地の文をみんながよむことで、おれが目を閉じた時に見ている光景をそのままみんなにも見てもらいたいんだけど、むずかしいね。
同じ痛みを知る、二人で
第三話 羽ばたく夢
トキワの森に入ると、すぐに空が消えた。
頭の上で枝と葉が幾重にも折り重なり、昼前だというのに夕暮れのように薄暗い。ところどころで葉の隙間から光がこぼれ、細い柱になって地面に突き刺さっている。湿った土と苔の匂いが濃く、どこか遠くで、木の幹を何かが這い上がっていくかさかさという音がした。
レッドがボールを放ると、ポッポは飛び出すなり、待ちきれないように枝から枝へと飛び移りはじめた。木の実をつつき、きのこの傘に止まってはその柔らかさに驚いて飛び上がり、また次の枝へ移る。昨日、通りの石畳で動かなくなっていた鳥と同じ鳥とは思えなかった。
「あんまり遠くに行くなよ」
声をかけたそのとき、ポッポが低い枝からぶら下がっている黄色い塊に興味を示した。くちばしの先で、ちょん、とつつこうとする。
その瞬間、足元から短く鋭い声が上がった。
イーブイだった。耳を後ろに倒し、低く唸るような声で、もう一度だけ鳴く。ポッポはびくりと首をすくめ、塊から離れてレッドの肩に戻ってきた。
よく見ると、黄色い塊はコクーンだった。それも一つではない。同じ枝の奥に、いくつも並んでぶら下がっている。そして森のずっと奥のほうから、低い羽音がかすかに響いていた。
レッドは黙って、そこから離れる道を選んだ。
歩きながら、レッドは足元を見た。イーブイが、いつもより少しだけ前を歩いている。マサラの明るい道ではずっと一歩後ろにいたのに、この薄暗い森に入ってからは、レッドの横に並ぶくらいの位置で、地面の匂いを嗅ぎながら進んでいた。暗いほうが、落ち着くのかもしれない。
レッドは、それを図鑑のどこにも書いてないイーブイのことの一つとして、覚えておくことにした。
◆
キャタピーの一日は、葉を食べることで始まって、葉を食べることで終わる。
朝露で湿った若い葉を選んで、端から少しずつかじっていく。食べ終わったら次の葉へ這っていき、また食べる。それを日が暮れるまで繰り返す。群れの仲間たちも同じことをしているが、キャタピーは群れの輪から少し外れたところで食べることが多かった。仲間の輪の中にいると、なぜかいつも、自分だけ息が合わないような気がした。
ときどき、森を通る人間が足を止める。キャタピーを見つけて、ボールを構えかける。そして、だいたい同じことを言う。
なんだ、キャタピーか。
それからボールをしまって、また歩いていってしまう。捕まえる価値もない、という声だった。最初のうちはそれが怖くて葉の裏に隠れていたが、そのうち隠れる気も起きなくなった。
食べるのに疲れると、キャタピーは上を見る。枝と葉の隙間の、ずっと向こう。森の外には空というものがあって、バタフリーになった仲間たちはそこを飛んでいくのだと、群れの年寄りが言っていた。
いつかは自分も、と思う。けれど今のキャタピーにできるのは、地面と枝を這うことだけだった。
その日の昼過ぎ、近くの倒木に人間が腰を下ろした。
赤い帽子の、まだ子どもの人間だった。鳥ポケモンを一羽と、茶色い四本足のポケモンを一匹連れている。キャタピーは葉の陰から、そっとその様子を見ていた。
人間が袋から茶色い粒を取り出して、手のひらに乗せた。鳥ポケモンはすぐにその手に飛びつき、粒をついばみながら、甘えるように人間の指に頭をこすりつけた。人間はくすぐったそうに笑った。
茶色い四本足のほうは、すぐには来なかった。人間は手のひらに残った粒を、自分の足元から少し離れた木の根の上に置いた。四本足はそれをじっと見てから、ゆっくり近づいて食べはじめた。
人間は、それを見ないようにしていた。見ないようにしながら、ときどき横目で確かめていた。
「昨日より、ちょっと近いな」
人間が、誰に言うでもなく呟いた。四本足の耳がぴくりと動いた。けれど、食べるのはやめなかった。
キャタピーには、そのやり取りの意味が全部わかったわけではない。ただ、あの三つの生き物の間には、キャタピーが群れの輪の中で一度も感じたことのない何かがある気がした。ばらばらなのに、つながっている。誰も同じ速さで動いていないのに、誰も置いていかれていない。
