泡沫浄瑠璃:秤金次の同級生が呪われて死ぬまでの話   作:天狗猿

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作品にはな夢と希望を詰め込むんだよ


捌:京都姉妹校交流会 -個人戦-(二〇一七年、九月)

 

 

 

交流戦二日目。

京都府立呪術高等専門学校、敷地奥深くに位置する「鴉翼の演習場(あよくのえんしゅうじょう)」。

平安以来の様式を残す回廊に囲まれたその石畳の上で、姉妹校交流戦・個人戦の幕が上がろうとしていた。

昨日までの団体戦で刻まれた呪力の残滓が、陽炎と共に揺らめき、戦いの続きを希求するように大気を歪ませている。

 

演習場の中央、一段高くなった審判席には、一羽のカラスを肩に乗せた冥冥が、その艶然とした笑みを浮かべて座している。

彼女は今大会の「観測者」であり、公平な審判である。だが、その瞳の奥にあるのは純粋な勝敗への興味ではなく、その戦いが生み出す「経済的価値」への計算だ。

彼女のカラスたちは上空を旋回し、この殺戮の儀式を多角的に記録し、上層部の老人たちや京都校外の呪術師達へと中継していた。

四方の端には、監督役として東京校の日下部篤也と、京都校の庵歌姫が位置取っていた。

日下部は気怠げにタバコを燻らせ、その紫煙を湿った熱気の中に溶け込ませる。

対照的に歌姫は、昨日の団体戦での屈辱を晴らさんとするように、凛とした、しかしどこか苛立ちを孕んだ表情で演習場を見据えていた。

 

その回廊の影、一段低い観客席の隅に、白波瑠璃は居心地悪そうに身を縮めていた。

家入硝子の反転術式によって、肉体的な傷はすでに完治している。

だが、団体戦で浴びた返り血の生暖かい感触。

そして己の技の反動で裂けた腕が「内部から崩壊する」あの記憶が、今も彼女の神経を逆撫でしていた。

 

「こんな所にいる位なら私も戦ってみたかったなぁ……」

 

瑠璃は自嘲気味に呟き、手甲を外した自身の腕を見つめた。

隣には、京都校三年の新田明が座っている。

金髪をラフに流した彼女は、戦闘用ではないオペレーター気質の術師らしい、どこか神経質そうな指先で自身の膝を叩いていた。

瑠璃が棄権したことで人数調整が行われ、非戦闘員に近い新田もまた、この「怪物たちの饗宴」を特等席で観覧することを強いられていた。

 

「あの……昨日の傷は大丈夫スか?」

 

沈黙に耐えかねたように新田が切り出した。

 

「え……あ、うん。宇佐美さんの刀の傷よりも、自分で使った技の反動で裂けた腕の傷の方が深いって言われました。だから、気にしなくていいです」

 

瑠璃の答えに、新田の顔が微かに引きつる。

自らの拳の威力で自壊する腕。

その異様さを自覚していないような瑠璃のズレた回答は、新田に呪術師特有の「狂気」──すなわち、自身の欠陥すらも機能として受け入れる精神構造を再認識させるに十分だった。

 

 

 

「これより、姉妹校交流戦・個人戦を執り行う」

 

演習場に、東京校学長・夜蛾正道の重厚な声が響き渡った。

彼は回廊の中央に立ち、生徒たちを見下ろしながら、この儀式の意義を冷徹に説く。

 

「団体戦が『集団としての生存』を問う場であったのなら、この個人戦は『個としての純粋な強度』を測る場である。術師にとって、隣り合う仲間は常に一人とは限らない。最後には己の意志、己の術式のみが自身を定義する」

 

夜蛾が語るルールは簡潔だが、それゆえに峻烈だった。

 

 

『勝利条件: 相手を戦闘不能に追い込む、あるいは「参りました」の宣言、もしくは演習場の白線の外へ出す「場外負け」。

制限: なし。術式、呪具、領域展開の使用はすべて許可される。

審判: 冥冥。彼女の判断は絶対であり、現場の監督役(日下部・歌姫)が必要と判断した際は、生命保護を最優先に介入する。』

 

 

「これは単なる試合ではない。呪術師としての『格』を刻む戦いである。ゆめゆめ、その志を忘れることなきよう」

 

夜蛾の言葉が終わると同時に、冥冥が扇子を広げ、カラスが短く鳴いた。

互いに交わす言葉もないまま沈黙を保ったままだった新田と瑠璃。

気まずい静寂を破ったのは、鋭いハイヒールの音と、勝ち気な少女の声だった。

 

「あら、昨日血みどろになっていた東京校の人じゃない」

 

