しとしとと雨の降る、まだ冬の気配の残る早春の日暮れの出来事だった。いつもの通り仕事を終えた私は、ビスケちゃんの待つ自宅へと歩みを進めていた。雨は嫌いだなぁ、と湿気でうねった自分の髪の毛を弄りつつふと空を見上げると、山の方からどす黒く分厚い雨雲が迫り、ゴロゴロという雷鳴が聞こえてきた。
「急いで帰らないと……。」
しばらく後に訪れるだろう嵐の予感に、私は小走りになる。その時だった。
「ミィ……」
自分の足音と差した傘に反射するかすかな雨音にかき消されてしまいそうな、か弱い声がどこかから聞こえてきた。かろうじて聞こえたその声の主を探そうと足を止めて辺りを見回すと、下手くそな字で「ひろってください」と書かれた小さなダンボールに入れられた、茶トラの子猫が目に入った。
「あらら……大丈夫?捨て猫さんかな……?」
「……ミィ」
しゃがみ込んで傘を被せ、よくよく観察してみる。美容師を生業とする故の職業病というべきか、まず真っ先に気になったのは毛並みのバサバサ具合だった。当然のことだけど、ろくに手入れがされていないのが一目瞭然だ。あまり動物には詳しいわけではないけれど、見たところ年齢は1歳にも満たない、生後6ヶ月くらいかしら。そんなことより、雨で冷えたのか全身が小さく震えているし目は殆ど開いていない、声も今にも消え入りそうで、素人目に見ても衰弱が激しいことは疑う余地もなかった。
「……マーゥ、マーゥ」
さてどうしようか、と思案していると突然、私の顔を見上げて「助けて」とでも言うかのように一際大きな声で鳴き始めた。見つけてしまった手前放っておいて帰ることなんかできるわけがない。これから来る大雨にこの子が耐えられるわけもないし、だけど……連れて帰ろうにもうちにはビスケちゃんがいる、アレルギーとかがあったら困るしなぁ……。など色々な考えが脳裏を掠めたが、気がつくと私は傘も置いたままこの子猫を抱き抱えて走っていた。少しでもこの子が温まるように四本の腕でギュッと抱きしめた上で服で包みこみ、雨がかからないよう自分の体を前屈みにして、急いで家へ向かった。
「おかえりなさいビリジアさ……び、びしょ濡れですけど大丈夫ですか……?」
「ただいまー、帰り道でちょーっと色々あってね……。」
ざぁざぁと響く激しい雨音を背に玄関を開けると、ビスケちゃんがいつも通りお出迎えをしてくれる。ただ私の普段と違う様子からどこか落ち着かない様子だ。ひとまずビスケちゃんに粗方の経緯を話して拾ってきた子猫を見せると、大慌てで家中のタオルと毛布をほとんど全て抱えて持ってきた。私は苦笑しながらその山から1枚タオルを受け取り、子猫の体を綺麗に拭いてやる。その間にビスケちゃんが後ろから私の髪の毛をわしわしと拭いてくれた。部屋が汚れない程度に自分の体も拭いた後、リビングのソファにタオルを敷き、その上に猫を寝かせ、ビスケちゃんの用意してくれたお布団をかける。まだ息はあるがやはり衰弱が激しいようでほとんど動こうとしない。取り急ぎでお水とツナ缶を器に移して目の前に用意したが、なかなか口をつけようとしなかった。
「これ使ったらどうですか?」
むむむと私が困り果てていると、ビスケちゃんはそう言って台所からティースプーンをひとつ持ってきてくれた。それを受け取りツナを掬って口元へ運ぶと、寝転んだまますんすんと匂いを確かめた後、ちろちろと舌で舐めとるように少しずつだが食べてくれた。しばらくそうして食べさせていると、ゆっくりと起き上がって器に向かい、ガツガツと勢いよくツナとお水を口に運んだ。よほどお腹が空いていたのか、お腹がぷくぷくになるまで飲み食いすると、満足したように舌なめずりをしながら再びタオルの上にドサっと倒れ込み、途端にすぅすぅと寝息を立てながらすっかり眠ってしまった。
「……この子、私の髪と毛色が似てますね。」
「ん、ほんとだね。もしかしたら私もそれでほっとけなかったのかも。」
