泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話   作:天狗猿

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時の流れが早い
気づいた時には呪術廻戦モジュロが完結してそうになってゾッとします

猫先生は完結前に宮國が虎杖の子供か五条の子供か明らかにしてくれよ


拾弐:京都百鬼夜行 -前夜-(二〇一七年、十二月)

 

 

古都・京都を包む大気は、底冷えという言葉では形容しきれないほどに鋭利な寒気を孕んでいた。

乾いた冷気は肺腑を薄く削り、吐き出す息は即座に白濁して消える。

特級呪詛師・夏油傑による「百鬼夜行」の宣戦布告。

それは呪術界という巨大な水槽に投じられた一滴の猛毒であり、その波紋は静かに、しかし致命的な速度で全国の術師たちへと伝播していた。

東京がその毒の直撃を受ける心臓部であるならば、ここ京都は、毒を濾過しきれぬまま壊死を待つ末端の四肢にも似ていた。

 

京都府立呪術高等専門学校の一室。

重厚な木造建築特有の、沈香と古い紙が混ざり合ったような匂いが立ち込める会議室に、高専の学生を含めて数名の術師が集められていた。

 

「……夏油の宣言通りであれば、敵戦力は数千の呪霊と、彼に同調する呪詛師の集団。これを新宿と京都、二つの戦域に分散させることになるわ」

 

教壇に立つ庵歌姫が、硬い声で現状を告げる。

右頬の傷痕が、部屋の不透明な照明の下で痛々しく浮き彫りになっていた。

 

最前列には、この地を死守すべく集まった京都校の精鋭たちが並ぶ。

凛として端座する三年の宇佐美迅と、その隣に泰然自若として座す二年の東堂葵は、巨大な肉体の奥に底知れぬ呪力を放っていた。

加茂憲紀は、名門・加茂家の嫡男としての責務を背負うように、糸のように細い眼差しを伏せている。

箒を傍らに置いた西宮桃の幼い顔には、隠しきれない緊張が走っていた。

その後方には、東京校から遠征任務の継続として京都防衛に回された二、三年生たちが陣取っていた。

白波瑠璃は、自らの手首をそっと握りしめる。

今回、彼女たち東京校の二年生、三年生の宮國蓮は、この「京都」の地に留まり、最重要拠点の一つを死守することが決定していた。

新宿へ向かう別の部隊とは分かたれた、古都の静寂を守るという重圧。

 

「十二月二十四日……キリスト降誕のイブに百鬼夜行とは、洒落が効いているというよりは、一般人の最も浮かれる日を狙った、あの男らしい皮肉ですね」

 

一級術師、七海建人が眼鏡のブリッジを押し上げながら口を開いた。彼の声は平坦だが、その奥には岩盤のような責任感が横たわっている。

 

「ですが、日程や場所がブラフである可能性を捨てるべきではありません。術師を一箇所に集中させ、手薄になった別の要所を狙う……組織的なテロリズムにおける、あまりに凡庸で、それゆえに堅実な定石です」

 

「いや。二十四日の京都・新宿での決行は、もはや疑いようのない事実じゃ」

 

低く、地鳴りのような声が響いた。京都校学長、楽巌寺嘉伸である。

 

「こちらで捕らえた呪詛師への尋問、および各地の『窓』が観測した呪力の残穢の密度……すべてがその日、その時刻へと収束しておる。己の大義という名の、歪なエゴに酔い痴れておる男にとって、宣言を違えることは最大の汚辱じゃからな」

 

会議室の隅で、一年生の三輪霞が小さく身を震わせ、究極メカ丸の無機質な鋼鉄の腕が、床に微かな金属音を立てた。

禪院真依は、足を組み、不機嫌そうに窓の外を眺めていた。

その整った横顔には、皮肉めいた笑みの裏に、逃れられない血脈への嫌悪が張り付いている。

 

彼らと共に席に着いた白波瑠璃は自らの手首をそっと握りしめた。

各地で観測される呪いの胎動、クリスマスイブ。

非術師たちが最も無防備に愛を語らい、平和を謳歌するその瞬間が、呪いによって塗り潰されようとしている事実に、瑠璃は吐き気を覚えた。

 

「瑠璃、顔色が悪いよ……寒いかい?」

 

