オツキミ山のふもとのポケモンセンターは、山越えを前にしたトレーナーたちでいつも混み合っているらしい。
レッドがそこに着いたのは、ニビシティを出て二日目の昼過ぎだった。ロビーの長椅子はほとんど埋まっていて、あちこちで洞窟の道順や、出てくるポケモンの話が飛び交っている。その賑わいの隅で、ひとかたまりの人だかりができていた。
「さあさあ、今日だけの特別価格! 一匹たったの五百円だよ!」
人だかりの真ん中で、派手な柄のシャツを着た男が声を張り上げていた。足元に、水を張った大きなバケツが置いてある。
中で、赤い魚のポケモンが跳ねていた。
跳ねる、といっても、狭いバケツの中ではほとんど身動きがとれない。尾びれで水面を叩いては、縁にぶつかって、また水に落ちる。そのたびにしぶきが飛び、人だかりの前列の誰かが、うわ、と笑いながら身を引いた。
「コイキングかよ」
「五百円でもいらねえって」
「それ、はねるしか覚えないんだろ? 何の役に立つんだよ」
笑い声があちこちから上がる。男は気にした様子もなく、むしろそれに乗っかるように肩をすくめた。
「まあまあ、弱いのは認めますよ。だからこのお値段なんです。水槽の飾りにでもどうです? 跳ねてるところは、まあ、元気でしょう」
また笑いが起きた。
レッドは、人だかりの後ろから、バケツの中を見ていた。
コイキングは、跳ねるのをやめなかった。笑われても、縁にぶつかっても、また尾びれで水を叩く。何かから逃げようとしているのか、とレッドは最初思った。けれど、見ているうちにそうではないとわかってきた。
逃げようとしている生き物は、あんな目をしない。
縁にぶつかって水に落ちるたびに、コイキングの丸い目は、もう一度、上を向いていた。バケツの外の、笑っている人間たちのほうを。睨んでいるように見えた。こんなところで終わるものか、と言っているように見えた。
レッドは、自分の足元を見た。イーブイが、人だかりの足の間から、じっとバケツを見つめていた。耳が、まっすぐに立っていた。
「……ください」
人だかりが、静かになった。
レッドは、ポケットから小銭を出して、男に差し出していた。
「その、コイキング。ください」
男は一瞬きょとんとして、それから満面の笑みで小銭を受け取った。後ろのほうで、誰かが吹き出す声がした。
◆
また、売られた。
コイキングは、新しい持ち主のボールの中で、そのことを考えていた。
生まれた池では、いつもいちばん弱かった。泳ぐのは遅い。体当たりをしても、相手の鱗にかすりもしない。できることといえば、水面から跳ね上がることだけだった。それさえ、仲間たちは笑った。跳ねて何になる。空でも飛ぶつもりか。
ある日、網ですくわれた。人間の手から人間の手へ渡り、最後にあの派手なシャツの男のバケツに入れられた。男は毎日、同じ言葉を繰り返した。弱いですよ。だから安いんです。飾りにでもどうぞ。
そのたびに、誰かが笑った。
弱いのは、知っている。誰よりも、自分がいちばんよく知っている。
だから、嫌いだった。笑われるたびに跳ねることしかできない自分が。笑い声に言い返すかわりに、縁にぶつかって水に落ちることしかできない自分が。
それでも、跳ねるのをやめたら、本当に終わる気がした。
いつか、と思っていた。いつか必ず、こんな自分を終わらせてやる。どうすればいいのかはわからない。何年かかるのかもわからない。けれど、強くなりたいという思いだけは、どれだけ笑われても、体の芯から消えてくれなかった。
ボールの外で、人間の声がした。
「出てきて、コイキング」
光に包まれて、コイキングは草の上に放り出された。水のない地面の上で、反射的に体が跳ねる。
目の前に、赤い帽子の少年がしゃがんでいた。その横に、茶色い四本足のポケモンと、小さな鳥と、大きな翅のポケモンが並んでいる。
また、笑われるのだろうか。
少年は、笑わなかった。
「お前、強くなりたいんだろ」
コイキングは、跳ねるのをやめた。
「見てればわかったよ。だから、買ったんだ」
