慈愛に満ちた天使よ、
おまえは知っているのか、憎しみを、
闇の中で固く握られた拳と、苦い涙を、
復讐が地獄の呼び声を打ち鳴らし、
われわれの力をわがものとして
指揮官となる、そのときのことを?
慈愛に満ちた天使よ、おまえは知っているのか、憎しみを?
二〇〇九年、十二月八日。
六本木の裏通りにある、看板も出していない会員制のバーは、オイディプス――捨てられた赤子のような香子にとって、避難所のひとつだった。
追放されたのではなく自ら出たのだと、せめてそう自らに言い聞かせるように、家には寄りつかず。
自分が何者でもない、そして何者かであれる場所を探して、彷徨う少女。
いつもは静かなバーは、その日はほんの少しだけ、陽気に盛り上がっていた。
香子はかすかに、形の良い眉をひそめる。
「――なによ?」
棘をはらんだ彼女の声を、深海の底のように落ち着いた女性バーテンダーは黙って受け止め、奥の席、いや、テーブルを示す。
そちらを見やったとき――香子の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
将棋盤と駒が、そこにあった。
「ああ、キョウコさん。すごいよ、彼」
いつも物静かな常連客の声に、いささかの興奮が混じる。
女性をちゃん付けで呼ぶような男は、あるいは暴力を振るうような男は、このバーにはいられない。
バーテンダーも客も、場を荒らす存在を認めない。
そんな空気に安らいでいた香子は、男の興奮には、嫌な臭いを嗅いだ犬のように鼻面に皺を寄せた。かすかに、ではあるが。
「どんな詰将棋も、簡単に解いちゃうんだ。こっちは彼の出す問題が全然解けないし。目が見えないのに、すごいものだよね、まるで旅人に謎を出すスフィンクスだ」
「プロは目隠しして対局だってするわよ。それに比べれば、詰め将棋くらい」
「へえ、詳しいんだね」
「――黙って」
ぴしゃりと言って、席を見る。
座しているのは、年の頃なら四十前後の、砂塵に削られた彫像のように乾いた印象の男。
目を閉じ、かたわらには白杖が立てかけられているので、視覚に障害があることは確かなのだろう。
ノートパソコンを携えており、アウトプットは液晶モニタでなくブレイル点字のディスプレイ。
ときおり上下する六つのピンに、素早く指を走らせている。
「目隠し将棋、と仰いましたね」
男が、香子に、声をかける。印象のとおりに乾いた声。
「そちらの男性のご指摘どおり、お詳しいようだ。一局、いかがです?」
「はあ? スフィンクスが道をふさぐつもり?」
「スフィンクスは雌ライオンです。
――が、あなたが実の父に捨てられたオイディプスなら、男の私がスフィンクスかもしれませんね」
「あんたは――っ!」
香子は男の胸倉を掴みあげた。はずみで、駒が床に散る。常連客があわてて止めに入る。
このバーで、香子の過去は知られていない。
石像のように顔色ひとつ変えず、男は静謐に言葉を紡ぐ。
「指しませんか? 旅人として、命を懸けて」
「――上等じゃない」
吐き捨てるように、香子は言った。
常識的に考えればありえないことだが、男が本気であることは、
常連客も気づかわしげに、女性バーテンダーに一瞥を投げる。
だが、彼女は少しも波立たず、静かにグラスを磨いていた。
「その端末が、インターネットにつながってるなんてことはないわよね。どっかのプロやらと」
「ええ、ありません。確認しますか?」
「いらない。――カンだけどね。カンを信じられなかったら、そもそも指さない」
それでも、香子は棋士として冷静だった。
回線越しにプロとつながっていないとは、言わせた。
自分は奨励会のもと一級。アマで言えばゆうに四段や五段に匹敵する。
これが野球やバスケットボールなら、在野の天才もありえるのだろうが、将棋の世界は違う。
――狭い世界。
自分のいられなかった、小さな世界。
盲目の棋士が世界のなかにいれば彼女が知らないはずはなく、世界のなかにいない在野の天才はありえない。
よって自分のほうが、強い。
けれど、心のどこかでは、負けてもいいと思っていた。
殺されても、あるいはどこかに売られても、それはそれでいい。
ほんとうに誰でもなくなり、そのついでに、将棋という高潔な遊戯を金と身体のやり取りにまで
膝をつき、黙って駒を拾い、盤に並べる。
「駒を振りますか」
「あんたにやるわよ、そんなもん」
手順も、礼儀も、かなぐり捨てて、香子が駒という拳をふりかざす。
