同じ痛みを知る、二人で   作:allegrett0

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あまりにもこのサイトに不慣れでして、ぐちゃぐちゃになってしまったのを再編しました。


出会い

同じ痛みを知る、二人で

第一話 出会い

 

 

 夜の草原は、昼とは違う顔をしている。

 子どもたちの笑い声も、遠くで鳴くポッポの声も、日が落ちるとどこかへ消えてしまう。残るのは、風が草を撫でて倒していく音だけだ。その音さえ途切れ途切れで、耳を澄ませていないと、自分が息をしている音のほうが大きく聞こえる。

 マサラタウンの灯りから少し外れたその場所に、その夜、小さな影がひとつうずくまっていた。

 

◆

 

 どうして自分は、ほかのポケモンのように速く動けないのだろう。

 その問いを、イーブイはもう何度繰り返したかわからない。走り出せば一拍遅れる。避けようとすれば、体が間に合わない。主人の声が荒くなるのはいつもその一拍のあとで、手が飛んでくるのはさらにそのあとだった。

 鈍い、と主人は言った。勝負に負けるたびに言った。そのうちイーブイ自身が、同じ言葉で自分を呼ぶようになっていた。鈍い。遅い。役に立たない。鳴き声にして出したことは一度もない。それでも体の奥に染みついたその言葉は、どれだけ毛づくろいをしても落ちない汚れのように、いつまでもそこにあった。

 ただ、ひとつだけできることがあった。耐えることだ。

 打たれても倒れなければ、まだ使えると思ってもらえる。倒れさえしなければ、終わりにはならない。イーブイはそう信じて、どれだけ叩かれても地面に伏せ、そしてまた立ち上がった。耐える。自分にはそれしかできない。だからせめて、それだけは誰よりもできるようでありたかった。

 その主人は、ある朝、イーブイをボールから出したまま草むらに置いていった。

 空のボールが、すぐそばに転がっていた。主人の足音が遠ざかっても、イーブイはしばらくそのボールの横で待っていた。戻ってくると思っていたわけではない。どうすればいいのか、わからなかっただけだ。

 耐えていれば捨てられない、というのは、ただの思い込みだったらしい。

 そのことに気づくまでに、ずいぶん長くかかった気がする。

 

◆

 

 レッドは、遠回りになると知っていてその道を選んだ。

 今日はかけっこだった。町外れの柵から研究所の門まで。スタートの合図を出したのはグリーンで、門に先に手をついたのもグリーンだった。肩で息をするレッドを振り返って、グリーンは楽しそうに笑った。

「明日からポケモンだぜ。お前、ポケモン勝負でも同じ顔するんだろうな」

 言い返す言葉は、いつものように喉の手前で止まった。

 負けるのは今日が初めてではない。木登りでも、川の飛び石渡りでも、どちらが先に虫ポケモンを見つけるかでも、レッドはグリーンに勝ったことがない。数えるのはとっくにやめた。それなのに、グリーンが「勝負な」と言えば、レッドは一度も首を横に振ったことがなかった。口では何ひとつ言い返せないくせに、負けるとわかっている勝負から背を向けることだけは、どうしてもできなかった。

 明日になれば、ポケモンがいる。自分の足や腕で勝てないのなら、あるいは――。

 そこまで考えて、レッドは思うのをやめた。期待したぶんだけ、負けたときに重くなる。それくらいは、もうわかっている。

 足元ばかり見て歩いていたから、最初は気づかなかった。

 かすかな物音がして、道の脇の草が一か所だけ不自然に揺れた。顔を上げると、暗がりの中に小さな影がある。

 目が合った。

 その瞬間、レッドは息を詰めた。

 怯えている。それははっきりわかる。けれど、影は完全に身を縮めてはいなかった。前足を地面に低くつけ、いつでも何かに耐えられる姿勢のまま、こちらから一瞬も目を離さない。怖がっているというより、怖いことが起きるのを待っているような目だった。

