『……そうか』
クチナシはそう、ぽつりと呟いた。以前はあれだけ反駁していた彼女の言葉が、今はすっと胸の内に染み込んでくる。
彼女の言葉が、クチナシの心に刺さり続けていた棘を、すっと溶かしていく。
だが、クチナシがずっと引っかかっていたのは、彼が優しいという部分ではなかった。
『俺は、人でよかったのか』
ぽつりと、クチナシは呟いた。
クチナシに案山子の体を作ったメイガンですら、彼のことを人として扱うことはしなかった。
むしろ彼女は、彼が人間であったことを積極的に忘れさせようとすらしていた。
キンカだけが、クチナシのことを人として接していたのだ。
「当たり前じゃないっスか。今更何言ってんスか」
追い打ちをかけるように、キンカがクチナシのつぶやきに答える。
それから二人の間に、少しの沈黙が流れた。クチナシはキンカの言葉をかみ砕き、次の話を考えている。キンカはクチナシの次の言葉をじっと待っていた。
『……キンカ』
クチナシは静かに、彼女の名前を呼んだ。
たとえ失っても傷つかないように、彼女と距離を置きたくて、彼女を大切なものにしたくなくて、これまで頑なに呼ばなかった彼女の名前を、クチナシは初めて口にした。
『最初に言った通りだが、手切れ金を使った以上、もう俺との縁は切れたということだ。お前の好きなところへ行って、好きなように生きればいい。……もうすでに縁の切れたお前がこの先どこに行こうと、誰に着いて行こうと、もう、お前の自由だ』
我ながら馬鹿な真似をしているなと、クチナシは話をしながら思っていた。これではまるで、クチナシの方が、キンカと離れたくないと言っているようなものではないか。
きっと今この瞬間が最後のチャンスだ。これを逃してしまえば、もう二度と彼女を普通の生活に戻してやることはできなくなる。
その機会を、クチナシはためらいなく捨て去った。
「……いいんスか?」
クチナシの言葉の真意に気付き、キンカの瞳に光が戻る。
どこに行こうとも、誰に着いて行こうとも彼女の自由だ。
たとえそれが、キンカの信じるいい人の元であったとしても。
お互いの体を鎖で繋ぎ、初めて二人で空を飛んだあの時のように、切れた縁をもう一度繋ぎ直してもいい、と。
『どうやら俺も相当な馬鹿だったらしい。もう今更、何も言わねえよ』
「じゃあ――」
『ただし』
口を開こうとするキンカを制する。
止めはしない。だが、確認はする必要がある。
『先生が生きているなら助け出す。俺の旅の目的は変わらない。力の差は前にも話した通りで、現に今体感してもらったわけだが、当然次の相手はあの勇者様だ。命の保証はできん』
キンカの胸当ては陶器のように粉々に砕かれ、もはや防具としての機能を果たすことはなかった。
旅の中で敵なしだったクチナシですら、左腕と胴体を切断され死の淵に立たされた。
そんな相手にもう一度挑むことになることは確実だろう。それが何を意味するか。深く考えるまでもなく理解している。
だがキンカは、乱暴に目元の涙を拭うと、にっと笑って返した。
「今更そんなことで、クチナシさんの隣を離れるつもりはないっスよ。ここまで一緒に来たんスから、死ぬ時だって一緒っス」
『馬鹿いえ。お前まで命を張る理由がどこにある。危険を感じたらすぐに逃げるかさっさと降参しろ』
「またすぐそうやって一人で抱え込もうとするー。もしもそうなったらクチナシさんにも一緒に逃げてもらうっスよ。それでどこかに隠れて準備し直して、また一緒に王都に戻って来ましょう」
『だからそれだと――』
「じゃあ――」
そうして二、三言い合って、これ以上は意味がないと悟って二人は口をつぐんだ。
そして、どちらともなく笑い合った。
全身を蝕む疲労も、けだるさも、痛みも全部忘れてひとしきり笑い合った。
こんなにも笑ったのはいつぶりだったろうかと、クチナシは思った。
こんなにも楽しく笑えるようになったのはいつからだったろうかと、キンカは思った。
しばらくして、落ち着いて、クチナシが口を開いた。
『……じゃあ、次の準備といくか』
「そうっスね。まずはクチナシさんの体をどうにかしたいっスけど、これはどうすりゃいいんスか?」
『そうだな。切断面をぴったりとくっつけ合わせれば、後は俺の《修復》で繋ぎ合わせられる。新しい藁があればそれを接いでもっと早く繋がるんだが……』
「材料の調達が難しそうっスね」
『あとキンカ。お前案山子の修復なんざやったことないだろ? できないことは無理にしなくていいぞ』
「そりゃウチはそういうのとは無縁な生活してたっスけど!」
クチナシの皮肉にキンカが突っ込んで、どちらともなくふっと笑う。
いつもの調子が出てきた辺りで、ふとクチナシが握りこぶしをキンカに差し出した。
『俺の体が直って、調子を取り戻したら、もう一度先生を探し出す。その途中であの勇者様とまた会ったら、今までのお礼と、今日の分のお礼をまとめて、きっちりあいつをぶっ飛ばす』
クチナシの言葉を、キンカはただ黙って聴いている。
『着いてくると決めたんなら、覚悟しろよ?』
挑発するように口にしたクチナシの言葉を、キンカは鼻で笑って返す。
「当然、っすよ!」
クチナシの握りこぶしに、キンカも握りこぶしをぶつけて応える。
子供の手と藁の塊がぶつかり合い、くしゅりとなんともいえない微妙な音が鳴った。