泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話 作:天狗猿
横浜、金沢八景。
海からの湿った風が、アスファルトの熱を孕んで肌にまとわりつく。
照り返す陽光は凶器に近い鋭さで網膜を焼き、平潟湾の穏やかな水面は、死者の瞳のように鈍く光っていた。
この季節の横浜は、観光地の華やかさの裏で、逃げ場のない湿気がすべてを腐食させていくような、独特の不快感を伴う。
「……あ、暑い。……溶ける。この熱、物理的な質量があるんじゃないかな」
「瑠璃ちゃん、これこれ! これ飲まないと任務前に干からびちゃうよ。はい、強炭酸」
隣から星綺羅羅が、よく冷えたソーダの缶を差し出してきた。
結露した水分が瑠璃の指先に触れ、一瞬だけ現実的な冷感を取り戻させる。
二年生の主戦力である秤金次は、前回の任務報告書の記述漏れと、目も当てられない座学の成績が重なり、夜蛾学長の「
そのため、今回の「八景島シーパラダイム」における呪霊調査任務は、二人の二年生───綺羅羅と白波瑠璃に託されることとなったのである。
*
同行した補助監督から、施設側の警備と閉館時間の都合により、本格的な調査は夜間になる旨を告げられた二人は、綺羅羅の発案で「アウトレットパーク:横浜ベイパーク」へと足を運んでいた。
海沿いに広がる無機質な白い外装のコンクリート、そして眩しすぎるブランドショップの列。
そこは人工的な清潔感と消費の欲望が整然と並ぶ、白昼夢のような空間だった。
「瑠璃ちゃん、私服全然持ってないって言ってたでしょ? 高専の制服もいいけど、たまには『女の子』しなきゃ! ほら、ここ、似合いそうじゃない?」
瑠璃は、戸籍を持たず、社会のシステムから”剥離”して生きてきた自分に「私服」という概念がどれほど希薄だったかを再認識していた。
綺羅羅に手を引かれ、華やかなパステルカラーとフレグランスの香りが漂う店舗を巡る。
鏡に映る自分──制服ではない、柔らかなコットン生地のシャツを纏った姿。
それは、自身が「呪術師という名の部品」ではなく、ただの十七歳の少女として世界に存在しているような、奇妙な、それでいて胸の奥が熱くなるような喜びだった。
買い物を終え、潮風の吹き抜けるテラス席で二人は期間限定の「チョコミント味」のアイスクリームを注文しようとした。
「……あ、最後の一つですね」
店員の言葉。瑠璃と綺羅羅が手にした瞬間、後ろに並んでいた二人組の少女が「あーあ、売り切れだって」と残念そうに肩を落とした。
瑠璃の視線が、その二人組に止まる。
お揃いの制服を着た女子高生達。片方はスマートフォンを弄び、もう片方は古いぬいぐるみのようなものを抱えている。
その外見はどこにでもいる女子高生だが、瑠璃の術師としての感応性が、背筋に走る悪寒を捉えた。
(……なんだ、この感覚。ただの一般人じゃない。どこかで、嗅いだことのある『血』の気配)
女子高生の身体に纏わりつく残穢は、ひどく冷徹で、かつて群馬で出会った呪詛師と同じ、深淵に近い色をしていた。
「……これ、味変えてもいいです。私はバニラで。そっちの方が涼しそうですし」
「えっ、瑠璃ちゃん?……あ、じゃあ私もストロベリーにするわ」
瑠璃がチョコミントを譲り、注文を変更すると、美々子と菜々子は驚いたように目を見開いた。
「……ありがと。優しいんだね」
スマホを手にした菜々子が、無機質な笑みを浮かべる。
その瞳には、感謝よりも深い、同種を見極めるような光があった。
「もし今度何かあっても、お姉さん達のことは見逃してあげる」
不穏な言葉を風に溶かし、彼女たちは人混みの中へと消えていった。