 ――あ。

 胸の奥に、覚えのある感覚がすとんと落ちた。グリーンの前に立つときの自分と、同じ目をしている。

 レッドは近づかなかった。声もかけなかった。不用意に動けば相手の警戒を強めるだけだし、急に手を伸ばせば噛まれるかもしれない。何より、自分が同じ立場なら、近づいてきてほしくはなかった。

 ゆっくりとポケットに手を入れる。影の耳がぴくりと伏せられたのを見て、レッドは一度その手を止めた。それから時間をかけて、昼に母が持たせてくれたパンの包みを取り出した。

 半分に割り、片方を草の上に置く。

 それ以上は何もしなかった。影から目を逸らし、来た道のほうへ、少しだけ足音を立てて歩き出す。ここにはもう誰もいないと、相手にわかるように。

 

◆

 

 人間が去っても、イーブイはしばらくその場を動かなかった。

 足音が草の向こうへ消えていく。それでも体は固まったままで、目が合った瞬間に背筋を走った嫌な感覚が、まだ毛の先に残っていた。

 ただ、その嫌な感覚の正体は、思っていたものとは違った。

 あの人間は、殴る側の目をしていなかった。どちらかといえば、殴られてきた側の目だ。視線が定まらず、体の重心がいつも半歩うしろに残っている。イーブイが見ていたのは人間の顔ではなく、人間の癖だった。手を上げる前の、ためらいのない間。声を荒らげる前の、息の吸い方。そういうものを見分けることだけは、嫌になるほど上手くなっていた。

 あの人間には、そのどれもなかった。あったのは、何か言おうとして結局言わずに飲みこむときの、あの小さな躊躇だけだ。

 ――あいつも、弱い。

 そう思ったとたん、腹が鳴った。情けないほど小さな音だった。弱っているところを誰かに見せるわけにはいかない。そう思うのに、草の上に残されたパンの匂いは、風が吹いても消えてくれなかった。

 イーブイは、ずいぶん間を置いてから一歩だけ前に出た。距離を確かめ、立ち止まり、耳を澄ませ、もう一歩。それを何度も繰り返して、ようやくパンのそばまでたどり着く。

 一口かじる。何も起きない。

 もう一口。それでも、何も起きなかった。

 すべて食べ終えたとき、残ったのは安堵ではなかった。こんなことで少しでも心が緩んだ自分への、うんざりするような苛立ちだった。腹が減っていたからだ。弱っていたからだ。イーブイは何度もそう言い聞かせた。

 それなのに、立ち上がった足は、草原の奥ではなく町の灯りのほうを向いていた。

 あの人間が帰っていった方角だと気づいたのは、ずいぶん歩いてからのことだった。

 

◆

 

 翌朝、レッドは研究所の扉を押した。

 マサラタウンで育った子どもなら、誰でもこの日のことを知っている。オーキド博士からポケモンをもらい、旅に出る日。昨日の夜の重たい気分は、一晩眠っても半分くらいしか抜けていなかったけれど、それでも扉を押す手には少しだけ力がこもった。

 研究所の中は、いつもと変わらなかった。機械の低い駆動音と、積み上がった書類の山と、薬品の匂い。

「来たか、レッド」

 オーキド博士が振り返る。その足元に、ポケモンが一匹伏せていた。

 レッドは足を止めた。

 床に腹をつけるような低い伏せ方。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただそこで何かに耐えている姿勢。見間違えようがなかった。

 茶色の耳がぴくりと動き、伏せていた顔がわずかに上がる。目が合った。向こうもこちらを覚えている、とレッドは思った。根拠はない。ただ、昨夜と同じように目を逸らされるまでの時間が、ほんの少しだけ長かった。

「なんじゃ、知り合いか?」

 博士が不思議そうに二人を見比べる。レッドは少し迷ってから、首を小さく横に振った。知り合いと呼べるほどのことは、何もしていない。

「今朝早くな、研究所の前でうずくまっとったんじゃ。イーブイというポケモンでな。前のトレーナーのことは何もわからん。じゃが……」

 博士はそこで一度言葉を切り、イーブイの背中に目を落とした。

「毛の下に古い傷がいくつもある。それに、わしが手を上げると、こうして身を固めてしまう。逃げずにな。ずっと、そうやって耐えてきたんじゃろう」

 博士が軽く手をかざしてみせると、イーブイは本当に体を硬くし、目を細めて衝撃を待つ姿勢をとった。何も来ないとわかると、ゆっくりと力を抜く。その一連の動きが、あまりにも慣れていた。

