泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話 作:天狗猿
不思議やな…
平安の昔より、都の鬼門を封じ、あるいは招き入れてきた古都・京都。
その南端、稲荷山の山裾に広がる伏見稲荷大社は、今まさに、神域としての機能を剥奪され、血と泥に塗れた屠殺場へと変貌しようとしていた。
時刻は日没。逢魔が時。
空は、切り裂かれた内臓のような禍々しい朱色に染まり、西の空から急速に這い寄る夜の帳が、物理的な圧力を伴って世界を塗り潰していく。
「
本来、一般社会から呪いの視覚情報を遮断するために用いられる結界術。
だが、今宵下ろされたそれは、内側の惨劇を隠蔽するためだけの慈悲深い蓋ではない。
これから始まる殺戮を、逃げ場のない「儀式」として完遂させるための、巨大な密室の形成であった。
京都防衛の要となるこの地において、呪術高専は二重の防衛線を敷いていた。
第一防衛線は、京都校の学生たち。
東堂葵、加茂憲紀を中心とした精鋭が、市街地からの呪霊の侵入を食い止める「壁」となる。
そして第二防衛線、すなわち稲荷山の深部、重要文化財や秘匿された龍脈の結節点を守護するのが、東京校からの増援部隊──秤金次、星綺羅羅、宮國蓮、そして白波瑠璃である。
「……チッ、気色悪いな」
千本鳥居の入り口、一番鳥居の下で、秤金次は忌々しげに舌打ちをした。
視界を埋め尽くすのは、無限に続くかと思われた朱色の回廊。
その奥から、ズルリ、ズルリと、生理的な嫌悪を催す粘着音が響いてくる。
「金ちゃん、配置完了だよ……でも、なんか変じゃない?」
星綺羅羅が、南十字座のピアスを揺らしながら不安げに呟く。
本来、この正面口の防衛には、最も火力の高い戦力が配置される手はずだった。
すなわち、禪院家の「炳」とその筆頭、禪院甚壱である。
だが、その巨躯はここにはない。
「あの髭ダルマなら、別の場所へ行ったぜ」
秤が顎でしゃくった先、伏見の街を流れる鴨川と桂川が合流し、淀川へと名を変える水辺の方角。
そこには今、異様なまでの土煙と、どす黒い呪力の残穢が立ち上っていた。
「総員、構えろ……『仕事』の時間だ」
淀川の冷たい川風に、禪院甚壱の低い号令が溶けていく。
彼の背後には、黒い覆面で顔を隠した武装集団――「躯倶留隊」の隊員たちが、一糸乱れぬ統率で呪具を構えていた。
彼らに、畏怖や躊躇はない。
禪院家という絶対的なヒエラルキーの中で、感情という不純物はとうの昔に濾過されている。
彼らは、当主や幹部の命令を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、生きた凶器だ。
甚壱がこの場所を選んだ理由は明白だった。
稲荷山への正攻法による侵攻など、所詮は陽動。
「禪院家の汚点」である愛裏が、その薄汚い泥人形たちを大量に送り込むとすれば、それは陸路ではなく、死体を隠蔽しやすく、かつ穢れを流しやすい「水路」であると、彼の野生の勘が告げていたのだ。
「行くぞ、
川面が盛り上がった。
水飛沫と共に這い出してきたのは、人間ではない。
目鼻の穴という穴から黒い泥を垂れ流し、関節をあり得ない方向へ曲げながら迫りくる死者の群れ──半自律型駆動呪骸「
その数、数百。
川幅を埋め尽くすほどの泥の濁流が、岸へと押し寄せる。
「は……ゥ……アぅ……」
「ハッ、脆い。脆すぎるわ」
甚壱が地面を踏み砕き、突進を開始した。
それは、戦術機動というよりは、巨大な岩石による土石流に近い。
「術式解放」
甚壱が拳を振りかぶる。
それに呼応するように、彼の上空に、呪力で構成された無数の「巨大な拳」が顕現した。
物理法則を無視した質量弾。
それが、甚壱の拳の動きに同期し、流星群のごとく川から上がりくる人骸の群れへと降り注ぐ。
ドゴォォォォォッッ!!
