ロケット団、ぶん殴れば早いのにと思ったことある人は少なくないはず。
ハナダシティの北に、ゴールデンボールブリッジという橋がある。
橋の上には五人のトレーナーが一列に待ち構えていて、全員を勝ち抜いた者だけが向こう岸へ渡れるのだという。ハナダのポケモンセンターでその話を聞いたとき、ポッポはレッドの肩の上で、羽をぎゅっと縮めた。
自分は、まだ何もしていない。
ポッポは、ずっとそのことを考えていた。
トキワシティの通りで、あのオニスズメと戦った。母の前で胸を張って、強くなると約束して出てきたその日のうちに、くちばしを胸に受けて石畳に落ちた。相手も一緒に落ちたから、負けではなかったのかもしれない。けれど、勝てなかった。ニビのジムでは、出番さえなかった。岩の相手に、鳥の自分は向いていないとレッドが判断したのだ。それが正しいことは、ポッポにもわかっていた。わかっていたから、余計に悔しかった。
イーブイは、ヒトカゲを倒した。イワークも倒した。バタフリーは、空を飛ぶという夢を叶えた。コイキングは、笑われ続けた末に、とうとう自分のたいあたりを掴んだ。
自分だけが、まだ何の結果も出していない。
必ず帰ってくる、と母に言った。けれど、何も持たずに帰ることはできない。強くなったと胸を張れる何かを掴むまでは。
橋のたもとに着いたとき、ポッポはレッドの肩から飛び降りて、橋のほうへ一歩、二歩と跳ねていった。それから振り返って、レッドを見上げた。
レッドは少しのあいだポッポを見つめてから、口の端を上げた。
「全部、お前がやるか」
ポッポは、羽を大きく広げた。
一人目は、虫取り網を持った少年のキャタピーだった。風を二度当てると、ころりと転がった。
二人目と三人目は、どちらもポッポより少し大きいだけの鳥ポケモンだった。空の上でぶつかり合い、羽を散らし、それでもポッポのほうが先に体勢を立て直した。群れでいちばん小さかったから、いちばん速く方向を変えられるのだ。それは、レッドが最初の日に見抜いてくれたことだった。
四人目のニドランには、毒の棘を一度かすめられた。翼の付け根がじんと痺れ、羽ばたくたびに痛んだ。
「ポッポ、戻るか」
レッドの声に、ポッポは首を振った。
「わかった。すなかけ、それから上だ!」
砂を巻き上げて、空へ逃げる。ニドランが砂を払っているあいだに真上から風を叩きつけると、ニドランは橋の板の上で目を回した。
五人目は、腕を組んで橋の真ん中に立っている大柄な少年だった。繰り出してきたのは、マンキーだった。
速い。橋の欄干を蹴って跳び上がり、空にいるポッポにまで拳を届かせてくる。一発目を避けきれず、ポッポは橋の上に叩き落とされた。
痺れの残る翼が、うまく開かない。
また、勝てないのか、とポッポは思った。
「ポッポ、よく見ろ」
レッドの声がした。叫んではいなかった。
「あいつ、跳んだあと、落ちてくるまで向きを変えられない」
ポッポは、マンキーを見た。マンキーが、また欄干を蹴った。跳び上がる。拳を振りかぶる。その体は、まっすぐ上に向かって、まっすぐ落ちてくる。空の上で、曲がることができない。
自分は、曲がれる。
ポッポは、痺れた翼を無理やり広げた。マンキーの拳が来る直前、空中で体をひねり、真横へ滑る。拳が空を切った。落ちていくマンキーの背中に向かって、ポッポは真上から全身でぶつかっていった。
マンキーが、橋の板の上に大の字になった。
五人目の少年が、口を開けたまま、それを見下ろしていた。
ポッポは、橋の欄干に降りた。翼が痛い。毒の痺れが、まだ抜けていない。それでも、自分の足で立っていた。
そのとき、体の内側から、何かがほどけるように熱くなった。
白い光が、翼の先から広がっていく。小さかった体が、光の中で押し広げられていく。翼が伸びる。尾羽が伸びる。頭の羽が、風になびくほど長くなる。
光が消えたとき、欄干の上にとまっていたのは、ひと回りもふた回りも大きくなった鳥だった。
「ピジョン、だ」
レッドが、図鑑の画面と見比べながら、目を丸くしていた。