「調べてみたが、この子は素早さがかなり低い。速さを好むトレーナーとは、合わんかったのかもしれんな」

 レッドは何も言えなかった。どう返せばいいのかわからなかったし、言葉を探す余裕もなかった。

 博士が、そこで初めてまっすぐレッドを見た。

「今日が旅立ちの日じゃ。レッド、この子をお前に託したい」

 差し出されたのは、赤いポケモン図鑑とモンスターボールがひとつ。博士がそのボールをイーブイに向けようとすると、イーブイは顔をそむけ、ボールから体ひとつぶん離れた。

「……ボールを嫌がってな。無理には入れとらん」

 レッドは図鑑だけを受け取り、ボールは博士の手に残したままにした。それでいい、と博士は小さくうなずいた。

「よー、じいちゃん! もう始めていいか?」

 研究所の奥から、よく通る声が響いた。レッドの肩が跳ね、イーブイの耳が音のほうへ向く。

 グリーンが、腰につけたモンスターボールを手のひらで叩きながら歩いてきた。昨日のかけっこのことなど、もう覚えていないような顔だった。

「旅立ちの日なんだからさ、最初はやっぱ勝負だろ。なあレッド」

「まったく……。ほどほどにするんじゃぞ」

 博士のため息を、グリーンはまるで聞いていなかった。ボールを手のひらで弾ませながら、レッドの前に立つ。

 レッドは床に目を落とした。初めてのポケモン勝負だ。何を言えばいいのかも、どこを見ていればいいのかもわからない。

 それでも、首を横に振ることはできなかった。

 足元で、イーブイがわずかに体を起こした。前に出るわけでも、レッドの後ろに隠れるわけでもない。ただ、昨夜と同じ低い姿勢のまま、グリーンのほうへ顔を向けている。

「なんだよ、返事くらいしろって。まあいいや。いけ、ヒトカゲ!」

 赤い光が弾け、尻尾の先に小さな炎を灯したポケモンが床に降り立った。

「……い、いけ」

 自分の声が、思っていたよりずっと小さかった。何を命じるかも決まらないまま、勝負は始まってしまった。

「ヒトカゲ、ひっかく!」

 ヒトカゲが床を蹴った。速い。レッドがまばたきをする間に距離が詰まり、爪がイーブイの肩を裂く。イーブイの体が横に揺れた。

「た、たいあたり!」

 イーブイが走り出す。けれどその一歩目は、レッドの目にもはっきりわかるほど遅かった。ヒトカゲは慌てる様子もなく半身をずらし、体当たりは空を切る。すれ違いざまに、もう一度爪が走った。

「おっそ。もう一回だ、ヒトカゲ!」

 同じことが繰り返された。イーブイが走り、ヒトカゲがかわし、爪が入る。ようやく一度だけ体当たりが当たってヒトカゲが一歩下がったが、そのあとはまた同じだった。イーブイは打たれるたびに床へ伏せ、伏せたまま足を踏ん張り、また立ち上がる。何度打たれても、倒れることだけはしなかった。

 その姿を見ながら、レッドの頭の中を一瞬だけ、言葉がよぎった。

 ――もっと速ければ。

 自分でも驚くほど自然に浮かんだその言葉を、レッドは慌てて押しこめた。そんなことを考えている暇はない。考えなければいけないのは次の指示だ。けれど声を出そうとするたびに喉が詰まり、指示を考えるたびにヒトカゲの爪のほうが先に届いた。