隣に座る宮國蓮が、感情の起伏を一切欠いた声で問いかけてきた。

そのハイライトのない瞳は、嵐の前触れさえも淡々と受け入れる鏡のようだった。

 

「……いえ、大丈夫です。ただ、街がこんなに静かなのが、少し怖くて。まるで、何かが大きく息を止めているみたいで」

 

瑠璃が窓の外に目を向けると、夕闇に沈む京都の街並みは、嵐の前の静けさを不気味なほどに体現していた。

その時、会議室の重厚な扉が、一切の礼儀を欠いた動作で乱暴に押し開かれた。

 

──ギィィィ、と床を擦る不快な音が響く。

 

入ってきたのは、一人の巨大な男だった。山のような質量を感じさせる肉体。

筋骨隆々とした体躯に、ボサボサの長髪、そして額に刻まれた十字の傷痕。

禪院家直属の精鋭『炳』(へい)の一員、禪院甚壱である。

その後ろには、黒い覆面で口元を隠した『躯倶留(くくる)隊』の隊員たちが、機械的な足取りで従っている。

甚壱の眼光は、同族であるはずの術師たちにさえ向けられる、選民意識と暴力の混濁した色彩を帯びていた。

 

「……禪院家の粛殺部隊か」

 

宮國が、その男の纏う特有の殺気を即座に識別し、小さく呟いた。

 

「誰だよオッサン。扉空けっ放しにすんなよ、部屋が冷めるだろうが」

 

秤金次が、不遜な笑みを浮かべたまま椅子の背もたれに深く寄りかかり、甚壱を見上げた。

その言葉に、甚壱の背後にいた躯倶留隊員たちが微かに動きを見せるが、甚壱本人は、岩石が擦れ合うような不快な声で鼻を鳴らした。

その巨躯が会議室の中程まで進んだ時、甚壱の視線がふと、二年生の列に座る禪院真依を捉えた。

瞬間、部屋の温度がさらに数度下がったかのような錯覚を瑠璃は覚えた。

甚壱の眼差しにあるのは、慈しみでも、怒りでもない。

路傍に転がる石ころを眺めるような、あるいは出来損ないの「道具」を値踏みするような、無機質で圧倒的な蔑み。

一瞥。

会話を交わす価値すらないと言わんばかりの、残酷な黙殺。

真依の指先が、制服のスカートを白くなるほど強く握りしめた。

彼女の端正な顔が、屈辱と、それ以上に深い「諦念」に歪む。

西宮が、守るように真依の肩に手を置くが、甚壱はもはや真依のことなど視界にも入れていなかった。

 

「……高専の甘っちょろい教育には、反吐が出るな」

 

甚壱の視線は、学長である楽巌寺さえも飛び越え、虚空を見据えている。

 

「我ら禪院家も、この百鬼夜行には戦力を投じる。……だが、勘違いするな。我々の目的は一つ。夏油に付き従う呪詛師……禪院愛裏を処刑することだ」

 

(──禪院、愛裏?)

 

その名を聞いた瞬間、瑠璃の心臓が不快な鼓動を刻んだ。

あの地下室で、救いようのない愛を語り、泥の中に人を沈めた少女。

忌むべき彼女に、そんな呪術界の最上位を自称する血脈の苗字があったとは。

その事実は、彼女の存在をより一層、生理的な嫌悪へと変質させた。

 

「禪院の恥辱を、これ以上野放しにはできん。高専のような『拘禁』や『更生』などという温情は不要だ。家名に泥を塗った汚泥は、早急に、根こそぎ(さら)う」

 

「甚壱さん、ここは高専の会議の場です。それに、生徒に対して失礼ですよ! 秤、あんたも謝りなさい!」

 

歌姫が声を荒らげるが、甚壱から放たれた物理的なまでの殺圧が、彼女の言葉を力尽くで遮った。

甚壱はゆっくりと秤の前に歩み寄り、その瞳を射抜くように凝視した。

 

「秤金次、だったか……貴様のその『熱』、あまり過ぎれば身を焼くことになるぞ。禪院の法は、高専のそれよりも遥かに峻烈だということをゆめ忘れるな」

 

秤は怯むどころか、さらに深く笑みを深め、挑発的に口笛を吹いた。

 

