健やかさに満ちた天使よ、
おまえは知っているのか、熱病を、
青白い施療院の長い壁づたいに、
追放された者のように足を引きずり、
希薄な陽光を探し、唇をかすかに動かしながら
さまよう、あの熱病を?
健やかさに満ちた天使よ、おまえは知っているのか、熱病を?
二〇一二年、二月のある日。
冬の風は、乾いて鋭い。
ひどい熱病のあとの、ふわふわとした定まらない足取りで、川沿いの古いマンションに帰りついた
「元気そうじゃない」
髪をかき上げ、皮肉に彼女は言う。
零よりも背の高いすらりとした身体を分厚い外套に包み、長い裾から伸びるのはデニムと動きやすそうな靴。
「どうして……ここに」
「どうして? 変なこと言うわね。
「そんな……」
零は当惑した。
棋界の騒ぎはもちろん、零個人からしても「父」を刺そうとしている相手だ。
けれどたしかに、両親も妹も亡くした彼にとって、ただひとりの「姉」でもある。
だが、
あわてて、零も追いかけて室内へはいった。
ほとんど家具はない。背の高い将棋盤だけが、フローリングの床にやけに目につく。
ことさらそのかたわらに、香子は外套を放り投げた。
下に着ていたのは、細い腰をベルトで締めるデニムパンツと、同素材のシャツ。
ファッションではなく、明らかに作業のための服装だった。
「この格好? 福島で、仮設住宅の手伝いをしてきたのよ。こんどの舞台を借りるのに、挨拶しないわけないでしょ?」
ヒールのサンダルやスカート姿の彼女しか知らなかった零に、香子は昂然と言いはなった。
「ゼロからやり直してるのよ。みんな」
彼女が対局の場を選んだ理由に、零はようやく思い至った。
我が物顔に室内を歩き回る香子の後ろを、見張るでもなくついていく自分を、雛鳥のように感じながら。
カッコウの雛は、宿主の仔を殺すのだから、そんな姉はいない。いるはずがない。
「あんたん
冷蔵庫を開け閉めしてから、香子は皮肉に言った。
「だからって、エアコンくらいはあるでしょ? いつまで上着きてんのよ」
「古くて、あんまり暖房きかないから……」
「はあ? 自分だけぬくぬくくるまってるつもり?」
「……」
ダッフルコートを、脱ぐ。香子が鼻を鳴らした。
下に着ていたのは、ほつれをつくろったカーディガン――「父」が零にくれたもの。
「暖かそうねえ」
いっそ
「ねえ、あんた、オイディプスを知ってる?」
「……知らない」
零が小声で答えると、香子はわざとらしく肩を落とし、大仰にため息をついた。
「ろくに学校にも行ってなきゃ、そんなもんよね。
――ギリシャの話よ。捨てられた子供が、成長して、正体を知らずに父親を殺す。で、あとで真実を知って、自分で自分の目を潰して終わり。ありがちな悲劇」
「だったら……」
悲劇ならやめれば、と言いかけて、言えなかった。
言えるはずもなかった。
いつものように零を皮肉ってはいるものの、彼女が知っているのだって、学校で学んだからであるはずもない。
カーディガンが、急に重たく感じられた。
「やめないわよ」
けれど香子には、読まれていた。
彼女はむしろ楽しげに、言葉をころころとつややかな唇からころがらせる。
「オイディプスは、父と知らずに父を殺した。それは降り積もった恨みも感謝の裏返しとしての敵意もない、偶然の衝突。酒場での喧嘩となにも変わらない」
香子は窓に近づき、六階という高さよりもっと下を流れているように思える、暗い河を見つめた。
水はただ、流れている。音もなく、意味もなく。
けれど零はそこに、香子の心をみたように思ってしまった。
「でも、もし知っていたら? 知っていても、それでも、やはり殺したのではないかしら。自分を捨てた男なのだから」
「……」
「子供を作らなければ、父は殺されなかった。子供を殺していれば、父は殺されなかった。
……子供を手元で育てていれば、ひょっとしたら、もしかしたら、父は、殺されなかった。そうじゃない?」
獲物にむしゃぶりつく飢えたライオンのように、香子は言葉を喰いちぎった。
零はとなりで河をみつつ、ひとことも返せない。
「ま、災難なのは巻き込まれた御者かしらね」
「御者?」
「父はお偉いさんだから馬車に乗ってんのよ。自分で操りゃしないから、御者がいるわけ。
いまで言えば、お抱えの運転手……あるいは、お気に入りの弟子かもね」
香子はそう言って向きなおり、零の頬にそっと手を当てた。
なにを、いや、だれを指しているのかは、明らかだった。
