突然放たれた会長のその一言は、その場にいた誰彼もを驚かせるのには十分だった。
そしてそれは、提案を持ち掛けられたキンカ自身も例外ではない。
「え、あの、本気っスか?」
「本気も本気だ。俺の目に狂いはねえ」
「そもそも、なんでウチを入れようと思ったんスか?」
「なんでって、そりゃあ、キンカを雇い入れた時と一緒だよ」
初めてキンカがヒカガミの商会を訪ねてきたときのことを思い出す。
「あの時のキンカの目だよ。まだ小さいガキのくせに、世間の厳しさを知らないでもねえ。そのくせ度胸は一人前で、その上であんなに自信たっぷりでぎらついた目を見せられちゃ、商人として買わない手はねえわ」
なぜかは分からないが、とにかくべた褒めされまくっている事態に、キンカは顔を赤くして照れ始めた。
「キンカは必ず大成する。この俺が言うんだから間違いねえ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「で、どうなんだ? キンカ、ウチに来るかい?」
再度会長から持ち掛けられた提案に、キンカは頭を抱えた。実際商会に入るのはキンカにとっては利しかない行為だ。少なくとも以前のように泥水をすするような生活とは無縁の人生を送ることができ、今の彼女には想像もつかないほど裕福な暮らしを手に入れることも夢ではない。
想像すら追い付かないような現実に目が回りそうになり、正常な判断ができそうにない。
助けを求めるように辺りを見回したキンカは、ふとこちらを見つめるクチナシと目が合った。
瞬きするほどの、ほんの一瞬の出来事だった。特に何かを言うでもない。キンカの方を見ながら、手にした酒を口にしている。
彼からすれば、キンカには会長の提案を呑んでほしいと思っていることだろう。キンカは生きることに苦労しない幸福な人生を得られ、クチナシはまた一人王都を目指して旅をする。
この場にいる誰もが望んだ、最善の手であることは間違いなかった。
だからこそ――。
「ごめんなさい」
だからこそキンカは、心の底から申し訳なさそうに頭を下げた。
「誘ってくれるのは本当にありがたいし、嬉しいんスけど、お断りさせてもらうっス」
なぜそう答えたのか、自分でも上手く説明できる気はしなかった。
強いて言うならばなんとなくだ。今はなんとなくクチナシと離れる気になれない。たったそれだけの理由で、キンカは最善を切り捨てた。
「……そうか。まあ、商人やってりゃ交渉決裂なんざ死ぬほど経験する。今回は縁がなかったと思うことにするさ」
頭を下げるキンカに、会長はため息交じりに返した。彼女の内心を察したのかまでは分からないが、それだけ言って深入りすることはなかった。
「ま、何かあったらいつでも頼れ。上客として話くらいは聴いてやるよ」
「ありがとうございます!」
「あー、会長フラれてやんのー」
そんな二人に、メイメイは陽気にちゃちを入れる。そんな彼女の様子を見て、会長はため息を吐いた。
「やかましい。お前は飲みすぎだ」
「いーじゃん別に。仕事は大成功に終わったんだからー」
そう言いながら、メイメイ手にしていたはグラスの中身を一気に飲み干した。ぷはあと美味そうに一息ついた彼女の様子からして、他の護衛に酒と水をすり替えられていることに気付いていなさそうだ。
「キンカちゃん。こっちこっち。いっしょにご飯食べよー」
「隊長。さすがにその子には飲ませないでくださいよ」
「さすがに未成年の子に飲ませるようなことしないって。だーいじょうぶ大丈夫」
どこがどう大丈夫なんだろうかとクチナシの心配をよそに、キンカは呼ばれるがまま彼女の隣の席に着いた。
「クチナシ、キンカちゃん。二人とも拳出して」
ちょうどクチナシとキンカの間に座る形となったメイメイは、ふと思い出したように呟いた。
その言葉通り、二人は彼女に近い方の手を握りしめて差し出すと、メイメイは二人の手首を掴んで拳を軽くぶつけ合った。
怪訝に思う二人に、メイメイが何の合図かを説明する。
「私達護衛の間ではね。仕事だったり戦闘だったり、なにかが上手くいった時に、お互いの拳をぶつけて健闘をたたえ合う……風習? みたいなのがあるんだよ」
『説明からしてあやふやすぎないか?』
「仕方ないじゃないか。いつの間にか定着してて、なんでやってるのか誰も分かんないんだもん……」
人差し指を立てて説明するメイメイの頭がぐらぐらと揺れる。そのままばたりとテーブルに突っ伏すと、彼女の口から寝息が漏れ出てきた。
「あーあー隊長寝ちゃってら。俺が運んでおくから、二人は構わず食っててくれや」
護衛の一人が眠ってしまったメイメイに気付き、彼女を背負ってどこかへと連れて行った。その背中が見えなくなるまで見送ると、クチナシとキンカはどちらともなく顔を合わせた。
「騒がしい人……でしたね」
『そうだな』
困ったように笑うキンカに、クチナシはいつも通りの様子で返す。
「ま、せっかく教えてもらったことですし、もっかいやっとくっスか?」
いたずらっぽく、キンカはクチナシに拳を向けた。
ため息を吐きながらも、クチナシも同じように拳を差し出した。周りの雰囲気に当てられたか、酒に酔った気分にでもなったか、そのどちらかだろうと思うことにする。
お互い息を合わせてぶつけ合った拳からこつんと、酒場の喧騒にかき消されるような、お互いの耳にすら届かないくらいの小さな音がした。