現れたのは、京都校一年、禪院真衣だ。

その切れ長の瞳、整った顔立ち。

瑠璃は一瞬、真希がそこに立っているかのような錯覚に陥った。

だが、纏う空気は正反対だ。

真希が研ぎ澄まされた刃なら、真衣は毒を塗った針のような粘着質な美しさを放っている。

 

「ヤメロ真衣。一応、先輩ダ」

 

真衣を諌めたのは、鋼鉄の巨躯──究極メカ丸だった。

その無機質な声と、歯車が噛み合うような駆動音に、瑠璃は思わず目を見開く。

 

(……え、ロボット? パンダさんといい、高専って人間以外も通えるんだ……)

 

「いやぁ……一応って言葉も失礼だと思うけどなぁ」

 

メカ丸の背後から、困り顔で顔を出したのは、青髪を揺らす三輪霞だった。

彼女の視線は「ああ、気まずい。死ぬほど気まずい」と雄弁に語っている。

三輪が瑠璃の隣に座り、真衣とメカ丸もそれに続く。

沈黙はさらに深まり、空気は粘土のように重くなった。

 

「そ……そういえば昨日の試合、観てました! あの宇佐美先輩と互角に切り合えるなんて、すごいです! 私なんて刀でも難しいのに……。どんな術式なんですか?」

 

「えうっ……」

 

不意打ちの問いに、瑠璃が奇妙な声を上げる。

その瞬間、隣の新田が慌てて割って入った。

 

「いや、三輪ちゃん! 術式の内容なんて、術師にとっては企業秘密みたいなもんスから! 迂闊に聞いちゃダメっスよ」

 

呪術師にとって、手の内を晒すことは死に直結する。

特に、術式の「縛り」として自ら開示し威力を高める場合を除けば、それは最も警戒すべき事項だ。

 

「えっ、そうなんですか!? すみません……!」

 

三輪が真っ赤になって謝る。

術師としての経験が浅く、何より「普通」の感覚を持ちすぎている彼女は、その鉄則を失念していた。

 

「いえ……違うんです。私、自分の術式がよく分からなくて……」

 

瑠璃の呟きに、真衣が鼻で笑う。

 

「はぁ? 何言ってんのアンタ。自分の術式も分からずにあんな事してたわけ?」

 

真衣がさらに言葉を重ねようとした瞬間──。

演習場の空気が、物理的な圧力を伴って変質した。

 

 

 

 

 

「秤。昨日も言ったが、分かってるよな?」

 

日下部が、釘を刺すように入場する男──秤金次に声をかけた。

秤はジャージを羽織り、首をボキボキとならしながら、餓えた獣のような目で対戦相手を見据えている。

 

「いい? 東堂。ぶちかましてきなさいよ!」

 

歌姫の声に、京都校の怪物、東堂葵が応じる。

 

「安心しろ。俺が心配しているのは、対戦相手が俺を退屈させるということだけだ!」

 

演習場の中央で、両校の怪物が対峙した。

 

「おい、秤金次とやら。試合前に聞かせろ」

 

東堂の目が、捕食者のそれへと変わる。

 

「あ? なんだ、遺言か?」

 

秤が不敵に笑い飛ばす。

 

「どんな奴がタイプだ?」

 

その問いに、観客席の空気すら一瞬凍りついた。

秤は天を仰ぎ、チラリと日下部の隣に座る星綺羅羅の方を見て、短く答えた。

 

(ツラ)が良くて俺を退屈させねぇとびきり熱い奴なら、男も女も関係ねえ」

 

「──合格だ」

 

東堂が不敵に笑った瞬間、試合開始の合図が演習場に轟き、空気が爆ぜた。

瞬間、両者は中央で交差していた。

秤の放つ速球のような拳を、東堂は加速の頂点で掌底により受け流す。

 

最高だ(エクセレント)!乙骨達で予感していたが、東京校、それでこそ食らい甲斐がある!」

 

目にも留らぬ打撃のラッシュ。

石畳が悲鳴を上げ、衝撃波が観客席まで届く。

 

「あの、あんなに石畳が割れるまで殴り合うの、本当に同じ人間なんですか……?」

 

三輪が震えながら呟く。

瑠璃はその問いに答える言葉を持たなかった。

 

(そっか……呪力とは、ただのエネルギーじゃないんだ……。あれは、その人の生き方そのものが形になった『毒』だ……)

 

東堂の重戦車のような蹴りを片手で受け止めながら、秤が毒を吐く。

 

「お前も俺を退屈させてくれんなよ、東堂葵」

 

秤の拳が東堂の肉体に触れた瞬間、ヤスリで削られたように激しい火花が散った。

呪力特性。

秤の呪力は、泡のように柔らかな瑠璃のそれとは正反対。単なる衝撃ではなく、物理的に対象を抉り取る暴力的な「ザラつき」を持っていた。

 

「ほう、面白い呪力の質だ。だが、その程度じゃまだまだ甘いぞ!」

 

東堂の咆哮。術式『不義遊戯(ブギウギ)』を温存したまま、東堂は圧倒的な肉体の質量のみで秤を押し返し始める。

 

(秤さんの呪力はすごいけど、それ以上に京都校の東堂って人……なんて身体能力(フィジカル)……!)

