泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話   作:天狗猿

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陸:境界線(二〇一七年、八月)

東京都立呪術高等専門学校の朝の医務室には、死の気配を脱色したような、しらじらしい静寂が満ちていた。

窓から差し込む陽光は、空気中に舞う埃を銀色に縁取っている。ベッドの上で意識を浮上させた白波瑠璃は、無機質な天井を見つめたまま、昨夜の感覚を反芻していた。

水族館の巨大な水槽。

青い檻の中で、彼女の呪力は「泡」となった。

衝撃が呪霊の核を破砕した瞬間、瑠璃は確かに、自身の術式の「真理」に指先をかけた。

しかし、代償は大きかった。

泡の負圧は彼女自身の右腕をも等しく蹂躙し、骨を軋ませ、肉をかき混ぜた。

 

「……あの時、何が見えたんだっけ」

 

瑠璃はシーツの下で、再生された右腕を握りしめた。

反転術式による治療。細胞が強制的に増殖し、欠損を埋める際の、あの「身の毛もよだつような痒み」の残滓が、今も神経の奥で燻っている。

 

「いつまで寝てんだ、不良娘。ここはホテルじゃないんだよ」

 

カーテンが乱暴に開かれた。

目に深い隈を刻んだ女性、家入硝子が、白衣のポケットに片手を突っ込んで立っていた。

彼女の指先からは、細い煙草の煙が紫煙となって朝日の中に溶け込んでいる。

 

「硝子さん……」

 

「それだけ喋れればもう十分だ。ほら、飲みな」

 

差し出されたのは、コンビニの紙カップに入った冷めたポタージュだった。

瑠璃は上体を起こし、温い液体を喉に流し込む。

胃の腑に落ちる感覚が、ようやく自分を「人間」の側に繋ぎ止めてくれた。

 

「腕はどうにか繋いでおいた。欠損が激しかったから、暫くは感覚が鈍いかもしれないけど……ま、自業自得だ。これに懲りたら同じ真似はしないことだね」

 

「すみません……でも、あの感覚についてもっと知りたいんです。私の泡が、世界に刻んだあの瞬間のこと」

 

家入は窓枠に腰を下ろし、深く煙を吸い込んだ。

 

「……術式の話か?悪いけど、そういうのは私の手には負えない。壊れた『(パーツ)』を反転術式で繋ぎ合わせるのが私の本職だ。魂の輪郭や、術式という名の『数式(パズル)』を解くのは専門外だよ」

 

家入は煙を吐き出し、瑠璃の透き通るような瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「術式について調べたいなら、専門家を二人知ってる。一人は、常に好き放題にあちこちを飛び回っているせいで中々捕まらない特級術師。もう一人は……私の飲み仲間の大学医師だ」

 

「医師、ですか?」

 

「ああ。『臨床呪心師(りんしょうじゅしんし)』。聞いたことないだろ」

 

家入は灰を落としながら、呪術界の裏側に潜む臨床呪心師、その機能を語り始めた。

呪術師は、非術師の醜悪な感情を食らい続け、正気と狂気の境界線を綱渡りする職業だ。

家入が肉体の救急医であるならば、臨床呪心師は「精神の解毒(デトックス)」を担う。

社会に潜伏し、一般人の顔をして、摩耗した術師の倫理観を繋ぎ止める専門家の「窓」。

 

「名前は、九条薫。神保町にクリニックを構えてる。彼女なら、その『空っぽ』な内面に、何らかの定義を与えてくれるかもしれないな」

 

その時、医務室の扉が静かに開いた。

 

「硝子さん、失礼するよ。いつもの薬を貰いに来たんだが……おや、先客か」

 

現れたのは、東京校三年の宮國蓮だった。

彼はいつも通りの、本心の見えない柔和な微笑を浮かべている。

だが、その顔色は朝の光に照らされると、紙のように白く、どこか不自然な透明感を帯びていた。

 

「なんだ宮國、また例の薬か。反転術式で治せない不調なんて、術師としては欠陥品だね」

 

家入は皮肉を言いながら、戸棚から一瓶の錠剤を取り出した。

宮國はそれを受け取り、一粒を水もなしに飲み込む。

喉の仏が動くのと同時に、彼の呼吸がわずかに深くなった。

その一連の動作に、瑠璃は言いようのない違和感を覚えた。彼の内側で、何かが「不協和音」を奏でているような──。

 

