負けたこと自体は、それほど堪えていなかった。
ジムリーダーを何年もやっていれば、負ける日はある。相性の悪い相手もいれば、こちらの読みを上回ってくる挑戦者もいる。そういう相手にバッジを渡すのは、むしろ嬉しい仕事だった。
タケシの胸にひっかかっているのは、昨日の挑戦者の、あの一言のほうだった。
マサラタウンから来たという少年だった。名前はグリーン。オーキド博士の孫だと、あとから受付に聞いた。手持ちのヒトカゲは岩タイプにとって相性のいい相手ではなかったが、少年はそれを気にもしていなかった。イシツブテが固くなれば、その上からもっと強く打たせた。イワークが巨体で押し返せば、ヒトカゲが倒れかけていても、もう一発、もう一発と命じ続けた。そして本当に、最後には打ち破っていった。
バッジを受け取りながら、少年は悪びれもせずに言った。
「岩タイプってさ、結局、硬いだけじゃん。硬いだけなら、もっと強く殴れば割れるだろ」
悪気がないのは、すぐにわかった。少年はただ、自分が見たとおりのことを口にしただけなのだ。
だからこそ、タケシは何も言い返せなかった。
硬いだけ。
岩タイプの硬さは、もっと強い力の前では、ただ遅れて割れるだけのものなのか。耐えて、耐えて、それでも最後には押し切られる。それが、自分が何年もかけて磨いてきた戦い方の正体なのか。
ジムを閉めて家に帰る道すがら、タケシは何度もそのことを考えていた。夕飯の支度をして、弟や妹たちの騒がしい声に囲まれているあいだだけは忘れていられた。けれど、皆が寝静まって一人で外に出ると、また同じところへ戻ってきてしまう。
気晴らしに町外れまで歩いたのは、そのせいだった。
博物館の裏手の空き地に、小さな人影があった。
赤い帽子の少年が、茶色い毛並みのポケモンと向かい合っている。イーブイだ。この辺りではめったに見ない。少年の肩には、大きな翅のバタフリーがとまっていた。
「バタフリー、いくぞ。ゆっくりでいいから、あいつの正面から来てくれ」
バタフリーが肩から飛び立ち、ふわふわと高度を下げながらイーブイに近づいていく。攻撃というより、攻撃の真似事だった。
「イーブイ、待て」
イーブイが、地面に四本の足を据えた。
タケシは思わず足を止めた。
ただ伏せているのではなかった。重心を低く落とし、体の重さを地面へ沈めていく、その落とし方に覚えがあった。イワークがかたくなるときの、岩肌の締まり方に似ている。
バタフリーの翅が、イーブイの鼻先をかすめた。イーブイは一歩も動かない。バタフリーが離れようとした、その瞬間。
「今だ」
イーブイが、のそりと一歩前へ出た。速くはない。けれどその一歩は、まるで地面ごと前へ押し出したような重さを持っていた。バタフリーがあわてて舞い上がる。
「うん、今のすごくいい。その感じだ」
少年が、ほっとしたように呟いた。イーブイは褒められたことに戸惑うように、少しだけ耳を伏せた。
いい連携だ、とタケシは思った。いや、連携と呼ぶには、まだぎこちない。けれど少年は、自分のポケモンに何ができて何ができないかを、ちゃんと見たうえで指示を出している。速さで勝負させようとしていない。
「いい練習をしてるな」
声をかけたのは、ほとんど反射だった。ジムの若いトレーナーたちの面倒を見ているうちに、いいものを見ると黙っていられない性分になってしまった。
少年がびくりと振り返った。イーブイがさっと少年の後ろに回りこみ、低く身構える。知らない大人を見る目だった。それも、ただの人見知りではない。
タケシは、その場にしゃがみこんだ。目線を、少年よりも低くした。
「悪い、驚かせたな。俺はタケシ。この町の者だ。夜の散歩をしてたら、面白いものが見えたもんでな」
「……レッド」
少年は小さく名乗った。口数の多いほうではないらしい。
「ジムに挑むのか?」
「……うん。明日」
「そうか」
タケシは、少年の後ろで身構えているイーブイを見た。イーブイは、タケシの手を見ていた。顔ではなく、手を。
タケシは、その手をゆっくりと膝の上に置いた。それから、上着のポケットに入れていた包みを取り出した。弟たちのおやつの残りの、木の実を練りこんだ焼き菓子だった。ポケモンも食べられる。
「腹は減ってないか。こいつは、俺の手から食うのは嫌だろうから」
