午前8時。いつも通りけたたましく鳴るアラームに起こされる。毎日早起きしなさい、というのが私の母親の教えだった。でも……日曜日の休日にまで馬鹿正直に従わなくてもいいよね。たまにはお昼まで寝てたってバチは当たらないはず。自分にそう言い聞かせてアラームを止め、二度寝しようと布団に潜り直そうとしたその時だった。
「ビリジアさん!いつまで寝てるつもりですか!」
「んー……今起きる、今起きるからあと5分だけ……。」
「ビリジアさん!」
誰かが私の体をゆさゆさ揺らして起こそうとする。目を開けると、榛色の大きな一つ目の少女の、むっすりとしたふくれ顔が見えた。声の主は私の家族、ビスケちゃんだった。朝に弱い私は毎日こうして彼女に起こされるのが日課になっている。仕方ない、観念して起きよう。くぁ、と大きなあくびをして、まだ重い瞼を擦りつつベッドから立ち上がった。
「ふぁ……ありがとうビスケちゃん、でももうちょっと優しく起こしてほしいなぁ。」
「むー、どうせ適当に起こしたら二度寝するから力ずくでも起こしてって私に言ったのビリジアさんじゃないですか。」
「そだっけ……?」
「とにかく、顔洗って目を覚ましてください。」
回らない頭で会話しながらビスケちゃんに手を引かれて洗面台まで向かう。言われるがままにパシャパシャと冷水で顔を洗い、主腕と副腕、二対の腕をそれぞれ組ませてグッと伸びをすることでやっと意識が覚醒した。
「わ、すっごい寝癖だね。私もビスケちゃんも。」
やっとぱっちり開くようになった私の一つ目で鏡を見ると、重力を無視したような寝癖がついた私の翠色の髪と、負けず劣らず派手な爆発をしたビスケちゃんが映っていた。
「寝癖くらいなら自分で直しますよ?」
「ううん、遠慮しなくても私がやりたくって言ってるわがままだから。ほら、ここ座って?」
「じゃあ、えへへ、お願いします。」
そう言うと彼女は、少し照れ臭そうに丸い木製のスツールに腰掛けた。右の主腕にブラシ、左の主腕に霧吹き、そして背中から生えたもう一対の副腕も同じように構えてビスケちゃんと私の髪を同時に整える。
「こうして髪を梳かれてると、お母さんのことを思い出しますね。」
あどけなく笑ってそう言ったビスケちゃんだが、その言葉に胸がチクリと痛む。彼女はご両親を2年前、彼女が11歳の頃事故により亡くしている。今の私を形容するなら母親代理、という言葉が丁度いいんだろう。彼女くらいの年頃の子供にとって、母親がどれだけ大きな存在か、父親に捨てられ女手一つで育てられた私は痛いほど理解している。加えて彼女は、事故後に親戚の元で養育されていた、私が代わって引き取るまでの間、事故のショックから不登校になってしまったこと、そして彼女が単眼の亜人――「ヒトモドキ」であることを理由に、ネグレクトを受けていたと聞く。まともとは呼べない環境で育てられた彼女には、今までの苦労の分、人一番人間の温もりを受けて育ってほしい。果たして、保護者としてのそんな大きすぎる役割を、私は務めきれているんだろうか。
「……ビリジアさん、大丈夫ですか?そんなに深刻そうな顔してどうかしました?」
「え?あ、ううん、ごめんね。ちょっと考え事してて。」
私としたことがうっかりしていた、彼女にこの不安な気持ちを悟られてはいけない。優しすぎる彼女のことだ、私がそんな風に考えてると知れば自分が負担になっていると思い自責してしまうかもしれない。
「悩み事ですか?一人で抱え込んじゃダメですからね。」
「ありがとうビスケちゃん。でも大丈夫。ビスケちゃんと居られれば、私はそれで幸せだもん。」
「わぎゅ、にへへ、私もビリジアさんと一緒が幸せです。」
私は目の前の愛しい少女を、四本の腕で後ろからぎゅっと抱きしめた。子供らしい温かな体温と、小さくも力強い鼓動、パンのような甘く香ばしい髪の匂いを感じながら、そっと頭を撫でた。しばらくそうしてお互いの体温を交換していると、ビスケちゃんのお腹から「ぎゅるるる」と可愛らしい音が鳴った。
「えへへ、お腹空いちゃったみたいです。」
「そういえば私もはらぺこ。そうだね、朝ごはんにしよっか。」
キッチンに移動した私達は、ホットケーキを作ることにした。いつも通りビスケちゃんが手際良く冷蔵庫から材料を揃えてかしゃかしゃと生地を混ぜ、私がフライパンでそれを焼く。焼き上がったそれにシロップとバターを好きなだけ乗せたら出来上がりだ。
綺麗な円形でムラのないきつね色に焼き上がったそれに満足して頬張っていると、ビスケちゃんが半分ほど食べてから手が動かなくなっている様子が目についた。最近どうやら食欲が湧かないのか、以前より少食になっている気がする。