◆
オツキミ山の洞窟は、入ってすぐに光が届かなくなった。
ごつごつした岩肌に、懐中電灯の明かりが丸く揺れる。天井のどこかから、水の滴る音が規則正しく響いてくる。そして暗がりの奥から、甲高い羽音が近づいてきた。
「ズバットだ。コイキング、いこう!」
レッドがボールを投げると、コイキングは岩の上に飛び出し、そのまま大きく跳ねた。
ズバットは、少し戸惑ったように宙で止まった。それから、跳ねる魚を目がけて急降下してくる。牙が、コイキングの鱗をかすめた。コイキングは岩の上を転がり、また跳ねる。
それしかできない。わかっていた。
ズバットの二撃目が来る。三撃目が来る。コイキングは跳ねて、跳ねて、跳ね続けた。一度も当たらない。当たるような技ではない。それでも、ズバットのほうを向いて跳ねる。
「もういい、コイキング。イーブイ、頼む!」
四撃目が来る前に、イーブイがコイキングの前に出た。体を低く沈め、ズバットの牙をその身で受ける。ほとんど揺れなかった。打たせたあとの一撃で、ズバットは洞窟の奥へ逃げていった。
「よく頑張った」
レッドがコイキングをすくい上げると、コイキングは手の中で悔しそうにびちびちと跳ねた。もっとやれた、と言っているようだった。
「わかってる。明日も、やろう」
その日、同じことを七回繰り返した。
洞窟の入口に近い、まだ外の光がかすかに届くあたりを行ったり来たりしながら、野生のポケモンが出るたびにコイキングを出した。イシツブテのときも、パラスのときも、コイキングは跳ねるだけだった。そのたびにレッドは、危なくなる一歩手前で引き上げさせ、ほかのポケモンに代わらせた。ズバットが相手のときは、たいていポッポが出た。空の上で向きを変えられるポッポは、洞窟の低い天井の下でも、ズバットの牙をくるりとかわしてみせた。イシツブテのような硬い相手には、バタフリーが出た。岩の表面ではなく内側を揺さぶるねんりきは、この洞窟でいちばん頼りになる技だった。
戦いが終わると、ポッポはいつもコイキングのそばに降りた。水を張った鍋の縁にとまって、悔しそうに跳ねるコイキングを、何も言わずに見下ろしていた。群れでいちばん小さかった鳥と、池でいちばん弱かった魚だった。
ポケモンセンターに戻ると、ロビーで顔見知りになったトレーナーに笑われた。
「お前、まだそれ育ててんの? 時間の無駄だって」
レッドは何も言わなかった。翌朝も、同じ場所へ行った。
◆
「なにそれ。弱そう」
三日目の昼前だった。
岩陰から声がして、レッドが振り返ると、自分と同じくらいの年の女の子が、腕を組んで立っていた。オレンジ色の髪を片側でまとめ、肩の出たシャツに短いズボン。洞窟を歩く格好にしては身軽すぎる。腰に、モンスターボールが二つ下がっていた。
女の子の視線は、岩の上で跳ねているコイキングに向いていた。それから、レッドの足元のイーブイへ。肩のポッポへ。天井近くを飛んでいるバタフリーへ。
「っていうか、全員弱そう。あんた、それで山越える気?」
足元で、イーブイの耳がぴくりと動いた。
レッドは、言い返す言葉を探した。見つからなかった。かわりに、コイキングのほうへ向き直った。ちょうど、野生のズバットが飛びかかってくるところだった。
「コイキング、はねる」
「……はあ?」
女の子の声が裏返った。
「ちょっと、本気? はねるって、何の意味もないでしょ。それ、技ですらないわよ」
コイキングは跳ねた。ズバットの牙をぎりぎりでかわし、岩の上を転がり、また跳ねる。レッドは黙ってそれを見ている。ズバットの四撃目が来る直前で、イーブイと交代させる。いつもどおりの流れだった。
ズバットが逃げていったあと、女の子はしばらく黙っていた。
「……あんた、名前は」
「レッド」
「ふうん。あたしはカスミ」
カスミは、岩の上でまだ跳ねようとしているコイキングを見下ろした。
「ねえ、なんでそんなの育ててんの。もっと強いの、いくらでも捕まえられるでしょ」