 

純粋な肉体強度においては、東堂が秤を上回っている。

だが、秤の目は死んでいなかった。

 

 

「……少し温まってきたぜ。観客席のジジイ共にも見せてやる。俺の、新しい『熱』をな」

 

秤が羽織っていたジャージを脱ぎ捨て、手元で複雑な手印を結ぶ。

「おい、まさか公衆の面前(この場)でやるつもりじゃねえだろな、あの馬鹿……!」

日下部が顔を青くして立ち上がった。

 

 

 

「領域展開──『坐殺博徒・CR花札一文字』」

 

 

石畳の演習場が、秤を中心に一瞬にして古風な花札の演出に塗り替えられていく。

和の様式美と、パチンコ特有の非論理的な電子音が交差する異様な空間。

 

「素晴らしいぞ東京校! 期待以上だ!」

 

東堂は迫り来る巨大な花札の演出を躱しながら、その情報を処理する。

 

(領域と目的は『術式の必中』、そして『術者の強化』。この必中効果を無効化するには──!)

 

東堂が完成しつつある領域に『簡易領域』を展開しようとした、0.1秒にも満たない刹那。

彼の脳内に、一人の少女が現れた。

 

 

『本当にその選択でいいの?』

 

プールサイドで滴る水。スクール水着姿の高田ちゃんが、悪戯っぽく微笑んでいる。

 

『さっき得たこの領域に関する情報。確かに簡易領域は正解だけど、この領域の主は、きっと秤くんが更にレベルアップするためのものだよね? それなら、ここで一番選ぶべきなのは……』

 

『距離を置いた『簡易領域』ではなく、秤本人を不義遊戯によって領域外へ排出すること!!』

 

 

東堂のニューロンが加速する。

領域が完成する最後の一瞬、彼は領域に呪力を込めた石を演習場の隅へと投げ飛ばした。

 

──パァンッ!!

 

『不義遊戯』

 

掌が叩かれると共に、秤の肉体が、石と入れ替わる形で領域の外へと強制移送される。

術者が領域の外へ移動するという矛盾。

制御を失った領域は、ガラスが砕けるような音を立てて自壊した。

 

「んだぁ? 俺の領域が強制解除された……。あの筋肉馬鹿の術式か……! 面白ぇ……!」

 

再び向き直る両者。

 

 

 

だが、その時。

秤の首筋に、冷たい鋼の感触が添えられた。

日下部の鞘から抜かれていない刀だ。

 

「なにすんだよオッサン。いいとこなんだぜ、邪魔すんなよ」

 

「おい、男の勝負なんだ。無粋な真似はやめてもらおうか」

 

秤と東堂が同時に不満を漏らすが、東堂の横に静かに立った歌姫が厳しく制した。

 

「審判、ルールをもう一度言ってもらえる?」

 

冥冥が肩をすくめて答える。

 

「相手を行動不能、もしくは場外に出したら負け、というルールだね」

 

東堂が投げた石は場外にあった。それと入れ替わった秤の足元は、演習場の白線の外側にあったのだ。

 

「日下部さんもそれでいいわよね?」

 

「ああ。秤、俺との約束を破ったお前に、ルールをとやかく言われる筋合いはねえぞ」

 

「……チッ。場外負けなんて馬鹿げてるが……ま、今回は運が悪かったんだろ」

 

秤は舌打ちをし、地面に落ちたジャージを拾い上げる。東堂は不敵に笑い、親指を立てた。

 

「おい、これで終わりなんてつれないこと言うつもりはないよな?」

 

「また今度遊んでやるよ。次はサシだ」

 

 

 

 

 

「なによあのゴリラ、東堂並に化け物じゃないの……」

 

真依が震える声で呟いた。

そこには、秤という「規格外」に対する純粋な畏怖が混じっていた。

 

「三輪さんや迅さんみたいに術式がないと、ああいうのと戦うのは本当に大変なんスよ」

 

新田が静かに語る。

三輪もまた、「私も絶対に戦いたくないですよ」と、弱者ゆえの恐怖を噛み締めていた。

 

 

 

演習場の復旧を待つ休憩時間。

瑠璃は、三輪から手渡された「おしるこ」の缶の温かさを感じながら、彼女の話を聞いていた。

三輪には兄弟がいて、自分はただ、役に立ちたいのだと。

 

