同じ痛みを知る、二人で   作:allegrett0

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気になる箇所が無限にでてくるので、直しながら前に進みます。


芽吹くなにか

同じ痛みを知る、二人で

第二話 芽生えるもの

 

 

 マサラタウンを出た翌朝、一番道路は朝露で白く光っていた。

 ゆうべは道の脇の大きな木の下で眠った。眠ったといっても、レッドはほとんど目を閉じていただけだ。イーブイは木の根元から少し離れた草の中で丸くなり、レッドが寝返りを打つたびに、耳だけをこちらへ向けていた。

 歩き出すと、イーブイはやはり一歩後ろをついてくる。近すぎず、離れすぎず、昨日の夕方からずっと同じ距離だった。レッドが足を止めればイーブイも止まり、レッドが歩き出せば、少し遅れて動き出す。抱き上げようとすれば下がることもわかったから、レッドはもう手を伸ばさなかった。

 かわりに、歩幅を小さくした。それでもイーブイの足音は、ときどき遅れる。草を踏む音が一拍ずれて追いついてくるたびに、レッドは、前の主人もこの音を毎日聞いていたのだろうかと考えた。そう思うと、なんとなく振り返れなくなった。

 

◆

 

 草むらを抜けると、ぽっかりと開けた場所に出た。

 ポッポの群れが地面をついばんでいる。十羽はいるだろうか。レッドが足を止めると、後ろのイーブイも止まった。

 群れの中から一羽が顔を上げた。ほかのポッポよりひと回り小さい。それなのに、真っ先にこちらに気づいたのも、真っ先に翼を広げたのも、その一羽だった。

 小さなポッポは低く飛んで、レッドとイーブイの間の地面に降り立った。胸を張り、甲高く鳴く。群れのほかのポッポたちは、少し離れたところからそれを眺めていた。止める様子はない。いつものことだ、とでもいうように。

 縄張りに入ってきた相手を、追い返そうとしているのだ。レッドにも、それくらいはわかった。

 イーブイが体を低くした。逃げる構えではなかった。昨日、研究所でヒトカゲの前に立ったときと同じ、何かに耐えるための姿勢だ。

「……やるのか」

 答えるかわりに、イーブイは前足に体重をかけた。

「イーブイ、たいあたり!」

 イーブイが草を蹴る。ポッポは慌てもせずに一度羽ばたき、ふわりと浮いて体当たりをかわした。かわしざまにくちばしでイーブイの背中をつつき、すぐにまた距離を取る。

 二度、三度と同じことが続いた。イーブイが走るたびにポッポは浮き、イーブイが止まるたびに降りてきてつつく。小さな体に似合わず、動きにまったく迷いがない。群れでいちばん小さいからこそ、いちばん速くなろうとしてきたのかもしれない、とレッドは思った。

 このままでは、昨日と同じだ。

 追いかければ、かわされる。それはもうわかった。イーブイはポッポより遅い。それは今すぐには変えられない。

 だったら、変えられないものの代わりに、何がある。

 研究所の床で、何度打たれても立ち上がっていた姿が浮かんだ。そこに、雨の中で聞いた声が重なった。この子のことは、どこにも書いてありません。

 レッドが知っているイーブイのことは、まだ少ない。遅いこと。ボールが嫌いなこと。近づきすぎると、ものを食べないこと。そして、倒れないこと。

「イーブイ、追うな!」

 走り出しかけていたイーブイの足が止まった。

「そこで待て。向こうから来るまで、動かなくていい」

 イーブイが一瞬だけ振り返った。何を言われたのかわからない、という顔だった。それでもイーブイは前に向き直り、四本の足を地面に据えた。

 ポッポが頭上を旋回する。獲物が逃げも追いもしないのを不思議がるように一度、二度と回り、それから急降下してきた。

 くちばしがイーブイの肩に刺さる。イーブイの体がぐらりと揺れた。けれど足は、一歩も下がらなかった。

「今だ、たいあたり!」

 つつき終えたポッポがまた浮き上がる、その一瞬前だった。イーブイが真上へ伸び上がるようにして体をぶつけ、ポッポの小さな体が草の上を転がった。

 ポッポはすぐに起き上がった。翼を大きく広げ、今度は近づかずに、その場で何度も羽ばたく。巻き起こった風が草をなぎ倒し、イーブイの体を正面から押した。

「踏ん張れ!」

 イーブイは目を細め、伏せるように体を低くして風を受けた。毛並みが後ろへ流れ、前足の爪が土をえぐる。それでも、押し流されはしなかった。

 やがて風が止んだ。羽ばたき疲れたポッポが、肩で息をしながら地面に降りる。

「もう一回!」

 今度はイーブイのほうが前に出た。ポッポは飛び上がろうとしたが、さっきまでの軽さはもうなかった。体当たりがまともに入り、ポッポは草の上に仰向けに倒れた。

 しばらく、誰も動かなかった。

 やがてポッポがよろよろと起き上がり、羽についた草を振り落とした。それからイーブイの前まで歩いてきて、短く一声鳴いた。さっきの甲高い声とは違う、低くて静かな声だった。