「そこまでじゃ」

 博士の声が落ちた。ヒトカゲがぴたりと動きを止め、イーブイはその場に崩れるように伏せた。

 勝負がどうなったかは、誰の目にも明らかだった。

「ま、こんなもんだよな」

 グリーンはヒトカゲをボールに戻しながら、肩をすくめた。悪気がないのは、声の調子でわかった。グリーンにとって、これはいつもどおりの結果でしかないのだ。

「お前、ポケモン持っても変わんねえのな。ちゃんと命令くらい出してやれよ、そいつかわいそうだぜ」

「グリーン!」

「わかってるって、じいちゃん。じゃ、俺もう行くわ。姉ちゃんにタウンマップもらったし、トキワまで一番乗りだ!」

 博士が止める間もなく、グリーンは手を振って研究所を出て行った。扉が閉まり、機械の駆動音だけが戻ってくる。

「レッド……」

 博士はイーブイの横にしゃがみ、傷薬を吹きつけた。それから、顔を伏せたままのレッドに何か声をかけようとした。いつもなら、レッドはここで泣きだす。博士も、たぶんそのつもりで言葉を選んでいた。

 けれどレッドは泣くより先に、床に伏せたイーブイを両腕ですくい上げていた。

 自分でも、なぜそうしたのかはわからなかった。ただ、この場所にこれ以上こいつを置いておきたくなかった。

「レッド、待ちなさい!」

 博士の声を背中に聞きながら、レッドは扉へ走った。押し開けた先に人影があって、ぶつかりそうになり、慌てて足を緩める。

「あら?」

 マサラでは見かけない女の人だった。肩で切りそろえた黒い髪に、山吹色の着物。手には、まだ閉じたままの和傘を提げている。

 目が合いそうになって、レッドは顔をそむけた。そのまま脇をすり抜け、町の外へ向かって駆けだした。

 

◆

 

 走り去っていく少年の背中を、エリカはしばらく目で追った。腕の中に、茶色い毛並みのポケモンを抱えていた。

「オーキド博士、今の子は?」

 研究所の中を覗くと、博士が困ったように頭をかいていた。

「おお、エリカさん。いや、見苦しいところを見せてしもうたな。今日旅立つ予定の子じゃよ。初めての勝負で、わしの孫にこっぴどく負けてな」

「まあ」

「相手の手持ちはヒトカゲ、あの子のほうはイーブイじゃ。どちらも今日が初めての勝負で、ひっかくと体当たりの打ち合いじゃったが……あの子は結局、ほとんど指示を出せんかった」

 博士は、エリカがタマムシから届けた資料の束を受け取りながら、ため息まじりに続けた。

「レッドというんじゃが、昔から口数の少ない子でな。孫のグリーンとは、どうにも噛み合わん。何年か前、グリーンが木から落ちて足をくじいたことがあってのう。レッドはその場で駆け出して、大人を呼びに走ったんじゃ。じゃが置いていかれたグリーンのほうは、見捨てられたと思いこんでしもうた。あとで事情は話したんじゃが……それ以来、グリーンは何かにつけてレッドに勝負を挑むようになってな。レッドのほうも、一度も断らん」

「負けても、ですか」

「負けても、じゃ。負けるとたいてい、一番道路の脇の原っぱで丸くなっとる」

 エリカは窓の外に目をやった。朝は晴れていた空に、いつの間にか灰色の雲が垂れこめている。庭石の上に、ぽつりと最初の雨粒が落ちた。傘を持ってきたのは、どうやら正解だったらしい。

 泣き虫の男の子を励ましてあげたい、などという殊勝な気持ちがあるわけではなかった。ただ、トレーナーにとって最初の負けがどれほど重いものかは、エリカ自身がよく知っている。あの重さをどう抱えるかで、その先が変わってしまうことも。

 その最初の一歩に、少しだけ傘を差しかけるくらいなら、許されるだろう。

「博士。その原っぱの場所を、教えていただけますか?」

 

◆

 

 イーブイは、人間の腕の中にいた。

 抱き上げられた瞬間に体は勝手に固まったが、腕は締めつけてこなかったし、投げ捨てられることもなかった。人間はイーブイを抱えたまま、ただ走っていた。研究所を出て、町を抜け、柵を越えて、草の丈がだんだん高くなっていく。