ピジョンは、自分の翼を広げてみた。風を受ける面が、さっきまでとはまるで違う。少し羽ばたくだけで、体がふわりと浮く。
この形を、知っている。
まだ、母ほど大きくはない。父の背中にも、きっと届かない。けれど、あの二羽の姿に、確かに一歩近づいた形だった。
レッドが駆け寄ってきて、両腕で、ピジョンの大きくなった体を抱えた。その腕が少し震えているのがわかった。
ピジョンは、レッドの肩越しに、遠くの空を見た。あの空の向こうに、母のいる森がある。
まだ、帰れない。けれど、帰るときに話せることが、ひとつできた。
◆
橋を渡りきったところで、スーツ姿の男が待っていた。
「いやあ、お見事! 五人抜き、しかも最後に進化まで。素晴らしい!」
男は大げさに手を叩きながら近づいてきて、レッドの手に、金色に光る小さな玉を握らせた。
「これは記念品です。きんのたま。売ればそれなりのお金になりますよ」
「ありがとう、ございます」
「いえいえ。それでね、君のような才能のあるトレーナーに、ぜひ紹介したい仕事があるんです」
男は声を落として、レッドの耳元に顔を寄せた。
「うちの組織に入りませんか。強いポケモンなら、いくらでも用意できます。もっと速くて、もっと強いやつを。そうすれば、そっちの、のろそうなイーブイなんかを無理して使う必要もなくなる」
足元で、イーブイの毛が逆立った。
男のスーツの襟の裏に、赤い「R」の刺繍がちらりと見えた。オツキミ山で見たのと、同じ文字だった。
レッドは、手のひらの金色の玉を見た。それから、それを男の胸ポケットに押しこんだ。
「いりません」
「おや」
「このピジョンは、今、五人に勝った。イーブイは、ジムリーダーに勝った。無理なんか、してない」
男の顔から、笑みがすっと消えた。
「そうですか。なら、力ずくで来てもらうしかないですね」
男がボールを投げた。飛び出したのは、紫色の蛇のポケモンだった。続けてもう一つ。ズバットが、甲高い声を上げて舞い上がる。
「アーボ、そいつのポケモンを。ズバット、ガキの顔だ!」
ズバットが、まっすぐレッドに向かってきた。
レッドがボールに手を伸ばすより早く、大きな影がレッドの前に滑りこんだ。
ピジョンだった。
広くなった翼を盾のように広げて、ズバットとレッドの顔のあいだに割りこむ。ズバットの牙が、ピジョンの胸を打った。ピジョンは空中でわずかに揺れ、それでも、レッドの前から退かなかった。
ピジョンの頭の中に、一番道路の草原が浮かんでいた。
オニスズメのくちばしから、自分をかばってくれた背中。裂けたシャツと、滲んだ赤いもの。あのとき自分は、守られるだけだった。
今度は、自分の番だ。
「ピジョン!」
レッドの声と同時に、ピジョンは翼を叩きつけた。ポッポだったころの何倍もの風が、ズバットを橋の欄干の向こうへ吹き飛ばす。ズバットは川の上でかろうじて体勢を立て直し、そのまま主人のところへ逃げ帰った。
「イーブイ、アーボを頼む!」
アーボが巻きつこうとしてくるのを、イーブイは体を沈めて受け止めた。締めつけられても、四本の足は地面から離れない。アーボが締める力を緩めた、その一瞬に、イーブイが前へ出た。
アーボが、草の上に伸びた。
男は舌打ちをすると、二匹をボールに戻し、草むらの向こうへ走り去っていった。
ピジョンは、レッドの隣に降りた。もう、肩の上には乗りきらない大きさだった。息が上がっていた。胸が痛かった。
それでも、気分は悪くなかった。
◆
橋の先の草原は、ゆるやかな丘になっていた。
ハナダの町並みが、丘の下に小さく見える。川からの風が、背の高い草を揺らしている。レッドはピジョンにありったけの傷薬を使い、それから、全員をボールから出した。
「少し、休もう」
昼下がりの日差しは、ちょうどいい暖かさだった。ピジョンはレッドのすぐ横の草の上に大きな体を下ろし、翼をたたんで、すぐに目を閉じた。バタフリーは丘のいちばん高い木の枝にとまって、翅をゆっくりと開いたり閉じたりしている。コイキングは、レッドが川から汲んできた水の入った鍋の中で、珍しくおとなしく浮いていた。イーブイは、レッドの反対側の横で腹ばいになり、日差しが眩しいのか、目を細めている。