「へぇ。そいつは楽しみだ。あんたの言う『冷たい法』とやらが、俺の『熱』を止められるかどうか、賭けてみるか?」

 

一触即発の緊張。

それを収めたのは、楽巌寺が床を突いた杖の音だった。

甚壱はそれ以上言葉を重ねず、出口へと踵を返した。

その通り際、再び真依の横を通り抜けるが、今度は一瞥さえもしなかった。

まるでそこに、最初から何も存在していないかのように。

扉が閉まる音。

真依が小さく吐き出した溜息は、凍てつく空気の中で白く濁り、震えていた。

 

 

会議終了後。

瑠璃は、冷え切った石造りの廊下を、宮國、秤、そして綺羅羅と共に歩いていた。

 

「……宮國さん。さっきの人は、一体……?」

 

「禪院甚壱、御三家・禪院家の幹部だ。おそらく京都守護の際の陣頭指揮のアピールと、同時に愛裏の『処刑宣告』に来たんだろうね。あの一族にとって、愛裏は『磨き損ねた汚点』であり、真依は『利用価値の薄い備品』に過ぎない」

 

宮國は、冷え切った廊下の闇を見つめながら淡々と答える。

隣では秤が「チッ、胸糞悪ぃシケた面しやがって」と毒づき、綺羅羅が「金ちゃん、あんまり刺激しちゃダメだよ。御三家のジジイたちはプライドの塊なんだから」と、どこか呆れたように宥めていた。

 

「彼が率いる『炳』は、術式を持つ一級以上の術師だけで構成される、いわば禪院家の牙だ。そしてさっきの黒面の連中は『躯倶留隊』。術式を持たない男たちの処刑部隊……」

 

宮國は一度言葉を切ると、立ち止まって校舎の深部、一般の学生が立ち入ることを許されない「奥」の方角を見上げた。

 

「この京都は、東京校と違って、呪術界の『根』が深いんだ。御三家の本家が近く、古い秘密主義や権威主義がそのまま建物の柱一本一本にまで染み付いている。東京が天元という『結界』によって成り立っているなら、この京都は……」

 

宮國の視線の先には、闇に沈む校舎のさらに深部が続いていた。

 

日本という国土を、呪力を湛えた一つの巨大な「水槽」に例えるならば。

東京・高専の地下に座す「天元」は、結界を維持し、水の漏洩を防ぐ水槽そのものである。

対して、この京都という歴史の深淵には、別の機構が存在する。

蓄積された呪いの濁りを濾過し、循環させるための「不純物の集積所(フィルター)」。

東京が「在る」ための外殻ならば、京都は「清くある」ための内臓。

だが、その集積所に溜まった澱こそが、時に愛裏のような「不条理な呪い」を産み落とし、真依のような「家系の影」を弄ぶ苗床となるのだ。

 

「……もっと別の、おぞましいほどに純粋な『循環』によって守られているはずだ。東京の天元が日本という水槽そのものなら、京都校には、その不純物を濾過するための『何か』がある……。俺たちが戦おうとしている禪院愛裏という少女は、そのシステムから溢れ出した、不純な一滴だったのかもしれないね」

 

瑠璃は、自身の界面を司る「泡」の呪力を掌で感じながら、京都の凍てつく闇の奥を見つめた。

明日、十二月二十四日。

清廉な古都は、血と泥、そして血脈という名の絶望的な愛の混ざり合う、最悪の祭壇へと変貌しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

同日、百鬼夜行を控えた新宿の某所。

新興宗教団体の施設内にある更衣室は、式場の控え室のような無機質な静謐さに満ちていた。

空調が吐き出す乾いた風が、壁に掛けられた法衣を僅かに揺らす。

新品の布地が放つ糊の匂いが混ざり合い、そこは戦場への出撃拠点というよりは、残酷な演劇の幕が上がる直前の舞台裏のような趣を呈していた。

 

「夏油様、左失礼します」

 

「右も、もう少し上げますね」

 

枷場美々子と菜々子が、捧げ物でも扱うかのような手つきで、夏油傑の身体に五条袈裟を重ねていく。

彼女たちの表情は真剣そのものであり、救い主を装束で飾り立てる行為に、宗教的な悦楽さえ見出しているようだった。

 