 頬に冷たいものが当たった。雨だった。研究所を出たときから、もう降りはじめていたらしい。人間の帽子のつばから雫が垂れ、それがイーブイの鼻先に落ちてくる。

 わからなかった。

 負けたのだ。ほとんど何もできずに、ただ打たれていただけだった。主人が声を荒らげるのは、いつもこういうときだった。手が飛んでくるのは、そのすぐあとだった。

 この人間は、怒鳴らなかった。殴らなかった。それどころか、伏せたままの自分を拾い上げて、あの場所から連れ出した。

 逃げようと思えば、腕を振りほどいて逃げられたはずだ。けれど体は動かなかった。人間の腕は雨に濡れているのに冷たくなくて、走るたびに伝わってくる鼓動は、怒っている人間の鼓動とは違っていた。その違いが、イーブイにはどうにも落ち着かなかった。嫌なのではない。嫌ではないことが、居心地悪かった。

 こんなことで揺らぐのは、自分が鈍いからだ。イーブイは自分にそう言い聞かせた。

 やがて人間の足が止まった。草原の真ん中に、雨に打たれる水たまりがいくつもある。人間はその前に膝をつき、そのまま座りこんだ。イーブイを抱えた腕から、少しずつ力が抜けていく。

 長いあいだ、人間は何も言わなかった。ただ水たまりの表面で弾ける雨粒を見ていた。帽子の下から、雨とは違う雫が一つ、二つと顎を伝って落ちていく。

「……弱いな」

 ずいぶん経ってから、人間はかすれた声で、それだけ言った。

「僕も、お前も」

 イーブイは目を逸らした。言い返すことはできなかった。事実だったからだ。

 そして、その事実が自分ひとりのものではないことを、イーブイはこのとき初めて知った。この人間も、やられてきた側なのだ。負けて、負けて、負け続けてきた側なのだ。だから殴らないし、怒鳴らない。

 同じ痛みを、知っているから。

 そのとき、雨音の質が変わった。頭の上で、ぱたぱたと何かが雨を弾いている。

 見上げると、山吹色の傘が、人間とイーブイの上に差しかけられていた。

 

◆

 

「そんなところにいたら、風邪をひいてしまいますよ」

 頭の上から、やわらかい声が降ってきた。

 レッドは一度だけ目元をこすってから、横目で声の主を確かめた。研究所の入口でぶつかりかけた、着物の女の人だった。それがわかると、レッドはすぐに視線を水たまりへ戻した。

 見られたくなかった。泣いているところも、負けたあとの顔も。

「研究所でオーキド博士にお名前を伺いました。レッドさん、ですね。わたくしはエリカと申します。ポケモントレーナーをしております」

 レッドは答えなかった。答えなければ、そのうちいなくなるだろうと思った。

 けれどエリカは、傘を差しかけたまま、そこを動かなかった。

「グリーンさんに、勝ちたいと思いますか?」

 雨音の中で、その問いだけがはっきりと聞こえた。

 レッドは長いあいだ黙っていた。勝ちたいかと聞かれれば、勝ちたいに決まっている。けれど、それを口に出すことには意味がない気がした。

「……無理だよ」

「どうしてですか?」

「いつもそうなんだ。何をやっても、グリーンのほうが上なんだよ。頑張っても、どうせ負ける」

「なるほど」

 エリカはあっさりとうなずいた。慰めの言葉が来ると思っていたレッドは、少しだけ拍子抜けした。

「レッドさんは、ポケモンリーグの中継をご覧になったことはありますか?」

「……テレビで、ちょっとだけ」

「わたくし、あれが大好きなんです。どのポケモンを出すか、どの技をいつ使うか、相手の次の一手をどう読むか。そういうものが全部噛み合った試合は、見ているだけで胸が高鳴ります」