「ま、神話じゃ御者がオイディプスに道を譲れなんて言って、しかも相手の馬を殺したんだから、巻き込まれるもなにも元凶だけど」
零もまた、追放の原因ではある。
根本原因ではない。だが、無関係でもない。
わざとらしい明るさで、香子がぽんと手を打った。
「そっか、災難なんて嘆いてないで、あんたも御者らしく働いてみたらどう? 助言するとか、代わりに指すとかさ」
べったりとはりつくような、毒をはらんだ言い方。
むろん、いずれも将棋ではありえない。
そんなことは、香子も百も承知のはずだ。
そのうえで、零をなぶっている。なぶりつづけている。
「怖いの? じゃ、解説者でもしてみる?」
ますますよこしまな笑い。
それでも、零は思ってしまった。
――毒をはらんだ言葉でも、ずっと聴いていたい、と。
「……わからないけど」
「あら?」
「僕がなにか言ったら、よけいにおかしくなる気がする」
「なにもしないってことは選べるんだ。ゼロのくせに、いっちょまえに」
「……」
「あんた、わたしが怖いんでしょう。毒婦とか魔女とか、将棋の連中は好き勝手言ってるもんねえ」
香子はあでやかに笑い、零の手を掴み、くるりと回った。
ひるがえるスカートこそないが、雷光のごとき輝きをみせて。
「ま、そんなやつらはどうでもいいけど」
「……」
「あんたがなあんにも持たないゼロに戻るとしたら、ちょっとだけ申し訳ないかもね。
私が将棋を壊したら、あんたの居場所も、収入も、誇れることも、ぜんぶなくなっちゃうわけでしょ?」
零は黙って、暗い河を見つめた。
川面は、なにも語らない。
長い沈黙の――読みのあとで、ようやく、彼は口を開いた。
「……そうはならないよ。ただのカンだけど。
たぶん、人工知能が強いからといって、将棋は終わらない。
それに将棋以外でも、僕はもうゼロじゃない」
「あっそ。安心したわ」
香子は手を離し、百八十度向きをかえて、掃き出し窓に思いきり背を預けた。
踏み潰される小動物の悲鳴のように、ガラスがきしんだ。
割れこそしなかったが、そうなってもどうでもよいというような無造作さに、零はすくみあがった。
あわてて引き戻そうとした彼に向かって、香子は鋭く、確信に満ちた声を放った。
安心したという表向きの意味とは裏腹の、恐ろしいほどの毒をはらんだ声を。
優しい決意を、泥靴で踏みにじるような声を。
なぜなら、
「あんたのカンのなかに、
「……!」
零の背中が、かすかにふるえた。
いまや幸田柾近を破ることも多い、棋士。
史上五人目の中学生プロ。
衆目の一致する天才。
――その彼の、勝負カンのなかに。
たしかに、「幸田柾近が人工知能に勝つから人間の将棋は終わらない」という理由は、なかった。
だれが、いや、なにが勝つのか、カンがうるさく叫び立てていた。
「もちろんあんたがゼロにならないのにも安心したのよ? かわいいかわいい弟だもの」
それは嘘にも、真実にも聞こえた。
香子の手が、零の頬にまた、伸びる。
ふるえる声で、零は言った。
「香子さん、終電が……」
「なくなったっていいわよ、泊めてくれるでしょ」
「でも……」
迷い。拒絶ではなく。
だが、しかし、
「――うそよ」
香子はそうつぶやいて、川面を蹴る水鳥のように飛びたった。
外套を羽織りなおし、未練の片鱗さえうかがわせない足取りで玄関へ向かう。
そして靴を履いてから、肩越しに振りむいて問う。
「あんた、わたしが夜道で襲われてもいいの?」
送るとは、言えなかった。親ではないから。
行かないでとも、言えなかった。恋人ではないから。
なにも言えないでいるうちに、香子が命じる。
「駅まで、
それにも、答えられなかった。
答えられないということが、香子に観測された。
彼女の表情も、すこしも変わらなかった。
「冗談よ。このあたりの夜道は明るいの。あっちと違ってね」
そう言って、彼女はドアノブに手をかけた。
最後に、ひとつ。
「じゃあね、ゼロにもなれない零」
呪いのような祝福の泥。
夜へ出て行く香子の背を、音を立てて閉まる扉が隠す。
なにを考えているのかも、どこへ行くのかも、零にはわからなかった。
けれど、彼女のなすりつけた泥は、まだ、温かかった。
それだけは、確かだった。
美に満ちた天使よ、
おまえは知っているか、皺を、
老いることへの恐怖を、そして
かつて私たちの眼が貪るように飲み干した
あの眼差しの奥に
献身の秘められた恐怖を読み取る、
あの醜い責め苦を?