轟音。そして、破砕音。
河川敷の砂利が吹き飛び、直撃を受けた人骸たちが、トマトが弾けるようにひしゃげ、肉片となって四散する。
泥を詰めただけの死体人形など、一級術師の中でも広範囲破壊に特化した甚壱の前では、濡れた紙切れほどの強度も持たない。
甚壱の一撃は、単なる打撃ではない。
対象を「粉砕」することに特化した、純粋な破壊の意思そのものだ。
頭部を失い、胴体を千切られた人骸の残骸が、次々と淀川の濁流へと蹴り落とされていく。
黒い泥と赤黒い血が混ざり合い、川の水面を汚辱の極彩に染め上げる。
破壊された手足が、首が、もはや意味をなさない肉塊となって、下流へと虚しく流されていく光景。
それは、「百鬼夜行」という名の祭りにふさわしいグロテスクな開幕の狼煙であった。
「探せ!この泥人形共の糸を引いているネズミが必ず近くにいるはずだ!」
甚壱は返り血を拭いもせず、破壊の限りを尽くしながら叫ぶ。
彼の最優先目的は防衛ではなく、粛清だ。
家名の恥を雪ぐためならば、この京都の川をすべて死体で埋め尽くすことも厭わない。
その狂気じみた執念が、彼を戦場の中心地から遠ざけ、結果として高専の戦力配置に「穴」を開けることとなる。
「あらァ、随分と乱暴な殿方ねぇ。
戦場の喧騒を切り裂くように、場違いなほど甘く、艶めかしい声が響いた。
甚壱の進撃が止まる。
土煙の向こう、砕かれた人骸の山の上に、一人の男が立っていた。
鍛え上げられた筋肉質な上半身には、衣服の代わりにハート型のニプレス。
金髪に水色のカチューシャ。
その奇抜すぎる出で立ちは、血と泥にまみれた戦場において、あまりに異質な輝きを放っていた。
夏油一派幹部、ラルゥ。
「……何だ、貴様は」
甚壱が不愉快そうに眉間の皺を深め、殺意を向ける。
ラルゥはふわりと地面に降り立つと、腰に手を当て、挑発的に微笑んだ。
「私はラルゥ。夏油ちゃんの愛しいの一人よ……ねえ
「家族、だと? ……反吐が出る」
甚壱にとって、家族とは血の結束であり、同時に支配と被支配の構造でしかない。
呪詛師ごときが口にするその単語は、彼の神経を逆撫でするに十分だった。
「消えろ、陰間」
甚壱の背後に浮かぶ巨大な拳が、ラルゥを押し潰さんと殺到する。
回避不可能な質量の暴力。
直撃すれば、人の体など容易く肉塊へと変わる。
だが、ラルゥは動じない。
彼は優雅に右手を掲げ、迫りくる拳に向かって、愛おしげに指を絡ませた。
「術式──『
瞬間。
甚壱の放った巨大な拳の軌道が、不可解なほど滑らかに逸れた。
まるで、見えない何かに手首を掴まれ、優しくエスコートされたかのように。
逸れた拳は、ラルゥの横を通り過ぎ、ラルゥの背後に構えていた躯倶留隊員を吹き飛ばす。
「……あ?」
甚壱が僅かに目を見開く。
物理的な接触はない。呪力による干渉の痕跡も見当たらない。
だが、確かに今、自分の攻撃は「掴まれた」。
「あら、危ない……でも、私の『
ラルゥがウインクを飛ばすと同時に、甚壱の背後で待機していた躯倶留隊員数名の動きがピタリと止まった。
彼らの瞳が、虚ろに、しかし熱を帯びてラルゥの方へと向けられる。
「なっ、貴様ら、何を呆けている!」
甚壱の怒号も届かない。
隊員たちは、まるで恋焦がれる恋人に吸い寄せられるかのように、武器を下ろし、ラルゥへと歩み寄り始めた。
ラルゥの術式は、仮想の「手」を作り出し、対象を掴む能力である。
その手は物理的な肉体だけでなく、対象の「
一度掴まれれば、意識は強制的にラルゥへと指向し、敵意は骨抜きにされ、戦意は愛着へと書き換えられる。