気づいたときには、葉の陰から半分体を乗り出していた。
「あ」
人間と目が合った。
キャタピーは固まった。また言われる。なんだ、キャタピーか。そう思って、身を縮めた。
人間は、ボールを構えなかった。何かを言いかけて、やめた。それから手のひらに残っていた最後の粒を、キャタピーのいる葉のすぐ下の地面に、そっと置いた。
それだけだった。人間は立ち上がり、鳥と四本足を連れて歩き出した。
キャタピーは長いあいだ、その粒を見つめていた。
なんだ、とは言われなかった。
キャタピーは粒を食べた。葉より少し固くて、香ばしかった。それから、人間たちが消えていった方角へ、這いはじめた。
少し先の開けた場所で、さっきの人間が別の人間と向かい合っていた。虫取り網を持った少年が、ビードルを繰り出している。人間の肩から、あの鳥ポケモンが飛び立った。
キャタピーは木の根元に隠れて、それを見上げた。
鳥ポケモンは、ビードルの毒針を軽々とかわして、高く舞い上がった。木漏れ日の柱の中を突っ切り、くるりと宙返りをして、上から風を叩きつける。ビードルが転がり、少年が悔しそうに声を上げる。
キャタピーの目は、勝負の行方を追っていなかった。ただ、光の柱の中を横切っていく、あの翼だけを追っていた。
あんなふうに、飛べたら。
鳥ポケモンが人間の肩に戻ってくる。人間が何か言って、その頭を撫でる。茶色い四本足が、少し離れたところから、それを見ている。
あの中に、入れたら。
その日、キャタピーは日が暮れるまで、葉を一枚も食べなかった。
◆
森の中で、夜はあっという間に来る。
レッドは少し開けた場所を見つけて、乾いた枝を集め、火を起こした。湿った森では、なかなか火がつかない。何度も火打ち石を打ち、ようやく小さな炎が枝に移ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
ポッポは焚き火のそばで羽をふくらませ、もう目を半分閉じている。一日じゅう森の中を飛び回っていたのだから無理もない。
イーブイは、逆だった。暗くなるにつれて目が冴えてきたらしく、焚き火の明かりが届くぎりぎりのところを、何度も行ったり来たりしている。耳をあちこちへ向け、ときどき暗がりの奥をじっと見つめる。昼間よりずっと、落ち着いて見えた。
「イーブイは、眠くないのか」
イーブイはちらりとレッドを見ただけで、また暗がりのほうへ顔を向けた。
そのとき、焚き火の向こうの草が揺れた。イーブイが身構え、ポッポが目を開ける。
明かりの中に這い出てきたのは、一匹のキャタピーだった。
昼間、粒を置いていったキャタピーだと、レッドにはすぐにわかった。体じゅうに土と葉の切れ端をつけている。あれからずっと、自分たちを追いかけてきたのだろうか。この小さな体で。
キャタピーはレッドの足元まで這ってきて、そこで止まった。そして、レッドの顔を見上げた。
何かを決めてきた目だった。
「……一緒に、来たいのか」
キャタピーは体を大きく反らせ、短く鳴いた。
レッドはバッグから空のボールを取り出した。それを手に取ったとき、イーブイが小さく身じろぎするのが視界の端に見えた。
レッドは少し考えてから、ボールを手で投げずに、キャタピーの前の地面にそっと置いた。
「入りたくなったら、入ればいい」
キャタピーはボールを見つめた。それから、ゆっくりと這い寄り、赤と白の境目に自分の頭を押しつけた。ボールが開き、赤い光がキャタピーを包む。地面の上で、ボールは小さく一度だけ揺れて、静かになった。
レッドがボールを開けると、キャタピーは飛び出すなりレッドの膝によじ登ってきた。さっきまでの決意の顔はどこかへ消えて、嬉しくてたまらないというふうに、体を左右に揺らしている。
ポッポが、眠気を振り払うように首を伸ばした。新入りをしげしげと見て、それから羽の先でキャタピーの頭をつついた。キャタピーがつつき返す。ポッポがまたつつく。そのうち二匹は、焚き火のそばで転がるようにじゃれ合いはじめた。
イーブイは、それを少し離れた場所から見ていた。
尻尾の先が、ほんのわずかに揺れていたことに、イーブイ自身は気づいていないようだった。
◆
夜が深くなると、ポッポとキャタピーは焚き火のそばで寄り添って眠ってしまった。人間も、木の幹に背中を預けたまま、いつの間にか寝息を立てている。