 イーブイは、それにどう応えればいいのかわからないようだった。耳を立てたまま、ポッポを見つめ返している。

 レッドはバッグから傷薬を出し、まずポッポに、それからイーブイに吹きつけた。ポッポは一瞬羽を膨らませたが、逃げなかった。

「お前、強いな」

 レッドがそう言うと、ポッポは誇らしげに胸を張った。

 

◆

 

 頭に、人間の手が乗っていた。

 イーブイは、自分がいつそれを許したのか思い出せなかった。傷薬をかけられて、しみる痛みに目をつぶって、開けたときにはもう手がそこにあった。重くもなく、押さえつけるでもなく、ただ置かれている。

 払いのけようと思えばできた。けれど体はさっきの勝負の名残でまだ重く、首を振るのも億劫だった。そういうことにしておいた。

 勝った、らしい。

 追うなと言われたとき、イーブイには意味がわからなかった。前の主人は、いつも追えと言った。追いつけないとわかっていても、追えと言った。止まれと言われたことなど、一度もない。

 それなのに、言われたとおり止まったら、相手のほうから来た。来た相手に、当たった。

 頭の上の手が、一度だけ軽く弾んで離れていった。

 そのとき、ポッポの羽が逆立った。

 さっきまで胸を張っていた小さな体が、空の一点を見上げて固まっている。勝負のときの目ではなかった。何度も嫌な目に遭わされてきた相手を見つけたときの目だ。イーブイには、それがよくわかった。

 甲高い鳴き声が降ってきた。

 木の上から、鋭いくちばしの鳥ポケモンが一直線に落ちてくる。オニスズメだった。狙いは、勝負で疲れきったポッポだ。

 ポッポは飛び上がろうとして、翼をもつれさせた。イーブイも立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かない。間に合わない。

 その視界を、赤い帽子が横切った。

 人間が、ポッポの上に覆いかぶさっていた。両腕でポッポを抱えこみ、背中を空に向けて。オニスズメのくちばしが、その背中に突き刺さった。

 人間の体が、大きく跳ねた。

 ポッポが人間の腕の中で、信じられないものを見たように目を見開いている。イーブイも、きっと同じ顔をしていた。

 人間が、ポケモンをかばった。

 殴るためでも、命令するためでもなく、ただ自分の体を、ポケモンの上に投げ出した。イーブイはそんな人間を見たことがなかった。そんなことをする人間がいると、考えたことさえなかった。

「イーブイ!」

 背中を丸めたまま、人間が叫んだ。

「頼む!」

 次の瞬間、イーブイは走っていた。

 重かったはずの足が、地面を蹴っていた。動けと自分に命じた覚えはない。怖いと思うより先に、体が勝手にオニスズメへ向かっていた。二撃目を狙って高度を上げかけたオニスズメの脇腹に、イーブイは頭から体ごとぶつかった。

 オニスズメが地面に叩きつけられ、短い悲鳴を上げた。羽をばたつかせて起き上がると、こちらを一度だけ睨みつけ、森のほうへ逃げていった。

 イーブイは、その場に立ちつくしていた。

 息が上がっている。足が震えている。それなのに、自分がなぜ走ったのかがわからなかった。前の主人に「行け」と言われたときは、いつも一拍、体が固まった。行けば打たれるとわかっていたからだ。

 今のは違った。固まる前に、もう走っていた。

「……大丈夫か、ポッポ」

 人間がゆっくりと体を起こした。背中のシャツが裂け、そこから赤いものが滲んでいる。それなのに人間が見ていたのは、自分の背中ではなく、腕の中のポッポだった。

「どこも、やられてないか」

 ポッポは小さく鳴いた。返事というより、喉からこぼれてしまった音だった。

 

◆

 