レッドも、いつの間にか、うとうとしていた。
どれくらいそうしていたのかわからない。ふと、鼻の奥に、甘い匂いが届いた。
花の匂いだった。けれど、そのあたりに花は咲いていない。もっと深くて、少しだけ土の香りが混じった、不思議な匂いだった。
レッドは目を開けた。隣で眠るピジョンを起こさないように、そっと体を起こす。イーブイが、片目だけ開けてこちらを見た。
「いい匂いがする」
匂いをたどって、草をかき分けていく。丘の斜面を少し下ったところ、日当たりのいい草の中に、ぴょこんと緑の葉っぱが突き出ていた。
葉っぱの下に、丸くて青い体がくっついていた。
ナゾノクサだった。地面に半分埋まるようにして、気持ちよさそうに日を浴びている。甘い匂いは、その葉っぱから漂ってきていた。
レッドがしゃがみこむと、ナゾノクサは驚いたように目を開けた。けれど、逃げなかった。丸い目で、じっとレッドを見上げている。
「いい匂いだな、お前」
レッドが言うと、ナゾノクサの頭の葉っぱが、ふるふると揺れた。
その匂いを嗅いでいるうちに、レッドは、雨の草原のことを思い出していた。山吹色の傘が頭の上に差しかけられたとき、その着物から、かすかに同じような花の匂いがしたこと。あのときは、泣いていることを見られたくなくて、そんなことに気づく余裕もなかった。けれど今になって、なぜかはっきりと思い出せた。
あの人も、草のポケモンを連れているのだろうか。
ナゾノクサが、土から足を引き抜いて、ちょこちょことレッドの膝に寄ってきた。そして、葉っぱの先で、レッドの手の甲をくすぐった。
「一緒に、来るか」
ナゾノクサは、少し首を傾げた。それから、レッドの手のひらに、自分から体を乗せた。
レッドが空のボールを差し出すと、ナゾノクサは葉っぱの先でボールのボタンに触れた。くすぐったそうに何度も触れてから、ようやく押した。
◆
また、だ。
バタフリーは、木の枝の上から、その一部始終を見ていた。
あの人間は、何もしていないのだ。ボールを投げつけたわけでも、戦って弱らせたわけでもない。ただ近くに寄って、しゃがんで、いい匂いだと言っただけだ。それだけで、あのナゾノクサは、自分から手のひらに乗った。
バタフリーは、トキワの森を思い出した。
キャタピーだったころ、あの人間の背中を、一日じゅう追いかけた。誰にも頼まれていないのに。なんだキャタピーか、と言われなかった、ただそれだけのことで。
あのときは、自分が特別にあの人間を好きになったのだと思っていた。けれど、もしかしたら違うのかもしれない。
バタフリーは、レッドの横で眠っているピジョンを見た。鍋の中のコイキングを見た。そして、レッドの隣で、ナゾノクサを片目でじっと見張っているイーブイを見た。
あのイーブイでさえ、レッドの隣にいる。
人間が嫌いで、手が怖くて、ボールにも入りたがらないあのイーブイが。
あの人間には、何かがあるのだ。ポケモンのほうから、近くに寄っていきたくなるような何かが。本人はきっと、まるで気づいていないけれど。
イーブイが、ふと顔を上げて、木の上のバタフリーを見た。
目が合った。何も言わなかった。けれど、たぶん同じことを考えている、とバタフリーは思った。
◆
ハナダジムの扉をくぐると、むっとするような湿気と、塩素の匂いがした。
屋内いっぱいに、大きなプールが広がっている。水面に、浮き島のような足場がいくつも浮かんでいる。プールサイドの観客席には、きらきらした衣装の女の人が三人、並んで座っていた。
「あらあ、挑戦者? かわいい子ねえ」
「今日はショーの日じゃないのよ。でも、バッジならあげちゃおうかしら」
「ちょっと待って、あれ……」
三人目の女の人が、プールの向こう岸を指さした。
そこに、カスミが立っていた。
オツキミ山で会ったときと同じ、肩の出たシャツと短いズボン。けれど、立っている場所が違った。挑戦者を迎えるための、ジムリーダーの立ち位置だった。
「カスミ! あんた、帰ってたの!?」