眠った子猫に布団をかけてやっていると、ビスケちゃんがふと呟いた。同意して冗談まじりにふふ、と笑いかけてみるも、彼女は真剣な眼差しでじっと子猫を見つめるだけだった。よくよく見るとその瞳には涙が滲んでいた。
「心配?泣かなくても大丈夫、これだけ食べて寝ればすぐ元気になるはずよ。」
「……えっ?あれ、あれれ……?なんで私、泣いて……?」
ぽんぽんと頭を撫でてビスケちゃんにそう声をかけると、彼女は驚いたように自分の目をくしくしと拭った。自分でも気付かないくらい、自然と涙が溢れていたようだ。自分が泣いていることを自覚した途端、ビスケちゃんの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。私はしゃがみ込んで彼女の背中を摩り、落ち着くまで震える小さな手に私の手を重ねて待った。
「ごめんなさい……なんが、この子が可哀想で、止まんなくなっちゃっで……、ひっぐ、もう、落ち着きました、大丈夫、でず……。」
「よーしよしよし、ビスケちゃんは本当に優しい子ね。あったかくして寝かしてあげてたらこの子はきっと大丈夫になるはずよ。今日のところはゆっくり休ませてあげて、明日の朝病院に連れて行ってあげましょ。ね?」
そう言うとビスケちゃんはくしくしと涙を拭いながら大きく首を縦に振った。ひとまず子猫にご飯と寝床を与えられて安堵したところで、私は雨に降られて冷えた身体を温めるためお風呂場へ向かった。ビスケちゃんにも声をかけたが、よほど子猫のことが心配なのか「後で大丈夫です。」とソファの前に座り込んだまま動こうとせず、つぶさに猫の寝顔を眺めていた。
1時間後、ビスケちゃんなりの心尽くしなのか、少しでも子猫が安心できるように、もしくは少しでも温まるように、子猫の周りにはたくさんのぬいぐるみが置かれていた。
「やっぱり心配?」
「……はい、どうしても気になっちゃっ……くぁ……てぇ……。」
尚も憂いの目で子猫を見つめているビスケちゃんに声をかけると、あくびを噛み殺しながらそう答えた。その目はどこかとろんとしていて上体も前後に揺れており、明らかに睡魔に負けそうなのがわかった。
「あんまりじろじろ見られるとこの子も緊張して寝られなくなるわよ、ビスケちゃんも疲れちゃうし今日は私たちももう寝ましょ?……一人で寝られそう?」
ビスケちゃんは私の問いかけに対し、しばらく黙りこくった後に俯きがちにふんふんと静かに首を横に振り、ぎゅっと私の手を握った。私はその手を握り返し、お互いに手を繋いだまま私の寝室へと向かった。廊下を歩きながら時折しおらしそうに振り返り、ソファの方へ視線を送っていた。
「おやすみビスケちゃん、また明日ね。」
「おやすみなさい……。」
布団に潜り込んで部屋の電気を消し、彼女の頬にキスをする。まだ少し震えている彼女の小さな身体を抱き締めてやると、しばらくして穏やかな寝息が聞こえてきた。私も彼女のとくんとくんと鳴る心音を感じながら、安心して眠りに落ちた。
翌朝。目を覚ますもビスケちゃんの姿がない。布団の中を手でまさぐるがやはり返ってくるのはかすかな温もりを残した布団の感触のみだった。今は何時なんだろう、ビスケちゃんの姿と時間を確認するために起き上がってリビングへ向かうと、ビスケちゃんがそわそわした様子で迎えてくれた。昨日まではなかった両手の大量の引っ掻き傷とそこに乱雑に貼られた絆創膏が目に止まった。
「おはよぉ……その手の傷どうしたの?大丈夫?」
「おはようございます!え、えへへ……これはその、ちょっと……。」
何かを隠すように言い淀むビスケちゃん。でも傷の具合からして子猫の仕業なのは間違いない。件のその子の様子はどうだろうと思い昨晩寝かしつけたソファに目を向けるも、姿が見えなかった。
「あれ……、子猫ちゃんは?」