「……瑠璃ちゃん。顔色が悪いね。昨日の水族館、大変だったみたいじゃないか」

 

「……はい。少し、自分の呪力に振り回されてしまって」

 

家入が二人の間に割って入った。

 

「ちょうどいい。宮國、あんた明日も九条のカウンセリングだろ。瑠璃も連れていきなよ。紹介状は書いとくから」

 

「九条先生のところに? ……なるほど。別にいいですよ」

 

宮國は瑠璃を振り返り、優しく微笑んだ。

 

「明日は土曜日だ。神保町は古本の匂いがして、心が落ち着くよ。自分の術式の定義を探すなら、まずは自分自身の『心』を整理するべきかもしれない」

 

「……はい。お願いします」

 

家入は、書き上げた紹介文を瑠璃に手渡した。

紹介状の宛先には、流麗な文字で『九条 薫 殿』と記されている。

 

「神保町まで二人で行ってきな。これはデートじゃない、治療だ。……ま、気晴らしに本でも買ってきなよ。世間ではまだ夏休みだ。日下部から課題でも出てるだろ?」

 

家入が吐き出した最後の煙が、瑠璃の視界を白く曇らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

土曜午前の神保町は、巨大な焚き火の跡地のようだった。

アスファルトから立ち上る陽炎が、歴史ある書店の輪郭をグニャリと歪ませている。

室外機から吐き出される熱風と、街路樹の蝉が奏でる金属的な狂騒。

その熱波の中、白波瑠璃は隣を歩く宮國蓮の歩調に、必死に自分を同期させていた。

 

 

「神保町の古書店街の形成は明治時代、周囲に法律学校が多く設立されたことに端を発しています。現在、約百七十軒の古書店が軒を連ね、その蔵書数は約一千万冊……」

 

瑠璃の声は、録音されたガイド音声のように抑揚がなく、淡々としていた。

前日の夜、彼女は「会話が途切れる恐怖」から逃れるため、神保町の歴史を二時間かけて脳内に叩き込んだ。

脳に情報を詰め込み、機能として出力する。

それが彼女の生存戦略(コミュニケーション)だった。

 

「……ふぅん、それで、その情報を覚えるのに、君は何分かけたんだい?」

 

宮國が、面白そうに目を細めて問いかけた。

 

「二時間くらいです」

 

即答した後、瑠璃は自分の失策に気づき、唇を噛んだ。

「普通」の人間なら、もっと適当な嘘を吐くか、笑って誤魔化すはずだ。

 

「はは、正直だね。二時間分の歴史を披露されるのを待つのも悪くないけど、今日はもう少し、今の話をしようか」

 

宮國の軽やかな声に、瑠璃の胸の奥が微かにざわめいた。

思い返せば、瑠璃の記憶に「父親と並んで歩いた」という断片は存在しない。

恋愛経験など、それこそ古書店の奥に眠る未解明の古文書よりも縁遠いものだった。

これは、自分にとって初めての「男性との外出」なのだと、石畳に落ちる二人の影を見て実感する。

 

「宮國さんは、その……ご兄弟はいるんですか?」

 

「姉が一人いるよ。お互いに滅多に連絡は取らないけどね。向こうは僕のことなんて、とうに忘れているかもしれない」

 

宮國は遠くを見るような目で言った。

その視線の先にあるのは、姉の面影か、あるいは夏の陽炎か。

瑠璃には判別できなかった。

 

 

古書店に入ると、暴力的なまでの熱気が、一転して冷たく重い「紙の匂い」に変わった。

日光を拒絶する高い書架。

リグニンが酸化した甘く酸っぱい香りが、肺の奥まで侵入してくる。

瑠璃は、日下部篤也から課された読書感想文の課題のため、棚の背表紙を指でなぞる。

呪術師という人種は、往々にして「死」や「因果」を扱う。

ゆえに、彼らの読書は娯楽ではなく、自身の精神を繋ぎ止めるための「楔」を探す作業に近かった。

ふと、古典の棚で一冊の薄い本が目に留まる。

ページをめくると、ある一節が網膜に焼き付いた。

 

『よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし』

 

それは鴨長明の『方丈記』だった。

かつて消え、かつ結ぶ、泡。

瑠璃は、その一冊と、もう一冊──『雲の巨人』という詩集を手に取り、レジへと向かった。

 

 

 

 

 

 

カフェの二階、窓際の席。

冷えたアイスコーヒーの結露が、テーブルに小さな水溜りを作っている。

 