包みを開いて、地面に置いた。そして、自分から半歩下がった。
レッドが目を丸くした。
「どうして、わかるの」
「弟や妹が九人いてな。それに、ポケモンも人間も、手を怖がるやつの目は同じだ」
レッドは少し黙ってから、焼き菓子を一つ取って、自分の足元から少し離れた場所に置き直した。イーブイが、そろそろと出てきてそれを食べた。タケシのほうは、一度も見なかった。
「一つ、聞いてもいいか」
タケシは、自分でも思っていなかったことを口にしていた。
「レッドは、どうしてバトルをするんだ。ジムに挑むってことは、勝ちたいんだろう。でも、勝ち方はいろいろある。速いポケモンを捕まえて、強い技を覚えさせて、力で押し切るのもひとつのやり方だ。そのイーブイは、そういう戦い方には向いていないように見える」
レッドは、焼き菓子を食べるイーブイを見ていた。長いあいだ、何も言わなかった。答えないつもりなのかと思いかけたころ、ぽつりと口を開いた。
「勝ちたい相手がいるんだ。一回も勝ったことがなかったやつ。……この前、初めて勝てた。こいつのおかげで」
「そうか」
「でも、それだけじゃなくて」
レッドは、言葉を探すように少し眉を寄せた。
「こいつ、自分のこと、のろいって思ってるんだ。たぶん、ずっとそう言われてきたから。だから……そうじゃないって、勝って見せたい。こいつに」
タケシは、すぐには返事ができなかった。
硬いだけじゃん、と言った少年の声が、まだ耳の奥に残っている。その声と、目の前の少年の声が、同じ夜の空気の中で並んだ。
「……いい理由だな」
ようやくそれだけ言って、タケシは立ち上がった。
「明日は、早めに寝ておけよ。ジムリーダーは、手加減しないぞ」
「うん。……知ってるの?」
「まあな。この町の者だから」
タケシは手を振って、空き地をあとにした。
背中で、焼き菓子の包みががさがさと鳴る音がした。イーブイが、残りを食べはじめたのだろう。
◆
ニビジムの扉をくぐったとき、レッドは一瞬、足を止めた。
岩を削り出したようなバトルフィールドの向こう、挑戦者を待つ位置に立っていたのは、昨日の夜、空き地で焼き菓子をくれた人だった。
「よく来たな、レッド」
タケシは腕を組んで、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「黙ってて悪かった。改めて名乗るぞ。俺はニビシティジムリーダー、タケシ。岩タイプの使い手だ」
レッドは、何も言えずにうなずいた。足元で、イーブイが体を低くした。昨夜よりは、少しだけ警戒の色が薄い気がした。
「使うポケモンは二体。お前もそれでいいか」
「バタフリーと、イーブイで」
「いい判断だ。いくぞ、イシツブテ!」
タケシが投げたボールから、岩に腕が生えたようなポケモンが転がり出た。
「バタフリー!」
バタフリーが、レッドの肩から舞い上がった。
「イシツブテ、かたくなる!」
「バタフリー、ねんりき!」
イシツブテの体が、表面から締まっていくように固くなる。けれど、バタフリーの放った見えない力は、岩の表面ではなく、その内側を揺さぶった。イシツブテの体がぐらりと傾き、地面の上で回転する。
「なるほど、岩の硬さを素通りする技か。だがな、イシツブテ、たいあたりだ!」
イシツブテが地面を蹴って跳び上がる。腕の生えた岩の塊が、低く飛ぶバタフリーに迫った。
「上だ、バタフリー!」
バタフリーが翅を打って高度を上げた。イシツブテの体当たりは空を切り、そのまま地面に落ちて転がる。トキワの森で、キャタピーだったころには一度もできなかったことだ。
「もう一回、ねんりき!」
二度目の力が、イシツブテを地面に押しつけた。岩の体がしばらく揺れていたが、やがて動かなくなった。
「戻れ、イシツブテ。よくやった」
タケシは、少しも悔しそうではなかった。むしろ楽しそうに、次のボールを握った。
「空を取られたか。なら、空まで届くやつを出すぞ。いけ、イワーク!」
ジムの天井まで届くかと思うほどの、岩の大蛇が現れた。
レッドは息を呑んだ。バタフリーの翅が、一瞬だけ震えたのがわかった。
「イワーク、たいあたり!」
岩の巨体が、鞭のようにしなった。バタフリーは翅を打って避けようとしたが、イワークの尾の先は、思っていたよりずっと高く、ずっと遠くまで届いた。翅の端を打たれ、バタフリーが空中で大きくぐらつく。
