どれだけの時間が経ったのだろうか、家族が殺されてからしばらく経って、清水さんから電話があった。
「光崎さん、検視が終了いたしました」
事件後、私は兄の家で過ごしていた。現場検証のため、持ち主である私でさえもあの家に入れなくなっていた。現実感は全くなかった。食事をしたのか、眠ったのか、何を話したのか。何も覚えていない。まるで霧の中にいるような感覚。音も光も、白い膜に覆われた。
そう、遺族である私でさえも殺された家族に対面することが出来ていなかった。清水さんからの電話。これでやっと二人に会うことが許された。
指定された警察署に向かう電車の中で、窓の外を見ていた。太陽が差し込み、電車内を照らしている。天気が良かった。見慣れた街並み。行き交う人々。誰もが普通に生きている。私の世界が終わったことを、誰も知らない。誰も気に留めてはくれない。世界の明るさと私の色とのコントラストが白と黒だけで構成された世界のようで、自分の体の周辺にだけ切り取り線が設けられている。そんな感覚。誰かがハサミを入れてくれれば、この世界から切り離してもらえるのに。
呼ばれた場所に向かうと、清水さんが待っていた。とても疲れた顔つきだったが、私の前ではそんな素振りを見せないように振る舞ってくれているみたいだ。彼は私を警察署の地下へ案内した。一般市民が入る場所ではない。そう、直感でわかる。誰であっても。
階段を降りている時、まるで地獄に誘われていくかのような錯覚を感じる。引き返したい、これ以上先に進めばもう帰ってこれない。カツンカツンと清水さんの革靴の底が階段を鳴らす。その音がまるで踏切のサイレンのような、不協和音で、私のことを、まるで。
はっと気づくと目の前で清水さんが立ち止まった。部屋の表札には。
霊安室。
促されるままに中に入ると、消毒薬の匂いが
この匂いは、もう一生消えないのではないか。何年経っても、この匂いが鼻の奥に残り続けるのではないか。
無機質な蛍光灯が白い光を放っている。手術室のように冷たい光。タイルの床に青白い影がずっとずっと、長く落ちている。白がこんなに冷たい色だなんて。
そしてこの部屋の真ん中に安置台があった。明らかに異質だ。この世にあってはならない、そんな雰囲気があの台から私に向けて。
何か、何かが布をかけられて置かれている。安置台が妊娠しているような、何かがあの腹を
固まった私を見て清水さんが、
「お辛いでしょうが、ご遺体の確認をお願いいたします」
一度、言葉を切る。
「最初に申し上げておきます。覚悟していただきたく思います」
安置台にあった白い布が持ち上げられた。大きさから美咲だったのだろう。人の形を模した蝋人形がところどころ、錆びて変色しているような蝋人形が。
そして、美咲の顔があった場所に、何かがあった。人間の顔として認識できる要素は残っている。目の位置、鼻の位置、口の位置。でも、それらはもう「美咲の顔」を形成していなかった。顔面の左半分が陥没していた。右半分と非対称になっている。まるで二つの顔を無理やり繋ぎ合わせたような。
陥没している左目とは対象に、右目があった場所は腫れ上がり、目の形をしていなかった。唇が裂けていた。通常ではありえない角度まで。その裂け目から覗く歯が、彼女の歯が、まるで獣の牙のように並んでいるように見える。いや、歯の配置は変わっていない。変わっていないはずだ。でも、この角度で見ると、人間の笑顔ではなく、何か別の生き物が私を見て、嗤っているように見えて。
首の縄の痕。何重にも重なっている。それは首に巻きついた何かの触手の痕のようだった。この獣が何か大きな怪物と戦って死亡した? 違う、これは美咲だ。私の妻だ。髪も、体型も、結婚指輪も、全て美咲のものだ。
でも、目の前にいるのは。
怪物だ。