「……瑠璃ちゃん、今の子たち……」
「……呪詛師かどうかは分からない。でも、あの子たちからすごく冷たい、呪力の残りを感じた」
二人が消えていった人混みを、瑠璃はハイライトの消えた瞳でじっと睨んでいた。
*
日も陰り、観光客の姿もまばらになった海の公園の砂浜。目的地のシーパラダイスへと続く砂の道を、二人は潮騒に包まれながら歩いていた。
打ち寄せる波が、砂浜に溜まった負の感情───未練や厭世──を洗うように砕いていく。
夕日は平潟湾を黄金色に染め上げ、金沢八景特有の「
「今日はありがとね。瑠璃ちゃんと買い物できて、私も楽しかった!」
綺羅羅が、砂を蹴りながら明るく言った。
「私はね、石垣島の呪術師家系に生まれたんだ。でもさ、あそこは古臭い掟とか、血筋とか、そんなのばっかり。私は私でありたかったから、家族と喧嘩して、逃げるように東京校に来たの」
潮風に髪をなびかせ、彼女は言葉を継ぐ。
「そこで、自分勝手で、ギャンブル狂で、何考えてるか分かんない金ちゃんに出会ったんだ。あいつ、無茶苦茶なことばっかり言うけど、誰かが苦しんでる時は、誰よりも『熱』を持って拳を振るうでしょ。私は、その熱に救われたんだ。だから、あいつが大好き」
綺羅羅の言葉は、夕日に溶ける潮騒よりも切実だった。
「瑠璃ちゃんは、どうなの? 好きな人とか……気になる人とか」
瑠璃の脳裏に、宮國蓮のハイライトのない瞳が浮かぶ。
(……宮國さん?……いや、あの人は絶対、私みたいな空っぽな女を言葉で殺して、愉しむような人だ。きっと…あの人の優しさは、獲物を誘う罠に過ぎない)
思い浮かんだ宮國の顔を掻き消すように、瑠璃は首を振った。
「……今は、探してる途中。自分の中に、誰かを入れるための場所があるのかも、まだ分からないから。私は……ただの泡なんだから」
深夜、丑三つ時の金沢八景。
昼間の熱気を吸い込んだアスファルトが、夜露に濡れて鈍く光っている。
閉館後の水族館は、外界から切り離された巨大な沈没船のような沈黙に包まれていた。
従業員には「夜間の特別点検」という名目の虚偽報告がなされ、補助監督の手によって『帳』が下ろされている。
「……暗いね」
瑠璃が小さく溢した言葉は、厚いアクリルガラスに吸い込まれて消えた。非常灯の青い光だけが、水槽の向こう側にある「深淵」を、ドロリとした不透明な色彩で照らし出している。
「こういう場所はね、楽しければ楽しいほど、その裏側に溜まった『行きたくなかった』『帰りたくなかった』っていう未練が呪いになるの。
前を歩く星綺羅羅が、警告するように肩越しに視線を送った。
二人の横を、誰も観る者のいない巨大水槽の中で、魚たちが無機質な回遊を続けている。
ふと、瑠璃の視線が水槽を漂う
非常灯に照らされ、実体があるのかさえ判然としないまま浮遊するその姿に、瑠璃は寄る辺ない自身の在り方を重ねていた。
やがて二人の足がある一角で止まる。
『エビ・カニコーナー』。
昼間は子供たちの歓声で賑わっていたであろう場所は、今はただ不気味な湿気を湛えていた。瑠璃の視線が、解説プレートの文字をなぞる。
水槽の影で、じっとこちらを窺う無数の脚、複眼。
その姿に、瑠璃の意識が強く引き込まれた。
美しく、かつ凶暴な色彩を持ったまま、数億年前から変わらぬ姿を維持する「生きた化石」達。
闇の中でも、その装甲が放つ深淵の蒼は、宝石のように冷たく、ひどく美しかった。
複雑に動く多重焦点の瞳が、鏡合わせのように瑠璃を見つめ返している。
「多分、ここにいるね。残穢が……澱んでいる」
綺羅羅の言葉が合図だった。水槽の表面に反射した瑠璃の顔が、グニャリと歪んだ。
