善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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幕間 光崎善人
1 光崎善人


善人(よしひと)、起きて。善人(よしひと)ってば」

 

 肩を揺さぶられる感覚で意識が浮上する。薄目を開けると、妻の美咲(みさき)の顔があった。

 

「んー。あと五分……」

「それ三回目。もう七時だよ」

 布団を引き剥がされる。四月だというのに朝の空気はまだ冷たくて、思わず身を縮めた。

 

「寒い……」

「知りません。早く支度して」

 

 美咲の足音がリビングに消えていく。ドスドスと床が軋む音。結婚した頃はもっと軽やかな足取りだった気がするが、まあ七年も経てば色々と変わるものだ。本人には絶対に言えないが。

 

 私は目をこすりながら、のろのろと体を起こした。これから学校に出勤しなければならない。平日が憎い。これは子供の頃からずっとだ。でも今は生徒として向かうのではなく、教師として向かわなければならない。

 

 教師という職業を選んだのは、安定性を重視したからだ。公務員で、休みも多いと学生の頃は思っていた。悪くない選択だと。実際に働いてみると、思った以上の重労働だった。考えが甘かった。

 

 洗面所に向かう途中、廊下で美咲とすれ違った。彼女の足が止まる。足の止め方や、止まった後の余計な余白というかリズムというか。この独特な感覚はもう分かる。美咲の小言が降り注いでくるということ。

 

善人(よしひと)

「ん?」

「トイレットペーパーの芯」

「あ」

「窓のところに置きっぱなし。何日目?」

「……ごめん」

「ごめんじゃなくて捨てて。三秒で終わるから。なんで三秒ができないの」

 

 私は黙って洗面所に向かった。窓枠を見ると、確かにトイレットペーパーの芯が二つ並んでいた。二つ。前回の分も残っていたらしい。一瞬、美咲が残したものじゃないのか? なんて罪の(なす)り付けを考えついたが、この発言で死ぬのは私になるだろう。

 

 黙って芯をゴミ箱に捨てる。三秒。確かに三秒で終わった。なぜこの三秒を何日も放置していたのか、自分でもよく分からない。だが、トイレットペーパーの芯が溜まるとなんか嬉しい気持ちになるのだ。どうにもこのロマンが女性には理解できないらしい。よって私が悪いわけではない。

 

 

 リビングに行くと、娘の()()がテーブルについていた。今日の服は黄色いワンピース。最近、服装にうるさくなってきた。八歳というのはそういう年頃らしい。私は半袖半ズボンの皆勤賞小僧(かいきんしょうこぞう)だったので、男の子と女の子の違いなのか。

 

「おはよう、陽菜」

「おはよー」

 

 鳥かごの中でインコのピーがバタバタと羽を動かしている。私が近づくと「ピピピ」と鳴いた。最近、私は家族の中ではめっぽう地位が低くなってきたのだが、インコにはそれがバレていない。まだ、私に懐いてくれている。せめて陽菜が息子だったら、二対一で数的優位を取れるのだけれど。

 

 朝食はトーストとスクランブルエッグ、そしてブロッコリーのサラダ。美咲は朝食に必ず野菜を入れる。健康のためだと言うが、朝から野菜を食べる気分になれない。私は何気なくブロッコリーを皿の端に寄せた。フォークでスクランブルエッグだけを口に運ぶ。

 

「おい」

 顔を上げると、美咲が私を見ていた。笑っていない目だった。

 

「何でしょうか?」

「それ何してるの」

「いや、別に」

「ブロッコリー避けてるよね」

「後で食べようと思って」

「嘘つかないで。いつも残すじゃん。それ処理するの私なんだけど」

「いや、今日は食べるって」

「三十二歳にもなって好き嫌いって恥ずかしくないの? 陽菜が真似するから食べて」

 

 陽菜がこちらを見た。口元がにやにやしている。

 

「お父さん、恥ずかしくないの?」

 完全に美咲の口調をコピーしている。最近の陽菜は、美咲の言い回しをよく真似する。

 