「ビスケちゃんどうしたの?具合でも悪い?」
「ん……あ、いいえ!大丈夫です。元気ですよ。」
「悩み事があるなら一人で抱え込んじゃダメよ?私に話せることならいつでも話してね。」
そう言うと彼女は「えへへ、ありがとうございます。」と健気に笑い、食べかけのホットケーキに再び手をつけた。彼女の顔は確かに笑っていたが、私には、どこか上の空のような、何かを誤魔化すような風に見えた気がした。
そんなことが続いたある日の午後だった。
「ビリジアさん、ちょっとお話があるんですけどいいですか。」
「うん?どうしたの?」
突然、意を決したようにきりりとした表情でビスケちゃんがそう言い出した。
「すごく真面目な話です。私が今から話すこと、笑わずに聞いてくれますか。」
「もちろんよ。それで……何かあったの?」
彼女の真剣な眼差しに射抜かれ、私も思わず背筋を正して正座し、彼女の方を真っ直ぐ見つめる。彼女は一度大きく息を吸い込み、吐き出し、呼吸を整えてこう言った。
「私を、ビリジアさんのお嫁さんにしてください。」
「……およめ?」
完全に想定外で突拍子のない提案で、一瞬言葉の意味が理解できず面食らってしまう。私が怯んでいるとビスケちゃんは泣き出しそうな声で、堰を切ったように話し出した。
「だってだって、そうでもしないとビリジアさんまでまた何処かにいなくなっちゃわないかっていつも不安で……ずっとずっと私のそばにいてくれるって確証が欲しくって……もうひとりぼっちになんて、なりたくなくって……!」
胸の内を吐露したビスケちゃんはとうとう大粒の涙をポロポロ流して泣き出してしまった。私は考えるよりも先に彼女のもとに駆け寄り、抱きしめていた。彼女がここまで追い込まれていたことに気付けなかったなんて、保護者失格だな。なんて自嘲しながら大泣きする彼女の頭と背中をさする。
「そっか……ごめんね、ビスケちゃん。今までそんな寂しい思いさせてたなんて。」
「ビリジアさんの負担になりたくなぐって、ずっどずっど言えなぐっで……」
「ビスケちゃんは私の大切な人だもん、負担だなんて思わないよ。ビスケちゃんのために私にできることはなんでもやらせて。ね?」
彼女は私の胸の中でいっそう激しく泣き出し、私もいっそう強く彼女を抱きしめた。気がつけば私の方も、ぽたぽたと涙を流して泣いていた。二人分の泣き声が、しばらくリビングに響いていた。
ひとしきり泣いたあと、ビスケちゃんの呼吸が整ったところで改めて話を進めることにした。
「ビスケちゃんの気持ちはよく分かったわ。でも、ごめん。まだビスケちゃんとの結婚はできないや。」
「……そっか、そうですよね。」
しゅんとした表情で目を伏せる。同性婚は法的に認められているとは言え、未だその例は多いとは言えない。まして私とビスケちゃんの歳は10歳以上も開いている。彼女としてもダメ元のつもりで掛け持ってみたのだろう。しかし当然、私は彼女の希望を裏切ることはしたくない。
「ううん、違うのビスケちゃん。私もビスケちゃんとずっーと一緒にいたい。でも結婚は18歳にならないとできないでしょ?それに、もしそれまでに私よりももっといい人がビスケちゃんのとこに現れたらどうする?だから今は婚約、ってことにしましょう?」
「こんやく?」
「約束するの。ビスケちゃんが大人になったら、私と結婚するって。もちろん、それまでにビスケちゃんの気が変わらなかったら、だけど。」
それを聞くと、彼女の表情は途端に、パァッと子供らしい向日葵のような明るさを取り戻した。
「ほんとのほんとですか?!約束ですからね?絶対の絶対ですよ!」
「うん、絶対の絶対約束する。ありがとうね、私を選んでくれて。」
やっぱり彼女には、笑顔が一番似合っている。私にはその笑顔を、保護者として、婚約者として守っていく義務があるんだと、改めて自分に言い聞かせた。
その日の夜。そろそろ寝ようかとビスケちゃんの部屋におやすみの挨拶をしに行くが姿が見えない。はて、と思い私の部屋に行くとベッドの上に小柄な人影が見えた。
「あれ、ビスケちゃん?なんで私のベッドに?」
「ふふん、私たちもう恋人同士なんですから一緒に寝ましょうよ、ね?」
一体どこからそんなこと覚えてきたのか、 彼女はいたずらっぽい笑顔で私をベッドに招いていた。シングルベッドに大人一人と子供一人、当然窮屈だが不思議と寝苦しさは感じず、むしろビスケちゃんの息遣いを感じられて心地よかった。ビスケちゃんも同じようで、あっという間にすうすうと寝息を立てて眠っていた。そうして私も、そんな小さな愛しいフィアンセを抱きしめ、眠りについたのだった。