3月のスフィンクス   作:白水つかさ

4 / 5
第四話 フォキスの三叉路

幸福と、歓喜と、光に満ちた天使よ、

死にゆくダヴィデでさえ

おまえの魔法の身体から立ちのぼる香気に

健康を乞うただろう。

だが私は、天使よ、

おまえにただ、祈りだけを願う。

幸福と、歓喜と、光に満ちた天使よ!

 

――ボードレール『悪の華』44「可逆性」最終連

 


 

 

「……負けました」

 

絞り出すような声を、幸田(こうだ)柾近(まさちか)が落とした。

 

フォキスの三叉路。

オイディプスと父ライオスと、それに御者のポリュポンテースが偶然に出逢い、捨てられた子が父と知らずに父を殺した場所。

そう(たと)えた記者もいたが、ここに御者はおらず、そして香子は相手がなにものであるかを知っている。

 

まだ冷たい日差しが、窓から差し込んでいた。

光に照らされる香子の横顔は、決着の瞬間も、砂漠の石像のように動かなかった。

 

「こんなものは、将棋ではない。人間のかかわらないものなど……」

 

弱々しい出力。

香子が手を決めていなかったことは確かだが、

 

「棋譜を学習して評価値を定め、多くの枝を深く読む。人間そのものじゃない。強いから卑怯だなんて、まさか言わないわよね?」

 

角頭にぴしゃりと、香車が打たれる。

田楽刺し。

直接には、幸田柾近は指し返せなかった。

「それ」と対峙したからこそ、彼女の言葉の正しさを(わか)ってしまったのだろうと、観戦記者が書きのこしている。

 

ただしのちの時代には、将棋AIは棋譜の学習などなく、将棋のルールのみを与えられて無限に近い自己対局をくりかえし、どこまでも成長する人ならざる怪物となる。

いわば獣身人面のスフィンクスではなく、人に似てけして人にあらざる、天使。

むろんそんな未来を幸田柾近が読めていたはずもないが、さすがにそれを不見識と断じるのは酷だろうし、事実、二〇一二年に指摘する者はいなかった。

男なら、そしてあるいは香子も、うっすらとでも枝の先として読んでいたのかもしれないが。

 

「……だが、名人でも十回に三回は負ける。ひとつの勝敗で、なにが証明できる」

 

「そのひとつの勝ちを拾うのがプロでしょう? それに」

 

角頭の香打ちでは、角が逃げると、香車が敵陣により深く刺さる。

 

「それに初段には――あら、失礼」

 

あのときの致命的な偽りの一手(クリティカルエラー)を、こんどは、香子が指した。

――真実として。

 

「一年後には、スフィンクス以上がごろごろいるわよ。アルゴリズムも、リソースも、競い合って成長していくのだから。スフィンクスに勝てないなら――」

「……」

「――やめなさいよ」

 

香子が、吐き捨てた。

 

それはおそらく、「あのときやめたくなかった」という言葉を口にできないがゆえの、代わりの言葉。

道程に数えきれない怪物が立ちはだかっているとしても、棋士はやめはしないだろうから。

そして実際、零のカンのとおり、将棋は終わらなかったから。

そんなことは、香子も分かっていただろうから。

 

「……」

 

幸田柾近は、それ以上なにも言わなかった。

幸田香子も、それ以上なにも言わなかった。

 

感想戦も、なかった。

人生のという意味ではない。

ひとつの対局として、行うことは可能だ。

また香子も、この場ではマニピュレータだったとはいえ、かつての、そしてスフィンクスを磨き上げた、経験がある。

 

だが幸田柾近は望まなかったし、それはそれで、説明可能なふるまいだった。

他のプロ棋士と額を突き合わせるのかもしれないし、そうでないかもしれない。

棋界の人々も、ある者は無視し、ある者は対策を考え、ある者は利用するだろう。

 

「――それじゃ」

 

香子が裾をさばいて立ち上がる。

目尻から、ひとすじの涙がまっすぐにつたった。

 

その出力は、おそらく、悲しみではなかった。

コンピュータのファンが回り、排熱するのとおなじ、計算資源(リソース)消費の副反応。

それでもフラッシュがいっせいに焚かれ、マイクやレコーダーを持った記者たちが彼女に駆け寄る。

出力を揣摩憶測し、それぞれの説明を加えるのもまた、人間だった。

 

片隅でそれを“見ていた”男は、音もなく立ちあがった。

点字ディスプレイに指を走らせながら、どこか祝詞(のりと)のような言葉を紡ぐ。

 

「Mais de toi je n'implore, ange, que tes prieres, Ange plein de bonheur, de joie et de lumieres!」