「ありがとう、二人とも。少し重いかな」

 

夏油は鏡に映る自分を見つめ、細められた瞳で微笑んだ。

この袈裟はハッタリだ。非術師を効率よく支配し、呪術師としての威厳を誇示するための衣装。

だが、その布地の重みは、彼が背負うと決めた「大義」という名の呪いそのものの質量でもあった。

 

「……夏油様。高専の連中、やっぱり新宿と京都に戦力を分けるつもりかな?」

 

菜々子が、帯を締めながら不機嫌そうに尋ねる。

夏油は、思考を巡らせる学者のような顔つきで応えた。

 

「十中八九、そうなるだろうね。彼らは組織だ。正論を重んじ、最大多数の救済を優先する。新宿と京都、二つの大都市に同時に千の呪霊を放てば、彼らは戦力を分散せざるを得ない……だが、戦力比で見れば、こちらの勝率は三割といったところかな」

 

「三割……? 夏油様がいても?」

 

「あぁ、高専のOBやOGを含めた現役戦力を総動員されればね。もし、御三家の精鋭や呪術連が本腰を入れて介入してくれば、その確率は一割を切るだろう……もっとも、これは私が新宿・京都(戦場)に直接参加した場合の数字だ」

 

美々子と菜々子の手が、一瞬止まる。

夏油は、鏡越しに部屋の隅でソファに深く沈んでいる少女へと視線を向けた。

禪院愛裏は、ホイップクリームがこれでもかと盛られたミルクティーを啜っていた。

甘ったるい香りと音が、更衣室の厳かな空気を台無しにする。

 

「……じゃあ、やっぱり『彼』を殺さないとダメなんだね」

 

愛裏が、カップの縁に溜まったクリームを舐めとりながら、無邪気に首を傾げた。

 

「乙骨憂太。彼が連れている特級過呪怨霊・祈本里香……それを手に入れれば、あの人(五条悟)を倒せるの?」

 

夏油の表情から、一瞬だけ「親友」を想うような微かな陰りが消え、冷徹な呪詛師の顔が戻る。

 

「里香は変幻自在の呪力の塊だ。私の予想が正しければ、その呪力を変質させることで、五条悟の『無下限呪術』という不可視の鉄壁を貫通できる可能性がある……たとえそれが叶わなくとも、戦いは組織対組織のものだ。彼以外の戦力をすべて壊滅させてしまえば、それは実質的な勝利と言える」

 

夏油は一歩、前へ踏み出す。

 

「高専関係者はともかく、呪術界の上層部は保守的で利己的だ。ある程度の被害が出れば、五条悟という不安定な最強から、秩序を約束する私へと鞍替えして媚びを売る者も現れる……そのためには、新宿と京都を地獄に変える必要がある。愛裏、君の役目は重要だよ」

 

「わかってるよ〜、夏油先生。人骸を使って、戦場をごちゃまぜにすればいいんでしょ?」

 

「あぁ。だが、精神を錯乱させた非術師()と人骸を混ぜた混合軍を広範囲に仕掛けるのは、あまり得策じゃない。広範囲を対象とする術者がいた場合、一瞬で一掃されるリスクがあるからね……使うなら、ゲリラ的に。敵が『人間を殺す』ことに躊躇する隙を突くんだ」

 

「……愛先輩だけずるい。私たちも、もっと夏油様のお役に立ちたいのに」

 

菜々子が口を尖らせ、美々子も無言で頷く。

夏油は、慈愛に満ちた、あるいはそう見えるだけの溜息を吐き、二人の頭を撫でた。

 

「二人には、高専の術師をサポートする補助監督たちの排除を任せたい。情報網と結界術の基点を叩く。地味だが、これがないと彼らは連携できない……いいかい?」

 

「……はい、夏油様」

 

二人はしぶしぶと引き下がった。愛裏はミルクティーを飲み干し、氷を噛み砕く音を響かせる。

 

夏油傑という男は、情に厚い。

だが、戦場においてその情が判断を曇らせることはない。

彼が美々子と菜々子に後方支援を命じた真の理由は、単純な戦力不足である。

一級術師や、ましてや特級の領域に足を踏み入れつつある愛裏に比べ、二人の実力は「呪術師を殺す」にはまだ足りない。

 

