3月のスフィンクス   作:白水つかさ

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第一話 オイディプスの帰還

XAI、という言葉がある。

説明可能な(Explainable)AI。

 

アルゴリズムの時代は、簡単だった。

赤信号を見れば止まる、というルールベースのロジックツリー。

だから、止まったのは、赤信号を認識したから。

赤信号がないのに止まったら、画面内の赤く光る物体を誤認していないか検証すればよい。

 

けれど、ディープラーニングの時代は違う。

ニューラルネットワークは、数億のパラメータが織りなす、巨大な連立方程式だ。

赤信号で止まるという「答え」は出せても、その理由は霧の中にある。

重みづけされた無数の数値が、幾層もの変換を経て、最終的な判断を導き出す。

なぜそうなったのか。エンジニアにも、分からない。

 

それは、ある種の不気味さを伴っていた。

 

自動運転車が、突然ブレーキを踏む。事故を回避した、とAIは主張する。

けれど、何を危険と判断したのか。

歩行者の動きか、対向車の速度か、路面の状態か。

説明できない判断に、命を預けられるだろうか。

 

XAIは、その霧を晴らそうとする試みだ。

アテンションマップで、AIの視線を可視化する。局所説明モデル(LIME)感度分析(SHAP)といった手法で、どの要素が判断に寄与したかを解析する。

ブラックボックスに、小さな穴を穿とうとする努力。

 

完全な透明性は、もはや幻想なのかもしれない。

けれど、せめて――AIが何を見て、何を根拠に判断したのか、その片鱗だけでも説明しようとする。

それがXAIの、ささやかな、けれど切実な祈りだった。

 

――――――――――――

 

私は、古巣の経済誌に依頼されて、XAI――特に自動運転のそれを手掛けるIT企業社長の取材をしていた。

社長のアポを取りつけるまでに何度も書類を回さなければいけないような、大きな企業ではない。

ベンチャー、と言い切るにはやや歴史が長いが、それでも二十年にはならないし、規模は新興企業に等しい。

 

のだが……現社長の気性が嵐のようだということで、経済誌の正社員たちはおじけついていた。

私に話が来るくらいだから、すでに何人か怒鳴り散らされたあとなのかもしれない。

私なら同性、しかもちょうど同い年なので、取材しやすいだろうと、なかば拝み倒すように依頼された。

私としても、フリーの記者になることを快く認めてくれた古巣だし、その後も仕事を回してもらってもいたので、断るつもりはまったくなかった。

 

少々胸をどきつかせながら、オフィスの扉を叩く。

社長室などというものはなく、少々他人より大きいだけの無機的なデスクに、美しい女性が座っていた。

私を見る社員も、黙々とキーボードに向かう社員もいる。

小柄なのを幸いに椅子と書類の山とがらくたとの隙間を縫うようにして、彼女のもとへ向かう。

 

「白水ツカサです。このたびは貴重なお時間をいただき――」

 

「わたしの時間を無駄にしたらその時間ぶんだけメカニカルタークにするわよ」

 

すぱんと言われ、私は目をしばたたいた。

隣で優しそうな男性が小さく笑い声を上げ、彼女に睨まれて身をすくめている。もっとも、本気で怯えているわけではなさそうだったが。

 

「メカニカル……?」

「そんなことも知らないの? やっぱり帰りなさいよ」

「い、いえ、知っています! チェスを指す機械というふれこみで、確かに人と対局をしてみせたけれど、実際は中に人間が入っていたあれですよね」

「――部分点。確かに由来はそれだけど、あんたを機械の中に入れてどうするの? チェスが……将棋が指せるの?」

 

う、と言葉に詰まる。

古巣の編集者が拝んできた理由が、いまさらながらに実感できた。

 

機械仕掛けのトルコ人(メカニカルターク)にほかの意味があるとは、知らない。

そして将棋という言葉は――誘いの手。

あなたと将棋の関係なら知っています、と言えば、鼻面に痛烈な一手を打たれる、それくらいは私にも読める。

彼女自身はとうぜん知っていて、それを並べ立てることは時間の無駄だから。

 

「指せません。あなたとは違って」

 

なら、こうか。

誘いの手に乗ったように言って、彼女が口を開こうとしたときに、もう一マス進める。

たしか駒から指を離さなければ、そうしてよい、はずだ。行儀よくはないと思うが。

 

「けれど、指す人たちを取材してきました。いえ、もちろん、将棋でもチェスでもありませんが、いろいろな対局――戦いに臨んだ人たちを。

 そして彼女たちの判断を、判断の理由を、記録してきました。

 考えの浅さも、想像のしすぎもあったとは思いますが」

 