 

何人かは、フランス語であるとくらいは聞き取れただろう。

だが、完全に理解した記者はいなかったと、結果から分かる。

レコーダーを回していた周到な者は社に帰って人に聞き回り、むろん解読できただろうが、原詩を知っているほどの人物は、単純な解釈には走らないだけの知性もまた備えていてとうぜんだった。

 

けっきょく、記者たちは聞かなかったことにした。

よって、男の言葉は記事にならなかった。

そういう結果になった。

説明不可能性の前に沈黙するのも、むろん誠実な態度ではある。

 

 

――――――――――

 

 

ひととおり会見を終え、仮設住宅の人々への挨拶も終えて、香子と男は外へ出た。

冷たく澄んだ空気が、ふたりを包む。

幾度かの事前訪問のあいだに、香子にすっかりなついていた子供たちはついていきたそうだが、空気を読んで物陰から見ているだけだった。

 

香子の腕に、男が手をかけている。

前から引きずるのでも、背後から押すのでもない、視覚に障害のある人物を誘導するときの正しい方法。

神話では盲目になったオイディプスがアンティゴネーに導かれるが、オイディプスがスフィンクスを導き、そして導かれる姿は、神話になぞらえようもなかった。

 

「で、さっき、なんて言ったの?」

「だが私は、天使よ、あなたにただ、祈りだけを願う。幸福と、歓喜と、光に満ちた天使よ――と。ボードレールの一節です」

「はあ」

 

鼻白んだような声を、香子がこぼした。

 

「なら最初からそう言いなさいよ、なに語か知らないけどかっこつけないで」

「盲目の男が、私の天使、と美しい女に呼びかけた。そんな報道をお望みですか?」

「うえっ」

 

彼女はおもいきり顔をしかめた。

それはクリスマスに望んでいない種類のプレゼントをもらった、けれどそれでも送り手の気持ちは嬉しい、子供のような表情だった。

男に表情が――声によって――見えていることは、解っていた。

 

「さすが用意周到なことね。……で、誤報の心配はなくなったとして、ほんとはなにが言いたいのよ?

 わたしが天使に思えるとしたら、デバッグが必要よ」

「――説明してみてください」

「だから……」

 

香子は質問責めにしようとして、やめた。

どうせそういう出力なのだから。

そしてそれが「嫌い」なのだから。

 

思考をあそばせながら、男がついてこられるペースで、歩いていく。

そして男が、逆に質問をする。

 

「なにが見えますか?」

 

ゆっくりと、視線をめぐらせる。

曲がったミラーの下に一輪の花が添えられ、瓦礫は袋に詰められて解決の時を待ち、流されなかったビルの壁いちめんに鮮やかな絵が描かれている。

ゼロに似ているが、ゼロとは違っていた。

 

「壊された、醜い景色。でも、生きている景色」

 

潮の香りが鼻をくすぐる。

一年前に破壊と死をふりまいた、けれど捨て去ることのできない、巨大な存在の香り。

男がもうひとつ、質問をする。

 

「どこへ行きますか?」

 

また、ゆっくりと、視線をめぐらせる。

道路のアスファルトはところどころ波打ち、家はコンクリートの土台だけを残し、交通標識は意味をなしていない。

どこに行けばなにがあるのか分からないが、どこへでも行けた。

 

「これから考えるわ」

「なら、まずは」

「なに?」

 

はじめて、なにか助言らしきことをするのかと思った。だが、男は淡々と言った。

 

「栄養を補給しましょう」

 

大笑いが、はじけた。

 

「このかっこで? 着物きてるって、あんたにも言ったわよね?」

 

そもそも男は香子の腕に手をかけているのだから、手触りでも分かるはずだ。

食事に向いた服装とは言いがたい。

が、男はそれ以上なにも説明しなかったし、香子も求めなかった。

 

ただ、決めた。

 

「レストランは――あるわね。生きてるかしら」

「おやおや。匂いで分かりませんか?」

「みんながみんな、あんたみたいに()()()と思うんじゃないわよ。荒れ地に置き去りにされたいわけ?」

「もう私とシステムは必要ないでしょうからね。そういう理解でよいのではないでしょうか」

 

「――大嫌い」

 

赤い着物を着て食事に招く香子を、仮設住宅の子供はサンタクロースだと思った。

時ならぬクリスマスパーティ。

仮設住宅で暮らす人々が食堂に勢揃いしたので、二〇一二年三月十四日の売り上げは外れ値として、記録されている。

 

 


 

 