(自分は普通だけど、役に立ちたい、か……)

 

三輪の健気な言葉が、瑠璃の胸に刺さる。

自分を「空っぽな器」だと思い詰め、特別な何かにならなければならないと強迫観念に囚われていた。

だが、目の前の三輪は、その「普通」を抱えたまま、一歩を踏み出している。

 

(私の自己嫌悪は、完璧主義ゆえの傲慢だったのかな……)

 

瑠璃は自問する。

演習場の惨状を見れば、自分がいかにちっぽけな存在かよく分かる。

だが、そのちっぽけな自分にしかできない「機能」が、もしかしたらあるのかもしれない。

見つめた石畳では砕けた欠片と陽炎が溶けていた。

 

 

「鴉翼の演習場」の石畳は、第一試合の「暴君たち」──秤金次と東堂葵による蹂躙を経て、無残に砕け、焦げ付いていた。

その最低限の補修が急ピッチで行われる中、観客席の空気は、次なる衝突への予感に凍りついている。

 

「おっ、元気にやってんねえ」

 

肺の奥に溜まった澱みを吐き出すような声と共に、観客席の最前列に一人の女性が滑り込んだ。

家入硝子。

指先に染み付いた微かな煙草の残り香を振り払いながら、彼女は隈の浮いた目で演習場を見下ろした。

生徒たちの肉体で繋ぎ合わせるのと引き換えに自身の肺を汚してきた顔だった。

 

「東京校は綺羅羅ちゃん、京都校は加茂家の次期当主かぁ……極端なカードだね、こりゃ」

 

彼女が座る眼前では、演習場の中央で二つの影が静かに交差していた。

第一試合のような剥き出しの暴力の奔流はない。

だが、そこにあるのは、研ぎ澄まされた術式という名の精密機械による、冷徹なまでの最適解の奪い合いだった。

星綺羅羅は、口元のピアスを弄りながら、南十字座を模した瞳を加茂憲紀に向けた。

 

「憲紀ちゃんの戦い方は、教科書を読んでるみたいでちょっと冷たいね」

 

綺羅羅の思考は高速で回転する。

赤血操術。

その強みは血という流体を媒介にした、変幻自在の形態変化にある。

だが、複数の術式を同時に、かつ別個の命令系統で制御することは、脳のメモリ消費が激しい。

必然的に、行動は「定石(マニュアル)」に依存するようになる。

 

「……術式展開、『星間飛行(ラブランデブー)』」

 

綺羅羅が指先を宙に滑らせる。

新たに足元の石畳に「★Gacrux」のマーキングが刻まれる。

南十字座の配置ルール。

同じ星同士は、呪力出力が高い方へと引き寄せられる。だが、異なる星同士には、強烈な斥力が発生する。

 

「飛んでけ」

 

綺羅羅が地面を蹴った瞬間、石畳が弾丸と化して加茂へと撃ち出された。

加茂は『赤鱗躍動』により強化された動体視力でそれを見切り、最小限の動きで回避する。

その脳裏には、前日の団体戦で浴びせられた宮國蓮の冷酷な言葉が、呪いのように反響していた。

 

『それだけじゃ術式は君の物にならないよ。マニュアルを読んでるだけだ』

 

(……相伝術式の強みは、数千年の試行錯誤が必勝法として固定されていることだ。だが、今の私ではそれを扱う力が足りていないのか)

 

加茂は苦悩は自らの掌を一文字に切り裂いた。

溢れ出した血液が、空中で意志を持つ生き物のように蠢き、チャムラム状の刃を形成する。

 

赤血操術『苅祓』。

 

「行くぞ」

 

血の刃が風を切る。

綺羅羅は自身と足元の石畳に斥力を発生させ、慣性を無視した軌道でそれを回避。

そのまま加茂との至近距離ですれ違い、その肩に指先を触れさせた。

 

「これで、終わりだね。★Acruxを君に」

 

勝利を確信した綺羅羅が、加茂を斥力で場外へ弾き飛ばそうとした。

だが。

 

「……っ!?なんで、動かないの!?」

 

反発する磁石のように弾け飛ぶはずの加茂の肉体が、石畳の上に固定されていた。

加茂は、衣服の繊維と演習場の石畳の基礎の隙間に、自身の血を微細な網状にして浸透させていたのだ。

血液を「接着剤」として機能させ、物理的に地面と自分を繋ぎ留める──それは、相伝の教科書には載っていない、あまりに泥臭く、即物的な応用法だった。

 

「星さん……君の先輩の言葉には感謝している。おかげで私も、術式を見つめ直すことができた」

 

「くっ……! なら、引力で……!」

 