彼女の唇が、ほんの少しだけ笑みの形に上がった。主戦場と違うところでの、柔らかな一手。

私の手番に戻る。

 

「説明不可能性を説明しようとする方が、たまには説明されてみるのもよいのでは?」

 

駒を打つ音の代わりに、ため息の音。大仰に頭を掻いて、彼女が言う。

 

「……やっぱ記事はなしだわ」

 

不思議と、失望はなかった。

いや、この顛末と、あとは客観的情報で、じゅうぶん面白い記事が書けるだろうと思ったからでもあるが、それだけでもない。

なしと言う手を、雰囲気が裏切っていたから。

 

「なに落ち着いてんのよ、ちょっと指しかたがどっかの眼鏡に似てて気に入らないわね」

 

落ち着いてそんなことを考えるいとまもあらばこそ、華やかな顔が目の前に突き付けられる。

指しかたとは私の場合は話の進め方だが、「どこかの眼鏡」のほうは、文字通りの意味だろう。

 

――それを、私は知っていた。

 

だから、微笑で受ける。

 

「光栄です」

「……知ってる顔ね」

 

「ええ。無責任なネット情報ではなく、専門誌や新聞の記事で」

「当時の雑誌なんていま売ってないでしょ?」

「図書館には、ありますよ。きちんと保存されています。いろいろなものが」

 

とある女性司書の顔を思い浮かべつつ、そう説明する。

彼女がますます不機嫌そうな、それでいて不思議と愉快そうな顔になった。

 

「記事はなし。代わりに実録小説を書きなさい」

「ノンフィクション小説、ですね」

「そう。事実だけ書くの。盛らない、泣かせない、まとめない。将棋みたいに、盤面にあったことだけ」

「一人称で?」

「やめて。気持ち悪いから」

 

即答だった。

 

「そうでしょうね。では、三人称で、記録として」

「上々。記録しなきゃ、説明できないからね」

 

立ち上がり、こちらに回り込むと、彼女は迷いなく私の腕をつかんだ。

 

「――行くわよ」

「どこへ?」

「墓へ……って言いたいけど、んなわきゃないでしょ、喫茶店かなんか。

 ――やるのは墓暴きかもしれないけどね。それとも、棺に最後の釘を打つ、か」

 

物騒な言い方だが、口調はそれほど恐ろしくはない。

そもそも私も、彼女の言いたいことを予想できるくらいの事前知識はもっていた。

おとなしく、嵐のような彼女についていく。

 

「どこへでも、おともしますよ」

 

「おつかれさま――っと」

 

出て行く横で、先ほどから隣で仕事をしていた男性がのんびりと喋りはじめた。

ゆっくりと分かりやすく話してくれているのに時間がかからないのは、ああ、とか、ええ、といった間投詞が挟まらないからか。

私より、ということは彼女より、少し年下に見える男性だった。

 

「ちなみにメカニカルタークは、画像をラベリングしたり、スパムを排除したりする“人間”のこと。機械でできそうなことを実は人間がやってる、って意味で、機械仕掛けのトルコ人。

 僕だったらやりたくないけど、確かに、その判断の積み重ねがアルゴリズム発展の材料になってはいるんだよね」

 

「専務! そんなのはあとでこの子がググりゃいいの、時間を無駄にしない」

「はいはい、社長」

 

大して恐縮した様子もなく、専務、社長、と呼び合ってみせるふたり。

名演技とは言えないし、ふたりも、別に熱演で私を感心させようとも思ってはいないだろう。

私が知っていることを、ふたりは知っているはずだ。

 

メカニカルタークの説明を記憶して、私はオフィスから連れ出された。

 

 


 

 

歓びに満ちた天使よ、

おまえは知っているのか、苦悩を、

恥を、悔恨を、すすり泣きを、倦怠を、

そして、紙をくしゃりと握りつぶすように

心臓を締めつける、あの忌まわしい夜の

波のような恐怖を?

歓びに満ちた天使よ、おまえは知っているのか、苦悩を?