記録を初稿にまとめて、メールで事前に送ってから、私は香子のオフィスを訪れた。

今度はどんな手で出迎えられるかと緊張の汗をかいたが、意外なほどに、彼女は上機嫌で迎えてくれた。

 

「よく調べたわね。神宮寺ってまだ生きてたんだ」

「……ご健勝ですよ。ぶしつけな取材にもかかわらず、詳しく答えていただきました」

 

が、初手は彼女らしい憎まれ口で、苦笑するしかない。

幸田柾近が取材に応じてくれるわけもなく、彼と会長の会話は神宮寺の視点で語られた記憶だ。

香子の強さは永遠に分からない、それは、彼なりの賛辞ではあっただろう。

 

「お待ちかねの将棋ソフト(ボンクラーズ)でも送ってあげようかしら? わたしがどれだけ強かったかの観測にはならないけど」

「まあ、まあ。ほどほどに」

 

賛辞を理解した、素直に感謝しているような声色ではあったが、いちおう私としては暴れ獅子をなだめておく。

幸いにしてそれ以上は噛みつこうとせずに、彼女は話題をつづけた。

 

「あんたのせいで、零まで連絡してきたわよ」

「お騒がせして申し訳ありませんでしたが、私としてもできるだけ両方の記憶を確認したうえで書きたいですから」

 

彼は取材に応じてくれたので、マンションでのできごとは初稿から零の視点で描いていた。

こちらは踏み込みすぎと言われるのかとやや身構えたが、

 

「まあ、あいつとはときどき話すから」

 

と、それにも、ことさらの注文はつけられなかった。

だがそこで、雰囲気がすこし変わった。

 

「そのへんはいいんだけど」

「ありがとうございます。ほかに、なにか?」

「ただ、ちょっと、父への怨恨めいてるわね」

 

ざっくりと、ではなく、さくりと。

研ぎ澄まされた薄い刃が、私の胸に刺さった。

 

「……そうでしょうか」

 

初稿にはたしかに、そんな色はあった。

だが彼女の話を聞いた私がそんな色で受け止めたのも、事実だった。

あまりに薄い刃ゆえに即答しかねる私に向って、彼女が問いを投げてきた。

 

「記者さんはプロよね。いつも取材のことを考えている?」

 

不意に突かれた別の話柄(わへい)に、軽く考えこむ。

答えそのものは、否。

よい記者でありたいとは思っているし、フリーなので怠惰に流れては食べてもいけない――のだが、理由はちゃんとある。

 

あまり深読みせず、素直に返してみる。

 

「――いいえ。取材じたい、テーマはさまざまですし。あるときは海のこと、あるときは政治家のこと。

 ですから、取材という抽象的なことを考えはしませんし、特定の取材のテーマについて考え続けていることもかえって非合理だと思います」

 

あっさりと、香子がうなずく。そしてその線で、もうひとつ駒を進めてくる。

 

「満点の答えね。スポーツ選手の取材をしたことは?」

「何度かは」

「彼ら彼女らは、ひとつのスポーツに集中しているでしょうけど、二十四時間考えることは不可能よね。本質は考えることではなく身体を動かすことだし、トレーニングは二十四時間ずっとは続けられない」

 

「ええ。――おっしゃりたいことは、分かってきた気がします」

 

そしてかえってそれゆえに、目を合わせていられず、少し視線をそらしてしまった。

活発に働く会社の様子が、視界に映る。

香子は柔らかく、けれど温度なく、包囲の網を完成させた。

 

「そう。棋士は、二十四時間……少なくとも起きている間はずっと、考えることができる。できてしまう」

「……」

「だからわたしは、父がわたしを、わたしたちを、将棋で測ったことを恨んでいるわけではないの。

 まあ、今だから言えることではあって、子供のときそこまで割り切れていたとは言わないけれど」

 

薄く紅の引かれた唇に、苦笑が浮かぶ。

 

「でも、少なくとも、あのときはもう理解していたつもり」

 

もういちだん深い、苦笑。

 

「わたしが(とが)めたかったのは――」

 

咎めるという単語が将棋用語だと理解できるくらいには、私も将棋の取材をした。

相手の疑問手や悪手を見逃さず、的確に突くこと。

誤りに反応するという意味では、普通の会話における用法と近くはあるが、感情的に非難する要素はない。

 

「棋士、幸田柾近が香車を捨てた、その一手。それが敗着だと、わたしは証明したかった」

 

ため息のような言葉に、自然と、応じる手が指せた。

 

「あなたは将棋が好きなのですね。けれど、離れてしまった」

 

「あの映画の鏡映し? わたしも見たわよ」

 