レッドは、コイキングを手ですくい上げた。手のひらの上で、コイキングは今日も悔しそうに跳ねていた。
「こいつが、強くなりたいって言ってるから」
「……言ってる?」
「見てれば、わかる」
カスミは、何か言いかけて、やめた。
◆
知らないのね、とカスミは思った。
この子は、知らないのだ。目の前のコイキングが、どれだけ長い道のりの先に何になるのかを。水ポケモンを扱う者なら誰でも知っている、あの姿のことを。
知らないまま、育てている。笑われても、技ですらない技を、毎日毎日繰り返させている。
教えてやろうか、と一瞬思った。けれど、言葉は喉の手前で止まった。
教えたら、この子は、それを目指して育てるようになるだろう。強くなれるとわかっているから育てる。それはそれで、正しいトレーナーのやり方だ。
でも、今のこの子は違う。何になるかも知らずに、ただ、強くなりたがっているから育てている。
カスミは、ハナダの屋内プールのことを思い出した。姉たちが毎日のように開いている、水中ショーのことを。観客の拍手と、きらきらした照明と、ろくに戦いもせずに挑戦者へ手渡されていくバッジのことを。ポケモンを、見せるために磨いているあの場所のことを。
あそこが嫌で、飛び出してきたのだ。
この子のやり方は、あの場所とは正反対だった。誰にも見せるつもりのない、地味で、格好悪い、強くなるためだけの毎日。
「……ねえ、レッド」
気がつくと、口が勝手に動いていた。
「あんた、この山、越えるのよね。あたしもハナダのほうに用があるの。途中まで、一緒に行ってあげてもいいわよ」
レッドは、少し驚いた顔をして、それからこくりとうなずいた。
カスミは、自分が何を確かめたいのか、まだよくわかっていなかった。ただ、このコイキングが最初に技を覚える瞬間を、見てみたかった。
◆
カスミという人間が一緒に歩くようになって、四日目になった。
イーブイは、相変わらず、レッドのすぐ隣を歩いていた。ニビのジムを出た日から、なんとなくそこが自分の場所になっていた。カスミはその反対側を、大股でずんずん歩く。声が大きくて、よく笑って、よく怒る。最初の日は少し怖かったが、カスミの手が一度もこちらに向かって振り上げられないとわかってからは、気にならなくなった。
コイキングは、毎日跳ねていた。
イーブイは、その跳ねる姿から目が離せなかった。
あの魚は、自分が弱いことを隠さない。弱いと笑われて、売り物にされて、それでも、強くなりたいという顔をまるごと外に出して跳ねている。打たれるたびに水のない岩の上を転がり、転がるたびに、また相手のほうを向く。
自分は、ずっと隠してきた。
弱いことも、遅いことも、それが嫌でたまらないことも。前の主人の前では、何も感じていないふりをして、ただ伏せていた。強くなりたいなどと思うことさえ、自分には許されていない気がしていた。
トキワの森で、トランセルの戦いを見て、初めて強くなりたいと思った。けれどその思いは、まだ胸のどこかに小さく丸まっていて、外に出す方法がわからなかった。
コイキングは、それを毎日、全身で外に出している。
「イーブイ、交代」
レッドの声で、イーブイはコイキングの前に出た。ズバットの牙を受け止める。体を沈める。いつものように打ち返す。
ズバットが逃げていったあと、後ろでコイキングが、ぴしゃりと岩を叩いた。悔しがっているのだ。また自分では勝てなかったことを。
イーブイは、振り返ってコイキングを見た。
悔しがれるのは、強くなりたいと思っているからだ。
イーブイは、自分の前足を見下ろした。さっきズバットに打ち返したときの感触が、まだ残っている。自分は今、悔しがっているだろうか。もっと強く打ち返したかったと、思っているだろうか。
思っている、とイーブイは気づいた。
あの魚に、引っ張られている。
◆
洞窟の奥に進むにつれて、空気がひんやりと重くなった。
広い空洞に出たところで、カスミが急に腕を伸ばして、レッドの胸を押しとどめた。
「待って。……誰かいる」