愛裏だけが、その残酷なまでの「格差」を理解し、口には出さず薄く笑った。

 

「新宿、京都……どっちに行けば瑠璃ちゃんに会えるかな。楽しみだなぁ、本気の彼女と遊べるの」

 

愛裏は修道服の裾を揺らし、軽やかに立ち上がり窓の外の灰色の空を見つめる。

その瞳には、かつて埼玉、あるいは岐阜で見せた「狂気」の代わりに、恋人に会う直前の少女ような熱い「期待」が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

伏見稲荷大社の影にひっそりと佇む高専の古い宿舎。

その一室では、明日という破滅的な「非日常」を目前に控えているとは思えない、あまりに矮小で、ありふれた湯気が立ち上がっていた。

 

「……おっ、この大根、出汁の染み方がいいじゃねえか。芯まで『熱』が通ってやがる」

 

秤が、土鍋の中から琥珀色に輝く大根を箸で力任せに突き刺した。

立ち上がる湯気が、彼の不敵な面構えを白く濁らせる。

 

「金ちゃん、食べ方汚いよ。あと、酒蔵の匂いに釣られて任務中に消えるの、マジで勘弁してよね。次はスリッパじゃなくて、呪力込めた回し蹴り入れるから」

 

綺羅羅が、南十字座のピアスを揺らしながら器用に白滝を小皿へ移す。

そのやり取りを、瑠璃はぼんやりと眺めていた。

 

卓を囲む四人。

明日、新宿と京都で幕を開ける「百鬼夜行」。

特級呪詛師・夏油傑が放つ数千の呪霊との殺し合い。

その結末に、自分たちの誰一人が欠けないという保証は、この呪術界のどこを探しても存在しない。

だが、今この部屋にあるのは、血の匂いでも死の予感でもなかった。

ただ、安っぽい鰹節と昆布の出汁が混ざり合った、おでんの匂いだけだった。

 

呪術師にとって、死地に赴く前夜の沈黙は一種の「縛り」に似ている。

誰一人として「明日」や「死」という言葉を口にしない。

それは恐怖からの逃避ではなく、日常という名の境界線を最後まで守り抜こうとする、矜持ある抵抗であった。彼らは選ぶ食事、一口の咀嚼、その些細な嗜好の中に、己の生存本能を刻み込んでいた。

 

「食いもんはよ、喉を通る時の『熱量』がすべてだ。薄味じゃ勝てる博打にも勝てねえ」

 

秤は、クタクタに煮込まれながらも強固な弾力を残した牛すじに、大量の和辛子を塗りたくる。

刺激に顔を顰めながらも笑うその姿は、常に絶頂と破滅の際を歩むギャンブラーそのものだった。

対照的に、綺羅羅が選んだのは白滝と半ぺんだった。

 

「私はバランス重視かなぁ。お出汁を吸って、それでも形を崩さない。そういうのが一番賢いし、可愛いじゃない?」

 

その繊細な指先が選ぶ具材は、複雑な術式を操り、空間を制御する彼女の理知的な立ち振る舞いを反映していた。

そして、宮國蓮。彼は感情の起伏を一切見せず、最も標準的で、逃げ場のない具材──卵を選んだ。

 

「…やっぱり温玉だね。これ一つで、最低限の栄養と満足感が完結する」

 

卵を無造作に割り、淡々と口に運ぶ。

その食べ方は、自らの「空っぽ」を機能的に埋めるだけの、冷徹な作業のようでもあった。

 

「瑠璃。お前、具は何が一番好きなんだ?」

 

秤が、辛子で赤くなった口元を拭いながら唐突に問いかけた。

瑠璃は少し驚いたように肩を揺らし、視線を土鍋の隅へと向けた。

 

「……私は、餅巾着です」

 

瑠璃が箸で持ち上げたのは、油揚げの袋の口をかんぴょうで結んだ、おでんの定番。

それを見た秤が、鼻で笑った。

 

「餅巾着?なんだよ、お前。『おでんくん』じゃねえか」

 

「なっ……違います! これは、中身が何が入っているか分からない宝箱みたいで……あ、熱っ……!」

 

箸で巾着を割ると、中からとろりと溢れ出す白い餅。

 

「瑠璃、それはまだ熱い。火傷するよ」

 