それは、純粋な暴力で支配を敷く禪院家とは対極に位置する、搦め手の極致。
「さぁ、皆で仲良くダンスでもしましょうか?」
ラルゥがウインクをすると、意識を奪われた躯倶留隊員たちが、味方であるはずの甚壱に向かって刃を向けた。
「……チッ、幻術か精神干渉の類か。小賢しい真似を」
甚壱は、躊躇なく向かってくる部下の隊員を裏拳で殴り飛ばした。
骨の砕ける音が響くが、彼の表情に痛痒はない。
道具が壊れたなら、また調達すればいいだけの話だ。
「まとめて潰す。……愛裏が出てくるまで、この山を更地にしてやる」
甚壱の全身から、どす黒い呪力が噴き上がる。
対するラルゥは、余裕の笑みを崩さないまま、その巨躯を見上げた。
「野暮な男……でも、嫌いじゃないわよ、その直情的なトコロ♥」
稲荷山の入り口で、純粋な「力」と、妖艶な「技」が激突する。
ドォォォォォォォォンッ!!
地鳴りのような爆音が、冬の京都盆地を震わせ、伏見稲荷の千本鳥居を大きく揺らした。
禪院甚壱という暴力装置がラルゥと激突した衝撃の余波。
空から降り注ぐ無数の「巨大な拳」が、地形ごと蹂躙している光景は、ここ稲荷山の中腹からでも見て取れるほどに凄まじい。
「……うっわ。あのヒゲダルマ、マジで加減ってモンを知らないの?」
綺羅羅は、呆れたように、しかし戦慄を隠せずに呟いた。
一級術師の中でも規格外の破壊力。
繊細な術式操作を売りにする綺羅羅にとって、あの単純明快な「破壊」は、ある種のアレルギー反応を引き起こすほどの暴力性だった。
「よそ見してる暇はねえぞ、綺羅羅!」
秤の怒号が飛ぶ。
視線を戻せば、朱色の回廊を埋め尽くすように、泥を滴らせた異形の群れが殺到していた。
「分かってるって! ……ほら、アンタたちはこっち!」
綺羅羅がしなやかに舞う。
術式『
綺羅羅が触れた対象に、南十字座の星の名をマーキングし、引力と斥力を自在に操る術式である。
通常、この術式は生物、あるいは無生物であっても明確な「呪力」がなければ対象として認識しづらい。
だが、目の前の敵は「人骸」。
かつて人間だった死体に、泥という名の呪物を詰め込み、「浴」によって防腐と呪力の定着を施された、半ば呪霊に近い存在だ。
その死に際に焼き付いた怨念の残穢と、動力源となる泥の呪力は、綺羅羅の星を刻むのに十分すぎる「的」だった。
「
綺羅羅が空中に投げた呪骸と、前衛の人骸の間に強烈な斥力が発生する。
見えない磁場に弾かれた人骸たちが、後続の群れと激突し、将棋倒しのように崩れていく。
その隙を、宮國蓮の墨糸が鋭利な刃となって駆け抜けた。
「……数が多いな、際限がない」
宮國は冷静に、しかし疲労の色を隠せずに呟く。
彼は遠距離から墨縄を操り、確実に呪霊の急所を穿っていたが、結界の裂け目から湧き出る穢れは留まることを知らない。
「ハァッ、ハァッ……!」
白波瑠璃は、最前線で拳を振るっていた。
掌に生み出した呪力の泡を、打撃の瞬間に炸裂させる。その衝撃は人骸の腐肉を容易く弾き飛ばすが、返り血ならぬ「返り泥」が、彼女の制服を重く汚していく。
「オラァッ!!」
その横で、秤は暴れまわっていた。
ザラついた呪力を纏った拳は、単なる打撃ではない。触れた箇所をヤスリのように削り取り、激痛と共に相手の平衡感覚を奪う。
秤は笑っていた。この命のやり取り、熱の交換こそが、彼にとっての酸素であるかのように。
「いいぜいいぜ! だがまだ足りねえ! もっと熱くなれるヤマはねえのかよ!」
秤が人骸の頭部を回し蹴りで粉砕した、その時だった。
シュルッ
風を切る音と共に、綺羅羅の首に、一本の古い縄が巻き付いた。
「え……?」