斥力が効かないなら、直接石畳を引力でぶつける。

綺羅羅はマーキングの配置を組み替え、再び術式を行使しようとした。

だが、次の瞬間、綺羅羅の全身を鉛のような重圧が襲った。

 

「な、に……これッ!重……ッ!」

 

「斥力を発動させていた君の足元。そこに、私の血をわずかに残しておいた」

 

加茂は、石畳に残された血に残された鉄分の密度を、呪力によって局所的に極限まで高めていた。

血液中のヘモグロビン。

通常の状態では微量なそれが、加茂の呪力操作によって重金属の鎖と化す。

加茂は、論理的な空間管理を誇る綺羅羅の術式を、質量という名の暴力、すなわち家系の執念で上書きしたのだ。

 

「私は、私の生き方を変えるつもりはない。これが、加茂家次期当主としての私の『道』だからだ」

 

衣服に染み付いた血が、脈打つ生き物のように蠢き、縄状へと変化する。

 

赤血操術『赤縛』。

 

逃げ場を失った綺羅羅の肉体が、どす黒い血の蔦に絡め取られ、石畳の上に拘束された。

 

「……それまで! 勝者、加茂憲紀!」

 

冥冥の鋭い声が、演習場に響き渡る。

 

 

 

観客席の影で、白波瑠璃はその光景を網膜に焼き付けていた。

三輪霞が「……すごい」と小さく息を漏らす。

 

(マニュアルじゃない……加茂さんは、自分の血をただの武器じゃなくて、自分の意志を通すための『境界』として使ったんだ)

 

瑠璃は自分の掌を見つめる。

昨日までの自分は、泡を「出す」ことしか考えていなかった。だが、加茂が見せたのは、自身の本質を環境に溶け込ませ、物理法則さえも屈服させる「執念」だった。

 

「……九条さんの言ってたこと、少しだけ分かった気がする」

 

瑠璃の呟きは、誰の耳には届かなかった。

彼女の「空っぽな器」の中で、「執念」という概念を理解し始めていた。

 

 

 

 

「ほう……彼が件の少年だな」

 

観客席の上段、瑠璃の座る位置から少し離れた日陰の特等席。

時代に取り残されたような古色蒼然とした装束を纏う老人たちが、ひそひそと、しかし僅かに耳に届く声で言葉を交わす。

そこにいるのは呪術総監部。この国の呪術界を停滞と利権で支配する「上層部」の化石たち。

 

「完全顕現せずとも、あの呪力量はやはり異常……」

 

「五条悟の横紙破りにも限度がある。やはりこの少年には、死刑執行こそが相応しいのではないか?」

 

その言葉が風に乗って届いた瞬間、前列に座っていた禪院真依の背中が、目に見えて強張った。彼女の歯が、ぎりりと不快な音を立てて軋む。

 

「……チッ」

 

真依の吐き捨てた毒は、誰に届くこともなく、ただ演習場の熱気に溶けて消えた。

瑠璃はその光景を、冷めた目で見つめていた。

 

(……死刑。あの優しい人が、ただ強すぎるという理由だけで?)

 

瑠璃はまだ、呪術界の腐敗を知らない。

だが、上層部から漂う、古い書物とカビが混ざり合ったような、生物学的な「腐敗の臭い」だけは鋭敏に感じ取っていた。

 

「白波さん、顔色が悪いですよ……?」

 

隣で三輪霞が心配そうに覗き込む。

 

「……大丈夫。ただ、空気が少し悪いだけ」

 

瑠璃はそう答えるのが精一杯だった。

 

 

 

「第三試合──始めっ!」

 

冥冥の合図と共に、西宮桃が愛機の箒を蹴り、一気に高度を稼いだ。

 

「捕まえてみなよ、一年!」

 

西宮の『付喪操術』が旋風を巻き起こす。

彼女の哲学において、女の術師は「完璧」でなければならない。

その飛行は優雅でありながら、無駄な挙動を一切排除した軍事的なまでの合理性に満ちていた。

 

『鎌異断』。

 

高度十メートルからの急降下。箒の旋回と共に放たれた呪力の刃が、乙骨の足元を切り裂いた。

だが、乙骨は避けない。避ける必要がなかった。

 

「……あ、危ない……っ!」

 

三輪が悲鳴に近い声を上げる。

だが、西宮の鋭利な風の刃は、乙骨の肉体に触れる直前、目に見えない「防壁」に阻まれた。

それは高度な技術ではない。

ただの、無意識下での圧倒的な呪力による肉体強化。

乙骨憂太の全身を覆う呪力は、もはや膜というレベルではない。

それは一つの生態系だ。彼が呼吸するたびに、制御しきれない「特級」の残響が、周囲の空気の粘度を強引に引き上げている。

 