 話す声が、ほんの少し弾んでいた。この人は本当にポケモン勝負が好きなのだ、とレッドは思った。それが、なんとなく気に入らなかった。

「でも、勝てなきゃ意味ないじゃん」

「ええ、そうですね。勝負の世界は、結局は結果がすべてです」

 否定されなかったことに、レッドはまた少し驚いた。

「ただ、リーグの決勝であっても、今日初めてポケモンを持った子ども同士の勝負であっても、最後の最後で勝ち負けを分けるものは同じなんです。何だと思いますか?」

 エリカは傘を少しだけ傾け、レッドの顔を覗きこむようにして微笑んだ。

「……ポケモンの強さ?」

「いいえ」

 迷いのない答えだった。

「じゃあ、わかんないよ。ポケモンより強いものなんて」

「トレーナーとポケモンが、互いのことをどれだけ知っているか。わたくしは、それを絆と呼んでいます」

 その言葉が出た瞬間、足元にいたイーブイの耳が、ぺたりと伏せられた。雨のせいではない、とレッドは思った。さっきまで雨粒が当たっても、耳はずっと立っていたからだ。

「……絆?」

「はい。レッドさん、オーキド博士からいただいた図鑑を、その子に向けてみてください」

 レッドはポケットから赤い図鑑を取り出し、言われたとおりイーブイに向けた。小さな電子音が鳴り、画面に文字が浮かぶ。

『イーブイ しんかポケモン 不安定な遺伝子をもち、まわりの環境によってすがたを大きく変えるといわれる』

「しんかポケモン……」

「図鑑に書いてあるのは、イーブイというポケモン全体のことです。でも、今レッドさんの足元にいるこの子のことは、どこにも書いてありません」

 エリカは袂から小さな紙袋を取り出し、レッドに手渡した。中には茶色い粒が入っていて、かすかに香ばしい匂いがする。

「ポケモンフードです。この子にあげてみてください」

 レッドは粒をいくつか手のひらに乗せ、イーブイの鼻先に差し出した。

 イーブイは口をつけなかった。鼻先をわずかに動かしただけで、伏せたまま、レッドの手と顔を交互に見ている。差し出した手を、まるで振り上げられる前の手のように見ている。

 ――昨日の夜と、同じだ。

 レッドは手のひらの粒を草の上にそっと置き、手を引いた。それから一歩、二歩と後ろへ下がった。昨夜パンを置いて立ち去ったときと、同じくらいの距離まで。

 しばらくして、イーブイの鼻先が動いた。立ち上がり、何度もこちらを確かめながら粒のそばまで来て、ようやく一つ口に入れる。もう一つ。レッドが動かないとわかると、残りもゆっくりと食べはじめた。

「この子が安心できる距離を、レッドさんはもう知っていたのですね」

 エリカが、静かに言った。

「ポケモンは、命令を聞くための道具ではありません。好きなものも嫌いなものもあって、怖いことも、嬉しいこともある、ひとつの命です。トレーナーの仕事は、その命のことを一つずつ知っていくこと。そして同じだけ、自分のことを相手に知ってもらうことです」

「僕のことを……こいつに?」

「ええ。この子はまだ、レッドさんのことをほとんど知りません。レッドさんが、この子のことをまだほとんど知らないのと同じように」

 食べ終えたイーブイが、草の上で顔を上げた。レッドと目が合うと、すぐに逸らす。それでも、逃げはしなかった。

「互いを知って、知られて、そうやって積み重ねたものが、勝負の最後の一歩で背中を押してくれる。わたくしはそう信じています」

 レッドは、イーブイを見た。

 研究所での勝負のことを思い出していた。何度打たれても立ち上がっていた姿と、それを見ていた自分の頭に浮かんだ言葉を。

 もっと速ければ。

 あのとき、レッドはこいつのことを何ひとつ見ていなかった。見ていたのは、遅いということだけだった。こいつの体に傷を残していった誰かも、きっと同じものを見ていたのだ。

 そう気づいた瞬間、指先から血の気が引いていくのがわかった。

「……僕も」

 声が震えた。それでも、レッドは顔を上げ、初めてエリカの目をまっすぐに見た。

「僕も、なれるかな。そういうトレーナーに」

「なれるかどうかは、誰にもわかりません。わたくしにも、博士にも」

 エリカはそう言って、傘の柄を握り直した。

「大切なのは、なりたいと思うかどうかです。レッドさんは、ポケモントレーナーになりたいですか?」

 レッドは目を閉じた。

 グリーンの笑い声が聞こえた。博士の困ったような顔が浮かんだ。グリーンのお姉さんが、申し訳なさそうに頭を下げる姿も。いつも誰かが、レッドを可哀想なものを見る目で見ていた。