美咲の身体を使って作られた、別の何かだ。誰かが、私の妻を、化け物に変えてしまった。人間の顔を、悪魔の顔に作り変えた。
見ていられなくなった私の視線が、現実を拒否するように隣に移った。見たくないものが連鎖する。視界の色がくすんで抜けていくのを感じた。
そこには小さな体が横たわっていた。眠っている。そう見えた。目を閉じて、穏やかな顔で。ずっとずっと大切にしてきた一人娘。
——陽菜。一瞬、安堵した。馬鹿みたいに。隣の怪物を見た直後なのに、娘だけは無事だと、そう思ってしまった。
陽菜の顔は、美咲とは違って原型を留めていたんだ。目を閉じて、まるで眠っているように見える。穏やかな表情。まるで天使のように。事故で天界から堕ちてきてしまった、そう形容しても差し支えないほど綺麗。
その天使の顔から下は。首に、はっきりとした縄の痕があった。
一本の、深い痕。そこから下。陽菜の小さな身体には、無数の傷があった。腕に、手に、指に。縦横無尽に走る、引っ掻き傷。首に巻き付けられた縄を必死に外そうとして、必死に、首を掻きむしった。その傷が、まるで縫合跡のように見えた。天使の顔を、ボロボロになった人形の身体に縫い付けたような。首のところで、二つの別々のものを無理やり繋ぎ合わせたような。顔だけが陽菜で、身体は別の何かだ。誰かが陽菜の首から上を切り取って、別の身体にくっつけたのではないか。そんな狂った考えが浮かんだ。
お父さん
ある日の朝、手を振ってくれた小さな手。その手が、自分自身の首を引っ掻いて、血まみれになって。八歳の子供が、最後の瞬間まで生きようともがいた証拠が、まるで悪趣味な人形師の仕事のように、小さな身体に刻まれていた。
気がついたら、壁が迫っている。白い壁が私を押しつぶそうと。いや違う。これは床だ。私は霊安室の冷たい床に手をついて、四つん這いになっていた。視界が揺れて歪み、世界が傾いているような錯覚に陥る。
陽菜の手が、自分の首を掻きむしった。八歳の小さな手で。私に助けを呼びながら。
お父さん、助けて
そう叫びながら。でも、私は学校で授業をしていた。
「ここの答えは——」
そんなことを、黒板に書いていた。娘が死にかけているのに。妻が拷問されているのに。私は、チョークで文字を書いていた。
「犯人を……」
わけも分からず、やっとの思いで絞り出した言葉が、霊安室に響いた。犯人を、犯人を殺してくれ。誰か
清水さんが私の肩に手を置いた。
「必ず捕まえます」
その声はまるで悪を裁くため、私の代わりに闘うことを誓ってくれている。
「光崎さん、警察は必ず犯人を捕まえてみせます」
私は美咲と陽菜の前で、静かに頭を下げた。
「必ず犯人を法廷に立たせます」
家族の遺体が引き渡され、葬儀が終わった。一週間後、清水さんから電話があった。
「犯人を逮捕しました」
その言葉を聞いた瞬間、何を感じたのか、自分でも分からなかった。安堵だったのか。虚しさだったのか。でも一つだけ明確な考えが、馬鹿げた考えが浮かんだ。
事件が終わってしまう。犯人が捕まって、裁判が行われて、判決が出て、それで終わり。美咲と陽菜が殺されたという事実が、書類の上で確定してしまう。事件が続いている間は、どこかで思えていたのだ。これはまだ途中なのだと。まだ何かが動いているのだと。終わっていないのだと。
終わってしまえば、本当に終わる。馬鹿げている。自分でも分かっている。でも、そんなことを考えてしまった。
「誰が、なぜ」
「詳細は直接お話しします。お会いできませんか」
清水さんは私の住んでいる家に私服で現れた。兄の家だが、この時間だけは清水さんと二人きりにしてもらった。清水さんはグレーのジャケットに、少しくたびれたジーンズ。刑事というよりどこかの会社員のような格好。玄関で彼の顔を見た瞬間、違和感があった。霊安室で会った時とどこか違う。頬の肉が少し落ちたような気がした。目の下に薄い影があるような気がした。気のせいかもしれない。