「……西宮先輩、ごめんなさい。僕、まだこれの力加減がよく分からなくて」

 

乙骨が刀を抜く。その瞬間、演習場を支配する「気圧」が変わった。

瑠璃は、自身の網膜が捉える景色に戦慄した。

 

(……何、これ)

 

瑠璃の目には、乙骨の呪力が「揺れる大海」に見えていた。

果てしなく深く、底知れぬ質量。触れれば飲み込まれ、肺の奥まで冷たい呪力で満たされて窒息してしまうような、暴力的なまでの「広さ」。

それは、一人の人間が保持していいエネルギーの総量を、生物学的な限界を超えて逸脱している。

対する自分はどうだ。

瑠璃は自分の内側を覗き込む。

彼女の呪力は、消え入りそうな泡。

表面張力という、今にも壊れそうなギリギリの力で、ようやく自分の「形」を保っているだけの脆弱な泡沫。

 

(乙骨くんの呪力が海なら……私の呪力は、その海面に浮かぶ泡だ)

 

泡が泡であるためには、外の世界と自分の内側を隔てる「界面」を、誰よりも鋭敏に、誰よりも強固に定義しなければならない。

だが、海は違う。

あまりに巨大で、そこに「境界」など存在しない。

ただ圧倒的な質量によって世界を呑み込み、その全てを塗り潰すのだ。

 

上空の西宮も焦燥を隠せないでいた。

上空から何度も風の刃を叩き込むが、乙骨はただ刀で受け止めるだけで、すべての攻撃を無効化していく。

 

(無傷とかかなりへこむんだけど……っ!)

 

西宮が奥歯を噛み締め、最大出力の旋風を放とうとした、その刹那。

乙骨が、ただ一歩、踏み出した。

 

ミシリッ。

 

「──っ!?」

 

 

演習場の空気が、物理的な打撃となって西宮を襲った。

それは術式ですらない。

乙骨が動くことで、彼に宿る特級過呪怨霊・祈本里香の気配の余波が、津波となって押し寄せたのだ。

西宮の箒が、その気圧差に耐えきれず大きく煽られ、傾いた。

 

 

 

 

結局、試合は乙骨の圧倒的な「存在感」の前に、西宮が着地を余儀なくされて終了した。

乙骨の振るう刀の呪力が、演習場の酸素を食いつぶし、西宮の意識を刈り取る寸前まで追い込んだのだ。

 

「勝者、乙骨憂太!」

 

冥冥の宣告が響く。乙骨は申し訳なさそうに頭を下げ、西宮の手を取ろうとしたが、西宮は「……近寄らないで、怪物」と、震える声で吐き捨て、這うようにして演習場を後にした。

 

「ふん、やはりあの少年は早急に処分すべきだ。五条が遠征へ行っている間にでも、な」

 

上層部の老人たちの言葉が、再び瑠璃の耳を打つ。

 

「……死刑、死刑って。そんなに早くしたいなら、自分たちでやればいいのに」

 

瑠璃が、無意識に言葉を漏らしていた。

 

「──あんた、面白いこと言うわね」

 

横に座っていた真依が、皮肉な笑みを浮かべる。

 

 

 

「……でも覚えておきなさい。呪術師なんて、どいつもこいつもイカれてるのよ。自分たちの保身のために、若者の芽を摘むことしか考えてない連中が、この界隈の正義なんだから」

 

真依の言葉は、氷のように冷たく瑠璃の胸に突き刺さった。

瑠璃は、演習場の中央で独り、白い制服を汚したまま立ち尽くす乙骨の背中を見た。

その背負っている「海」の重さが、どれほどの孤独を彼に強いているのか。

 

(私は、まだ……何も知らないんだ)

 

瑠璃は初めてそのことを自覚したのだった。

「泡」は、まだ何も知らぬまま血の海に浮かんだ地獄を漂い始めたばかりだった。

 

 

 

 

 

 

京都盆地の底に澱んだ熱気は、夕暮れ時を迎えてもなお、演習場の石畳から立ち上る陽炎となって視界を歪ませていた。

三試合を終え、無残に砕け散った石畳の破片が、作業員と式神たちの手によって急ピッチで片付けられていく。

その乾いた音が、次の「解体」の始まりを告げるカウントダウンのように響いていた。

 

 

試合開始十分前。

演習場の裏手、回廊の陰で、宮國蓮は缶コーヒーに口を付けていた。

東京校在籍生徒の証である腕章が、夕陽に赤く染まっている。

 

「……宮國さん」

 

背後からかけられた声に、宮國は振り返ることなく、黒く濁った液体をゆっくりと喉に流し込んでから口を開いた。

 

「や、瑠璃ちゃん。どうしたの? そんな顔して」

 