イーブイだけが起きていた。
夜は嫌いではない。明るいうちは、何もかもがはっきり見えすぎる。自分の遅さも、自分に向けられる目も。暗がりの中では、それが全部やわらかくぼやける。
イーブイは焚き火の明かりの外へ、少しだけ足を踏み出した。人間の寝息が聞こえるくらいの距離を保ちながら。
月の光が、枝の隙間から細く落ちている。苔の上を歩くと、自分の足音がほとんどしない。夜のポケモンたちの声が、遠くで低く鳴き交わしていた。
イーブイは、昨日のことを考えていた。
ヒトカゲの爪を受けたときの、あの感覚。四本の足を地面に押しつけて、体の重さを全部下へ落としていったときの、地面に沈みこむような重さ。打たれるたびに、体の奥に何かが溜まっていったこと。
あれは、何だったのだろう。
もう一度、できるだろうか。今度は、自分の意思で。
イーブイは月明かりの中で足を止め、試しに体を低くしてみた。前足に重心を落とし、息を細く吐く。体が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
そのとき、背後で羽音がした。
昼間、森の奥から聞こえていたのと同じ、低くうなるような音だった。振り返ると、月明かりの中に大きな影が浮かんでいた。
スピアーだった。
黄色と黒の縞の体が、月の光を鈍く跳ね返している。両腕の先の太い針が、こちらに向けられていた。羽音が一段と高くなる。縄張りを荒らした相手を見る目だった。昼間ポッポがつつきかけた、あのコクーンの群れを思い出した。
イーブイは、鋭く一声鳴いた。
背後で、人間が跳ね起きる気配がした。
「イーブイ!」
人間が焚き火の明かりの中から駆けてくる。その後ろから、寝ぼけ眼のポッポと、まだ体の小さいキャタピーが続いた。スピアーの羽音が、威嚇するようにさらに高くなる。
強い。体の大きさも、針の太さも、昨日のヒトカゲとは比べものにならなかった。まともにぶつかり合えば、勝てる相手ではない。
「キャタピー、いとをはく! ポッポ、かぜおこし!」
人間の声が飛んだ。キャタピーが白い糸を吐き、スピアーの羽に絡みつかせる。ポッポが羽ばたいて風を起こし、スピアーの体勢をぐらつかせる。
「イーブイ――」
人間は、そこで一度言葉を止めた。
イーブイはもう、体を低くしていた。
自分で、そうしていた。
前足に重心を落とし、四本の足を苔の上に据え、体の重さを全部、下へ、下へと落としていく。昨日は打たれながら勝手に溜まっていったものを、今度は自分の意思で、少しずつ体の奥へ集めていく。足が重くなる。動きが鈍くなっていくのがわかる。走ることは、もうできないだろう。
それでいい、と思った。走らなくていい。
「……待てるか、イーブイ」
人間の声は、静かだった。イーブイが何をしているのか、全部わかっているわけではないだろう。それでも人間は、追えとは言わなかった。
スピアーが糸を引きちぎった。針を振りかぶり、いちばん小さな相手に向かって急降下する。キャタピーだ。
キャタピーは逃げなかった。体を反らせ、もう一度糸を吐いた。糸はスピアーの顔にかかり、針の狙いがわずかにずれる。それでも針はキャタピーのすぐ横の地面をえぐり、小さな体が土ごと跳ね飛ばされた。
「ポッポ!」
ポッポが、スピアーとキャタピーの間に割りこむように風を叩きつけた。スピアーが押し戻され、羽にまとわりついた糸のせいで、うまく高度を取れずにもがく。
イーブイは、まだ動かなかった。
体の奥が、重く、熱い。溜めこんだものが、出口を求めて押し合っている。今すぐ飛び出したかった。キャタピーが跳ね飛ばされるのを見たとき、体が勝手に前へ出かけた。けれど、まだだ。今出ても、スピアーの体勢は崩れきっていない。
ポッポの二度目の風がスピアーを打った。糸に絡まった羽が、ついに羽ばたきを止める。スピアーの体が、ぐらりと地面すれすれまで落ちてきた。
「今だ!」
人間の声と、イーブイが踏み出すのが、同じだった。
速くはなかった。一歩一歩が重く、地面にめりこむようだった。けれどその一歩ごとに、溜めこんだものが体の前へ前へと押し出されていく。
イーブイは、地面すれすれでもがくスピアーの胴に、体ごとぶつかった。