間髪入れず、香子が指し返してくる。

直接の意識にはなかったが、言われてみれば、たしかにそうだった。

 

歌舞伎の世界を舞台にした、部屋子と実子の映画。

彼女が観たのは、とうぜんだと思った。

映画の記憶を掘り返す。

 

「あの映画では、嫌いなんでしょう、けれど、離れられないんでしょう、でしたが」

「あれほど複雑な話でも、いい話でもないけれどね。単に、わたしが一手を指した――ただそれだけ。たったひとつの醒めたやりかた」

 

言葉どおりに醒めた口調で、香子が言った。

夜の砂漠のような響きに、私はそれ以上、食い下がることはできなかった。

 

やめさせたことは、父なりの愛だったのかもしれないとは思ったが――口にしても意味はないだろう。

少なくとも彼女に正確に説明すべきだったし、なにより、愛で判断を歪めたとしたら、それは棋士としての悪手であることに変わりはないのだから。

だから、原稿を直すことを約束して、私はオフィスを出ようとした。

 

そこでふわりと、あの優しい雰囲気の男性に呼び止められた。

メカニカルタークの説明をしてくれた、香子には専務と呼ばれた男性。

 

「すみません、ひとつ」

「え?」

「家庭内で指された香子と零の棋譜がどうしてあったか、分かりますか?」

 

あのときとは違って、真剣な口調だった。私も、真剣に答える。

 

「――あなたに問われれば、問いそのものが答えでしょう」

 

専務、幸田(あゆむ)

会社情報を調べて、彼の名前は知っていた。

もちろん、名前から、経歴も調べられた。

 

幸田香子の弟。

香子よりも先に零に勝てなくなり、みずから将棋という世界を去った人物。

けれど少なくとも、零が幸田家に来たときには彼も将棋を指していたのだから、一定の知識をもっていてとうぜんだ。

男が香子とあのバーで出会う前に、どこかで接点をもち、棋譜と過去を伝えていたという経緯は容易に首肯できる。

 

だが、

 

「書き残していたものはわずか。……よく覚えていたものだと思いますよ」

 

彼の言葉に、私は目を見ひらいた。

 

改めて言われてみれば、そのとおりだ。

プロ棋士どうしの公式の対局は記者などに記録されるし、棋士たちじしんも感想戦などで深く研究するために書き留めているかもしれないが、家庭内での日々の練習対局は事情が異なる。

記憶からしか、記録は起こせないだろう。

 

「……それは才能なのでは? いえ、記憶力が棋力と直結するのかは私には分かりませんが、しかし」

 

「僕は自分で投了しました。なので、姉と違って、辞めさせられたというわだかまりはありません」

「そうですか……」

 

当惑気味の私の問いを、歩はさらりと流した。

強い弱いを、証明することなく。

 

「ただ、スフィンクスに棋譜を提供したくらいですから、僕なりの父への感情はあったのでしょうね」

「あった……ですか」

 

その乾いた声に、姉に対したのと同じく、彼に対しても、私は目を伏せてしまう。

 

「ええ、あった。いまは姉が母を見る視線、いえ、見ない視線と、同じかもしれません」

 

正直に書けば、そして彼にもその場で伝えたが、親に感謝している娘である私には、いささかの痛みをともなう言葉だった。

だから私は、風をかわすように少し斜めに構えて、声を流した。

 

「メカニカルタークのお礼に、ご存じかもしれませんが、ひとつ単語を。……ダムナティオ・メモリアエ」

 

ダムナティオ・メモリアエ――古代ローマで行われた、記憶の抹消刑。

銀貨に刻まれた名は削られ、広場に立てられた像は壊され、存在そのものが抹消される処罰。

けれど削られた銀貨の表面の輝きに、像の取り去られた広場の奇妙な空白に、そして人々の口の端に、記憶の痕跡だけがぼんやりと(のこ)る。

 

もう一息という励ましもせず投了を認めた父は、歩にとってもはや記憶されない存在。

香子にとっての、父との関係のなかで後押しも邪魔もしてくれなかった母と同じく。

歩はほろ苦く笑い、それでも否定せずあっさりとうなずいた。

 

「そう、かもしれませんね」

 

それゆえに、完成稿には、父への怨恨めいた思いも、母への記憶も、ない。

けれど、歩の姉への記憶はある。

棋譜という、消えない形で。




「景色」はつかさの記憶にある大槌に引きずられている気がします……福島ではないですけどそれはさておきまして。
ボードレールの「可逆性」も最終連ですし、終わったような気配ですが、さすがにここでは終わらず、もう一話あります!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。