「バタフリー、ねんりき!」
見えない力がイワークの頭を揺らす。けれど巨体は、ほんの少し首を振っただけだった。二度目の尾が来る。今度は、まともに入った。
バタフリーが、フィールドの床に叩きつけられた。
翅が、かすかに動いている。まだ、立とうとしている。
「バタフリー、もういい。戻れ!」
レッドがボールを向けかけたとき、バタフリーが床を蹴った。
命令ではなかった。レッドは何も言っていない。それなのにバタフリーは、破れかけた翅を必死に打ち、這い上がるようにしてイワークの頭上まで舞い上がった。見上げるほどの巨体の目の前で、翅を大きく一度だけ打ち合わせる。淡い光の粉が、岩の顔に降りかかった。
何の技なのか、レッドにはわからなかった。たぶん、技と呼べるものですらなかった。
イワークがうるさそうに首を振り、三度目の尾を振り下ろした。バタフリーは今度こそ動かなくなった。
「戻れ、バタフリー」
ボールに戻すとき、レッドの手は震えていた。
「ありがとう、バタフリー」
小さく言って、腰に戻す。顔を上げると、イワークがもう一度、何かを振り払うように首を振るのが見えた。
レッドは、足元を見た。
イーブイが、もう前に出ていた。
◆
見上げるほどの岩の蛇だった。
イーブイは、その影の中に立っていた。体の大きさが違いすぎる。たいあたりをぶつけたところで、岩の表面に毛がこすれるくらいのものだろう。
それでも、足は前を向いていた。
さっき、あの翅のポケモンが床に叩きつけられたとき、イーブイの体はまた勝手に前へ出かけた。守りたかったのに、間に合わなかった。
けれど、イーブイの目に焼きついたのは、その先だった。
人間はもう、戻れと言っていた。それなのにあいつは、破れた翅で舞い上がった。誰にも命じられていないのに、この見上げるほどの相手の、目の前まで。
あいつは、負けるつもりなんてなかったのだ。最後の最後まで、この岩の蛇に勝つつもりでいた。
岩の蛇の顔のあたりには、まだ淡い光の粉がかすかに漂っている。毒とも呼べないような、ほんのわずかな残り香だった。それでも岩の蛇は、ときどきそれを嫌がるように目を瞬かせていた。
あいつが、最後に残していったものだ。
イーブイの四本の足に、力がこもった。体の奥から、熱いものがせり上がってくる。怖さではなかった。耐えるための重さとも違った。
あいつが勝つつもりだった相手に、自分が負けるわけにはいかない。
「イーブイ、たいあたり!」
人間の声がした。イーブイは走った。
岩の蛇の胴に、体ごとぶつかる。硬い。思っていたとおり、岩はほとんど揺れなかった。
「イワーク、がまん!」
岩の蛇が、ぐるりと体を丸めた。そして、そのまま動かなくなった。反撃してこない。尾を振り上げもしない。
「動かなくなった……? イーブイ、もう一回! 今のうちだ!」
イーブイは、もう一度ぶつかった。もう一度。さらにもう一度。岩の蛇は丸まったまま、じっとそれを受けている。打ち返してこない。
何かが、おかしい。
イーブイは、その動かなさに覚えがあった。打たれても、打たれても、ただ受けている。体の奥に、何かを溜めこんでいる。
自分と、同じだ。
そう気づいたのと、岩の蛇が丸めていた体をほどいたのが、同時だった。
「――イワーク、解き放て!」
溜めこまれていたものが、全部、一度にイーブイへ叩き返された。
岩の尾が、真上から落ちてきた。床に押しつぶされる。息が止まる。目の前が白くなった。今まで受けたどんな一撃よりも、重かった。自分がぶつけた体当たりの、何倍もの重さだった。
「イーブイ!」
人間の声が、遠くに聞こえた。
倒れていない。
イーブイは、自分がまだ四本の足で立っていることに、少し遅れて気づいた。体じゅうが軋んでいる。それでも、足は床をつかんでいた。打たれる直前、体が勝手に重く沈んでいたのだ。いつの間にか、そうするのが当たり前になっていた。
「ごめん、イーブイ」
人間の声が、さっきよりずっと近くで聞こえた。
「あれは、お前と同じだったんだ。待って、溜めて、返す。僕が、気づかなかった」
人間は、それ以上謝らなかった。代わりに、深く息を吸う音がした。
「もう追わなくていい。待て、イーブイ。あいつが来るまで」
イーブイは、体を低くした。