鈍い音がした。スピアーの体が木の幹まで吹き飛び、そこで羽音が途切れた。しばらく羽を震わせていたが、やがてよろよろと起き上がると、森の奥の暗がりへ、低く飛んで逃げていった。
イーブイは、その場で荒い息をついた。体が重い。足が震えている。それでも、立っていた。
「……やった」
人間が膝をつき、三匹をまとめて抱えこむように腕を広げた。
「やったな! キャタピーが止めて、ポッポが崩して、イーブイが決めた。すごい連携だった!」
ポッポが誇らしげに胸を張り、跳ね飛ばされて土まみれのキャタピーが、それでも嬉しそうに体を揺らした。人間の腕は、イーブイの背中にも回っていた。
イーブイは、その腕から逃げなかった。昨日のように飛び退くことも、身を固くすることもしなかった。ただ、少しだけ居心地悪そうに、耳を伏せていた。
そのとき、人間の腕の中でキャタピーの体が光りはじめた。
白い光が、小さな体を内側から押し広げていく。光の中で輪郭が丸みを失い、固く、鋭く変わっていく。
光が消えたとき、そこにいたのは、緑色の固い殻に包まれたポケモンだった。
◆
『トランセル さなぎポケモン 固い殻の内側で、進化のときにそなえて体をつくりかえている。虫ポケモンは、ほかのポケモンにくらべて成長が早いことで知られる』
焚き火の明かりで、レッドは図鑑の文字を読んだ。
「キャタピーから、もう進化するんだな」
そう呟いて、レッドはトランセルを見下ろした。殻に包まれた体は、もう這うこともできないらしい。焚き火のそばに置かれたまま、ぴくりとも動かない。
それなのに、殻の隙間からのぞく目は、さっきよりずっと輝いていた。トランセルは、殻ごと体を小刻みに揺らしてみせた。動けないのに、動きたくてたまらないというふうに。
「お前、やる気満々だな」
レッドが笑うと、トランセルは殻をこつんと鳴らした。
翌日、一行は森の出口を目指した。
トランセルはボールに入るのを嫌がって、レッドの腕に抱えられて運ばれることになった。殻は見た目よりずっと重く、昼を過ぎるころには、レッドの腕は痺れていた。
森の木々がまばらになり、葉の隙間からのぞく空が、青から橙へと色を変えはじめたころ、出口の手前で短パン小僧と目が合った。
「おっ、トレーナーじゃん! 勝負しようぜ!」
少年はボールを投げた。飛び出してきたのはコラッタだった。素早そうな前歯を剥き出して、小刻みに跳ねている。
レッドがボールに手をかけたとき、腕の中のトランセルが、殻をこつこつと鳴らした。何度も。
「……お前が、やるのか」
殻が、もう一度鳴った。
レッドはトランセルを、コラッタの前の地面にそっと降ろした。
「なんだよ、トランセルかよ」
少年が、拍子抜けしたように笑った。
「動かねえじゃん、そいつ。楽勝だな」
トランセルの殻が、かすかに震えた。レッドは、何も言わなかった。
◆
イーブイは、人間の足元から、その小さな殻を見ていた。
なんだよ、トランセルかよ。
その言葉が投げつけられた瞬間、殻の隙間の目が、一度だけ伏せられたのが見えた。けれど次に上がったとき、その目は、少年でもコラッタでもなく、イーブイのほうを見ていた。
「コラッタ、たいあたり!」
コラッタが地面を蹴った。速い。トランセルは動けない。避けることなど、最初から考えられない。
前歯ごとぶつかってきた体当たりが、殻を真正面から打った。トランセルの体が、地面の上を半回転した。
「トランセル、かたくなる!」
人間の声に応えるように、殻の表面がわずかに色を濃くした。二度目の体当たりが来る。殻が鈍い音を立てる。トランセルは転がりかけて、踏みとどまった。踏みとどまる足などないはずなのに、そう見えた。
「いとをはく!」
殻の隙間から、細い糸が吐き出された。コラッタの足に絡みつき、跳ねるような動きを少しだけ鈍らせる。
「そんなの、ちぎっちまえ!」
コラッタが糸を引きちぎって、また突っこんでくる。殻が打たれる。また糸を吐く。またちぎられる。また打たれる。
イーブイは、その繰り返しから目を離せなかった。
知っている。この戦い方を、イーブイは誰よりもよく知っている。動けない体で、ただ打たれ続けること。倒れないことだけを、自分に許していること。
けれど、何かが違った。
打たれるたびに、トランセルの目は上を向いた。殻を叩かれて地面に押しつけられても、その目はコラッタではなく、木々の隙間の、橙色に染まりはじめた空を見ていた。そしてその次に、必ずイーブイとポッポのほうを見た。