綺羅羅が反応するよりも早く、縄が絞まる。
物理的な窒息ではない。呪力が直接、頸動脈を締め上げるような不快な感覚。
「──貴方は多分優しい人だと思うけど、夏油様の邪魔をするなら、死んで?」
鈴を転がすような、しかし氷点下の冷たさを帯びた少女の声が響いた。
呪霊の群れの向こう側。
朱色の鳥居の上に、二人の少女が佇んでいた。
一人は、金髪をお団子に結った快活そうな少女、枷場菜々子。
もう一人は、黒髪を切り揃え、不気味なぬいぐるみを抱いた少女、枷場美々子。
彼女たちの足元にある鳥居の梁には、数人の高専の補助監督たちが、首を吊られた状態でぶら下がっていた。
彼らの顔は苦悶に歪み、既に事切れている。
それは、彼女たちが「子供」の皮を被った残忍な処刑人であることを雄弁に物語っていた。
「……ッ、舐めんな!」
綺羅羅は瞬時に自身の呪力出力を操作し、首元の星の
発生した強烈な斥力が、美々子の術式である縄を一瞬で弾き飛ばす。
「ゲホッ、ゲホッ……! 金ちゃん、あいつら……!」
「……ああ、見えてるぜ」
秤の表情から、笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、底冷えするような静かな怒りだ。彼は、自分の
「俺の連れに手ぇ出すとは、中々味な真似してくれるじゃねえか。ガキ相手だからって、手加減する道理はねえぞ」
秤が地面を蹴る。
その速度は、人骸の反応速度を遥かに凌駕していた。
一足飛びに鳥居の上へ。美々子と菜々子の目前へと肉薄する。
「チッ、速い……!」
鳥居の上で菜々子がスマホを構え、美々子が人形を操作しようとした、その刹那だった。
ガタン…ゴトン…
場違いな音が、秤金次の耳朶を打った。
重厚な鉄輪がレールを軋ませる、電車の走行音。
次の瞬間、世界が反転した。
「……あ?」
秤の拳が空を切る。
目の前にいたはずの双子の姿が、陽炎のように揺らいで消えた。
いや、双子だけではない。
朱色の千本鳥居が、鬱蒼とした森の木々が、泥の臭いが、一瞬にして消失したのだ。
代わりに広がっていたのは、色を失った灰色の空間。
コンクリート打ちっぱなしの無機質なホーム。
古びたベンチ。
そして、どこまでも続く錆びついた線路。
駅名標には、掠れた文字でこう書かれている。
『きさらぎ駅』
「……なんだ、こりゃ領域か?」
秤は周囲を見渡す。
そこにいたのは、同じく空間の歪みに巻き込まれた星綺羅羅だけだった。
瑠璃も、宮國も、人骸さえもいない。
完全に分断された。
特級仮想怨霊「
ネットロアという現代の怪談が生み出した、集団幻覚的結界。
「存在しないはずの駅に迷い込み、二度と帰れない」という恐怖が具現化したこの呪いは、領域内に引き込んだ獲物を、永遠に終わらない「地獄巡り」の旅へと幽閉する。
空間が軋む。
ホームの端から、顔のない駅員や、片足だけの老人の姿をした呪霊たちが、ゆらりと姿を現した。
「ハッ、なるほどな。お化け電車ってか? 上等だ」
秤は状況を瞬時に理解した。
これは領域だ。閉じ込められた以上、出るには領域の起点となる呪霊を潰すか、領域を中和するしかない。
そして何より、今の秤は「熱」を求めていた。
「領域展開──『
秤が印を結ぶ。
彼を中心に、極彩色の光が溢れ出し、無機質な無人駅をパチンコ台の演出で塗り替えていく。
実在するパチンコ台『CR私鉄純愛列車』を具現化した必中必殺の領域。
領域解放の狙いは一つ。
大当たりを引き、不死身の肉体と無限の呪力を手に入れ、このふざけた幽霊駅を物理的に粉砕すること。
ジャン、ジャジャーン!