「すみません、急に」
「いえ、どうぞ」
私は清水さんをリビングに通した。彼は小さな紙袋を差し出した。
「これ、よかったら」
中を見ると、クッキーの箱だった。うさぎの絵が描いてある。見覚えがあるような気がした。陽菜が好きだったメーカー。そうだ、陽菜はこのクッキーが好きだった。好きだった、はずだ。
「私も息子がいまして。息子が好きなものを買ってきたんですが、お嬢様もお好きだったかもしれません」
でも、本当にそうだったか。このメーカーだったか。それとも、似た別のメーカーだったか。うさぎの絵だったか、くまの絵だったか。
「……光崎さん?」
「あ、すみません。ありがとうございます」
私は箱を受け取った。手が少し震えていた。清水さんはソファに腰を下ろした。そのまま清水さんは言葉を選ぶかのような仕草を見せていた。私は急かさず、ただじっと待っていた。そうして重い口が開かれる。
「犯人は……若い男です。動機は、まだはっきりとは。このあと正式に刑事課から、容疑者と光崎さんに関係があるのかどうかの捜査協力のご依頼が行くと思います」
「私の知り合いですか」
「いえ、内部では光崎さんとは面識がないだろうという見立てです」
面識がない。見知らぬ人間に、美咲と陽菜は殺された。
「なぜ……」
「分かりません。分かりませんが、証拠は十分です。絶対に逃がしません」
その声には確信があった。でも、目が笑っていなかった。何かを堪えているような、そんな表情だった。
「捕まえたのはついさっき。光崎さんは一応、知らないフリをしてください。私がこうやって捜査情報を教えているのは問題なので」
私は頷いた。それ以上は聞けなかった。聞いてはいけないような気がした。
少し間があった。窓の外で、鳥が鳴いていた。
「光崎さん」
「はい」
「よろしければ、奥様と娘さんのこと、聞かせていただけませんか」
私は少し驚いた。捜査に必要な情報は、もう全て話したはずだ。
「捜査とは関係ありません」
私の表情を読んだのか、清水さんが付け加えた。
「ただ、知りたいんです。お二人がどんな方だったか」
私は窓の外を見た。五月の空は青く、雲一つなかった。あの日も、こんな空だったような気がする。
「美咲は……結婚する前は、小学校の教師でした。私と同じ教職についていて。研修で知り合ったんです。結婚して、娘ができてからは専業主婦を」
なんだか自信がなかったが、口を開くと、言葉は思ったより自然に出てきた。
「私より子どもたちを愛していたかもしれません。授業参観の日、保護者よりも張り切っていて」
そこまで言って、私は止まった。張り切っていて、何をしていたのか。具体的に何を準備していたのか。思い出そうとした。霧がかかったように、輪郭がぼやけている。
「夜遅くまで……教材を、作っていました」
「熱心な先生だったんですね」
「ええ。私なんかより、ずっと」
私は苦笑した。その苦笑が、自然だったのか作り物だったのか、自分でも分からなかった。
「陽菜ちゃんは?」
「折り紙が得意でした」
スマートフォンを取り出し、写真を探した。陽菜が作った色とりどりの鶴。赤、青、黄色、緑。虹のように並べて、得意げに笑っている写真。
「毎日のように作っては見せてくれました。『お父さん、見て見て』って」
写真の中の陽菜は笑っている。でも、その声が思い出せなかった。声の高さ。抑揚。語尾の上がり方。どんなふうに「お父さん」と呼んでくれていたか。
思い出せ。
毎日聞いていた声だ。八年間、毎日。
思い出せ。
頭の中で再生しようとした。でも、音量を絞ったように遠い。まるでノイズがかかったかのように。他の子供の声と区別がつかない。
違う。陽菜の声はもっと——もっと、どうだった?