宮國の、感情を脱色したはずの声がわずかに揺れた。

 

「……はい。分かってます。でも、美味しいです。この……柔らかい感じが」

 

瑠璃は、自分自身の不安定な境界線を象徴するようなその具材を、慈しむように口へ運んだ。九条薫が語った「地獄」の先に、もしこの光景が続いているのだとしたら。

自分の中に芽生えた、宮國や、この歪な仲間たちを失いたくないという「熱」。

それは愛裏の語る歪んだ愛とは違う、重い「呪い」のようでもあった。

 

 

「……ふぅ。ごちそうさまでした」

 

一通り食べ終え、秤が腹を叩いて立ち上がろうとした。裏の酒蔵でも覗いてくるか、と言いかけたその時。

 

「……宮國さん。おでん、おかわり……ありますか?」

 

「ああ。鍋の底に、まだがんもどきや大根が沈んでいるはずだ」

 

そこからが、秤と綺羅羅を絶句させる「異常事態」だった。

瑠璃は、まるで欠損した宇宙を埋めるかのように、淡々とおかわりを重ねた。

大根三本、卵三個、厚揚げ二個、そして再び餅巾着……。

 

「……おい、お前まだ食うのか?」

 

一杯、二杯、三杯。

結局、瑠璃は秤たちが驚愕のあまり固まる中、追加で三人前分の具材を、その華奢な体のどこへ消えたのか不明なほどの速度で完食した。

 

「……嘘でしょ。あんた、その細い体のどこに入ってんのよ……?」

 

綺羅羅が呆然と呟く。

秤は、空になった巨大な鍋を見て、思わず額を抑えた。

 

「……すみません、ちょっと食べすぎました。でも私、まだ腹八分も満たされてないんです」

 

瑠璃は少し顔を赤くし、満足げに息を吐いた。

 

「いいさ。呪術師は体力勝負……生きるために食うのは、正しいことだ」

 

宮國だけは、当然のように新しい熱い茶を彼女の前に置いた。

 

外では、伏見の冷たい風が宿舎の木枠をガタガタと揺らしている。

遠くで鳴るカラスの声は、明日の日没、新宿と京都に放たれる千の呪霊の先触れのようにも聞こえた。

だが、この六畳一間の空間だけは、琥珀色の出汁の匂いと、瑠璃が発した生命力の熱に満たされていた。

 

誰も「明日、死ぬかもしれない」とは言わなかった。

誰も「さよなら」の準備をしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

聖夜の空は、内臓を裂いたような禍々しい朱色に染まっていた。

京都、伏見稲荷大社。千本鳥居が形作る朱の回廊は、黄昏の光を吸い込み、異界へと続く喉奥のように深く、不気味なまでの静寂を(たた)えている。

 

「……全ッ然、熱が足りねえな」

 

稲荷山の山道を、砂利を踏みしめる音を響かせて秤が歩く。

そのヤスリをかけたようなザラついた呪力は、冷え切った大気の中で静かに火花を散らしているようだった。

 

高専上層部から彼らに下された指示は明確だった。

 

『京都校の防衛、及び稲荷山に点在する秘匿施設の死守』。

 

ここ伏見稲荷の山中にある霊脈は、一般人や呪霊から漏れ出る不純な呪力を濾過し続ける循環回路としての役割を担っている。

百鬼夜行を宣言した夏油傑が、この「フィルター」を破壊し、京都の霊的インフラを麻痺させようと目論むのは、盤上の定石(セオリー)であった。

 

「金ちゃん、あんまり殺気立てないでよ。狐さんが壊れちゃうじゃない」

 

隣を歩く綺羅羅が、南十字座のピアスを弄びながら軽やかに釘を刺す。

だが、その瞳は笑っていなかった。

秤たちの後方、鳥居に背を預けるのは宮國、そして瑠璃。

瑠璃は、隣に立つ宮國の横顔を見つめていた。

その無機質な美しさは、現実から切り離された工芸品のようにさえ見える。

宮國の手元には、かつて神保町で共に選んだ書籍が握られていた 。

 

ふと、瑠璃の脳裏に、あの八月の暑い日に神保町の片隅で交わした奇妙な問答が蘇った。

古書店の奥、リグニンが酸化した甘く酸っぱい匂いが沈殿する空間で、宮國が問いかけてきた時のことだ。

 