軽快な音楽と共に、液晶演出がスタートする。
確変突入率75%、今の秤の「ノリ」なら、造作もない数字だ。
『リーチ!
期待度星4つの激アツ演出。
電車の中で、頬を染めたヒロインが
(
秤が確信した瞬間。
ザザッ……ザザザッ……
液晶にノイズが走った。
愛らしいヒロインの顔が、突如として溶け落ちる。
眼球が飛び出し、口が耳まで裂け、血の涙を流す「何か」へと変貌する。
『ツギ……ハ……削ギ切リ……削ギ切リ……』
BGMの恋愛ポップソングが、テープを逆再生したような不協和音へと歪む。
車内アナウンスが告げるのは、到着駅ではない。乗客への「処刑法」だ。
本来なら「大当たり」となるはずのタイミングで、画面には『
「……は?」
秤が目を見開く。
パチンコの
恋愛ドラマであるはずの『私鉄純愛列車』が、この陰気な怨霊の干渉によって、三流ホラー映画へと
「……この台、遠隔されてやがるな」
秤はギリ、と奥歯を噛み締めた。
これは単なる領域の押し合いではない。
相手は「異界の駅」という概念そのもの。
秤の領域内の「鉄道」という設定にハッキングを仕掛け、ルールの改竄を行っているのだ。
周囲の闇から、ホラー映画の怪物じみた呪霊たちが、実体を持って襲いかかってくる。
だが、それ以上に深刻な異変が、隣にいた綺羅羅を襲っていた。
「ぐッ……ぅ……!?」
綺羅羅が苦悶の声を上げ、自身の腕を抑え込む。
その滑らかな肌に、突如として無数の「切れ込み」が走った。
見えない刃物で薄く削ぎ落とされたかのように、鮮血が噴き出す。
「金ちゃん、ヤバい! 私の術式じゃ、この空間そのものには干渉できない! ……体が、削られてる……!」
特級仮想怨霊「鬼猿犠驛」の領域は、有名なネット怪談「猿夢」を内包した必中効果を持つ。
領域内に招かれた者は、「活造り」あるいは「挽肉」にされる食材と見なされる。
この必中効果は、対象の肉体を少しずつ、しかし確実に削ぎ落とし、ミンチへと変えていく不可避の解体作業だ。
秤は、自身の領域を展開しているため、この必中効果を中和できている。
だが、綺羅羅は違う。
綺羅羅は秤の領域の中にいる
このままでは、綺羅羅は数分と持たずに「挽肉」に変えられる。
秤は舌打ちし、即座に判断を下した。
この領域を攻略するには、バグった演出を力技でねじ伏せ、領域の出力を最大まで引き上げて強制的に大当たりをもぎ取るしかない。
すなわち、領域の押し合いに全リソースを注ぎ込むことだ。
だが、それをすれば──綺羅羅を守る余力は消える。
「クソッ……! 綺羅羅、こっちに来い!」
秤は展開していた術式の構成を変更し、綺羅羅を抱き寄せた。
自身の体の周囲に、膜のような呪力を張り巡らせる。
「
必中術式を中和するための、身に纏う領域。
秤は自らの領域展開を維持しつつ、その内側でさらに展延を展開し、綺羅羅を必中効果の斬撃から物理的に遮断したのだ。
だが、それは諸刃の剣だった
展延に呪力と集中を割けば、当然、外側の『坐殺博徒』の精度と出力は落ちる。
(綺羅羅を見捨てて領域の押し合いに勝つか、このまま二人で摩耗して死ぬか……!)