「光崎さん?」
「あ、すみません」
私は顔を上げた。清水さんが、心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか」
「ええ、少し……」
疲れているだけだ。そう思おうとした。眠れていないから。食事もろくに取っていないから。だから頭が働かないだけだ。そうだ、きっとそうだ。
「母親思いの子でもありました」
私は続けた。話さなければ、と思った。言葉にしなければ。口に出せば、記憶が形になる。形になれば、消えない。そんな気がした。
「自分の誕生日プレゼントのお金で、母親に青い小鳥のブローチを買ってあげたんです。八歳の誕生日に、お小遣いを貯めて」
「お小遣いで」
「ええ。『お母さんがいつも綺麗でいられますように』って。そう言って渡していました」
これは覚えている。はっきりと覚えている。陽菜の声も、美咲の涙ぐんだ顔も。
——本当に? 不意に、疑念が湧いた。本当に覚えているのか。それとも、覚えていると思い込んでいるだけなのか。
あの日、陽菜は何色の服を着ていた? 美咲の髪は結んでいたか、下ろしていたか? ブローチを渡した時、陽菜はどんな顔をしていた?
分からない。
分からない。思い出せない。事件が起きてから何ヶ月も経ったわけでは無い。でも、もう曖昧になっている。このまま時間が経ったら、どうなる。一ヶ月後は。一年後は。陽菜の声を、完全に忘れてしまうのか。美咲の笑顔を、写真でしか思い出せなくなるのか。
それは——
「光崎さん」
清水さんの声で、我に返った。
「すみません、話を聞いてくださって」
自分の声が、少し震えていた。清水さんは何も言わなかった。しばらく沈黙が続いた。
「素敵なご家族ですね」
ようやく清水さんが口を開いた。その声は少し掠れていた。
「だからこそ、必ず……」
清水さんはまた、途中で言葉を止めた。唇を噛むような仕草。そして清水さんはふと、リビングにある時計に目線を動かした。
「すみません。結構、長居しちゃいましたね」
そう言うと清水さんは立ち上がり、会釈をした後に玄関に向かった。私は彼の大きな背中を追うように、見送りに着いていった。清水さんは玄関で靴を履き終わると、こちらに振り返った。
「光崎さん」
「はい」
「また、お会いしてもいいですか」
私は少し驚いた。
「捜査で何か……」
「いえ、捜査とは関係ありません」
清水さんは少し言いづらそうに続けた。
「正直に言うと、上からは止められています。被害者対応は地域課の仕事だ、お前は捜査に集中しろと」
「では、なぜ」
清水さんは少し黙った。それから、小さく息を吐いた。
「クッキーをお渡しする時にも言いましたが。私にも、息子がいます。五歳です」
その一言で、全てが分かった気がした。
「もし自分の家族が、なんて考えてしまうんです。……すみません、
「いえ、そんなこと」
清水さんは私の目をまっすぐに見た。
「これは個人的な約束です。光崎さんとご家族への」
その目は本気だった。何かを背負っているような、決意の目だった。私は何も言えなかった。言葉にすると、泣いてしまいそうだった。
清水さんの背中を見送った後、私はリビングに戻った。テーブルの上に、クッキーの箱が残っていた。私はその箱を手に取った。うさぎの絵を見つめた。陽菜は、本当にこのクッキーが好きだったのだろうか。それとも、私は既に、娘の好物さえ正確に思い出せなくなっているのだろうか。窓の外で、まだ鳥が鳴いていた。美咲と陽菜の遺影が、棚の上から私を見ていた。
遺影の中の二人は、何も答えてくれない。ただ静かに微笑んでいるだけ。その微笑みが、日に日に曖昧になっていく気がした。写真の記憶は鮮明だ。でも、実際の美咲の笑顔がどんなだったか。陽菜の声の高さがどうだったか。
美咲の笑顔を思い出そうとした。浮かんだのは、遺影の写真だった。