美に満ちた天使よ、おまえは知っているか、皺を?
ある曇った日の、将棋会館の一室。
エアコンのかすかな唸りだけが、重苦しくよどんだ沈黙をかき回している。
引退した棋士と、プロ棋士の間に、いまは将棋盤ではなく、怪物の影だけがある。
「……ご迷惑を、おかけしました。勝負を受けられたのは、協会の立場もあってのご決断だったのでしょうに」
幸田柾近の声は、ひどくかすれていた。
メディアスクラムこそ、協会の力も、香子の会見の正確な反映としての冷静さもあって、さしてみられないが、彼のおもざしもやはりやつれていた。
「別に迷惑はかけられてねえよ。俺がボンクラとかいうのと一月に戦りたかったと思わなくはねえけどさ」
かまびすしい世論など聞こえてもいないように、豪放に神宮寺は言い放つ。
ひとりの勝負師に戻る機会を奪われた、純粋な憤懣だけをたたえて。
だがそのあと、大きな体をかがめ、これも大きなため息をつく。
「が、それだってな。もっと若けりゃ、おまえをねじふせて、勝った俺に勝てば同じだろって三月のスフィンクスに言えたんだ。
そうできない俺が、老いぼれた俺が、悪いってだけのこった」
「ご冗談を……」
さすがに幸田柾近の声には、多少の苛立ちが混じった。
会長と将棋ソフトの対局は、幸田柾近と娘――世の中の認識はそうだ――の対決に呑みこまれ、起こりようがない。
現役棋士をねじ伏せるという発言も、可能不可能という面からも、組織体制という面からも、現実にできるはずがない。
「娘の復讐の刃を、あなたに刺すわけにはいきません」
「――違うな」
「……は?」
「娘でも復讐でも刃でもねえ」
指を立て、それをひとつずつ折っていきながら、神宮寺が言う。
「問うてるのは娘ではなく放り出されたもと棋士だ。
そいつの言うとおり、負ける権利さえ戻らないんだから、復讐にもなりゃしない。
そしておまえに突き付けられてるのは、人が握る刃じゃなくてめえで動く人工知能とやらだ。
どれひとつでも、間違えたら大怪我するぜ」
「あいつの棋力なら、それだけなら、どうということはないのですが……」
「……棋士はいつも、将棋に人生が現れると言ってきた。一手の迷いに、一手の勇気に、人間の生き様がひらめくんだとな」
香子を非難しかけた幸田柾近に、神宮寺が、鋭い眼光を向け、言葉を放った。
うっすらと、幸田柾近がうなずく。
神宮寺の口にした文句じたいは、棋士なら誰でも否定はしないだろう。
だが、それがこの場でなんだというのか。
しかし、
「だとしたら――逆もまた真なんじゃねえか。人生にも、将棋が現れる」
神宮寺はデルフォイの託宣のように告げた。
握りあわされた幸田柾近の手が、真白になった。
神宮寺がなにを言わんとしたのか、棋士である彼に読めないはずもなかった。
娘でも復讐でも刃でもないことを自覚して、それでも世間のイメージを操って、記者たちを掌中で転がして。
将棋協会に、幸田柾近に、神宮寺崇徳にさえ、否を言うことなどけして許さない。
――その
それはもう、誰も観測することはできない。
三月の対決に現れるのは、抑えがたい勝利への渇望を抱いたライオンではなく、獅子の身体に表情の変わらない人面を繋いだスフィンクスでしかないのだから。
敗北する権利さえ、人面には戻らない。
幸田柾近は、目を閉じた。
「……ありえません」
首を振る。
「ありえませんよ」
また、首を振る。
「あれは桐山に勝てない、ただの――」
閉ざされた目の裏側になにを見ているかは、神宮寺には分からなかった。
分かってしまうことに、一抹の恐怖さえおぼえた。
「――人生に、感想戦はねえんだよ」
だから、彼は言った。
「あのときああ指してればって後悔は、無意味だ。死ぬまで対局が続くんだから、終わったあとの感想戦はできねえ。
俺たちは、昨日の盤面の続きを指すしかねえんだ。……投了するつもりがないんならな」
泥沼流、神宮寺。
どん底まで落ち、地獄を見て、それでもなお這いずり回って勝利を掴み取り続けてきた男の、彼なりの、対決に向かう棋士への
神宮寺は立ち上がり、幸田柾近の肩にいちど重い手を置いてから、振り返らずに部屋を出た。
「可逆性」、順番も別にいじっていないのですが、なかなか合いますね……。