究極の二択。
灰色の無人駅で、博徒は唇を噛み、目の前の「理不尽」という名の台を睨み据えた。
その背中では、綺羅羅の荒い呼吸と、滴る血の音が、焦燥のビートを刻み続けていた。
*
瑠璃の目の前で世界が、咀嚼されるように閉じた。
千本鳥居の朱色が、無機質な灰色のコンクリートへと塗り替えられ、秤達の姿が、突如現れた特級仮想怨霊「鬼猿犠驛」の領域内へと消失する。
後に残されたのは、世界から切り離されたような静寂と、這い寄る泥の臭気だけだった。
「秤さん……! 綺羅羅ちゃん……!」
白波瑠璃は叫び、閉ざされた結界の縁へと手を伸ばす。
しかし、その指先は虚空を掴むだけだった。
領域という閉鎖空間に外部から干渉することは、内部から脱出することと比べると容易であると言われている。
だが、相手は都市伝説として概念化された特級怨霊。闇雲な攻撃は、中の二人を予測不能な危険に晒す可能性すらあった。
(私には……無理なの……?やっぱり、守れない……?)
瑠璃の胸中を、冷たい不安が過る。
頼りない自分。
それでも、信じて任せてくれた仲間がいる。
「……落ち着け、瑠璃」
宮國蓮の冷徹な声が、瑠璃の焦燥を押し留めた。
彼は指先から放つ墨糸で周囲の安全を確保しながら、淡々と告げる
。
「今、外から俺たちができることはない。だが、中の二人を心配する必要もないよ。領域戦において、秤金次よりしぶとい術師は、そう存在しない」
「でも……!私たちがここで足止めを食らっている間に……」
「彼を信じろ。それよりも今は、優先すべき現実がある」
宮國の視線が、参道の奥、一段高くなった石段の上へと向けられた。
そこに、二人の呪詛師───枷場姉妹が立っている。
彼女たちの背後にある鳥居の梁には、既に事切れた数名の高専の補助監督たちの死体が無惨にも風に揺れていた。
そして、美々子の手には、もう一本の縄が握られていた。
その先には、一人の女性補助監督が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、首に縄をかけられ、爪先立ちで辛うじて呼吸を繋いでいる姿があった。
「……アハッ、口髭のヤツ。消えちゃったね。ザマァないじゃん」
金髪の少女、菜々子がスマホを弄りながら、退屈そうに嗤う。
「どうする? 菜々子。この女も吊るす?」
黒髪の少女、美々子が、ぬいぐるみの首を愛おしげに撫でながら問う。
その指先が動けば、術式によって女性の首は即座に締まり、絶命するだろう。
「……っ。どうして、こんな酷いことを……」
瑠璃の声が震える。
目の前の惨状に、彼女の中の倫理観が悲鳴を上げていた。
罪のない人々を殺し、あまつさえそれを交渉の材料にする。それは瑠璃が最も嫌悪する「強者による理不尽な搾取」そのものだった。
「他人を犠牲にしてまで……あなたたちが叶えたいものは、一体何なんですかッ!……これが、あなたたちの最善だと言うの……!?」
瑠璃の問いに、菜々子は心底不思議そうな顔で小首を傾げた。
「は? 何言ってんの? 理由なんて一個しかないっしょ」
彼女は、まるで放課後の雑談でもするかのような軽い口調で、しかし狂信的な熱を瞳に宿して言い放った。
「ウチらは夏油様が好き。夏油様がやれって言うならなんでもやるし、夏油様が笑ってくれるなら、世界中が地獄になったって構わない」
「そう。猿の命がどうなろうと、そんなことは関係ない」
美々子が言葉を継ぐ。そこには一切の迷いも、葛藤も存在しなかった。
彼女たちにとっての正義は「夏油傑」という個人の幸福のみであり、それ以外の全人類の命は、天秤に乗る重りですらないのだ。
「でもぉ、同じ術師はあんまり傷つけたくないんだよねぇ。夏油様も『家族』は大事にしろって言ってたし」
菜々子がニヤリと笑い、人質の女性の首に巻かれた縄を指差した。
「だから、ウチらの要望は一つ……夏油様の願望が叶えられるまで、そこで黙って見てなよ。動いたら、コイツの首、飛ぶよ?」
───究極の二択。
目の前の命を見捨てて二人を制圧するか。
それとも、目の前の女性を助けるために二人を見逃し、結果として
道徳的ジレンマ。
多数を救うために一人を切り捨てるか、目の前の一人を救うために多数を危険に晒すか。
瑠璃の足が止まる。思考が泥沼にはまる。
彼女は「空っぽ」だった自分を埋めるために、誰かの役に立ちたいと願った。だからこそ、目の前の助けられる命を見捨てるという選択は、自己の存在意義を否定することに等しい。
(私には……選べない。どちらかを見捨てるなんて……そんな資格、私にはない……!)