白波瑠璃は、宮國の前に立ち尽くしていた。

団体戦での負傷は癒えたはずだが、その表情は以前にも増して硬く、そしてどこか透明な鋭さを帯びていた。

 

「私……見届けに来ました。先輩たちの戦いを」

 

宮國は初めて、その死んだ魚のような瞳を瑠璃に向けた。

口元には、相変わらず本心の見えない笑みが張り付いている。

 

「ふうん。君のような『空っぽ』が、他人の戦いに興味を持つなんて、珍しいね」

 

「……空っぽだから、見たいんです。宇佐美さんは術式を持たないのに、どうしてあんなに戦えるのか。宮國さんは、あんなに強い術式を持っているのに、どうしてそんなに退屈そうなのか」

 

瑠璃の言葉に、宮國は一瞬だけ目を細めた。

 

「……退屈、か………そうだね。僕は退屈しているよ。この世界の『セオリー通り』の強さにも、弱さにもね」

 

彼は空になった缶をゴミ箱に捨て、懐から取り出した墨壺に指先を浸した。

 

「だから、迅には期待しているんだよ。彼の『足掻き(全力)』が、僕の退屈を少しでも紛らわせてくれるんじゃないかってね」

 

黒く染まった指先から、細い墨の糸がするりと伸びる。それは風に乗って瑠璃の頬を掠め、背後の石柱に音もなく絡みついた。

 

「期待しないで見ておきなよ。『持たざる者』が、どうすれば世界に牙を剥けるのか。そのヒントが、この試合にあるかもしれないよ」

 

 

 

 

「──始めっ!」

 

冥冥の合図と共に、演習場の空気が凍りついた。

 

「さて、手合わせ願おうか…迅」

 

「………」

 

宮國蓮が両手を広げる。

対する宇佐美迅は、動かない。

腰に差した特級呪具『空蝉』の柄に手をかけ、ただ静かに呼吸を整えている。

その姿は、嵐の前の静けさというよりは、死刑台に立つ求道者のようだった。

 

(宇佐美さん……動けないんじゃなくて、動かないんだ。四方を糸で囲まれてる……!)

 

観客席で、瑠璃は息を飲んだ。

指先から無数の墨糸が放たれ、石畳、回廊の柱、そして空中に固定されていた。

 

術式『墨糸呪法』

 

数秒の間に、演習場全体が目に見えないカミソリの網で覆いつくされた。

鳥が触れればバラバラになり、人間が走れば肉片と化す、死の迷宮。

宮國の術式は、あまりに完成された「詰将棋」だった。

 

「どうしたの?来ないなら、こちらから行くよ」

 

宮國が指先を動かす。墨糸の網が、宇佐美を絞殺するように収縮を始めた。

迫り来る死の網の中で、宇佐美の脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 

 

『迅。お前には、呪術師の才能がない』

 

 

思い出すのは凛とした兄の声。

一級術師として名を馳せ、宇佐美家の期待を一身に背負っていた兄。

 

 

『だから、やめておけ。お前がこの世界で生き残るには、あまりに何もかもが足りなすぎる』

 

 

兄は言うことはいつも正しかった。

宇佐美迅には術式がない。呪力量も平凡。

あるのは、腐りかけた名門の血筋だけ。

だからこそ、いつも正しいことしか言わない兄が迅は苦手だった。

その日も、任務先に向かう兄に認めたくない事実を突き付けられ、喧嘩別れをした。

 

そしてそれが最後の会話になった。

任務先で呪霊に食い殺され、遺体すら残らなかった。

残されたのは、兄の残穢と兄が愛用していた透明な刀『空蝉』と、没落していく家の重圧だけ。

宇佐美は刀を握り、兄の旧友だった日下部篤也に頭を下げ、シン・陰流の門を叩いた。

 

(………そうだ、兄貴の言う通りだ。俺には才能がない)

 

(だから、あれからすべてを捨てたよ)

 

プライドも、将来の夢も、人並みの幸せも。

すべてを捨てて、ただこの刀一本に賭けた。

術式を持たぬ「弱者」が強者に抗うための、唯一の足掻き。

 

「───抜刀、『シン・陰流・簡易領域』」

 

宇佐美が抜刀した瞬間、彼の周囲に不可視の防御陣が展開された。

収縮した墨糸の網が、簡易領域の壁に接触した瞬間、バチバチと火花を散らして弾け飛ぶ。

術式の中和。

簡易領域に備わった標準機能。

 

「……へえ。お手本のような綺麗な簡易領域だね」

 

宮國は感心したように呟くが、その表情には微塵も動揺がない。

 

「でも、それだけじゃ届かないよ」

 

宮國は自身の腕に墨糸を密密と巻き付けた。

 

墨糸呪法『墨衣』。

 