「うるさいわね、お姉ちゃんたちは黙ってて」
カスミは姉たちのほうを見もせずに、まっすぐレッドを見た。
「言ったでしょ。また会うかもね、ハナダでって」
レッドは、驚いた。驚いたけれど、どこかで、そんな気がしていたのも本当だった。オツキミ山で、カスミがヒトデマンに出す指示には、迷いが一つもなかった。水の中にいる相手をどう動かせばいいのか、頭ではなく体で知っているような戦い方だった。あれは、旅のついでにポケモンを連れている人間の戦い方ではなかった。
「ジムリーダー、だったんだ」
「そうよ。ハナダジムリーダー、カスミ。水タイプのエキスパート」
観客席の姉の一人が、のんびりと立ち上がった。
「ねえカスミ、あんた帰ってきたばかりで疲れてるでしょ。この子の相手なら、お姉ちゃんたちがしてあげるわよ。バッジもちゃんとあげるから」
「いらない」
カスミの声が、ジムの天井に響いた。
「こいつは、絶対にあたしが相手する」
姉たちが、そろって口を閉じた。三人とも、まるで初めて見るものを見るような顔で、プールの向こうの妹を見つめていた。
「カスミが、あんな顔するなんて」
一人が、ぽつりと呟いた。
カスミは、もう姉たちを見ていなかった。
「使うのは二体。いくわよ、ヒトデマン!」
星の形をしたポケモンが、プールの真ん中の浮き島に降り立った。中心の赤い核が、きらりと光る。
レッドは、腰のボールに手をかけた。
カタカタと、一つのボールが揺れていた。
◆
ナゾノクサは、レッドの足元の、プールサイドの濡れたタイルの上にいた。
ボールの中にいるより、外で見ていたかった。仲間になったばかりのこの人たちが、どうやって戦うのか、知りたかった。
レッドが投げたボールから、赤い魚が飛び出した。浮き島の上で、ぴしゃりと跳ねる。
「やだ、コイキング?」
観客席から、きらきらした女の人の一人が、吹き出すような声を上げた。
「カスミ相手に、コイキングで来たの? 冗談でしょ」
ほかの二人も、くすくすと笑った。
ナゾノクサは、レッドを見上げた。
レッドは、笑っていた。困ったような笑い方ではなかった。何かを待ちきれないような、楽しそうな笑い方だった。
「こいつを舐めるなよ」
レッドは、浮き島の上のコイキングに向かって、声を張り上げた。
「コイキング、お前の強さ、見せてやれ!」
コイキングが、ひときわ高く跳ねた。
プールの向こうで、カスミは笑っていなかった。ほんの少しだけ、目を細めただけだった。
「ヒトデマン、みずでっぽう!」
水の矢が、コイキングを打った。コイキングの体が、浮き島の上を滑る。けれど、すぐに跳ね起きた。
ナゾノクサには、わかった。あの水は、あまり効いていない。同じ水のポケモン同士だからだ。コイキングは、それをわかっていて、正面から受けている。
「コイキング、たいあたり!」
コイキングが跳ねた。浮き島から浮き島へ、尾びれで足場を叩いて跳び移り、ヒトデマンに向かってぶつかっていく。当たった。ヒトデマンが、くるりと回る。
「かたくなる!」
ヒトデマンの体が、硬く締まった。コイキングの二度目の体当たりが、跳ね返される。三度目も。四度目も。
「たいあたりで来なさい、ヒトデマン!」
今度は、ヒトデマンのほうから体ごとぶつかってきた。こちらは、効いた。コイキングが浮き島から弾き飛ばされ、プールの水面に落ちる。
水しぶきが上がった。
ナゾノクサは、思わず葉っぱを縮めた。
コイキングは、水の中から跳び上がってきた。浮き島の上に落ちて、転がって、また跳ねる。ヒトデマンに向かって。
何度でも。
何度、跳ね返されても。
ナゾノクサは、あの日の丘を思い出していた。いい匂いだな、と言われて、手のひらに乗った日のこと。あのときは、ただ、この人の近くにいたいと思っただけだった。戦うことなんて、考えてもいなかった。
でも、あの魚は、戦っている。
弱いと笑われても、跳ね返されても、水に落とされても、何度でも戻ってきて、向かっていく。勝ちたいという顔をして。
自分にも、あんなふうに戦えるのだろうか。
ナゾノクサの頭の葉っぱが、知らず、ぴんと立っていた。