思い出すのは、教会で殴り殺してきた信者達の亡骸の山。
拳を握ると、あの、人を頭蓋骨を抉る鈍い感触が鮮明に蘇ってくる。
「……瑠璃」
凍り付いた静寂を破ったのは、宮國の声だった。
彼は一歩前へ出ると、人質を取られた状況にも関わらず、ゆらりと腕を下ろしたまま、瑠璃に問いかけた。
「以前、君に話したことを覚えているかい? 『呪術師に必要な資質』について」
「え……?」
あまりに唐突な問いに、瑠璃だけでなく、菜々子たちも意表を突かれたように眉をひそめる。
「あ? 何言ってんだコイツ。状況分かってんの?」
宮國は構わず、独白のように続けた。
「優しさ、責任感、正義感……どれも立派だが、それだけじゃこの世界では摩耗するだけだ。誰かを救うために誰かを見捨てる。そんな
宮國の瞳から、ハイライトが消え失せる。
そこにあるのは、深淵のような昏い虚無。
「もう一度思い出そうか、呪術師に必要なこと。それはね───イカれていることだよ」
その言葉が落ちた瞬間。
宮國の姿がブレると同時に、補助監督に巻き付いた美々子の荒縄の上から、新たに漆黒の墨縄が巻き付いた。
「ぐぇっ……!?」
「はっ──!?」
補助監督の悲鳴と美々子の驚愕よりも速く、宮國は地面を蹴っていた。
人質の安全確保? 交渉?
否。
彼が選んだのは、人質の命ごと敵を巻き込むような、狂気の特攻だった。
宮國の指先から放たれた墨縄が、人質の女性の体を
もし美々子が反射的に術式を発動すれば、人質は即死する。
だが、宮國は「人質が死ぬかもしれない」という
人質が肉の盾なら、こちらも肉の矛として利用する。
トロッコのレバーを引くのではない。
自分ごとトロッコそのものを脱線させ、運転士ごと粉砕する第三の選択肢。
それは、「味方である人質を率先して傷つける訳がない」という敵の
「なっ、コイツ、マジで……!?」
菜々子が叫ぶ。
人質が盾にならない。コイツは人質ごと殺す気だ。
その戦慄が、美々子の指先を一瞬だけ硬直させた。術式発動への迷い。
「殺せば自分たちも殺される」という生存本能が、人質への攻撃よりも自己防衛を優先させる。
その一瞬の
それこそが、宮國が命を賭してこじ開けた「道」だった。
「────瑠璃ッ!!」
宮國の叫びが、瑠璃の脳髄を叩く。
理屈ではない。本能が理解した。
彼の狂気に、自分の命を乗せろと。
「……ッ、はい!!」
(これが……今の私にできる最適解……!)