「あのえっと、その……家からは出てないはずなんですけど、かくかくしかじか、逃げられて見失っちゃってて……今、探してたところなんです。」
「逃げ……?とにかく探せばいいのね?」
いまいち状況は掴めないが、ひとまず子猫を探すことが先決ということはわかった。二人がかりであちこち探した結果、寝床にしていたソファの下に潜り込んでいるのを発見した。見るからに不機嫌な表情で、全身がびしょ濡れな上にふわりと石鹸の甘い匂いが漂ってくることから、なんとなくの事情は察せられた。
「えっと……なんとか体を洗うまではできたんですけど、その後拭こうとしたらとうとう暴れ出しちゃって、床もそこら中びちゃびちゃになっちゃったし……うぅ、ごめんなさい……。」
「ううん、謝らないでビスケちゃん。私の方こそ、こんな大事に寝ぼけててごめんね。ビスケちゃん一人でよく頑張ったわね、この子の為に早起きまでしてくれて。床掃除は後で私がやるから、とりあえずこの子の体拭いてあげよ。私が押さえておくから優しく拭いてあげて?」
「ぁ、ありがとうございます!任せてください!」
部屋を汚したことを余程気にしていたのかしょぼしょぼになっていたビスケちゃんだが、私はそんなさまつな事よりもビスケちゃんがたった一人でこの子の為に頑張ってくれたことが、彼女の心根の優しさが感じられてたまらなく愛おしかった。子猫の体を拭く、というミッションは、ソファの下から私が引っ張り出し、そのままがじがじと手をかじられながらもまた逃げ出さないよう、ビスケちゃんを引っ掻かないよう私の四本の腕を使ってしっかりと全身を固定してやり、ビスケちゃんが時折心配の視線を私に送りながらくまなく全身を拭く、というフォーメーションでどうにか完遂した。全身くまなく拭けたところで拘束を解いてやると、子猫はふんふんと不機嫌げに鼻を鳴らしながら必死に毛繕いをしていた。そんな姿を見て私とビスケちゃんは思わず目を合わせて笑ってしまった。
そんな騒動が一段落ついた頃、私のお腹かビスケちゃんのお腹か、はてまた二人ともかわからないが「ぐ〜ぎゅるる」と素っ頓狂な音が響いた。
「お腹空いたね?」
「えっへへ、結構ぺこぺこです……。」
軽く床の掃除をした後に、朝ごはんを食べることにした。今朝はビスケちゃんの希望によりベーコンオムレツとトーストだ。芳ばしいパンとベーコンの香りに誘われてか、料理をしている最中足元から「むー、むー」とご飯を催促する声が聞こえてきた。今は手が離せないしどうしよう、と思案していると、
「こっちだよ、ほらおいでー。」
その声を聞いたビスケちゃんがすぐさま子猫のご飯とお水を器に用意して与えてくれた。ビスケちゃんの呼びかけに子猫はトトト、と小走りで駆け寄り、ぴちゃぴちゃと元気に食事をする音が聞こえてきた。
「ビスケちゃんったら、すっかりお姉さんね。」
「そうですか?えへへ〜。」
照れた様子でふにゃふにゃと笑うビスケちゃん。にゃむにゃむと鳴きながらご飯を食べる子猫を覗き込みながら「おいしい?」と語りかけニコニコと笑顔を浮かべていた。ビスケちゃんのそんな姿に私もつい頬が綻んだ。
「できたよ、私たちも食べようか。」
そう呼びかけるとビスケちゃんは小走りでこちらにやってきた。「ありがとうございます!わ、おいしそ〜!」ときらきらと目を輝かせながら二人分のプレートを受け取り、卓上に配膳してくれた。
「「いただきます。」」
私たちが食卓を囲んでいると、食事を終えた子猫がちゃっかり卓上に上がってきて座っていた。
「ん、どしたの?ご飯足りなかった?」
ビスケちゃんが問いかけるも、当然のように答えは返ってこない。子猫はただ座って、ご飯をねだる様子もなく穏やかな顔で目を瞑っているだけだった。
「もしかしたら、ただ寂しいから誰かのそばに居たいだけなのかもね。」
「……そっか、ずっとひとりぼっちだったんですもんね。」
そう呟くビスケちゃんの横顔は、どこか遠くを見ているようで、とても切ない表情をしていた。