『瑠璃ちゃん。古書店の片隅で静かに埋もれているその本は、製本されたことすら誰も覚えていない。誰の記憶にも残っていない……その時、その本は「存在している」と言えると思う?』

 

当時の瑠璃は答えに窮した。

認識されなければ、それは「無い」のと同じではないか、と思考のスパイラルに陥った。

 

だが、今の彼女は違う。

 

「宮國さん……その本を買った時、私に言った問いかけ、覚えていますか?」

 

瑠璃の声に、宮國が足を止めた。

彼は読み耽っていた『豊饒の海』をゆっくりと閉じ、その驚くほど白く繊細な指先を栞に添えた 。

 

「……覚えているよ。君は答えを保留にしていたね」

 

「私、今なら答えられます。例え誰の記憶に残っていなくても、いつか誰かに読まれることを期待して待ち続けることに、意味はあると信じています。その期待がある限り、それは存在しているんだって」

 

それは、何者でもなかった自分自身への祈りでもあった。

 

「論理的な解ではない…けれど、悪くない」

 

宮國はわずかに目を細め、感情の読めない声で返した。

 

「……ちょうどいい、読み終わったところだ」

 

宮國は、少し古びた感触の文庫本を瑠璃へと差し出した。

 

「これ、貸すよ。今度返してくれ」

 

「今度」という言葉。それは、この戦いを生き残り、再び相見えるという無言の契約に他ならない。瑠璃はその本を受け取り、胸元に抱きしめた。

 

(……ああ、そうか)

 

瑠璃は自覚した。

自分の中に燻るこの熱、九条薫が「己の魂の拠り所」と呼んだものの正体を。

それは、自分を形作る「泡」を、自分の居場所を守るために弾けさせても構わないという、生存本能に逆行する狂気だ。

その献身の形をした呪いが、瑠璃の体温を物理的に引き上げている。

その言葉が形を成し、宮國に伝えられるよりも早く。

 

───ドォォォォォォォォンッ!!!

 

日没と共に伏見稲荷の大鳥居、その遥か後方、山全体を揺らすような爆鳴が轟いた。

鳥たちが悲鳴を上げて一斉に飛び立ち、静寂は暴力的に粉砕される。

 

「……来たか!」

 

秤が吠える。直後、空を裂くようにして漆黒の液体が降り注ぎ、街の明かりを遮断した。

人工的な夜が、一瞬にして伏見を包み込む。

千本鳥居の闇の奥、結界の裂け目から、ズルリ、ズルリと「何か」が這い出してきた。

それは、どろりとした黒い泥を粘膜のように滴らせた、かつて人間だったモノの群れ。

 

「人骸……ッ!」

 

瑠璃が叫ぶ。

泥に満たされた死者たちが、生前にはあり得なかった不自然な角度で四肢を折り曲げ、音もなく迫りくる。

その背後には、闇に紛れるようにして数多の呪霊がその顎を広げていた。

 

「瑠璃、下がるな。呪力出力を維持しろ」

 

宮國の声が、氷のように鋭く響く。

彼の指先からは既に、無数の墨糸が三次元の幾何学模様を描き、迫りくる泥の軍勢を迎え撃つ準備を整えていた。

 

「……分かってます。全部、ここで終わらせます」

 

瑠璃は、掌に呪力特性の「泡」を固定し、それを弾丸のように圧縮した。

 

二〇一七年、十二月二十四日、日没。

 

呪術師と呪詛師、愛と憎しみ。

すべてが冷たい泥濘(でいねい)の中で混ざり合う、史上最悪の呪術テロ「百鬼夜行」が、ついに幕を開けた。

 

 

 

 





これが”今回の話で意識したポイント”やッ

・夏油がリカちゃんを取り込んだ後に五条とどう戦おうとしていたのか
・弱そうなミミナナが新宿にいた理由

甚壱さんの良さをわかっている人間不要ッ!
甚壱さんはみんなのものなんや

第二章で見たい内容

  • セクシー九十九との修行編
  • 夏映画・福岡分校編
  • メロンパンとの呪霊モンマスターの旅
  • ぼっち伏黒
  • 自由にやれ…呪詛師のように
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