 

――ボードレール『悪の華』44「可逆性」第一連

 

 


 

 

二〇一二年、三月十四日。

ファンの多い女性建築デザイナーの素案をもとに地元工務店が形作った、福島県に建てられた仮設住宅のコミュニティルームで、将棋盤を挟んでふたりの人物が座していた。

 

人物、としか、まとめようはない。

 

ひとりは、幸田(こうだ)柾近(まさちか)八段。

堅実で端正な手を指す、四十代半ばのベテラン棋士。

棋風そのままに、背筋は伸び、指先は膝の上に揃えられ、スーツには皺ひとつない。

だがその目はかすかに、そしてはっきりと、揺れていた。

 

もうひとりは、幸田香子。

――棋界からみれば、なにものでもない。

赤を基調にした華麗な着物を(まと)い、駒を動かす手つきは確かで、その美貌は誰もが振り返るだろうものであっても、勝負ごとにはなんの関係もない。

だがその目はひたと対局者に据えられ、唇にはかすかに、冷たい笑みさえ浮かんでいた。

 

 

ことの起こりは、およそ半年前。二〇一一年の十月。

 

当時急速に実力を伸ばしていた将棋ソフト――まだAIという言葉は人口に膾炙しておらず、当時の新聞記事などではそう書かれている――と、日本将棋協会の神宮寺(じんぐうじ)崇徳(たかのり)会長が翌年一月に対局すると、発表された。

自由奔放な人物ゆえに決断にはみなある程度納得したし、赫々たる実績ゆえにひとつの勝敗にかかわらずトップの地位にありつづけるだろうし、そして引退棋士ゆえに仮に負けたとしてもプロの名に泥を塗るようなことはない。

むろん本人は、勝つことしか考えてはいなかっただろうが。

 

――けれど。

 

香子が、横槍を入れた。

どこか砂漠の彫像を思わせる、歳月に刻まれた無表情をたたえた盲目の男性とともに。

棋士・幸田柾近にされたことを暴露し、人工知能――と、彼女は言った――の存在を告げ、対局を要求した。

 

世論は湧いた。

引退棋士と将棋ソフトの対決も興味深いものだが、現役棋士と人工知能がとなればいわば「真剣勝負」感は一段高まる。

だがそれが大きな理由でもなく、美貌の娘が父に挑む因縁、あるいは追放された姫君が異形の力をもって王国に帰り来る物語にこそ、人々は熱狂した。

駒の動かし方さえ分からない人々にとってさえ、対局、いや、対決の構図はよく(わか)ったから。

 

協会は悩んだ。

何のために引退した、しかしまぎれもない名声のある人物が表に出る構図を描いたのか分かっていように、と言いたかっただろう。

神宮寺会長の軽挙を非難する声がないこともなかったが、十月の段階では悪くない案と思ったわけだし、香子のがわは後出しができるのだから、批判が当たらないことはすぐに理解された。

そして受けないという選択肢は、かまびすしい世論のなかで、もはやなかった。

 

それゆえに。

ふたりはここで、盤を挟んでいた。

混乱ゆえに少々日どりは遅くなって、まだ寒い三月に。

 

ふたりの棋士が、とは書けない。

開発にどこまで携わったのかは別として、この場においては人工知能のマニピュレータに過ぎない香子を、棋士とみなす者はだれもいない。

棋界の記録においては――彼女はただの、奨励会を中学生で「辞めた」存在にすぎない。

棋士とは言えない、挫折した存在。その他大勢ではない奨励会のなかの、その他大勢。

 

ひとくみの親子が、とも、書けない。

香子は幸田柾近を、父として断罪したいわけではないと言った。

将棋を通じてしか子を見られない親であることは、とうに理解していると。

だが、いや、だからこそ。棋士としての幸田柾近が香車を捨てた判断を問いたいと、そう言った。

 

そして向かい合っていたとも、書けない。

幸田柾近の視線は香子を通り過ぎて電子の世界に向かい、しかし、そこにもとどまれない。

だからその目はかすかに、そしてはっきりと、揺れている。

香子の視線はひたと相手に向けられているが、相手は父なのか、棋士なのか。

 

 

盤上で、三十手あまりが進んだ。

むろん相手のいることだから合わせる場面も出てくるが、基本的には棋士それぞれ得意戦法があり、緊張をはらみつつも静かに陣形を整えていく段階。

初手に端歩を突くような奇手も、ない。

火花が散るのはここから――そのはずの局面だ。

 

だが、刃はすでに、無限に振るわれていた。

 

オイディプスの帰還。

将棋に造詣の深い作家が、そんなことを雑誌に書いていた。

父に捨てられ、スフィンクスの謎を解き、そして父を殺したオイディプス。

かれは男性で、それと知らずに父を殺した。かのじょは女性で、相手がたれか知っているが、父と思っているのか。

そんな随筆とも呼べないような短文だった。

さりとて人々に作家のつれづれ書きが知られていたか、どうか。

 

盤上でまた、一手が進んだ。




さて、少しの間、香子の将棋におつきあいいただければ。
ボードレールの詩はいつもながら白水拙訳です。日本語訳は多数ありますが翻訳としての著作権があり、原詩は保護期間満了なので。『消えた航跡』同様、本編にちゃんと絡む予定です。
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