あいつには、耐えた先がある。
空を飛ぶ、という先が。イーブイが前の主人の下で耐えていたとき、その先には何もなかった。ただ、今日を終わらせるために耐えていた。明日も同じ一日が来るとわかっていて、それでも耐えていた。
あいつは違う。いつか飛ぶために、今、打たれている。そしてたぶん、ここにいるみんなに、自分も仲間だと認めてほしくて。
ゆうべの森の中で、スピアーの針がキャタピーを跳ね飛ばしたとき、自分の体が勝手に前へ出かけたことを、イーブイは思い出した。オニスズメのくちばしが人間の背中に刺さったとき、何も考えずに走っていたことも。
あれは、なんだったのだろう。
自分が打たれないためではなかった。捨てられないためでもなかった。
守りたかったのだ。
一匹でいたときには、守るものなんて何もなかった。耐えることは、自分ひとりが生き延びるための方法でしかなかった。でも今は違う。この小さな殻も、あの騒がしい鳥も、自分の歩幅に合わせて歩く人間も、イーブイの前から失われてほしくない。
そのためなら、もっと耐えられる。もっと重くなれる。そして、もっと強く返せる。
強くなりたい、とイーブイは思った。
生まれて初めて、はっきりとそう思った。
「トランセル、まだいけるか!」
人間の声に、殻がこつんと鳴った。ひびの入りかけた殻だった。
イーブイは、喉の奥から鳴き声を絞り出した。自分でも驚くほど、大きな声だった。隣でポッポも、甲高く鳴いた。
殻の隙間の目が、二匹のほうを向いた。
コラッタが、とどめとばかりに大きく跳んだ。糸に絡まった足で、力任せに。
「トランセル、今だ! たいあたり!」
殻が、跳ねた。
動けないはずの体が、打たれて押しこめられていた分だけ、地面から弾けるように飛び出した。跳びかかってきたコラッタの真正面に、殻ごとぶつかっていく。耐えて、耐えて、最後の一瞬で前へ出る。ゆうべ、イーブイがスピアーにしたのと、同じやり方だった。
コラッタが仰向けにひっくり返り、そのまま目を回した。
少年が、口を開けたまま固まっていた。
イーブイは、前足に力が入っているのに気づいた。爪が、地面に食いこんでいた。走り出したくてたまらなかった。人間の声で、今すぐにでも。
早く、戦いたい。
今度は、守るために。
◆
殻の内側で、何かがほどけていく。
トランセルは、それが痛いのか、熱いのか、わからなかった。ただ、今まで固く閉じこめられていた体のすべてが、外へ、外へと押し広げられていくのを感じていた。
光の中で、殻にひびが走る。背中が割れる。その割れ目から、たたまれていた何かが、ゆっくりと伸びていく。
薄くて、軽くて、まだ濡れている。
翼だった。
光が消えたとき、バタフリーは、自分が地面から浮いていることに気づいた。
信じられなくて、一度羽ばたいた。体が、ふわりと上がった。もう一度羽ばたいた。人間の帽子が、足の下に見えた。
「……すごい」
人間の声が、下から聞こえた。
「すごいぞ、バタフリー!」
フリィ、と鳴いた。自分の声が、こんなに軽く出るのも初めてだった。
ポッポが下から飛び上がってきて、隣に並んだ。並んで飛ぶのも、初めてだった。ポッポが少し先へ出て、振り返る。ついてこい、というふうに。
バタフリーは羽ばたいた。
森の木々の梢が、足の下を流れていく。葉と枝の天井を、生まれて初めて、外側から見下ろした。キャタピーだったころ、毎日下から見上げていたあの隙間の向こうに、今、自分がいる。
空は、思っていたよりずっと広かった。
西の端にわずかに残った橙色の上に、もう夜が降りてきている。その藍色の中に、一つ、また一つと、小さな光が灯りはじめていた。
あれが、星というものだろうか。
もっと高く飛べば、あそこまで届くだろうか。
バタフリーは、地上を振り返った。森の出口の小さな草地で、人間がこちらに手を振っている。その足元で、茶色い四本足が、じっと空を見上げていた。昼間よりもずっと、人間の近くで。
あの二人がいなければ、ここまでは来られなかった。
だから、まだ行かない。もっと遠くへ行くのは、あの二人と一緒にだ。
バタフリーは夜空に背を向けて、ゆっくりと、皆のいる地上へ降りていった。
(第三話 了)