 この人間は、おかしい。

 ポッポは人間の腕の中から、その顔を見上げていた。背中から血を流しているくせに、痛いとも言わない。残っていた傷薬をポッポとイーブイに使い切ってしまって、自分の背中には何もつけていない。

 群れの大人たちは、よく言っていた。人間に近づくな。人間はポケモンを捕まえて、戦わせて、弱ければ捨てる。だから小さいお前は、なおさら近づくなと。

 けれど、この人間は弱いポケモンを捨てるどころか、自分より弱い生き物の上に覆いかぶさった。あのイーブイも、自分より速い相手に何度つつかれても、一歩も下がらなかった。そして人間が呼んだとたん、迷いもせずに飛び出していった。

 大きな影が、草原に落ちた。

 見上げるまでもなかった。風の切り方でわかる。母さんだ。

 ピジョットは翼をたたんで降り立つと、まず人間を見た。裂けたシャツと、その下の傷を見た。それから腕の中のポッポを見て、最後に、少し離れたところで身構えているイーブイを見た。何があったのかを、それだけで読み取ったようだった。

 ポッポは人間の腕から抜け出し、母の前に降りた。

 言いたいことは決まっていた。ただ、それを鳴き声にするのに、少しだけ時間がかかった。

 この人たちと行きたい。

 母さんや父さんのように、強くなりたい。群れでいちばん小さくても、いちばん遅れて飛び立っても、守るべきものの前に立てるくらいに。そのやり方を、この人間とあのイーブイが持っている気がする。

 父さんの話を、母さんはめったにしない。昔、群れが大きな鳥ポケモンの群れに襲われたとき、父さんはひとりで残ってみんなが逃げる時間を作り、そのまま戻ってこなかった。ポッポが知っているのは、それだけだ。

 だから、最後にこう付け足した。

 必ず、帰ってくるから。

 ピジョットは、長いあいだ黙っていた。その目が一度だけ空の遠くへ向き、それからポッポに戻ってきた。

 やがて母は、ポッポの頭のてっぺんの羽を、くちばしで一度だけ整えた。小さかったころ、巣立ちの練習に失敗するたびにそうしてくれたのと同じやり方だった。

 それが返事だった。

 ピジョットは人間に向き直り、低く一声鳴いた。人間には何を言われたのかわからなかっただろう。けれど人間は、頭を下げた。ちゃんと、母の目を見てから。

 人間がおずおずとバッグから空のボールを取り出し、どうしていいかわからないように手のひらに乗せた。ポッポはその手に飛び乗り、ボールの真ん中のボタンを、自分のくちばしで押した。

 赤い光に包まれる直前、母が空へ舞い上がるのが見えた。振り返らなかった。振り返らないことで、送り出してくれたのだとわかった。

 

◆

 

 人間の腰で、新しいボールが揺れている。

 イーブイは、いつもの一歩後ろからそれを見ていた。あの中に、さっきのポッポがいる。ボールの中から、ときどき外の様子をうかがうような気配がする。

 自分で、入ったのだ。

 イーブイには、それが信じられなかった。ボールは、置いていかれる場所だ。草むらに転がっていた空のボールの冷たさを、イーブイはまだ覚えている。あのポッポは、そこへ自分から飛びこんでいった。この人間となら大丈夫だと、本気で思っているのだ。

 絆。

 あの着物の人間が使った言葉が、また頭をよぎった。ポッポが感じたのは、たぶんそういうものなのだろう。人間がポケモンをかばい、ポケモンが人間を守る。言葉にしてしまえば、それだけのことだ。

 信じていいのかは、わからなかった。信じたところで、いつか同じように切れるのではないかと思う。そう思うのに、オニスズメに向かって走ったときの、あの勝手に動いた足の感触が、まだ前足に残っていた。

 思い返してみると、今日は一度も、命令の前に体が固まらなかった。追うなと言われたときも、踏ん張れと言われたときも、頼むと言われたときも。言葉が届いた瞬間に、もう体がそちらへ傾いていた。

 それがどういうことなのか、イーブイにはまだ名前がつけられなかった。ただ、胸の奥のどこかがむずがゆくて、落ち着かなかった。

 前を行く人間が、背中をかばうように少しだけ肩をすくめた。それでも歩幅は、今朝と同じで小さいままだった。

 

◆

 

