5.フィジー湿地帯の主(1/5)
フィジー湿地帯は、じめじめとした嫌な蒸し暑さに包まれていた。
地形のせいか、はたまた別の要因か、フィジー湿地帯は常に大雨が降った後のような湿気に覆われている。さらに気温も高いので、吹き出す汗が乾かず、服を肌にべったりとくっつけてしまう。
何度目かも分からないほど汗をぬぐったキンカだが、それでもなお玉のような汗が全身から湧き出てくる。いっそここで服を脱いだ方がまだ気分がいいかもしれないが、どこで魔獣と出くわすかも分からないこの場で、不用意に手荷物を増やしたくはなかった。
何度もぬかるみを踏みしめた革靴はとっくに泥に塗れ、泥跳ねがスカートの裾に点々としたシミを作っている。
自分の前をずかずかと進むクチナシの体を、今だけはほんの少し羨ましく思えた。藁の体は暑さを感じなければ、汗を一滴たりとも流すことはない。せいぜいぬかるみの多い不安定な地面に足を取られる程度で、それ以外に大した変化はないのだろう。
『……おかしい』
この場所に対する愚痴すら共有できないのかと、キンカはついぼやきそうになった。喉元まで出かかったそれをすんでのところで押し戻したあたりで、クチナシがぼそりと呟いた。
「どうかしたんスか? クチナシさん」
『さっきの街の男が言っていたこと、覚えているよな』
クチナシの言葉に、キンカはこくりと頷いた。
人の立ち入りがほとんどないフィジー湿地帯は、魔獣達が独自の生態系を築き上げた、まさに魔獣達の楽園とも呼べる場所だ。そこに入ってしまったが最後、外に出るまでひたすら魔獣に襲われ続けることになる。
クチナシ達が前にいた街では、いたずらをした幼い子供に「悪いことをしたらあの湿地帯に置いていくよ」と脅すのが、子供を躾ける常套句になっているほどだという。
「ここの湿地帯がどういうところかってことっすよね? もちろん覚えてるっす」
『ああ、だが、その話の割には、魔獣が少ない気がする』
クチナシが言った言葉をきっかけに、キンカは湿地帯に入ってからのことを思い返した。この湿地帯に入ってから今でおおよそ三時間ほど、ただひたすら北を目指して直進し続けていたが、まだ魔獣と出くわしてはいない。時折クチナシが《炸裂》の種を飛ばして、遠くの魔獣を爆破していたが、それも両手の指で数えられるくらいの回数しかなかったはずだ。
『休む暇もなく戦い続けさせられるほどに、この湿地帯には魔獣がひしめき合っているという話なんだろう? 噂ほどじゃないな』
「きっと話が大きくなり過ぎただけなんスよ。ここがやばい場所だってことを伝えるために、わざと大げさに話したんス」
その言葉を否定はできなかった。あれほどの恐れようならば、あの街の住人達はこの湿地帯に入ったことがない者も多いだろう。だとすれば、この場所の現状を知らないまま、伝え聞く話が尾ひれをつけて人々の間を巡っている可能性は十分ある。
だがクチナシは、それだけではないような気がしてならなかった。湿地帯の魔獣が激減するほどの何かが、今まさに起きている。口では上手く説明できないが、そんな感覚がしていた。
「ていうか、クチナシさん《感知》が使えるじゃないっスか。てっきり魔獣を避けて動いているのかと思ってたっス」
『確かにそれも可能だし、今も《感知》で広範囲を見渡しながら歩いている。だが、避けるまでもなく、そもそも魔獣がいないんだ』
「魔獣がいないんなら、むしろ好都合じゃないっスか」
『それはそう、なんだがな』
クチナシが踏みしめた脚が、ぬかるみにはまりずぷりと音を立てる。
『ただなんとなく、嫌な予感がする』
もう一歩、踏みしめた脚が音を立てる。
それとほぼ同時に、踏み出した足を包み込むように突然緑色の蔦が生えてきた。