「コイキング、ヒトデマンの真ん中を見ろ」
レッドの声が、静かに響いた。
「かたくなったあと、真ん中の光が、少しだけ暗くなる」
ナゾノクサも、ヒトデマンを見た。本当だった。硬くなるたびに、中心の赤い核の光が、ほんの一瞬だけ弱くなる。
ヒトデマンが、また硬くなった。核の光が、揺らいだ。
「今だ!」
コイキングが、跳んだ。
尾びれで浮き島を叩く音が、ジムじゅうに響いた。今までで一番高い跳躍だった。宙で体をひねり、まっすぐ、ヒトデマンの赤い核に向かって。
ぶつかった。
ヒトデマンの核の光が、ふっと消えた。星の形の体が、浮き島の上に、ぱたりと倒れた。
ジムの中が、静まり返った。
観客席の姉たちが、口を開けたまま固まっていた。
浮き島の上で、コイキングが、ぴしゃりと一度跳ねた。
そして、光りはじめた。
◆
知ってたわよ、とカスミは思った。
最初から、ずっと。
オツキミ山の岩の上で跳ねている姿を見たときから、知っていた。あのコイキングが、どれだけ長い時間をかけて、何になるのかを。
光に包まれた赤い体が、みるみるうちに伸びていく。浮き島が、その重さに耐えきれずに沈む。水面が大きく盛り上がり、ジムじゅうに波が押し寄せる。観客席の姉たちが、悲鳴を上げて立ち上がった。
光が消えたとき、プールの真ん中には、青い竜がいた。
天井まで届くかと思うほどの長い体が、水面からそそり立っている。裂けるように開いた口の奥で、牙が光っている。
カスミは、身構えた。
ギャラドスは気性が荒い。進化したばかりの個体は、自分の力に振り回されて暴れることがある。水ポケモンを扱う者なら、誰でも知っていることだった。
ギャラドスが、吠えた。
ジムのガラス窓が、びりびりと震えた。
けれど、それは、カスミが知っているギャラドスの声ではなかった。
怒っていない。
長い首が、ゆっくりと巡っていく。プールの向こう岸のレッドへ。その足元のイーブイへ。プールサイドで翼をたたんでいるピジョンへ。オツキミ山で、鍋の縁から黙って見下ろしてくれていた鳥へ。何度でも隣で受け止めてくれた、茶色い四本足へ。何になるかも知らずに、それでも戦わせてくれた少年へ。
そして、もう一度、吠えた。
喜んでいるのだ、とカスミは思った。
あのコイキングが一番怒っていたのは、笑った人間たちにではなかったのだ。跳ねることしかできない、弱い自分にだった。その自分が、今、終わった。そして、この体なら、信じてくれた者たちに返せる。それが、嬉しくてたまらないのだ。
カスミは、自分の手のひらが汗で濡れているのに気づいた。怖いからではなかった。
これだ、と思った。
姉たちのショーでは、一度も感じたことのない熱だった。ポケモンとトレーナーが、本当に同じものを見て、本気で向かってくる。その前に立つときの、背筋が粟立つような感覚。
あたしは、これがやりたかったのだ。
「いこう、ギャラドス」
向こう岸で、レッドが言った。それだけだった。
「いくわよ、スターミー!」
カスミは、二つ目のボールを、力いっぱい投げた。
紫色の、二重の星が水面に降り立った。中心の宝石が、虹色に輝く。
「スターミー、バブルこうせん!」
泡の奔流が、ギャラドスの胴を打った。けれど、ギャラドスはほとんど揺れなかった。同じ水だ。そして何より、あの巨体だ。
「なら、スピードスター!」
星形の光が、四方からギャラドスに降り注ぐ。今度は、効いた。ギャラドスが身をよじる。
「ギャラドス、たいあたり!」
ギャラドスが、巨体を水面から躍らせた。けれど、スターミーはその下を滑るようにくぐり抜けた。速い。進化したばかりの体では、まだあの速さに追いつけない。
背中に、また光が刺さる。
カスミは、手を緩めなかった。進化したての相手に、手加減する理由はない。自分はハナダのジムリーダーで、あのギャラドスは、本気で向かってくる相手だ。それなら、本気で返すのが礼儀だ。
「回りこんで、スピードスター! 休ませないで!」
スターミーは止まらない。浮き島から浮き島へ、水面すれすれを滑りながら、光を放ち続ける。ギャラドスの体に、星の痕が一つ、また一つと増えていく。