「本は決まったかい?」

 

宮國が、ストローを回しながら聞いた。

 

「はい。『方丈記』と、詩集を」

 

「渋いね。……去年、感想文が終わっていない秤を無理やりここに連れてきたときは、一日中粘っても一文字も書けずに逃げ出されたよ。今頃、どっかの賭場(パチンコ)で『確変』の二文字でも書いてるんじゃないかな」

 

宮國の軽妙なユーモアに、瑠璃の口元がわずかに緩む。

 

「宮國さんが買ったのは……三島由紀夫の『豊饒の海』ですか?」

 

「ああ。以前にも読んだことがあるんだけど、ふと思い出してね。……清顕という青年が、何度も転生を繰り返しながら、美しく、残酷に壊れていく物語だ」

 

宮國は本を撫でた。その指先は驚くほど白く、繊細だった。

 

「彼は最後、自分が追い求めた『奇跡』のすべてを、かつての恋人に『そんな人は最初からいなかった』と一蹴されるんだ。……この世界そのものが、誰かの見ていた夢に過ぎないのかもしれない。そんな結末だよ」

 

宮國は窓の外を眺めた。

そこには、真夏の太陽に焼かれる神保町の街並みがある。

だが、彼の瞳に映っているのは、ここではないどこか別の、澄み渡った虚無のように見えた。

 

 

「白波ちゃん。一冊の本があるとしよう」

 

「古書店の片隅で静かに埋もれているその本は、随分前に作られ、製本されたことすら誰も覚えていない。誰の記憶にも残っていない。……その時、その本は『存在している』と言えると思う?」

 

「それは……」

 

 

宮国の唐突な哲学的な問いに瑠璃は答えに窮した。

物理的にはそこに存在する。

しかし、認識する者がいなければ、それは「無い」のと同じではないか。

 

 

「真実と呼んでいるものは、単なる個人の主観的な記憶の集積に過ぎないのかもしれない。……だとすれば、僕たちがこうして冷たいコーヒーを飲んでいるこの瞬間も、いつか誰にも思い出されなくなれば、最初から無かったことになる」

 

 

宮國の言葉が、瑠璃の伽藍洞な心で反響する。

もし自分を認識する者がいなくなれば、自分という「泡」もまた、一度も結ばれたことのないまま消えていくのか。

思考のスパイラルに陥る瑠璃を置き去りにして、宮國は何も言わないまま、カフェの二階から窓の外を眺め続けていた。

八月の神保町の向こう側。

瑠璃は、自分の内側に灯った「小さな熱」が、宮國が見つめる虚無の隣で、かろうじて呼吸しているのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

カフェを出てから十数分。

病院の正面玄関をくぐると、暴力的なまでの冷房が瑠璃の肌を刺した。

外の喧騒が嘘のように遮断された静謐な空間。

受付で「家入さんの紹介です」と告げると、事務員は事務的な手際で、瑠璃と宮國を精神科棟の奥にある待合室へと通した。

 

「……ここ、普通の病院じゃないみたいです」

 

瑠璃が小声で呟くと、隣に座った宮國が微かに笑みを浮かべた。

 

「そうだね。ここは呪術師の『精神の解毒』を担う、窓の協力者たちの拠点なんだ。君も知っている通り、僕たちの仕事は非術師の醜悪な感情を食らい続ける。肉体の傷は硝子さんが治せるけれど、魂の摩耗までは彼女の手には負えない。だから、彼らのような『臨床呪心師』が必要になるのさ」

 

宮國は、壁に貼られた「等級認定プロセス」のポスターを指差した。

 

「ここには『等級鑑定官』という専門職もいる。呪力量の測定や、術式の構造を幾何学的に分析して、上層部に提出する根拠を作る人たちだ……僕たちの実力は、こうした人々の冷徹な眼差しによって、数値という名の檻に閉じ込められているんだよ」

 

しばらくして、診察室の扉が開き、宮國の名が呼ばれた。

 

「先に行ってくるよ。君も、あまり考え込みすぎないように」

 

宮國は優しく瑠璃の肩を叩き、扉の奥へと消えていった。

一人になった瑠璃は、手元の本を閉じた。

ふと、待合室の隅に置かれた巨大なアクアリウムが目に留まる。

青く澄んだ水の中を、数匹の熱帯魚が泳いでいた。

その中に、一匹の黄色い魚がいた。

水族館の任務で見たチョウチョウウオによく似ている。

その魚は、本来の生息地である暖かい南の海から黒潮に乗り、冬になれば死を待つだけの冷たい北の海へと流されてきた。

戻る道はなく、ただ広大な水の牢獄を彷徨うだけの存在。

 