彼女の棋風は、性格そのままに嵐のように激しく、華やかで、そして変化する。
零という怪物を相手にしてこそ歯が立たなかったが、奨励会でさえ譲りはしなかった棋力がある。
だが男の指し手は、乾いた大地に立つスフィンクスのような端正な風貌とは正反対だった。
泥沼を這いずるような執念と、神経を逆撫でするような強引な押し込み、私はここにいるという叫び声。
駒の効率も、筋の良さも、相手の手さえも無視しているかのような、がむしゃらに爪痕を残そうとする動き。
中盤、香子が決定的な一手で勝負を決めたかに見えた。
だが、男は、そこからあり得ないような粘りを見せた。
ふつうなら投了するような局面で、無意味にも見える歩を突き、合駒を利かせ、駒よりも精神を削り合うような消耗戦に持ち込む。
それは、潔く投了する棋士の将棋ではなかった。
勝利への執着だけを煮詰めた、人面獣身の怪物。
――そして、怪物が勝利する。
香子はうなだれ、細い
「――負けたわ」
誰も、バーテンダーの女性でさえも、動かなかった。
先ほどまで砂地の蟻地獄のような将棋を指していたのが嘘のように、男は沈黙していた。
「負けた、けど……何なのよ、この将棋。筋も何もない。ただ死ぬのが嫌だって喚いてるみたいじゃない」
そのときはじめて、男は笑みによく似た表情を浮かべた。
なにかが、香子の心臓を食い荒らす情念に触れる。
「親が――いえ、師匠が、ですかね。そういう将棋を指すので」
親という言葉に、師匠という言葉に、香子がまるで
見えるはずのないその視線に、男がなにかを合わせる。
だが親、師匠、幸田
指すわけがない。
ただ強いだけの、面白みのない将棋――棋界にしがみつく老棋士がそう毒づいたような将棋を、指す。
ならば親という言葉、師匠という言葉は、なにを意味するのか。
香子はなぜか、その答えが解った。
男がノートパソコンを携えていたからか、ブレイル点字を読んでいたからか、それとも――喚き立てるような差し手に、ありえないほどの既視感を覚えたからか。
「これはコンピュータ将棋ね。それも――」
「それも?」
「わたしの棋譜を食った」
男はふたたび、笑みに酷似した表情をみせる。
「ええ。そのとおり。現代のスフィンクスの謎、その答えは人間ではありません。コンピュータ」
「謎を解かれたスフィンクスは恥じて死ぬんだっけ?」
間髪入れずに、香子が詰め寄る。
男が今度こそ、ほんとうに笑った。
やはり、乾ききった、しかし温度のある音で。
「さすがの勝負カンですね。ですが、将棋に勝ったのは私ですよ。あるいは、あなたの怨念。
ですから痛いのは勘弁していただきたいですが、謎を解いたオイディプスに捧げられたと同じものなら、約束しましょう」
「……テーバイの玉座?」
「順番は違いますが、玉座が空席だった理由、のほうですね。――父の死」
こくりと、香子の喉が鳴った。
だが次の瞬間、甲高い、悪霊の泣き声のような笑い声がしたたる。
あおのけに、白い頸筋が晒される。
「ありえない。わたしに勝ったからって、それが何? こんなオモチャじゃあいつには勝てない。そのくらいは、分かるわ」
「そうでしょうか」
「はあ?」
「評価値の調整、枝を読む数と深さ。
後者はただのマシンパワーで、前者も教師の数と質に過ぎません。人間が将棋を学ぶのと、なにも変わりませんよ。
そして学ぶ主体は、人間ではなく怪物です。二年で二倍にふくれあがる、ムーアの怪物」
男は淡々と、コンピュータ界の法則を口にする。
自然法則ではなく、人間の努力によって達成され続ける、意志ある法則を。
香子の瞳に、昏い火が灯った。
「彼にとっては将棋の実力が価値です。あなたが敗北したから、彼はあなたを捨てた。
なら、オモチャに敗北したら彼がどうするか、観測してみたいと思いませんか」
「……乗ってやろうじゃない。怪物の背中に」
夜の街から、香子の姿が消えた。
そして二〇一一年、十二月八日。
日本将棋協会の神宮寺会長が将棋ソフトとの対局を発表してから、およそ二か月後。
都内のホテルで行われた記者会見は、どこか詰め将棋を解くのにも似た、知的好奇心が漂っていた。
ワイドショー的な雰囲気に流れなかったのは、香子も男も落ち着いたスーツ姿であったためも、男が盲目ゆえに香子の美貌によろめかないと分かることもあったろうが、なにより将棋という題材のゆえだった。
知的で高潔な遊戯。
一度はそれを穢そうとした香子が、冷静に一手を進める。