瑠璃の呪力が足元で弾ける。
足元の空間に呪力特性の籠った無数の微細な呪泡を展開し、摩擦係数を奪い
物理法則を無視した加速が、瑠璃の体を弾丸へと変える。
ギュィンッ
風を切る音さえ置き去りにして、瑠璃は美々子と菜々子の懐へと潜り込んだ。
「しまっ───」
二人が反応する暇も与えない。
瑠璃の両掌が、それぞれの腹部に深々と突き刺さる。
「柘榴・弱」。
掌から流し込まれた泡が、体内ではじけた。
内側からの衝撃波。臓器を揺さぶり、意識を刈り取る非殺傷の、しかし確実な一撃。
「カハッ……!?」
双子は白目を剥き、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
同時に、美々子の拘束が解け、人質の女性が石畳へと落下する。
「……確保、しました」
瑠璃は荒い息を吐きながら、気絶した双子と、震える女性補助監督の間に割って入った。
心臓が早鐘を打っている。
もし、宮國の飛び出しが一瞬でも遅れていたら。
もし、美々子が迷わずに術式を発動していたら。
結果は最悪のものになっていただろう。
「無茶苦茶で……最低です、宮國さん」
瑠璃が非難めいた視線を向けると、宮國は袖口の汚れを払いながら、涼しい顔で答えた。
「結果論だよ。それに、君なら合わせられると信じていた」
宮國は倒れ伏す補助監督の女性に歩み寄り、その肩を抱き起こした。
「大丈夫ですか? もう敵は無力化しました」
「あ、ありがとう……ございます……。怖かった……殺されるかと……」
女性は涙ながらに宮國の胸に縋り付く。
その様子を見て、瑠璃は安堵の息をついた。
誰も死なせずに済んだ。自分の手で、救うことができた。
その達成感が、思考の隅に「油断」という名の死角を生む。
宮國は、瑠璃の方を見つめ、静かに語りかけた。
「瑠璃。君は優しい。だが、その優しさは時に君自身を殺す。秤的に言うなら、誰かの命を天秤にかける時、まず
「自分の、命……」
「そうだ。狂気とは、死への恐怖を麻痺させることじゃない。命をチップとしてテーブルに置く覚悟のことだ。それを忘れるな」
宮國の言葉は、遺言のように重く響いた。
瑠璃がその意味を咀嚼しようとした、その時。
ズプッッ
濡れた雑巾に、棒を突き立てたような、鈍く湿った音が響いた。
「え……?」
瑠璃の思考が停止する。
宮國の胸から、銀色の刃が生えていた。
背後からではない。
彼が抱きかかえていた、助け出したはずの女性補助監督の手元から、鋭利な刃物が突き出され、宮國の心臓を正確に貫いていたのだ。
「……ガ、フ……ゥッ」
宮國の口から、大量の鮮血が溢れ出す。
彼の瞳が、驚愕に見開かれ、そしてゆっくりと焦点が拡散していく。
「み、宮國さん……!?」
瑠璃が悲鳴を上げる。
───愛裏の洗脳? 伏兵の呪詛師? 人骸の擬態?
瑠璃の脳裏で様々な可能性が反復する中で、宮國を刺した女性は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔面が、泥のようにドロドロと溶け落ちていく。
怯えていた瞳が、涙に濡れた頬が、剥がれ落ち、その下から現れたのは――
「感動的な講釈中にごめんねぇ」
三日月のように口元を歪めた、禪院愛裏の素顔だった。
「でもさ、自分をチップにするのはいいけど……私の
「術式──『堕靡泥外法』」
愛裏は、宮國の体から刃を引き抜き、瀕死の彼に再び、楽しそうに突き刺した。
血飛沫が舞い、瑠璃の頬を温かく濡らす。
「瑠璃ちゃん、元気っ?あーそーびましょっ!」
崩れ落ちる宮國の体を抱き抱えながら、愛裏は
◼️◼️ラーメンの佐倉さんみたいなキャラを出したくなる衝動を抑えるのも楽じゃねぇんだよ
針千鈞 執筆話数13話
第二章で見たい内容
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セクシー九十九との修行編
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夏映画・福岡分校編
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メロンパンとの呪霊モンマスターの旅
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ぼっち伏黒
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自由にやれ…呪詛師のように