(あの魚、なんて名前だったっけ……水族館の説明書きに、確か……)

 

言葉が喉元まで出かかったその時、スピーカーから瑠璃の名前が呼ばれた。

思考の糸はぷつりと切れ、彼女は立ち上がって診察室の重い扉を引いた。

 

 

 

 

診察室には、古書の香りと、わずかな消毒液の匂いが混じり合っていた。

デスクの奥に座っていたのは、柔和な微笑みを浮かべた女性、九条薫だった。

 

「初めまして、白波瑠璃くん。家入から話は聞いているよ。……座って、リラックスして」

 

九条の言葉は、氷を溶かす陽だまりのように温かかった。

しかし、瑠璃は本能的な違和感を覚えた。

その瞳の奥に、感情とは別の、底知れぬ知的好奇心が渦巻いているのを感じたからだ。

 

「君は自分の術式が分からない、と悩んでいるそうだね。……まずは、基本を整理しようか」

 

九条は、机の上に置かれた万年筆とインクを指し示した。

 

「呪力が『電力』なら、術式はそれを流して動かす『家電』だ。電気そのものは熱を出すか光るかしかできないけれど、独自の回路──つまり術式に通せば、あらゆる現象に変わる。そして、その回路を動かすための基盤が、君たちの脳に刻まれた術式だ」

 

九条は、瑠璃が水族館で見せた破壊の記録が記されたタブレットに目を落とした。

 

「君が先日の任務でやったのは、術式ですらない。君の呪力特性……いわば『電気の質感』そのものが引き起こした物理現象だ。流体力学で言うところの空洞現象(キャビテーション)だね。泡が爆縮する瞬間に生まれる、事象が剥離した空白」

 

「空白……」

 

「そう。君の脳が、その空白をどう『定義』するか……君は自分を『空っぽ』だと言ったそうだね。でも、泡そのものが術式なのではない。君の脳が、世界との間に引いている『境界線の引き方』そのものが、君の術式になるんだよ」

 

九条は身を乗り出し、瑠璃の透き通るような瞳を覗き込んだ。

 

「己の魂の拠り所をしっかりと見定めた時、君は術式の核心を掴めるだろうね。君の魂が何を望んでいるか、それを知ることが術式を知る鍵になるはずさ」

 

 

 

問答の最中、瑠璃の視線が机の上の小さな写真立てに吸い寄せられた。

そこには、眼鏡をかけた優しげな男性が、満面の笑みで写っていた。

 

「……その方は、恋人ですか?」

 

瑠璃が思わず問いかけると、九条は一瞬だけ、遠くを見るような瞳をした。

 

「……いや、元夫だよ。とても可愛い人でね。大好きだったんだが、もう随分前に亡くなってしまってね」

 

その声には、深い慈しみと、それ以上に冷徹な「観測」の響きが混じっていた。

九条は話を切り上げると、一枚の名刺を瑠璃に差し出した。

 

「………すまない、時間だ。またいつでも来なさい。君の『空白』が、何で満たされるのか……私はとても興味があるんだ」

 

 

病院のロビーで宮國と合流し、瑠璃は神保町の夕暮れの中へと戻っていった。

診察室に残った九条は、窓から遠ざかる二人の背中を見送っていた。彼女はゆっくりと前髪をかき上げる。

 

「白波瑠璃か。まさか、こんな場面で出会うことになるなんてね」

 

露わになった彼女の額には、ざっくりとした、しかし丁寧に縫い合わされた『縫い目』が、赤黒く浮き出ていた。

 

「次の体が手に入るまで、もう少しここで『お医者さんごっこ』を楽しませてもらおうか……期待しているよ『汨羅(べきら)の落とし子』」

 

九条薫を名乗る■■は、誰に聞かせるでもなく愉悦に頬を歪めた。

 

 

呪術関係でR-18創作が書きたくなってきたので希望アンケートに答えてくれ。必要だろ

  • 貞操逆転で禪院家♀に引き取られるショタ
  • 宮國(≡)の女性上位ヤンデレ
  • まずは書いてる奴ある程度進めろよ原始人
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