3月のスフィンクス   作:白水つかさ

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最終話 アンティゴネ―

私は憎しみ合うためではなく、愛し合うために生まれた。

――ソフォクレス『アンティゴネー』

 

愛したとして、愛が返るかは観測できなかった、けれど、憎まずには済んだ。そういうことでしょうか。

――記録者

 

 


 

「ふうん、いいんじゃない?」

 

わりにあっさりと修正稿を認められ、私はやや拍子抜けした。

もっとも、初稿の時点からバーや記者会見といった部分が中心であり、幸田柾近と直接対峙する記述は少なかったので、そういうものなのかもしれないと思った。

直す作業にかかった日数も、あまり長くはなかった。

 

「ありがとうございます。せっかくまた訪問させていただいたので、二〇一二年から現在までのことをお伺いしても?」

 

「はん、まだ経済誌だかの記事も諦めてないわけね。ま、いいけど」

 

狙いは当然のように見抜かれたが、香子は軽くうなずいてくれた。

ノンフィクションとしても、エピローグは必要だろう。

オイディプスの場合は知らぬままに父を殺し母を娶ったと理解してしまう悲劇だが、はじめから知っていた香子の場合は、結末は異なってくるはずだ。

もちろん、現在の(あたい)は目の前にあるわけだけれど。

 

「わたしも彼も、将棋を壊したいわけじゃなかったからね。まして零をいじめたいわけでもなかった。……ほんとうよ? 信じなさい」

 

わざとらしい意地悪な表情で、香子が言う。

前者は「証明」後の彼女(アウトプット)いまの棋界(アウトカム)をみれば明らかなことだし、後者についてはあまりつつきまわすと指をがぶりとかじられそうだったので、ひとまず黙ってペンを動かしておく。

 

「だからミスター・スフィンクスの縁で、機械学習の最先端課題だった、自動運転の会社に拾ってもらったわけ」

「この会社、ですね。当時は経営者の方が別にいらしたと」

「そ。ま、広告塔としての役割を期待されてだった認識はあるけど、それなりに手も動かしたわよ、最初から」

 

スフィンクス・システムの開発にかかわっていたのだから、彼女の言うとおりだと思った。

他の「将棋ソフト」を作成した人々も、それだけを手掛けていたことはなく、経験とカンを応用できることは明らかだ。

 

「だから居心地も、会社が狙った自動運転っていうニッチも、よかったと思うんだけど……知ってる? アルファゼロってやつ」

「ええ」

 

「そういや、原稿にも書いてたわね。人間の棋譜を学習して評価値を定めるんじゃなくて、将棋のルールだけを与えられて自己対局を繰り返すことでゼロから成長する、ある種の恐るべき子供(アンファンテリブル)

 

私は、こくりとうなずいた。

 

将棋ではなく囲碁の話になるが、トッププロが異星人と対局しているようだという感想を残している。

人間が長い時間をかけて培ってきた棋譜――定石や戦術に拘泥しない、というよりそれが視野にすらない、深層学習(ディープラーニング)の産物。

かつて幸田柾近(まさちか)がつぶやいたことが、ゼロの場合は真実、かもしれなかった。

そしてゼロは、数日で従来型を越えた。

 

「ゼロ……ねえ。なんの関係もないのは分かってるけど」

 

頬杖をつき、どこか遠い目をして、ため息のような言葉を香子が流す。

 

「ま、そんな感想はいいとして。はじめは将棋じゃなく囲碁のゼロだったように、ルールだけあればいいからには、いろんな分野に利用できる。

 まして自動運転は、わたしみたいに、機械学習のほうでさえ経験と技術を応用できたわけだから――当然、そっちにも来たわけよ。ゼロが」

 

もちろん、この場合のゼロは比喩であり、具体的なソフト名でないことは分かる。

だがそれでも、かつて「零に勝てなかった」彼女にとっては、なにか思いがあったのかもしれないし、それどころではなかったのかもしれない。

また歩が当時から会社にいたなら、同じ思いだっただろう。

私は静かに、話を聞く。

 

「当時の社長はもちろんしっかりした技術者だったけど、それはスフィンクスと同じ教師あり学習の技術だから」

「主流の技術が、変わってしまったわけですね」

 