「陽菜、お前まで」

「お父さん、靴下もいっつも脱ぎっぱなしだよね」

「それは関係ないだろ」

「お母さんがいっつも関係あるって言ってたもん」

 

 美咲が「ほらね」という顔をした。私は観念してブロッコリーを口に入れた。もそもそと咀嚼(そしゃく)する。森、口内に自然が生える。生えるならポテトチップスの森になってほしい。

 

 苦々しい顔で森を吸収していると、ニヤニヤとした顔でこちらを笑っている小娘がいた。最近、憎たらしくも小生意気になってきた娘相手に「誰の金で飯が食えていると思っているんだ、パパを舐めるな」なんてジョークの一つも言ってみたい。でも、それを言ったらすべてが終わる。私も流石に分かる。

 

 ちらっと目線を向けると美咲が勝ち誇った顔でこちらを見ていた。娘には手出しできないが、こっちならやり返せる。一瞬の隙をつき、手を伸ばして美咲の脇腹をつまむ。

 

「ちょっと!」

 美咲が身をよじって私の手を叩いた。

 

「何すんの」

「いや、なんか柔らかくなったなと思って」

「は? 今なんて?」

「いや何も」

「聞こえたんだけど。柔らかいって何。どこが」

「いやだから何も」

 

 美咲がため息をついた。でも、その口元は少しだけ緩んでいた。はい、私の勝ち。今日一日はビクトリーデイ。陽菜がけらけら笑っている。インコのピーが「ピピッ」と鳴いた。朝の光がリビングに差し込んで、テーブルの上を明るく照らしている。ありふれた朝だった。何も特別なことはない、いつも通りの朝。時計を見ると七時三十分。やばい。

 

「行ってくる」

「ちょっと待って」

 

 玄関に向かおうとしたら、美咲に呼び止められた。急な呼び止め。もしかしたらキスの一つでもされてしまうのかもしれない。流石にもう三十を超えた男女。娘の前でそんなことをするなんて。

 

「なに?」

「弁当」

 

 テーブルの上に、包みが置いてあった。完全に忘れていた。

 

「……すみません」

「先週も忘れかけたよね」

「いや、あの時は取りに戻ったから」

「戻ったんじゃなくて、私が追いかけて渡したんでしょ。それとさ、『いや』とか『でも』とかさ、いちいち口答えするんか?」

 

 反論できない。というより、すると長引く。確かにそうだった。美咲がサンダルでバタバタ走ってきたのを思い出す。近所の人に見られて恥ずかしかった。

 

「お父さん、忘れ物多いね」

 陽菜がまだパジャマ姿のままパンをかじっている。

 

「お前も早く着替えなさいよ」

「私は学校近いからいいの」

「意味が分からん」

「お父さんこそ意味分かんない」

 

 八歳児に言い負かされている気がする。

 

「じゃあ、行ってくる」

「いってらっしゃい。傘持った?」

「……いる?」

「午後から雨だって」

 

 玄関の傘を取る。美咲がため息をついたのが聞こえた。ため息一回につき寿命が縮むとしたら、彼女はもう長くないだろう。

 

「お父さん、しっかりしてねー」

 陽菜の声を背中に受けながら、私は家を出た。外に出ると、隣の家の奥さんと目が合った。

 

「光崎さん、おはようございます」

「おはようございます」

 

 にこやかに会釈を返す。家の中では弁当を忘れ、傘を忘れ、八歳の娘に説教される男だが、一歩外に出れば「光崎先生」だ。どこで生徒が見ているかわからない。ビシッとしておかないと。

 

 職場までは電車だ。この通勤時間は授業の段取りを考えることが多い。今日は三年二組の副担任として朝のホームルームに出る。話す内容は特に決めていない。生徒に忘れ物するなよ、とかそんな程度だ。忘れ物するなと言える立場かは分からないが。

 

 四月の朝の空気はまだ少し冷たい。桜はもう散り始めていて、歩道にピンク色の花びらが落ちている。

 