前足に重心を落とし、四本の足を床に据え、体の重さを全部、下へ落としていく。足が重くなる。動きが鈍くなっていく。体の奥に、ずしりとしたものが溜まっていく。昨日の夜、空き地で何度も繰り返したとおりに。
岩の蛇が、首をもたげた。イーブイが動かないのを見て、困ったように頭を振る。こちらが打たなければ、向こうには溜めるものがない。
「……なるほどな」
岩の向こうで、大きな人間が呟いた。
「なら、こっちから崩すぞ。イワーク、いやなおと!」
岩の蛇が、口を開けた。
耳を裂くような音が、ジムの中に響きわたった。イーブイの全身の毛が逆立つ。体の中で固く締めていたものが、音に揺さぶられて、ゆるんでいく。せっかく沈めた重さが、少しずつ浮き上がっていくのがわかった。
「イーブイ、もう一回だ。沈め!」
人間の声が、音を突き抜けて届いた。
イーブイは、歯を食いしばるようにして、もう一度体を沈めた。音が重さを剥がし、イーブイがまた沈める。剥がされる。沈める。その繰り返しだった。
どちらが先に音を上げるか。
イーブイは、ふと、岩の蛇の顔を見た。いやなおとを吐き出すたびに、その首がほんのわずかに遅れて揺れる。何かが目にかかったように、瞬きが多くなっている。最初に見上げたときには、なかった遅れだった。
ほんの小さな違和感だ。けれどそれは、消えずに残っている。睨み合いが長引くほど、少しずつ、確かに。
あいつが残していったものは、まだ戦っている。
だったら、自分が先に崩れるわけにはいかなかった。
◆
タケシは、いやなおとを止めさせた。
これ以上続けても、意味がない。あのイーブイは、剥がしたそばから、また沈んでいく。
それに、イワークの様子がおかしかった。首の振りが、わずかに遅れる。いやなおとを吐くたびに、何かを嫌がるように目を瞬かせる。何年も一緒に戦ってきたイワークに、こんな癖はなかった。
あのバタフリーだ、とタケシは思った。倒れる寸前、トレーナーの命令もなしに舞い上がり、イワークの顔の前で翅を打った。技と呼べるようなものではなかったはずだ。それでもあの一打ちは、何かを残していった。そしてイーブイが待てば待つほど、その小さな引っかかりが、イワークの中で少しずつ大きくなっていく。
このまま睨み合っていれば、先に崩れるのはこちらだ。
がまんを、もう一度使うこともできた。けれど、あのイーブイはもう打ってこないだろう。打ってこない相手に、がまんは何も溜められない。
選択肢は一つしかなかった。こちらから、打つ。
それが、あのイーブイの待っているものだとわかっていても。
タケシは、昨日の少年の言葉を思い出していた。硬いだけなら、もっと強く殴れば割れる。
そうかもしれない。だが、本当にそうなのか。
タケシは、それを確かめたかった。ジムリーダーとしてではなく、何年も岩のポケモンと一緒に耐えることを磨いてきた、ひとりのトレーナーとして。
目の前のイーブイは、硬さを持っている。けれどそれは、ただの硬さではない気がした。耐えるたびに重くなり、重くなるたびに、何かを溜めこんでいく。それが本当に溜まっているのなら、強い力で打てば、打った分だけ返ってくるはずだ。
割れるのか、返ってくるのか。
「イワーク」
タケシは、自分の声が少し震えているのに気づいた。怖いからではない。昨日、あの少年に負けてから、一度も感じていなかった熱が、胸の底からせり上がってきていた。
「全力で、たいあたりだ!」
岩の巨体が、どこかぎこちなく軋みながらも、最後の力でしなった。
尾の先が、イーブイの真上から叩きつけられる。床が揺れ、砂埃が舞い上がった。
割れたか、とタケシは思った。
砂埃の中で、何かが動いた。
イーブイは、立っていた。
イワークの尾を、頭の上で受け止めたまま。四本の足が床にめりこむほど沈み、体じゅうの毛が逆立っている。それでも、潰れていなかった。
レッドの声が、ジムの中に響いた。
「今だ、イーブイ!」
イーブイが、前へ出た。
イワークの尾を押しのけるように、一歩。のそりと、重く。そして、溜めこんだものを全部乗せて、イワークの胴に体ごとぶつかった。
音が違った。
岩と岩がぶつかったような、低く腹に響く音だった。イワークの巨体が、根元から浮き上がった。ジムの天井近くまで持ち上がったその体が、ゆっくりと傾き、地響きを立てて床に倒れた。