「――幸田香子。中学生で奨励会を退会。それが、わたしの記録のすべてです」
彼女の声はふるえず、
プレスリリースに主張の概要は記されているから、記者たちはまだペンを走らせもしない。
「退会したのではありません。実の父であり、師匠であった幸田柾近によって、退会させられたのです」
それも概要にあることだし、父が誰であるかは姓からも明らかなことだ。
記者たちはうなずいているが、単に相槌であって、同意を示すものではない。
最前列に陣取った将棋専門誌の記者が、穏やかに手を挙げた。
「あなたは続けたかった。年齢制限はまだ先だった。そういうことですね」
「はい」
「分かる、というのも傲慢かもしれませんが、共感はします。少なくとも私は。
敗北する棋士がひどく打ちのめされる姿を、記者として記録してきましたから」
「ありがとうございます。ですが――失礼ながらその共感はやや外れてもいます。
かれらは、投了しました」
ペンが動く。
同意であるかは別として、香子を糾弾するような様子はどこにもない。
額を寄せ合って詰め将棋を解くような、あるいは未知の砂漠に分け入る探検家のパーティのような、方向を同じくする集団の雰囲気がそこにはあった。
別の記者が続ける。
「投了させられたわけではないということですね。ただ、ボクシングではセコンドがタオルを投げることがあります。
一流のプロである幸田柾近氏が、あなたの限界を――詰みを読んだ。そうは考えられないでしょうか」
これも糾弾や皮肉の風はないが、鋭い指摘ではある。会場に、うなずきがさざ波のように広がる。
「子供は敏感なものです」
「……というと?」
「自分が期待されているか、そうでないか、分かるものです。みなさんもそうだったでしょう?」
そのとき盤面が動いた、と、ある記者が回顧している。
だれしも、かつては大人の視線を受ける子供だった。
俊才と期待されて記者になった者も、期待外れとの視線をはねのけて記者になった者も、自分が分かっていたと心のどこかで思いたい。
その升目に、香子は駒を打った。
「わたしは、父に、いえ、プロ棋士に期待された子だと解っていました。そして、その期待が別の子供に移ったことも、解っていました。
「桐山零くん……失礼」
「構いませんよ」
「まあ、控えますよ。ある人物によって、幸田香子という棋士の相対的な強さが変わったように見えたとしても、絶対的な強さは変わらないはず。そう仰っているのですね」
「はい」
静かに、落ち着いて、香子がうなずく。
そして、決定的な一手を指す。
「父はこう言いました。零に勝てないのならこれ以上は無理だ。初段までいけば零以上がごろごろいるんだぞ、と。
ああ、けっきょく名前を言ってしまいましたが、ご容赦ください」
最後の毒はいかにも彼女と零の関係を象徴するようなものだったが、とまれ。
彼女の言葉が記者たちにうけとめられた瞬間、どよめきと、はっきりとした失笑が観測された。
むろん、香子に対するものではない。
桐山零。
史上五人目の中学生プロ棋士。
オールラウンドの棋風で、トッププロとも四つに組める、早熟の天才。
努力の天才と呼ぶ者もいるだろうが、いずれにせよ、彼以上の棋士は初段どころか、プロの世界でさえ多くはいない。
初段に多くいると思っていたら指し手たる棋士として読み違えもはなはだしく、いると思っていなかったなら師匠たる棋士として不誠実のきわみ。
先ほど
「彼以上の棋士が初段にごろごろしていたら、我々は大忙しですね。そうではないのだから、貴重な才能と他の才能を競わせ、うまく手綱を取って、切磋琢磨できる環境でそれぞれの限界をきわめさせる。一般論としてはそうです」
「――個別論としては?」
「ああ、いえ、別にそういうことでは。あなたがどこまで行けたと思っているのかは伺いたいですが……いや、意味のないことですかね」
おっとりとした、人柄のよさそうな顔に汗を浮かべ、彼がよどみながらに言う。
香子はうなずいた。
「ええ、無意味です。負ける権利を、わたしは奪われました。飛車が手元に来たからといって、香車をただ捨てた棋士によって。
どこまで行けたか確かめる権利、無様に負ける権利さえ、もうわたしには戻りません。
ですが、かれには、負ける権利をさしあげます」
飛車は香車と同じ、そしてそれ以上の動きができるが、さりとて香車を捨てる意味はない。
投資や、それこそコンピュータ技術の世界では、選択と集中が必要な場面もあろうが、棋士の育成に