懐中電灯を消して、岩陰から覗く。空洞の奥で、黒い服の男が二人、岩壁をつるはしで掘っていた。胸に、赤い「R」の文字が見えた。
「ロケット団よ」
カスミが、低い声で言った。
「ポケモンを盗んだり売り飛ばしたりして稼いでる連中。この山の化石を掘りに来てるって噂、本当だったのね」
そのとき、空洞の隅で何かが鳴いた。
小さな、桃色のポケモンだった。岩の隙間に体を押しこむようにして、震えている。その前に、男の一人が出したズバットが、羽を広げて立ちふさがっていた。
「ピッピじゃねえか。こいつは高く売れるぞ」
「化石より金になるかもな。捕まえとけ」
レッドは、岩陰から出ていた。
考えるより先に、足が動いていた。カスミが後ろで何か叫んだが、耳に入らなかった。
「やめろ」
男たちが振り返った。レッドを見て、一瞬だけ身構え、それから笑った。
「なんだ、ガキか。邪魔すんなよ」
「やめろ。その子、怖がってる」
「だから何だってんだよ。ズバット、こいつを追っ払え!」
ズバットが、レッドに向かって飛びかかってきた。
「イーブイ!」
イーブイが、レッドの前に飛び出した。牙を受け止め、体を沈め、打ち返す。後ろで、カスミがボールを投げる音がした。星の形をしたポケモンが、もう一人の男のイシツブテに向かって水を噴き上げる。
「あんたはそっち! こっちはあたしがやる!」
カスミの声が、空洞に反響した。
男が、二匹目、三匹目とポケモンを繰り出してくる。ズバット、コラッタ、もう一匹のズバット。イーブイが受け、バタフリーのねんりきがコラッタを岩壁まで押し戻し、ポッポが二匹のズバットを相手に空中を飛び回る。けれど、ここまで四日間洞窟を歩き通してきた体は、少しずつ重くなっていた。バタフリーの羽ばたきが鈍り、ポッポが岩の上に降りて肩で息をする。
イーブイの足が、ほんのわずかに震えた。
そのとき、腰のボールが、激しく揺れた。
コイキングのボールだった。カタカタと、止まらずに揺れている。出せ、と言っている。
岩の上で息をついていたポッポが、揺れるボールのほうへ首を向けた。そして、甲高く一声鳴いた。行かせてやれ、と言っているように聞こえた。
「……コイキング」
レッドは、ボールを握った。
ここで出したら、また跳ねるだけかもしれない。相手は本気で向かってくる。今までの練習とは違う。危なくなる前に引き上げさせる余裕も、たぶんない。
それでも、ボールは揺れ続けていた。
「やりたいんだな」
レッドは、ボールを投げた。
岩の上に飛び出したコイキングを見て、ロケット団の男が腹を抱えて笑った。
「おいおい、コイキングかよ! ガキ、やけになったか!」
「イーブイ、コイキングの横に」
レッドの声は、静かだった。
「受けてやってくれ。コイキングが、跳べるあいだ」
イーブイが、コイキングの隣に並んだ。体を、いつもより深く沈める。
男のズバットが急降下してくる。イーブイがその牙を受ける。その陰から、コイキングが跳ねる。外れる。二匹目のズバットが来る。イーブイが受ける。コイキングが跳ねる。また外れる。
「何回やっても同じだって!」
男が笑う。コイキングは跳ねる。岩の上を転がる。また、相手のほうを向く。
イーブイの体が、ずしりと重くなっていく。受けるたびに、足が岩にめりこんでいく。それでも、イーブイは一歩も退かなかった。退いたら、隣の魚が跳べなくなる。
コイキングは、跳ねた。
七度目だったか、八度目だったか、レッドにはもうわからなかった。
その跳躍は、それまでとは違っていた。
尾びれが岩を叩く音が、低かった。跳ね上がった体が、空中でわずかにひねられ、まっすぐズバットの胴に向かった。ただ跳ねたのではない。跳ねた勢いのまま、ぶつかりにいっていた。
鈍い音がした。
ズバットが、空中でくるりと回って、岩の上に落ちた。
洞窟の中が、しんと静まり返った。
ロケット団の男が、口を開けたまま固まっていた。後ろで戦っていたはずのカスミの声も、止んでいた。