糸が筋肉の繊維のように補強され、彼の腕は鋼鉄以上の硬度と、超人的な膂力を獲得した。

宮國が踏み込む。

その速度は、準一級術師のそれを遥かに凌駕していた。

黒い腕が槍のように突き出され、宇佐美の簡易領域を物理的に破壊しようとする。

宇佐美は『空蝉』でそれを受けた。

透明な刀身と黒い拳が衝突し、鼓膜を引き裂くような高音が響き渡る。

 

「ぐっ……!」

 

宇佐美の足が石畳を削り、後退する。

パワーが違いすぎる。

 

「惜しいね。君の剣筋は美しいけど、所詮は『人間』の域を出ていない」

 

宮國は笑みを崩さないまま、次々と重い打撃を繰り出す。

宇佐美は防戦一方となる。

簡易領域が軋みを上げ、いつ崩壊してもおかしくない。

観客席の瑠璃は、その光景から目を離せなかった。

宇佐美は、ただ一方的に殴られているだけではない。宮國の攻撃をいなしながら、その墨糸の配置、呪力の流れを、必死に目で追っている。

 

(……宇佐美さんは、諦めてない。術式がないのに。どうして……?)

 

瑠璃は自分の手を見る。

泡。儚く、何の役にも立たない、空っぽな呪力。

だが、宇佐美の姿が、彼女の脳裏で何かの光が明滅している。

宇佐美は「持たざる者」として足掻いている。

ならば、自分はどうだ?

自分も「持たざる者」だ。空虚な器だ。

だが、空っぽであるということは、何もないということではない。

 

(……私は、空っぽだからこそ、世界から剥離しているんだ)

 

乙骨の大海のような呪力とも違う。

加茂の血のような執念とも違う。

私の呪力は、世界との間に「境界」を作るためのもの。

そして、その境界を極限まで定義し、維持しようとする泡の表面張力。

もし、その張力が限界を迎えたら。

泡が弾け、その内側にある真空が解放されたら。

 

「一体、何が溢れ出てくるんだろう……」

 

瑠璃の呟きを他所に演習場では、戦いが最終局面を迎えていた。

宇佐美の簡易領域がついに砕け散る。

宮國の墨糸が、獲物を捕らえた蜘蛛の糸のように宇佐美に殺到した。

 

「終わりだね。迅くん」

 

数百本の糸が、宇佐美の肉体に切り刻み、絡みつこうとした瞬間。

宇佐美は、自ら『空蝉』を放り投げた。

 

「……兄貴。見ていてくれ」

 

宇佐美は、空になった両手で印を結んだ。

それは、術式を持たぬ者が、自身の肉体を呪術の領域へと昇華させるための、最後の手段。

 

「───奥義・『昼月』」

 

シン・陰流抜刀術。それを手刀に適応させた、捨て身の技。

術式の開示と同じ「縛り」により、宇佐美の呪力出力が爆発的に底上げされる。

迅の肉体そのものが、鋭利な刃物へと変貌した。

宇佐美が、糸の網の中へ飛び込んだ。

カミソリのような糸が、彼の制服を、皮膚を、肉を切り裂いていく。

だが、宇佐美は止まらない。血飛沫をあげながら、宮國の懐へと滑り込む。

そして、放たれた手刀。

ドスッ、という鈍い音が響いた。

宇佐美の指先が、宮國の墨衣を貫き、その肩に深く突き刺さっていた。

 

「……」

 

静寂が戻った演習場で、宮國は自分の肩を見下ろした。黒い糸の隙間から、赤い血が滲み出している。

 

「……ははっ。一本、取られたよ」

 

宮國は笑った。

それは、観察者としての冷徹な笑みではなく、どこか満足げな、子供のような笑みだった。

 

「審判……僕の負けでいいよ」

 

冥冥が静かに見つめる中、宮國はゆっくりと手を挙げた。

宇佐美はその場に膝をつき、荒い息を吐きながら、空を見上げた。

夕暮れの空には、いつの間にか細い月が浮かんでいた。

宮國は、観客席に向かって、楽しげに片目を瞑ってみせる。

血を流しながし敗北を認めた宮國の表情は『見たかい、瑠璃ちゃん。これが『足掻き』の到達点だ』と物語っていた。

 

瑠璃は、震える手で自分の胸を握りしめる。

彼女の中の「空虚」な心拍が、ただ静かに、冷たい熱を帯びた爆弾のように脈打っていた。

 

 

呪術関係でR-18創作が書きたくなってきたので希望アンケートに答えてくれ。必要だろ

  • 貞操逆転で禪院家♀に引き取られるショタ
  • 宮國(≡)の女性上位ヤンデレ
  • まずは書いてる奴ある程度進めろよ原始人
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