しばらく、誰も声を出さなかった。
タケシは、倒れたイワークを見下ろしていた。それから、まだ肩で息をしているイーブイを見た。
割れなかった。
受けて、溜めて、返してきた。打たれた分だけ、いや、それ以上に。
硬さは、ただ遅れて割れるためのものではなかったのだ。
「……戻れ、イワーク」
ボールに戻しながら、タケシは、自分が笑っていることに気づいた。
◆
バトルフィールドの真ん中で、タケシはレッドにバッジを差し出した。灰色の、小さな石のような形をしていた。
「グレーバッジだ。お前と、お前のポケモンたちが勝ち取ったものだ」
レッドは、両手でそれを受け取った。手のひらの上のバッジは、思っていたよりずっと重かった。
「それと、これも持っていけ。ジムに勝った挑戦者に渡すことになってる」
タケシが渡してきたのは、技を覚えさせるための円盤だった。
「わざマシン、がまんだ。さっきイワークが使ったやつだな」
レッドは、円盤を見つめた。さっき、何倍もの重さでイーブイを叩き潰しかけた技だった。待って、溜めて、返す技。
「いや、いい」
「ん?」
「もらうけど、イーブイには、覚えさせない」
レッドは、足元のイーブイを見た。イーブイは、レッドとタケシのあいだで、少し居心地悪そうに伏せていた。
「こいつには、もう、こいつのやり方があるから」
タケシは、一瞬きょとんとした。それから、腹の底から笑った。
「そうだな。そのとおりだ」
タケシはしゃがみこんで、昨日の夜と同じように、目線をイーブイより低くした。手は、膝の上に置いたままだった。
「レッド。お前のイーブイがやっていたこと、名前を知ってるか」
「……名前?」
「体を重く沈めて、自分の速さと引き換えに、守りと力を溜めていく。あれは『のろい』という技だ」
その言葉が出た瞬間、イーブイの体が固まったのが、レッドにはわかった。
「そして、相手に打たせて、その直後に返す一撃。相手より後に動いたときほど、重くなる。あれは『しっぺがえし』だ。どっちも、このあたりじゃめったに見ない技だぞ。誰かに教わったわけじゃないんだろう」
レッドは、首を横に振った。
「だろうな。たぶん、そいつが自分で身につけたんだ。速く動けない体で、どうにかして生き延びようとしてるうちに」
タケシは、イーブイに向かって言った。レッドにではなく、イーブイに。
「耐えるのは、弱いからじゃない。硬いからだ。お前の硬さは、打たれた分だけ相手に返せる硬さだ。昨日、ある奴に『硬いだけ』って言われてな。俺はちょっと、自信をなくしかけてた」
タケシは、照れくさそうに頭をかいた。
「ありがとな。お前のおかげで、思い出した」
◆
のろい。
その音が、イーブイの耳の奥で、何度も繰り返されていた。
知っている音だった。前の主人が、勝負に負けるたびに吐き捨てた音。自分で自分を呼ぶときに使ってきた音。体の奥に染みついて、どれだけ毛づくろいをしても落ちなかった音。
のろい。
それが、自分の戦い方の名前だという。
速さと引き換えに、守りと力を溜めていく技。速く動けない体で、生き延びようとしているうちに身につけたもの。
同じ音なのに、まるで違う意味だった。
イーブイは、目の前でしゃがみこんでいる大きな人間を見た。手は、膝の上に置かれたままだ。一度も、こちらに伸びてこない。昨日の夜と同じように。
それから、隣に立っている人間を見上げた。
あの人間は、知らなかったのだ。自分が何をしていたのか。知らないまま、追うなと言い、待てと言い、沈めと言った。名前も知らない戦い方を、イーブイの体を見ているだけで、少しずつ組み立てていった。
ずっと、呪いだと思っていた。
この遅い体も、打たれるたびに重くなる癖も、逃げられずに耐えるしかない自分も。全部、生まれつき背負わされた呪いなのだと。
でも、もしかしたら。
イーブイは、四本の足で、ジムの床を踏みしめてみた。まだ、少しだけ重い。さっき溜めこんだものの名残が、体の奥でじんわりと温かい。
もしかしたら、これは呪いではなかったのかもしれない。
人間が、しゃがみこんで、イーブイと同じ高さに目を合わせた。
「帰ろう、イーブイ。バタフリーを、早く回復させてやらないと」
イーブイは、立ち上がった。
いつもの一歩後ろではなく、人間の、すぐ隣に。