「こんな傷で、半日も歩いてきたんですか」

 トキワシティのポケモンセンターで、ジョーイさんはレッドの背中を見るなり眉をひそめた。ポケモンの治療台の横で、レッドは丸椅子に座らされ、シャツを脱がされていた。

「ポケモンの手当てが先なのはわかります。でも、トレーナーが倒れたら、この子たちは誰が守るんですか」

 消毒液がしみて、レッドは声を出さずに顔をしかめた。カウンターの端からイーブイがこちらを見ている。回復を終えたポッポは、天井近くの梁にとまって羽づくろいをしていた。

 包帯を巻いてもらってシャツを着直しても、背中の傷は、腕を上げるたびにひきつれるように痛んだ。

 ポケモンセンターを出ると、日が傾きはじめていた。トキワシティの通りは、マサラよりずっと人が多い。イーブイが行き交う足から逃げるようにレッドのすぐ後ろまで寄ってきて、それからはっとしたように、いつもの一歩ぶん下がった。

「よお、レッド!」

 通りの向こうから、聞き慣れた声がした。

 グリーンが、片手を上げて歩いてくる。腰のボールは、マサラを出たときより増えていた。

「お前、もうトキワまで来たのかよ。意外と早えじゃん。ジムなら閉まってたぜ、リーダーが留守なんだってさ」

 レッドは黙ってうなずいた。グリーンは気にした様子もなく、腰のボールを指で数えてみせる。

「見ろよ、もう四匹だぜ。草むら歩いてりゃ、いくらでも捕まえられるもんな。お前は?」

「……二匹」

「は、半分かよ。まあ、お前らしいけど」

 グリーンは笑いながら、ボールの一つを手に取った。

「ちょうどいいや、二対二な。昨日のおさらいってことで」

 レッドの肩の上で、いつの間にかボールから出ていたポッポが、ぴんと背筋を伸ばした。足元でイーブイが体を低くする。

 断る理由はいくらでもあった。背中は痛むし、ポッポもイーブイも今日はもう二度戦っている。けれどレッドは、今日も首を横に振れなかった。

「いけ、オニスズメ!」

 グリーンの投げたボールから、くちばしの鋭い鳥ポケモンが飛び出した。昼間のオニスズメとは別の個体だろう。けれど、その姿を見たとたん、ポッポの羽がふわりと膨らんだ。

「……ポッポ、いけるか」

 返事のかわりに、ポッポはレッドの肩を蹴って飛び立った。

「オニスズメ、つつく!」

「ポッポ、すなかけ!」

 オニスズメが一直線に突っこんでくる。ポッポは低く滑りこむように地面すれすれを飛び、翼で砂を巻き上げた。砂を浴びたオニスズメのくちばしが、わずかに狙いを外れる。それでも、かすっただけでポッポの体は大きく弾かれた。

 体の大きさが違う。くちばしの重さが違う。オニスズメは一度狙いを外しても、すぐに羽ばたいて高度を取り直し、また落ちてくる。

「もう一回、すなかけ! それから、かぜおこし!」

 ポッポは逃げなかった。何度弾かれても起き上がり、砂を巻き上げ、風を起こした。風を受けたオニスズメが一度だけ大きく体勢を崩し、通りの石畳に足をついた。

 けれど、そこまでだった。

 石畳を蹴って飛び上がったオニスズメのくちばしが、ポッポの胸にまともに入った。小さな体が石畳を転がり、それきり起き上がらなかった。

「ポッポ!」

 レッドは駆け寄って、ポッポを両手ですくい上げた。ポッポは目を半分閉じたまま、悔しそうに小さく鳴いた。昼間、母の前で胸を張っていた鳥と同じ鳥だった。

「よく、頑張った」

 レッドはそう言って、ポッポをボールに戻した。ボールを握る手に、知らずに力がこもった。

「ほらな」

 グリーンが、オニスズメをボールに戻しながら言った。

「鳥ポケモンは鳥ポケモンでも、モノが違うんだよ。で、次そいつ?」

 グリーンの視線が、レッドの足元に落ちた。

「なあ、それ、じいちゃんとこの拾いもんだろ。遅えし、命令しても全然動かねえし。トキワの森ならもっといいやつ捕まえられるぜ。そいつ置いて、乗り換えりゃいいじゃん。俺ならそうする」