ギャラドスの首が、わずかに下がった。
効いている。あと少しで、届く。
「ギャラドス!」
向こう岸で、レッドが叫んだ。
「水の中だ! お前が一番長くいた場所だろ!」
ギャラドスが、水の中に潜った。
プールの水面が、しんと静まり返る。スターミーが、浮き島の上で宝石を明滅させながら、水面を見回す。どこから来るのか、わからない。
カスミも、息を止めた。
次の瞬間、スターミーの真下の水面が、爆ぜた。
コイキングだったころと同じ跳び方だった。水の底から、尾びれで水を叩いて、体ごと真上へ跳ね上がる。ただ、今の体は、あのころの何十倍も大きかった。
「スターミー、真下! スピードスター!」
スターミーが、跳ね上がってくる巨体に向かって、ありったけの光を放った。
光と巨体が、空中でぶつかった。
水柱が、ジムの天井まで届いた。
◆
水しぶきが収まったとき、プールの真ん中で、スターミーが浮いていた。宝石の光は、消えていた。
ギャラドスは、その横で、水の中に沈んでいた。
ナゾノクサは、プールサイドのタイルの上で、息を詰めていた。水面に、大きな影が揺れている。動かない。
「ギャラドス」
レッドの声が、震えていた。
水面が、ゆっくりと盛り上がった。
ギャラドスの頭が、水から上がってきた。体じゅうに星の光の痕がついていて、首を持ち上げるだけで、ひどく時間がかかった。それでも、ギャラドスは、水の上に首を出した。
そして、そこで止まった。それ以上は、もう上がれないようだった。
けれど、沈みもしなかった。
「スターミー、戦闘不能」
審判の声が、ジムの中に響いた。
「挑戦者の勝ち!」
観客席は、誰も声を出さなかった。
ナゾノクサは、プールサイドのタイルの上で、葉っぱを震わせていた。濡れているのは、波をかぶったせいだけではなかった。
「負けたわ」
カスミが、スターミーをボールに戻しながら言った。悔しそうな声ではなかった。
「でも、あと一発で、あたしの勝ちだった。わかってるでしょうね」
「うん」
レッドは、素直にうなずいた。
カスミは、プールの縁を回って、レッドの前まで歩いてきた。手のひらに、水滴の形をした青いバッジが乗っていた。
「ブルーバッジ。ちゃんと勝ったんだから、受け取りなさい」
レッドがバッジを受け取ると、カスミは、ギャラドスのほうを見上げた。
「知ってたわよ。最初から」
「え」
「コイキングがギャラドスになるってこと。水ポケモンを扱う人間なら、誰でも知ってる」
レッドは、目を丸くした。カスミは、少しだけ照れたように鼻を鳴らした。
「でも、言わなくてよかった。あんたは、知らないまま育てた。何になるかもわからないのに、あいつが強くなりたがってるっていう、それだけで。だからあいつは、あんな声で吠えられたんだと思う」
カスミは、観客席の姉たちのほうをちらりと見た。姉たちは、まだ呆然とプールを見つめていた。
「あたしも、しばらくここにいるわ。ショーのついでにバッジを配るジムなんて、あたしが変えてやる」
それから、レッドに向き直った。
「水のことで困ったら、あたしを呼びなさい。この先、海を越えなきゃいけないときが、きっと来るから」
レッドは、うなずいた。
ギャラドスが、水の中から、首だけをゆっくりとこちらへ寄せてきた。レッドの顔の高さまで。大きな目が、すぐそこにあった。
レッドは、その鼻先に、そっと手を置いた。
「よく、頑張ったな」
ギャラドスは、目を閉じた。
ナゾノクサは、その光景を見上げていた。
あの魚は、本当に変わったのだ。弱いと笑われていた姿から、ジムじゅうを震わせるほどの姿に。強くなりたいという思いだけで。
どうすれば、あんなふうになれるのかはわからない。自分が何になれるのかも、知らない。たぶん、この人間も知らないだろう。
それでも、ナゾノクサの頭の葉っぱは、まだぴんと立ったままだった。
隣を見ると、イーブイも、ギャラドスを見上げていた。その横顔が、ナゾノクサには、なぜか少しだけ悔しそうに見えた。
(第六話 了)