 強くなれるだろうか。あの目で見られずにすむ日は来るだろうか。トレーナーになれば、グリーンに勝てるだろうか。

 ――違う。

 勝てるかどうかではない。勝ちたいのだ。勝てないとわかっている勝負から一度も逃げられなかったのは、たぶん、ずっとそう思っていたからだ。

 目を開けると、イーブイがこちらを見ていた。今度は、すぐには逸らさなかった。

「……なりたい。トレーナーになって、グリーンに勝ちたい」

「はい」

「でも、その前に、こいつのことを知りたい。ポケモンのことも、勝負のことも、全部」

「ええ」

 エリカが笑った。さっきまでの穏やかな微笑みとは違う、心の底から嬉しそうな笑い方だった。

「あの……エリカ、さん」

「はい」

「少しだけでいいから、教えてくれませんか。ポケモンのこと」

「もちろんです。喜んで」

 傘を打つ音が、いつの間にか止んでいた。見上げると、灰色の雲の切れ間から、薄い光が草原に落ちてきていた。

 

◆

 

 エリカという人間がレッドに話をしていたのは、日が少し傾くくらいの間だった。

 イーブイは、少し離れた草の上でそれを聞いていた。何を話しているのかは半分もわからなかったが、レッドがときどき地面に指で何かを書き、エリカがそれを見てうなずいているのはわかった。レッドは、研究所にいたときとは違う顔をしていた。

 研究所に戻ると、博士は何も聞かずに、空のモンスターボールを五つレッドに渡した。そのうちの一つを、博士はもう一度イーブイの前に差し出した。

 イーブイは顔をそむけた。草むらに転がっていた、あの空のボールを思い出したからだ。

「いいよ、博士」

 レッドがボールを受け取り、そのままバッグにしまった。それだけだった。

「旅の途中でタマムシシティに寄ることがあったら、ぜひ訪ねてくださいね。きっと、すぐにわかりますから」

 研究所の前で、エリカはそう言ってレッドに頭を下げた。レッドも、ぎこちなく頭を下げ返した。

 イーブイは、そのエリカの顔を見上げていた。

 優しい顔をしていた。声もやわらかかった。そして、あの言葉を使った。

 絆。

 前の主人も、その言葉が好きだった。勝負の前にはいつも、お前を信じている、俺たちには絆があるんだと言った。そして勝負に負けると、その同じ口で、鈍いと吐き捨てた。絆という言葉のあとには、いつも手が飛んできた。

 だからイーブイは、その言葉を信じていない。勝てば続くし、負ければ切れる。使えるうちは呼ばれて、使えなくなれば置いていかれる。それだけのものだ。この優しそうな人間だって、きっと最後には同じことを言う。

 エリカの姿が研究所の中に消えると、レッドはマサラタウンの北の端まで歩いた。そこから先は、イーブイの知らない道が続いていた。

 レッドは一度しゃがみこみ、イーブイを抱き上げようと手を伸ばした。イーブイは反射的に一歩さがった。

 レッドは、手を引っこめた。

「……行こう」

 それだけ言って、レッドは歩き出した。イーブイは少し迷ってから、その一歩後ろをついていった。

 草が揺れ、雨上がりの風が毛並みを撫でていく。濡れた土の匂いが強い。歩くたびに、今朝つけられた傷が少しだけ痛んだ。

 また期待されるのだろう、とイーブイは思った。また期待されて、また応えられずに、また同じことを繰り返すのだろう。鈍い自分には、それしかできないのだから。

 それなのに、前を行く人間は、まだ一度も怒鳴っていない。まだ一度も、手を上げていない。

 ――なぜ。

 その答えは、まだ見つからなかった。

 ただ、ひとつだけ気づいたことがあった。前を行く人間の歩幅は、昨日の夜、草原でパンを置いて去っていったときよりも、ずっと小さかった。イーブイが急がなくても、離れずについていけるくらいに。

 それが自分に合わせた歩き方だと気づいたのは、マサラタウンの屋根がすっかり見えなくなってからのことだった。

 

(第一話 了)

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