 悪気がないのは、声の調子でわかった。グリーンは、ただ正しいと思うことを言っているだけなのだ。

 足元で、イーブイの体が硬くなるのがわかった。伏せた耳が、頭に張りつくほど倒れている。

 置いて。

 その言葉が、イーブイにとってどういう意味を持つのかを、レッドはもう知っていた。

「……置いていかない」

 自分の声だと気づくのに、少しかかった。

「は?」

「こいつは、遅い。それは本当だ。でも、倒れない。何回打たれても、倒れないんだ」

 グリーンが眉を寄せた。レッドが勝負の最中に言い返してきたことなど、これまで一度もなかったからだろう。

「僕は、まだこいつのことを少ししか知らない。でも、お前よりは知ってる」

 レッドは、グリーンの目をまっすぐに見た。昨日の雨の中で、エリカの目を見たときと同じように。

「イーブイ、いこう」

 

◆

 

 ヒトカゲの尻尾の炎が、夕暮れの通りで揺れていた。

 昨日、研究所の床で何度も爪を受けた相手だ。イーブイは体を低くし、前足に重心を落とした。肩の古い傷が、思い出したように疼く。

 置いて、乗り換えればいい。

 さっきの人間の声が、まだ耳の奥に残っていた。前の主人も、最後の朝、同じようなことを言っていたのかもしれない。イーブイには聞こえなかっただけで。

「ヒトカゲ、ひっかく!」

 ヒトカゲが石畳を蹴った。速い。昨日と同じだ。イーブイは反射的に身を固め、目をつぶりかけた。打たれる。また打たれる。体がそう覚えている。

「イーブイ、動かなくていい!」

 人間の声が聞こえた。

「そこで踏ん張れ。来るのを待つんだ!」

 追え、ではなかった。

 イーブイは、目を開けたまま足を据えた。四本の足を石畳に押しつけ、体の重さを全部そこへ落としていく。重く、もっと重く。昨日までは、遅い体が嫌でたまらなかった。けれど今は、地面に沈んでいくようなその重さが、なぜか頼もしかった。

 爪が来た。

 肩口を裂かれる感触があった。体が横に揺れた。

 けれど。

 ――痛くない。

 いや、痛い。痛いのは確かだ。けれど、思っていたほどではなかった。昨日研究所で受けた爪より、ずっと浅い。イーブイは足を一歩も動かさずに、それを受け止めていた。

「いいぞ、イーブイ! そのままだ!」

 二撃目が来た。三撃目が来た。そのたびに体は揺れ、毛が散った。それでも足は石畳から離れなかった。体の奥に、打たれるたびに何かが溜まっていく。重さとも熱ともつかない、ずしりとしたものが。

 何を、怖がっていたのだろう。

 ふと、そう思った。

 自分が怖かったのは、爪ではなかった。くちばしでも、風でもなかった。負けたあとに飛んでくる手と、吐き捨てられる言葉と、置いていかれる朝だった。打たれることそのものは、こんなものだったのだ。耐えられる。いや、もうとっくに、耐えられるようになっていた。

 ヒトカゲが四撃目を振りかぶる。その爪がイーブイの肩に届いて、引かれる、その瞬間。

「今だ、イーブイ!」

 イーブイは、溜めこんだものを全部乗せて、前へ出た。

 

◆

 

 当たった瞬間の音が、違った。

 グリーンは、ヒトカゲが石畳の上を三回転がっていくのを、口を半分開けたまま見ていた。

 体当たりだ。見た目は、ただの体当たりだった。

 けれど、グリーンはじいちゃんの研究所で育った。物心ついたころから、勝負の記録映像を何百本も見せられてきた。体当たりがどう当たって、相手がどう飛ぶかなんて、目をつぶっていても思い浮かぶ。

 今のは、その飛び方じゃなかった。

 あのイーブイは、ヒトカゲの爪を受けたその直後に、受けたぶんまで上乗せして叩き返してきたように見えた。それに、何発も爪が入っているのに、動きが鈍るどころか、むしろどっしりとしてきている。

 なんだ、今の。

 喉まで出かかった言葉を、グリーンは飲みこんだ。レッドに聞いたって、どうせわかっていない。わかっていない相手に驚いているところを見せるのは、もっと癪だった。

「……ヒトカゲ、起きろ! 近づくな、離れてひのこだ!」

 理由はわからなくても、やり方は変えられる。殴った直後に殴り返してくるなら、殴らなければいい。遠くから焼けばいい。

 ヒトカゲが起き上がり、距離を取った。口の端に火の粉がちらつく。

 向こうで、レッドが何か言いかけて、やめた。代わりに、ほとんど聞こえないくらいの声で一言だけ言うのが見えた。

 前へ、と。

 

◆

 