否、それは瑠璃の顔ではなかった。
ガラスを透過し、物質としての法則を無視して、深海魚に似た人面の呪霊たちが次々と溢れ出してきた。
「───ッ!」
飛び出した呪霊の群れが、鋭い歯を剥き出しにして瑠璃の首元に肉薄する。
咄嗟の反応。瑠璃は懐から呪力を込めた短刀を抜き、先頭の一体を一閃した。
「ナイス瑠璃ちゃん! でも、本番はあっちだね!」
水槽の奥から、鈍い音を立てて這い出してきたのは、軽自動車一台分はあろうかという巨大な「人面蟹」の呪霊だった。
その蟹の鋏が床に触れた瞬間、異様な速度で「苔」が繁殖し、周囲の水分と熱をドロドロと吸い取っていく。
「瑠璃ちゃん、雑魚は私が引き受ける! あのデカいの、あんた行ける!?」
「うん……!」
綺羅羅が指を鳴らし、術式を展開する。
「来い!『
綺羅羅の術式は、南十字星の星座をモチーフにした空間管理術だ。
接近してきた魚の一体に、マーキング──『アクルックス』を施す。
同時に、自身には『ガックルックス』を。
特定の位置関係に基づいた斥力が働き、呪霊は目に見えない壁に叩きつけられたように弾き飛ばされた。
綺羅羅に触れることさえ叶わない呪霊たちは、互いに衝突し、肉を削り合っていく。
その時、魚群の隙間を突き抜け、巨大な鮫の呪霊が綺羅羅の喉笛を噛みちぎらんと迫った。
「『星間飛行』の本質は斥力だけじゃないんだよね……!」
綺羅羅が不敵に笑う。
いつの間にかマーキングされていた水槽の縁と、壁から剥がれた鉄製の解説プレート。
それらが猛烈な引力によって引き寄せられ、鮫の呪霊を左右からサンドイッチにする。
ベチャリ、と嫌な音が響いた。
鉄板に押し潰された呪霊から内臓と黒い返り血がぶち撒けられる。
『星間飛行』、それは戦場を数学的に支配する、最強の空間管理術だった。
一方で、瑠璃は人面蟹の硬い外殻に苦戦を強いられていた。
「……っ、硬い!」
短刀で何度も甲殻を切り付けるが、その度に火花が散るだけで、表面に薄い傷をつけるのが精一杯だった。
さらに厄介なのは、呪霊が撒き散らす「苔」だ。
瑠璃は呪泡を足場に天井や壁を跳ね回るが、蟹の鋏が触れた箇所から瞬時に生い茂る苔が、彼女の機動を阻害する。
苔に触れるたび、体温が奪われ、関節の動きが鈍っていく。
(術式を持つ呪霊……間違いなく、最低でも準一級相当)
混濁する思考の中で、先日受けた日下部篤也の講義が火花を散らすように蘇った。
『いいか、呪霊の等級分けなんてのは本来アバウトなもんだが、二級と準一級の間には明確な基準がある。それは「術式を使うかどうか」だ。 ちなみに特級か一級の間にも基準がある。 それは領域展開の有無だ。二級の壁が術式の有無なら、特級の壁は世界の構築能力、つまり領域だ。……ま、いずれにせよ術師として長生きしたいんだったら、自分より格上の相手とは戦おうなんて思わず全力で逃げろ。それが生存戦略だ』
(一級、あるいは準一級。あの鋏に触れれば熱を奪われて苔が生える…!攻略策は”目や口などの柔らかい部分を狙う”か、それとも”同じ箇所を叩き続ける”か……!)
人面蟹が鋏を振り回し、周囲の水槽を破壊していく。
飛び散る海水が、苔の増殖を加速させる。
(術式の発動は基本、
「──ふっ…!」
高速で加速し、人面蟹の懐、死角へと潜り込む。
瑠璃は短刀に呪力を凝縮させ、鋏の付け根にある柔らかい節を切り裂いた。
グチャリ、という感触と共に片方の鋏が床に落ちる。
しかし、代償として瑠璃の短刀の刃にも不気味な苔が蒸し始めていた。
(なんで…!?いやっ…術式の効果範囲は『挟』ではなく『体液も含めた体全体』だったのか…!)