岩の上で、コイキングが、ぴしゃりと尾びれを打った。
「たいあたりだ」
レッドの声が、少し震えた。
「コイキング、今の、たいあたりだ」
コイキングは、自分が何をしたのかわからないように、岩の上でしばらくじっとしていた。それから、もう一度、大きく跳ねた。今度は、誰に向けたのでもなかった。ただ、嬉しくて跳ねたのだとわかった。
岩の上で、ポッポが羽を大きく広げて鳴いた。自分のことのように。
「くそっ、なんなんだよこのガキ!」
男が三匹目のボールに手をかけたとき、洞窟の入口のほうから、甲高い笛の音が響いた。
「ジュンサーさんよ。上の出口で騒ぎを聞いた人が呼んでくれたみたい」
カスミが、肩で息をしながら言った。もう一人の男は、とっくにカスミのヒトデマンに伸されていた。
ロケット団の二人は、掘りかけの化石も放り出して、洞窟の奥へ逃げていった。
岩の隙間で震えていたピッピが、そっと顔を出した。レッドと目が合うと、ぴょこんと一度だけ頭を下げて、反対側の暗がりへ駆けていった。
◆
洞窟を抜けて山頂近くの台地に出たときには、もう夜だった。
カスミが焚き火を起こし、レッドが残っていた食料を分けた。ポッポとバタフリーはすぐに眠ってしまい、コイキングは、レッドが汲んできた水の入った鍋の中で、ときどき思い出したように小さく跳ねていた。
「あんたさ」
焚き火の向こうで、カスミが膝を抱えて言った。
「あのコイキングが、たいあたり覚えるの、わかってたの?」
「わかってなかった」
「……そうよね」
カスミは、なぜか少しだけ嬉しそうに笑った。
「明日、あたしは先に下りるわ。ハナダで、ちょっと片づけなきゃいけないことがあるの」
「そっか」
「また会うかもね。ハナダで」
それ以上のことを、カスミは言わなかった。
イーブイは、焚き火から少し離れた岩の上にいた。
夜は、相変わらず落ち着く。けれど今夜は、それだけではなかった。
空を見上げると、月が出ていた。オツキミ山という名前のとおり、ここから見る月は、麓で見るよりずっと大きく、ずっと近い。岩も、草も、遠くの山並みも、全部が青白い光に浸されている。
イーブイは、その光から目が離せなかった。
なぜだかわからない。昼の光は、何もかもをはっきり照らしすぎて、いつも少しだけ居心地が悪かった。けれど月の光は違う。自分の遅さも、自分の弱さも、責めずにそっと包んでくれるような光だった。
体の奥が、かすかに温かかった。昼間、コイキングの隣で受け続けた重さの名残とは、また別の温かさだった。
背後で、足音がした。
振り返ると、レッドが立っていた。眠れなかったのか、毛布を肩にかけている。
レッドは、イーブイの隣に腰を下ろした。何も言わなかった。イーブイも、何も言わなかった。二人で、しばらく同じ月を見ていた。
やがて、レッドの視線が、月からイーブイのほうへ移った。
「……きれいだな」
何のことを言っているのか、イーブイにはわからなかった。月のことかもしれない。けれどレッドの目は、月ではなく、青白い光を浴びたイーブイの背中のあたりを見ていた。
きれい、と言われたことは、一度もなかった。のろい、とは数えきれないほど言われた。
レッドの手が、ゆっくりと伸びてきた。イーブイの体は、一瞬だけ固まった。けれど手は、上から振り下ろされはしなかった。背中の毛の上にそっと置かれて、一度だけ、毛並みに沿って撫でていった。それから、離れていった。
ほんの一瞬のことだった。
イーブイは、逃げなかった。
レッドは、それ以上何もしなかった。膝を抱えて月を見ているうちに、こくり、こくりと頭が揺れはじめ、やがて岩にもたれたまま、静かな寝息を立てはじめた。
イーブイは、しばらくその寝顔を見ていた。それから、レッドの膝から前足ひとつぶんのところまで体を寄せて、丸くなった。
撫でられたところの毛が、まだ少しだけ、くすぐったかった。
鍋の中で、コイキングが小さく跳ねる音がした。眠りながら、まだ強くなる夢を見ているのかもしれなかった。
(第五話 了)