 

 

 その日の午後、私は職員室で小テストの採点をしていた。三年一組、思ったより平均点が低い。まあ、仕方ないか。あのクラスは授業中の私語が多くて、何度注意しても収まらない。特に後ろの席の女子グループがひどい。赤ペンで「四十三点」と書き込んでいた時だった。

 

「光崎先生、お電話です」

 

 同僚の先生が電話を取り次いでくる。保護者からだろうか。最近、進路相談の電話が増えている。場合によってはケチョンケチョンに怒られるケースもある。少し億劫だ。

 

「はい、もしもし」

「光崎善人さんでお間違いないでしょうか」

 

 男性の声だった。低く、事務的な話し方。

 

「はい、そうですが」

「神山警察署です」

 

 警察。その単語が脳に届くまで、一瞬の間があった。

 

「ご自宅の件で、ご連絡いたしました」

「自宅の件?」

「すぐにお戻りいただけますでしょうか」

「何かあったんですか」

「詳細は現場でご説明いたします」

 

 現場。

 

「火事ですか?」

「いえ」

「事故ですか?」

 

 電話口で沈黙があった。一秒か、二秒か。その沈黙が、やけに長く感じられた。

 

「事件が発生しております」

 

 事件。

 

「妻と娘は無事ですか」

 また沈黙。今度は明らかに長かった。

 

「現場でお話しいたします」

 

 その声には、何かを堪えているような響きがあった。電話を切った後、私は自分の手が震えていることに気づいた。受話器を置いた手とは別の手が、まだ赤ペンを握っていた。三年二組、出席番号十二番、高橋祐希、四十三点。さっきまで採点していた答案が、まだ机の上にある。蛍光灯の光。隣の席の先生がコーヒーを啜る音。いつも通りの世界なのにたった今、私だけが、どこか別の場所に放り出されたような感覚だった。

 

 

 

 タクシーを呼んだ。車内で、窓に雨粒がポツポツと当たり始めた。午後から雨だって。今朝、美咲が言っていた。傘を持っていけと。その傘は今、職員室の机に立てかけたままだ。運転手がバックミラー越しに話しかけてきた。

 

「お客さん、この辺にお住まいで?」

「ええ」

「最近物騒ですよねえ。隣町で空き巣が出たとか」

 

 私は曖昧に頷いた。運転手は続けた。

 

「うちも防犯カメラつけようか迷ってるんですよ。奥さんがね、心配性で」

 

 奥さん。その単語が、妙に耳に残った。雨脚が強くなっていく。ワイパーが左右に動く。視界が(にじ)んでは晴れ、(にじ)んでは晴れる。運転手がまだ何か喋っている。防犯カメラの値段がどうとか。声が遠かった。フロントガラスを雨が叩く。

 

 美咲と陽菜は怪我をしたのだろうか。病院に運ばれたのだろうか。でも、それなら「病院に来てください」と言うはずだ。現場でお話しいたします。なぜ現場なのだ。タクシーが角を曲がった。なぜ電話で言えないのだ。無事ですかという問いに、電話口は答えなかった。私は目を閉じた。神様、と心の中で呟いた。いや、誰でもいい。なんでも良い。私は特別な人間ではありません。真面目に生きてきただけの、普通の。でも、お願いです。どうか。

 

 タクシーが自宅近くの角を曲がった時、目を開けた。そして、見えた。

 

 

 赤色灯。

 

 

 パトカーが五台。私の家の前に並んでいる。赤色灯が光っている。雨に濡れた路面に、赤い光が反射していた。救急車が二台。でも、サイレンは鳴っていない。静かだった。雨音だけが聞こえていた。黄色いテープが張られていた。私はその黄色いテープを知っている。テレビで何度も見た。刑事ドラマで何度も見た。あれは事件現場に張られるものだ。人が死んだ場所に張られるものだ。私の家に、あのテープが張られている。

 ——さん?お客さん、着きましたけど」

 