自分で自分をメンテナンスしながら進める人間でなければ先には行けない、それは正しいが、自分で自分に火をくべながら進む火船はどうか。
そんなことを、香子はエンジニアの口調で、言った。
そして最後に、カメラをにらみつけて、告げる。
どこかで見ている、あるいは見るであろう、幸田柾近に。
「あんたはしなくていいところで選択と集中をした。その結果が――選択と集中をおぼえた、わたし」
誰も、もう、言葉はなかった。
「さあ、向き合いなさい。わたしじゃなく、あんたの指した手の結果と」
のちに、タオルの記者――比較的固い月刊紙に記事を寄稿している――が、こう書いた。
燃え尽きれば綺麗な灰になるが、燃えている途中で酸素を遮断すると汚い燃えがらや一酸化炭素が発生する、と。
少々ガスにあてられたようなその記者は、それでも、対局当日も観戦に来たらしい。
同日の、夜。
研究室は、計算機器の排熱であたたかかった。
電灯はついていない。
主には不要だから。
江戸時代の盲目の碩学なら、さても目あきは不便なものかなと言ったところかもしれないが、この部屋では、もうひとりもそれに不便を感じているようではなかった。
いくつかのインジケータが星のようにまたたき、ファンの音が静寂よりも静かなホワイトノイズになる。
まだ訪れていない春の夜のような、あたたかな暗闇のなかで、香子は男に腕を回し、背中に顔を埋めていた。
「……ねえ。あんたはけっきょく、なにがしたいの?」
ふるえる声。
吐息の湿度が、男のシャツに染み入る。
香子の腕は、くるぶしを刺す針のようにきつく、男を抱きしめている。
「あらためて問われると困りますね」
男はなにも映さない視線を正面に向けたまま、淡々とつぶやく。
「はあ? こんだけの騒ぎを起こしといて、わかんないっての?」
「見たいのですかね。景色を」
「景色……?」
「美しい景色を。あるいは、醜い景色を」
視覚に障害のある人物が、見ると言う。
だがそれはあまりにも、自然な言いかたに思えた。
中途失明者で、薄れゆく景色を必死につなぎとめようとした記憶があったからなのか、どうか。
「私が見たいのは、世界が、あなたの魂というインプットに対して、どのような結末をアウトプットするか。その景色です」
「たましい? ずいぶんと陳腐な言い方じゃない」
「魂は行動のシノニムですよ。化学反応を越えて心などないのですから、表現形を越えて魂などありません」
男の声は、香子の荒れ狂う心臓の音を鎮めるように響いた。
香子は鼻をすすり、さらに強く彼を抱きしめる。
「……あんたはけっきょく、なにをさせたいの? わたしに」
「おやおや。抱きついているのはあなたのほうですよ。それとも、私があなたになにか行為を強いるという出力を期待していますか」
「わかんないわよ。あんたと、離れたくない……とでも言ったら満足?」
香子の喉の奥から、絞り出すような吐露が漏れた。
男は少しのあいだ沈黙し、それからかすかに首を振った。
「スフィンクスの翼を失って困るのはあなたですからね。盤上に戻るための高度を維持するには、私とシステムが必要だ。だから、離れたくない。そういう理解でよいのではありませんか」
「そういうことじゃあ……っ!」
香子は声を荒らげようとして、ふっと力が抜けた。
彼には情動を入力する回路はない。
あるいは、情緒は閉鎖系で、熱の出入りはなされても、物質循環は閉じているというべきか。
「……分かったわ。あんたからは、そういう行動が出てくるってことが、よく分かった」
「不服ですか」
「ううん。かならずそれが出てくると分かってれば、それでいい」
それは、父の評価とは違うから。
ある日とつぜんゼロにはならないから。
男は、自分の胸元にある香子の手を、優しい、しかし機械的な正確さで包み込んだ。
「肉体的に愛を表現するという行動なら、可動域の範囲で可能ですよ。それがあなたに必要な
「……嫌い」
香子は言う。手をもぎはなさないまま。
「大嫌い」
香子はもう一度言う。意味とは裏腹の声で。
「正確な説明ですね」
男はただ、微笑んだ。香子の熱い手を、包み込んだまま。
ブレイルを読む指はそのとき、おそらく、あえて目を閉ざしているように思えた。
過去編となりまして、香子と技術者の物語です。どうして香子がかくもオイディプス王に詳しいのか、という気はしますが、まあ、父に捨てられ父殺しですから関心をもってもおかしくは……。