「そう。でもってちょっと――説明不可能ってのが気にくわなかった」

 

かちりと、視線がぶつかった。

かつての少女を、瞳のなかに見つけた。

中学生で奨励会を退会させられた、大粒の涙を流す少女を。

私も、見つめかえし、かすかにうなずく。

 

「だから説明可能な人工知能(Explanable AI)。そういうこと」

 

嵐を内に湛えた瞳をまっすぐに据え、香子は言い切った。

 

「――ありがとうございました」

 

私は、手帳を閉じた。

ICレコーダーも使っているが、手書きのメモも残すのが、私のスタイルだ。

 

 

だが、一礼して席を立とうとした私を、彼女が呼び止める。

 

「記者さん――いえ、白水ツカサさん。天使って誰だと思う?」

 

少し、色が違う声。

呼びかたの違いからも、記者としてではなく、個人としての私に問うていることは明らかだった。

二十四時間取材のことを考えているわけではない、棋士とは違う、ひとりの私に。

 

「幸福と、歓喜と、光に満ちた天使。幸田柾近ではありえないわよね。もちろんわたしも違う。

 棋士としての零の実力、ってスジは悪くないと思うんだけど……彼と零の接点はあったかしら。それとも、将棋?」

 

ある種の感想戦のように、香子がつれつれと選択肢を敷きならべる。触れないで、でも離れないでと言った過去。

 

「――人間」

 

自然と、言葉が唇から滑り出た。

それは、スフィンクスの謎の本来の答えでもある。

思いついた枝を言いならべた香子と同じように、言葉にしながら、むしろ言葉にすることで、考えをまとめてみる。

 

「あるいはあなた」

 

「……それは分散が広すぎでしょ」

「人間という抽象か、そのひとつの具体としての香子さんか。違っていて、そして、同じではないでしょうか」

 

「わたしが幸福に満ちてるわけ……」

 

似ていて、そして違うものを取材してきた私の過去が、影響した発言だったかもしれない。

同じ経験をもたない彼女には、少々違和感があったようだった。

私は、説明をつづけてみる。

 

「かくあれかし。祈りが観測、あるいは、観測しようとする切実な思いだとすれば――祈れる天使(あなた)であれるようにと。香子さんが、幸福に、世界を観られるようにと。そう願ったとは、説明できないでしょうか」

 

ただ祈りだけを願う。

祈りという語を読み替え、観測だけを願う、説明だけを願うとしたならば、いまの彼女に相応(ふさわ)しいのではないかと思った。

 

一般的には、不合理ゆえに我信ずと言うように、祈りは観測の対極にある態度かもしれない。

けれどコンピュータもその末子である自然科学の世界においては、天体()()などは神から与えられた世界を正しく認識しようとする、ある種の祈りだったのではないか。

また東洋の座禅などは、畢竟(ひっきょう)己の観測かもしれない。

 

そんなことを、自分でもまとめられないままに口にのぼせる。

 

「……ふうん、なるほど、ねえ」

 

宙に、過去に視線をさまよわせながら、香子がつぶやいた。

 

「わたしが観測と説明(XAI)なんてやってられるわたしであれるように、過去のしがらみな幸田柾近をぶっ飛ばした、って解釈ね。まあ、ひとつの枝として取っておいてあげるわ」

 

そして彼女は、話しつづける。

私と同じように、言葉を紡ぎながら考えをまとめていくやりかた。

 

「祈りが観測だという読みから伸ばすなら、もうひとつの枝もあるかしら」

「というと?」

 

「天使とは彼、あるいは将棋という世界。これもあんたの言う、違っていて同じというやつ。

 ともあれ、天使(せかい)に対して願うべきことは救いではなく、祈りだけ――すなわち正確な観測だけ、と」

 

正確か定かでない観測、少なくとも説明になっていない説明で、奨励会を辞めさせられた彼女が、いまさらのようにつぶやく。

けれどその口調に、もう苦さはなかった。

対決を終えたからか、単に時がすべてを洗ったのか。

 

「その場合、香子さん自身は詩人の立場になぞらえられた、ということですか」

「勝手にわたしの立場で詩を詠むなってとこだけどね。でも、ま、それもありえる解釈じゃない?」

 