 火の粉が飛んできた。

 熱かった。毛の先が焦げる匂いがした。それでもイーブイは、足を止めなかった。

 走りはしない。走っても、どうせ速くはない。その代わりに、一歩ずつ、石畳を踏みしめて前へ出る。体は相変わらず重い。けれどその重さが、火の粉に押し返されることを許さなかった。

「イーブイ、前へ」

 人間の声は、さっきよりずっと静かだった。叫んでいないのに、はっきりと聞こえた。

 二発目の火の粉が、顔の横をかすめた。三発目が胸に当たって弾けた。熱い。けれど、ただ熱いだけだ。

 ヒトカゲの尻尾の炎が、目の前で揺れた。後ずさろうとしたヒトカゲの足が、石畳の継ぎ目に引っかかる。

「たいあたり!」

 イーブイは、最後の一歩に体の重さのすべてを乗せた。

 ヒトカゲの体が宙に浮き、通りの端の植え込みに落ちた。尻尾の炎がしぼむように小さくなり、ヒトカゲは目を回したまま動かなくなった。

 夕暮れの通りが、しんと静かになった。

 向こうで、グリーンがヒトカゲをボールに戻した。何か言おうとして口を開け、閉じ、また開けた。

「……まぐれだろ、こんなの」

 それだけ言うと、グリーンはこちらに背を向けた。

「次は、絶対ねえからな!」

 足音が、通りの向こうへ遠ざかっていった。

 イーブイは、まだ石畳の上に立っていた。足が震えている。体じゅうが痛い。毛の焦げた匂いがする。

 勝った。

 ヒトカゲに。昨日、ほとんど何もできずに打たれ続けた相手に。

 そう思った瞬間、体の奥から、何かが一気にこみ上げてきた。溜めこんでいた重さとは違う、もっと熱くて、軽くて、抑えのきかないものだった。

 気がつくと、イーブイは人間に飛びついていた。

 しゃがみこんでいた人間の胸に、前足から体ごとぶつかっていった。人間が驚いて尻もちをつく。背中の傷に響いたのか、小さくうめく声がした。それでも人間の両腕は、イーブイを受け止めていた。

 あたたかかった。鼓動が、すぐ耳元で鳴っていた。

 ――何を、している。

 はっと我に返ったのは、その鼓動が三つ数えるくらい鳴ったあとだった。

 自分から、人間に飛びついた。前の主人にさえ、一度もしたことがないことを。考えるより先に、体がそうしていた。オニスズメに向かって走ったときと同じだ。でも、あのときとは違う。あのときは誰かを守るためだった。今のは、ただ。

 ただ、嬉しかったのだ。

 イーブイは、人間の腕の中から転がり出るように飛び退いた。三歩、四歩と下がって、そこでようやく止まる。全身の毛が逆立っていた。

 怖かった。人間に飛びついた自分が、どうしようもなく怖かった。こんなふうに寄りかかってしまったら、次に置いていかれたとき、きっと今度こそ立ち上がれない。

 人間は、尻もちをついたまま、追いかけてこなかった。腕を伸ばしもしなかった。ただ、少し驚いた顔でこちらを見て、それから、ゆっくりと笑った。

「……うん」

 それだけだった。

 イーブイは、いつもより一歩ぶん遠い場所で伏せた。耳だけは、どうしても人間のほうを向いたまま戻らなかった。

 

◆

 

 しばらくそうして座りこんでいてから、レッドはようやく、自分がグリーンに勝ったのだと気づいた。

 生まれて初めてのことだった。かけっこでも、木登りでも、川でも、一度も勝ったことのない相手に。もっと飛び上がるほど嬉しいものだと思っていた。

 けれど実際に頭に浮かぶのは、グリーンの悔しそうな顔ではなかった。爪を受けても動かなかった四本の足と、火の粉の中を一歩ずつ進んでいった背中と、それから、自分の胸に飛びこんできて、すぐに怯えたように離れていった茶色い毛並みのことばかりだった。

 ボールの中のポッポに、レッドは小さく声をかけた。

「明日は、トキワの森だ」

 腰のボールが、返事をするように一度だけ揺れた。

 立ち上がると、背中の傷が思い出したように痛んだ。レッドはそのまま、ポケモンセンターのほうへ歩き出した。少し遅れて、草を踏むのとは違う、石畳を踏む小さな足音がついてくる。

 いつかタマムシシティへ行ったら、あの人に何から話そう。レッドはそう考えて、それがずいぶん長い話になりそうだと思った。

 

(第二話 了)

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