん……顔色が良くないな。あれから、自分の術式のことは少しは整理がついたかい?」

 

デスクの向こう側で、九条薫が静かに問いかけた。

彼女は慈愛に満ちた、非の打ち所のない「聖母」の笑みを湛えている。

だがその双眸の奥、網膜が捉える灰色の空の反射は、絶対的な他者としての冷徹な観察眼を隠し持っていた。

それは、相手を救おうとする眼差しというよりは、試験管の中の化学反応を愉しむ科学者のそれに近い。

 

「……まだ、分かりません。自分の術式が何なのか。それがただの泡なのか、あるいは世界を切り離すための、別の何かなのか……でも」

 

瑠璃の声は、ひび割れた氷の上を歩くような危うさを帯びていた。

 

「あの日、あの場所で……私、自分のことが少しだけ、分かった気がします」

 

「ほう。教えてくれるかな?」

 

瑠璃は一度言葉を切り、喉の奥にせり上がる酸い記憶を無理やり飲み込んだ。

 

「私はこの間、たくさんの人間を殺しました。……でも、私が一番怖かったのは、人を殺したことへの罪悪感じゃないんです……その痛みさえ、今は遠い」

 

瑠璃は顔を上げ、九条の瞳を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、少女らしい可憐な困惑の代わりに、剥き出しの「個」としての飢餓感が宿り始めている。

 

「私は……宮國さんや、秤さん、綺羅羅ちゃん……あの人たちの隣にいたい。そのためなら、自分の意味を証明できるのなら……他の人間なんてどうでもいいんだって。心の底で、本気でそう思ってしまった。……誰かを傷付けるための『呪い』が、私に確かな輪郭を与えてくれるのを感じてしまった。それが、どうしようもなく怖いんです」

 

呪術師にとって、自己の術式の確立とは、自己の「意味」の再定義に他ならない。

白波瑠璃という少女が抱え続けてきた空虚──「自分は何者でもない」という欠落感。

それは、慈悲や倫理で埋まるほど浅いものではなかった。

他者を破壊し、あるいは自己を人間性の範疇から逸脱させることでしか得られない「充足」。

彼女は今、自らの魂という対価を払い、呪いという名の残酷な存在証明を手に入れようとしていた。

 

「安心しなよ、白波くん」

 

九条は優雅に指を組み、喉の奥を鳴らすような優しい声で囁いた。

 

「君がまだ、その『人間じゃなくなることへの恐怖』を感じている内は、君はまだ十分に人間だ。真に人間であることを止めた者は、恐怖さえも効率的な『機能』として処理してしまうからね。君のその恐怖は、まだ境界線の上で踏み止まろうとする、生身の抵抗だよ」

 

九条はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。

神保町の古書店街を飲み込もうとする、重苦しい灰色の雲。

 

「これは、私の古い友達の持論なんだがね……命も生活も、君たちが気付いていないだけで、常に瀬戸際を流れているんだよ。にも関わらず、人間は現実が不変恒常なものだと、自らに強固な自己暗示をかけている。誰もが自ら命を懸ける勇気を持っているわけではない。現実という名の薄氷の上を、目を逸らして歩いているだけなんだ」

 

彼女は音もなく振り返り、瑠璃の瞳を、その存在の深淵を射抜くように凝視した。

 

「でもね、他人に勝手に命を懸けられてしまえば、あとは行動するしかないんだよ……まずは『一歩踏み出す』という実感。自分の意志で境界線を越えるという実感を知らないまま、ただの傍観者として死んでいく人間は、ひどく哀れだと思わないかい?」

 

九条栞の瞳が、窓の外の灰色の空を吸い込み、昏く、熾烈に輝いた。その光は、かつて多くの魂を地獄へ導いた誘惑者の色彩を帯びていた。

 

「私は……背中を、押されたんですね。あの人たちに。あるいは、呪詛師(愛裏)に」

 

「そうだね。そして君は今、一線の縁に立っている」

 

九条は瑠璃の傍らに歩み寄り、その白く強張った手首の上に、温かな、しかし血の通っていないような掌をそっと重ねた。

 

「進んだ先の、一線を越えた景色。それが希望か、あるいはさらなる呪いかは、進み続けた者にしか分からない。君がそれを越えるにせよ、あるいは留まるにせよ。私は、一番近い場所で、その末路を見守っているよ」

 

瑠璃は、九条の瞳の奥に、吸い込まれるような深淵を見た。

自分が今、人としての倫理から離れ、呪いという名の「意味」へと決定的に一歩踏み出したことを、彼女の魂は戦慄と共に理解してしまった。

窓の外では、冬の薄い陽光が完全に失われ、神保町は深い灰色の沈黙に包まれていった。

それは、これから始まる『百鬼夜行』という凄惨な祭りの、静かな序奏であった。

 

 

 

 





ちなみに愛裏の旧名の凪から変更した理由は順平母ちゃんと被ることに後から気づいて後悔したからです(ガバスカ)

第二章で見たい内容

  • セクシー九十九との修行編
  • 夏映画・福岡分校編
  • メロンパンとの呪霊モンマスターの旅
  • ぼっち伏黒
  • 自由にやれ…呪詛師のように
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