洗い物も済ませて時計を見ると現在の時刻は午前9時。病院が開くまでまだ少し時間があるなぁ、とぼんやり考えながらコーヒーを啜っていると、ビスケちゃんが不安げな顔をしてこちらにやってきた。
「ビリジアさん、そういえば……この子、病院の後はどこに行くことになりますか?」
「……寂しいけど、保健所に引き取ってもらうことになるかな。」
「やっぱり…………、あ、あの、この子……うちで引き取って、家族にすること……って、できませんか……、?」
ビスケちゃんは搾り出すように私にそう言った。ビスケちゃんがこの子猫に対して深い愛情を抱いていることは私も見ていて理解しているし、私だってこの子猫に対してかなりの愛着が湧いている。本心では二つ返事で「いいよ」と言ってあげたいところだ。しかし……ペットを飼う、命を預かることには大きな責任と負担がかかる。それを軽んじてしまっては、ビスケちゃんにとっても、この子猫にも幸せになる未来は無くなってしまう。――心が苦しいけれど、ここから先の判断は慎重にならざるを得ない。
「ビスケちゃん……本気?」
「……はい、本気です。」
私はビスケちゃんの目線に合うようしゃがみ込み、真っ直ぐにビスケちゃんの顔を見ながら問うた。私の言葉に一瞬怯んだ様子で、やや間があってからビスケちゃんは答えた。私は更にビスケちゃんの肩を両手で掴み、こう尋ねた。
「動物を飼うってとっても大変なことなの。普段のお世話はもちろんだけど、小さな身体でも一個の大事な命、それを預かるってことは大きな大きな責任を背負うことになるの。この子の命を預かる覚悟、ビスケちゃんはできる?」
「こ、この子の為なら、私はなんだってやれます。だって……この子は、私なんです。お父さんやお母さんと離れ離れになって、飼い主さんからも捨てられて……。ビリジアさんが私にしてくれたのと同じことを、今度は……今度は私がこの子にしてあげたいんです。」
「……っ。」
その言葉で私の胸はちくりと痛んだ。この子を拾ってきた日、ビスケちゃんはこの子を見て泣いていた。この捨てられた子猫のことと、両親に先立たれ、義理の両親からも捨てられた自分自身とを重ねて見ていたんだ。私の顔を真っ直ぐに射止めるように見つめるビスケちゃんの瞳の奥からは、慈愛、覚悟、責任感……強い決意が感じられた。ビスケちゃんのその気持ちをもって、私も腹を括った。
「……わかった、ビスケちゃんを試すような意地悪言ってごめんね。」
「それって、」
「その代わり、とーっても大事な条件が一個だけ。最後の最期まで、この子が幸せな人生だったって思えるくらいちゃーんと、愛し尽くすのよ?」
「やったー!ありがとうございます!絶対の絶対、この子は私が幸せにします!指切りげんまん!」
私がそう言った途端、ビスケちゃんの緊張した面持ちがふにゃりとほどけ一瞬で満点の笑顔となった。子猫を抱き抱えて「私たち家族になるんだよー、えへへっ。」と幸せいっぱいの表情で頬擦りしながら語りかけている。子猫は「むー」とどこか不服そうな声で返事をしたが、その表情は満更でもなさそうであった。
その後、ペットキャリーの代用として段ボールに布団を敷いたものに子猫を入れ、病院へと向かった。道中、暗い箱に詰められて車に揺られる恐怖からか「ナーゴ、ナーゴ」と大きな声で鳴いていたが、ビスケちゃんが都度「だいじょーぶ、だいじょーぶだよー。」と声をかけ、箱に手を入れて撫でてやることで次第に大人しくなった。病院での検査の結果は、特段の病気も無く、食欲もあるので引き続き十分な食事と新鮮なお水を与えてやれば体調については心配ない、とのことで胸を撫で下ろした。昨日まで野垂れ死にそうだった子猫がここまで回復するとは、きっとビスケちゃんの献身のおかげだろう、と私は一人で結論づけて満足した。病院ではひとまず、ノミ・ダニ避けのお薬だけ貰って帰宅することとなった。