私は小さくうべなった。

恨んではいないという発言からすれば、勝手に、ではあるかもしれない。

けれど発言が真なのは少なくともいまは、であって、対決直後がどうだったかはほんとうには分からない。

現在から過去を観測することの、難しさ。

 

 

そして、天使が世界あるいは「彼」という言葉に、どうしても懸念してしまったことをためらいながら口にする。

私には調べられなかったから。

 

「彼は――」

 

「いるわよ。ここに、じゃないけどね。天使のわっかはついてないから安心しなさい」

 

正確に、香子は読んでくれた。そして安心できる答えをくれた。

 

「どっかで新しい景色を見てるんでしょ」

 

その声には、執着も、後悔も、慕情さえもなかった。

ただ、かつて自分を正しく観測してくれた存在への、静かで確かな信頼だけが残っていた。

 

「エンジニアは透明になろうと思えばいくらでも透明になれるのよ。国の基幹システムが内製かパッケージかなんて知らないでしょ?」

「調達を丁寧に追えば、分かるかもしれませんが、担当する個人の名前は確かに分からないでしょうね」

「有名になろうと思えば、逆にいくらでも有名になれるけど」

 

彼女の声に、広告塔だった過去を自嘲するような色はなかった。

むしろ、手を動かしつつ有名にもなった自分を誇るような無邪気ささえある。

 

それはさておき――私は、彼の名前を聞いているが、調べられなかった。

調べられなかった以上は、名前も書きのこさないでとは言われた。

だから、こうなっている。

 

「――あんたなら、わたしより詳しいとこまで調べられるかとも思ったんだけど。ちょっとだけね」

「すみません」

 

別に責められているわけではないと分かっていたし、私が分かっていることを彼女は分かっていた。

なんとなく、旧友のように、笑いあう。

 

 

ついでのように、興味のあったことを問うてみる。

 

「桐山零さんと、話をされたと伺いましたが、どういう?」

「たいしたことじゃないわよ。アルファゼロとかやばいんじゃないの、って言ってやったら、中学生でプロになった人はそれも練習や研究に使ってるよ、だってさ」

 

私は黙って聞いた。

いまではほとんどの棋士がなんらかの形で使っていると聞くが、人によって、そして世代によって、濃淡や傾向の違いがあることも確かだろう。

 

「あんたも中学生でなったでしょうが」

 

まるで彼がその場にいるかのように、香子はぼやいた。

 

「歳を取ったかな、って言うから、わたしのほうが四つも上なのよそれ以上言ったら二度と立ち上がれないくらいに刺すわよって言って電話を切ってやった」

「ほどほどに、社長。ほどほどに」

 

「大嫌いだわ」

 

神宮寺への態度と、どこか似ているようにも思ったが――最後のひとことだけは、違った。

むしろスフィンクスの男に投げたような、言葉。

くすりと、私は微笑む。

香子も眉を吊りあげはしなかった。

 

 

「ところで、最近の若い子って合コンとかするの?」

「……え?」

 

零でそれを連想するあたり、と口に出さないだけの危機管理能力はあった、が、それはさておき。

別の場所にひっかかって、私は間抜けな声をこぼしてしまった。

 

「え?」

 

そして香子が、よく似た声を漏らす。

 

「え、と言われましても。ちょうど同年なのですが……」

 

私なら同性、しかもちょうど同い年なので、取材しやすいだろうと、古巣の編集者になかば拝み倒すように依頼されたのだった。

華やかな彼女に比べれば、小柄で地味な私はいくらか幼く見られても仕方ないのかもしれないが、

 

「ええ? 上司が嫌がる仕事を押しつけられたかわいそうな新卒か、下手したらインターンかと思ってたんだけど」

 

……だ、そうだ。

ぱたぱたと顔の前で手を振る。

 

「いえそんな、フリーランスです。経済誌でそれなりに長く仕事をしてから、思うところがあって、独立しました。申し上げませんでしたっけ?」

 

「聞いてなかったかも。手加減して損したわ」

「あれで……?」

 

私は戦慄した。香子の目が、剣呑に光る。

 

「ん? なんか言った?」

「い、いえ、もうよいお時間ですね。ありがとうございました」

 