(……『綺羅羅ちゃんが来るまで、逃げ回る』?)
新たな選択肢が瑠璃の脳裏をよぎる。
しかし、それと同時に一人の女性の言葉がフラッシュバックした。
『自分を世界から切り離してどうする』
禪院真希の、あの冷徹なまでに鋭い声。 逃げるという選択肢を、瑠璃は自らの精神から強引に剥離した。
(……駄目だ。私は、綺羅羅ちゃんに頼まれたんだ。その思いに、私は、絶対に応えたい)
逃げ回っていても何も始まらない。 私はもう、誰にも、自分にさえ負けたくない。
「……っ!!」
瑠璃から一層と濃い呪力が立ち上る。 それに呼応するように、片腕を失った呪霊が狂乱し、残った鋏を振り回して突進してくる。
瑠璃は間一髪で鋏を避け、苔の侵食を最小限に抑えるため、加速を維持したまま蹴りの連撃を叩き込んだ。
その時、脳裏に先ほどの『エビ・カニコーナー』で見た一匹の甲殻類の姿が浮かんだ。
(空気も水と変わらない流体……私の『泡』みたいな呪力性質なら…)
一旦、呪霊から距離を取った瑠璃は、深く、深く息を吐いた。 拳を握り締め、構える。
(呪泡は、弾ける瞬間に最大出力で一点集中───)
溢れ出る呪力の泡の性質を右拳に集中させる。
イメージするのは、美しく凶暴なあの蒼い閃光。
そして、一閃。
────黒。
大気を切り裂く衝撃と共に、黒い火花が水族館内を走った。
数分後。
魚の呪霊をすべて処理した綺羅羅が駆け寄ったとき、館内には異様な静寂が戻っていた。
そこに転がっていたのは、頭部と関節を「内側からの爆圧」で穴だらけにされ、塵へと還っていく人面蟹の無惨な残骸だった。
そして、その傍らで。
右腕からジュウジュウと沸騰する呪泡と共に鮮血を滴らせながらも、これまでになく鮮明で鋭利な意志を宿した瞳で立ち尽くす瑠璃の姿があった。
「……瑠璃ちゃん、それ……今の、あんたがやったの?」
問いかける綺羅羅の声が、任務の終わりを告げていた。
瑠璃は答えず、ただ湯立った血まみれの自分の拳を見つめていた。
その痛みだけが、自分が「何者か」になりつつある証明のように感じられた。
*
深夜のファミリーレストラン。
客もまばらになり、深夜勤務の店員が退屈そうにレジでスマートフォンをいじっている。
その一角、昼間に瑠璃たちと遭遇した女子高生────枷場美々子と枷場菜々子が、ミントチョコの甘い香りを漂わせながら、メロンソーダのストローを弄んでいた。
「夏油様、ごめんなさい……預かってた呪霊、どっかの高専生に壊されちゃった」
美々子が、テーブルの向かいに申し訳なさそうに頭を下げた。
正面に座る黒い法衣を纏った男────夏油傑は、穏やかに微笑んだ。
「いいよ。あれは元々、貸し与えた呪霊の有効期限と、高専の出方を確かめるための捨て石だ……それより、その高専生、どんな子だったい?」
菜々子が窓の外、暗闇に沈む海を見つめて答える。
「……うーん。アイスを譲ってくれる、ちょっとお人好しの……」
「泡みたいな人」
夏油は細めた目をさらに深くし、微笑を深めた。
「泡、か……弾ける時に、何を残すか。楽しみだね」
後に『新宿・京都百鬼夜行』と呼ばれる大規模呪術テロまで、残り数ヶ月。
この事件を機に、星綺羅羅は秤金次と共に停学処分となり、白波瑠璃は孤独な道を歩み始めることになる。
しかし、まだその残酷な未来を、知る者は誰もいない。
呪術関係でR-18創作が書きたくなってきたので希望アンケートに答えてくれ。必要だろ
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