「ビリジアさん起きてください!朝です!クッキーちゃんの方がずっと早起きのいい子ですよ!」
「ナーオ、ナーオ」
「おきてる、おきてるよぉ……、のらないでクッキーちゃん……お、おもい……」
新しい家族――ビスケちゃんによって「クッキー」と名前をつけられた子猫がうちに来てからの生活は慌ただしいものになった。特に朝はビスケちゃんに倣ってかクッキーちゃんまで私を起こしにくるものだからてんやわんやだ。リビングの方もクッキーちゃん用のトイレ、餌場、ベッド、おもちゃ、キャットタワー……とにかく物が増えてこっちも賑やかになった。しかし、何より変わったのはビスケちゃんだろう。
「クッキーちゃんは女の子なんですから、重い、なんて言ったら怒っちゃいますよ?ねー、クッキーちゃん?」
「まーぅ」
ビスケちゃんはクッキーちゃんとすっかり仲良しになったようで、ペットと飼い主、というよりはむしろ友人や姉妹のような、もっと対等で親しい関係性に見えてくる程だ。亜人かつ不登校の彼女にとって、他者との関わりは殆ど無いも同然で、彼女の口から語られる身の上話も主にご両親の話ばかりで友人の名前が出てくることはなかった。そんな中、この子猫はビスケちゃんにとって初めてのお友達になってくれたのだ。時々、恋人の私よりもイチャイチャしていて妬いてしまうけれど、ビスケちゃんの表情が以前よりも明るく、そして自分より小さな家族ができたことで気合が入ったからか、少しだけ大人っぽくなったことが私は何よりも嬉しかった。
「今朝は私が朝ごはんを作りましたよ!あー……味付け中にその、くしゃみしちゃって、ちょーっとだけ失敗しちゃいましたけど……。」
「失敗って?すっごく美味しそうなスクランブルエッグじゃない!ありがとう、ビスケちゃん。」
我が家のルール、朝ごはんと夜ごはんは家族揃って食べること。今は私とビスケちゃんの二人に加えて一匹、クッキーちゃんもそこに含まれることになったのだ。不思議なことに、言葉の通じないはずのクッキーちゃんもまるでこのことを理解しているようで、私とビスケちゃんが揃って食卓を囲むまでごはんを食べようとしないのだ。
「「いただきまーす。」」
私達のその声をきっかけとして、クッキーちゃんも食事に口をつける。私とビスケちゃんは少し胡椒の効きすぎたスクランブルエッグとトーストを、クッキーちゃんは猫用のドライフードをそれぞれ食する。クッキーちゃんのカリカリとドライフードを噛み砕く音と「にゃむにゃむ」「うみゃいうみゃい」という元気な鳴き声が妙に耳心地良く聞こえた。
「ごちそうさまビスケちゃん、すっごく美味しかったよ。ありがとう。」
「え、えへへ……それならよかったです。」
素直な感想を伝えると、ビスケちゃんは照れくさそうに顔を伏せながらそう返事する。その様子が健気で一層愛おしく感じられた。朝食を済ませた私は、手早く仕事の準備にかかった。顔を洗って服を着替えて髪を整え、メイクをしたら完成だ。
「幸せ、だなぁ。」
一通りの準備が整って一息ついた時、思わず誰に言うでもない独り言をぽつりと呟く。鏡の中の私は自分でも驚くくらい穏やかな笑みを浮かべていた。この平穏で幸せな日々がずっとずっと続けばいい、その為にもこれまで以上に頑張らないと、と自分の頬をはたいて気合いを入れ、天を仰ぐ。すると、視界の隅に空っぽの小さな猫用ベッドが見えた。クッキーちゃんは毎朝食後に自分のベッドで寝直すのが習慣のはずなんだけど……どこに行ったんだろう、と視線を泳がせると、そのすぐ隣のソファに口を開けたまま仰向けで眠るビスケちゃんと、目が半開きのままビスケちゃんと同じ格好で並んで眠りこけているクッキーちゃんの姿があった。
「もう……んふふ、本当にだらしのない子たち。」
愛おしい二人の家族にそっと毛布を被せた私は、ビスケちゃんの頬に軽く口付けし、クッキーちゃんの頭を優しく撫でて、二人を起こさないよう静かに仕事場へ向かうのだった。