じつは眠っていたらしい獅子が目を覚ますまえに、退散しようと荷物をまとめる。

といってもICレコーダーと手帳くらいで、なんということはない。

隣の席の(あゆむ)も、もう言うべきことは言ったということなのか、今回はことさらに声をかけてはこなかった。

あたたかな、そしてどこか気遣わしげな視線だけを感じる。

 

インターンと間違えられる小柄な体をよいことに、英語でいうコントロールドメス――制御された混沌と表現するしかないオフィスを縫って、出口へ向かう。

こればかりは香子にも真似できないので追ってはこないだろうと思いながら。

そして振り返り、彼女が予想どおりデスクについていることを確かめてから、声を投げる。

 

 

「あと、幸田柾近八段。取材には応じていただけませんでしたが、近況は分かります」

 

社長席に座る香子の姿は、微動だにしなかった。

 

「零さんの言う“中学生でプロになった人”と違い、かたくなにAIを否定して、彼にはもちろん負け続け――それでもなお、将棋の世界にいます」

 

まだ、大丈夫。

けれど余計なことを口にした私を、ずぶぬれにしてやろうという低気圧の発生が、肌に感じられた。

新人でないと知られたことだし。

 

「ご存じでしょうけれど、いちおうお伝えしておきます。連絡先も、必要でしたら」

 

とうとう嵐の前触れである雷鳴が、ひらめくのが見えた。

だが、私は入口のドア前にいて、逃げ場を確保している。

 

「――それでは、失礼します」

 

メカニカルタークにはされたくないので、ドアを開けて立ち去る――はずが。

 

「……え?」

 

開かない。

 

鍵がかかっているわけではなく――そもそも内鍵だ――、外側から人に押さえられているような感触。

私の気取りと安全は、一瞬で崩壊した。

 

「ちょ、ちょっと、出してください!」

 

「すみません私にも妻子があるんです!」

 

悲痛な、けれど笑っている、声がした。

がちゃがちゃとノブを回し、扉を必死で押しても、私の力ではどうにもならない。

 

迂闊(うかつ)だった。

香子はあの人生を指せる、棋士。枝を読んで、社内チャットかなにかで(ひと)を動かし、私を詰ませることくらい簡単だと予想しておくべきだった。

 

「さあて」

 

背後から、香車、もとい、成香が近づいてくる。一歩ずつ。

さっきの私よりゆっくりだが、こちらが逃げられないので余裕の表情だ。

最後の抵抗でオフィス内を逃げ回ろうかと見まわしてみるが、この散らかりようでは無理だった。

 

「何時間はたらかせてやろうかしら」

 

サメのように笑う女性は、見たことがある。だが、ライオンに取って食われそうになるのは、はじめての経験だった。

私の肩に、王手がかかった。

 

「負けました、と言ったら、解放してくれたりは……」

「するわけないでしょ」

「そうだろうと思いました」

 

私は、とある小説のヒーローを必死で演じようとして、ふるえながら言った。

 

「私は、つねづね、一目みただけで、ライオンのような人間の見分けがつくことを、自慢にしているのです」

 

「スフィンクスじゃなくて? お世辞を言っても、もう遅いわ」

 

……まあ、知らない景色を見る経験にはなった。

何時間だったかは、私と彼女のあいだの秘密としておこう。

 

そして、古巣に依頼された記事はちゃんと書いた。

どこかで、あなたも読んだかもしれない。

アンティゴネー社とXAIの二十年を。

 

彼女の、彼女たちの、切実な祈りのような棋譜を。




短い作品でしたが、『3月のライオン』IFこれにて完結です。
おつきあいありがとうございました!
ご意見ご感想などお聞かせいただければ幸いです。
いえ、やっぱり、あの家はですね……。

アンティゴネ―は第四話で少し触れていますが、オイディプスの娘です。
第四話のとおり盲目になったオイディプスを導き、それがもと自動運転・いまXAIの会社の名前の由来でもあるのでしょうが、女性が己を貫くアンティゴネー主役の独立した戯曲のほうが有名かつ香子らしいかもしれない、と思った次第でした。

なお、ラストの「とある小説のヒーローを演じようとして」はツカサさんの別作品で折に触れて言及される『鷲は舞い降りた』です。
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