 運転手が喋っていた。でも、体が動かなかった。動悸が、心臓の動悸が止められない。運転手の声がかき消される。

 

 

 

 タクシーを降りると、横雨が顔に当たった。私を見つけた制服の警察官がこちらに歩いてくる。若い男性だった。二十歳そこそこに見える。緊張した面持ちで、私の顔をまともに見られないようだった。

 

「光崎さんですね。こちらへ」

 

 彼に誘導されて、パトカーの陰に移動する。野次馬の視線から隠れる場所。そこにパイプ椅子が一つ置いてあった。

 

「お座りください。担当の者を呼んできます」

 

 座った。雨が髪を濡らしていく。

 俯いていた。雨が髪を伝って、顎から滴り落ちていく。どれくらいそうしていただろう。五分か、一時間か。

 

 

 

 

 声が聞こえた。少し強い口調だった。言い争いというほどではない。でも、穏やかでもない。顔を上げた。

 

 黄色いテープの内側。自宅の玄関先にスーツ姿の男が二人立っていた。一人は三十歳前後、背筋がまっすぐ伸びている。もう一人は四十代半ばだろうか。猫背気味でも背の高いのが分かる。

 

 若い方が何か言っていた。身振りを交えて、熱心に。年上の方は首を横に振った。若い方が食い下がる。年上の方は顔をしかめて、手を振った。もういい、というように。

 

 刑事というのは、こういうものなのだろうか。私の家で何かを調べながら、ああやって議論をするのだろうか。年上の方が歩き出した。一度も振り返らなかった。私の家の玄関に吸い込まれるように消えていった。

 

 若い方がその背中を見ていた。唇が動いた。北島さん、と言ったように見えた。

 

 また俯いた。雨が服を濡らしていくのを、他人事のように感じていた。私の家なのに、私は入れない。知らない人間たちが出入りしている。知らない人間たちが議論している。私の家で。

 

 

 

「光崎さん」

 

 声をかけられて顔を上げた。さっきの若い方が、私の前に立っていた。私と同じくらいの年齢に見えた。がっしりした体格で、背筋がまっすぐ伸びている。鋭い目つきだが、どこか温かみのある顔立ち。頼りになりそうだ、と直感的に思った。こういう人が関わってくれるなら、大丈夫かもしれない。

 

「警視庁の清水と申します」

 

 清水さんは傘を差し出してきた。私はそれを受け取らなかった。受け取る気力がなかった。清水さんは一瞬だけ迷うような仕草を見せた。それから傘を閉じて、自分も雨に濡れながら私の前にしゃがみ込んだ。目線を合わせるように。スーツが雨を吸って、肩のあたりが黒く滲んでいく。それでも清水さんは動かなかった。

 

「すみません、大急ぎの対応だったので雨ざらしの場所でお待たせしてしまって」

「い、いえ。大丈夫です」

 

 大丈夫。自分で言って、意味のない言葉だと思った。何も大丈夫ではない。でも、それ以外に言葉が出てこなかった。

 

「光崎さん」

「はい」

「大変お辛いお知らせをしなければなりません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の体が強張った。お辛いお知らせ。その言い回しで、私は。

 

「奥様と、お嬢様が」

 清水さんの声が揺れて聞こえる。

 

「お亡くなりになりました」

 

 音が消えた。清水さんの口が動いているのが見えた。でも、声が聞こえなかった。雨が降っているのに、雨音も聞こえなかった。

 

「……何で?」

 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。

 

「現場の状況から、殺人事件だと思われます」

 殺人。

 

「光崎さん」

 清水さんの手が、私の肩に触れた。雨で冷たいはずなのに、温かく感じた。

 

「犯人は必ず捕まえます」

 

 私は清水さんの顔を見た。その目は本気だった。雨に濡れた顔で、まっすぐに私を見ていた。

 

「必ず」

 私は何も言えなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。雨が降り続いていた。美咲、と心の中で呼んだ。陽菜、と呼んだ。返事はなかった。美咲が持たせてくれた傘は、職員室に置いたままだった。

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