午後八時を回り、俺はようやく神山警察署を出た。今日は朝から異常な一日だった。署内は一日中、ざわついていた。
春野は定時で帰らせた。若い奴には休息が必要だ。まあ、実際のところは、仕事中に永遠とお喋りをしてくるからしんどかっただけなんだが。やれ、最近のSNSのトレンドは。やれ、この前食べた飯屋のレビューや。マシンガンのように話しかけてくるから何も進まない。昔の俺ならズバッと切り捨てるくらいはわけなかったが、今の俺には若者に厳しくする勇気は残っていない。
俺はちょっとばかしの残業を終えてから、重い足取りで駅に向かった。帰路の途中、神山駅前のコンビニが視界に入った。気疲れをしている今の精神にはこの建物の光は眩しい。ゆらゆらと意味もないのに近づいていってしまう。冷蔵庫を開ける感覚に近い。意味もなく開ける、そんな感覚だ。意味は今作ってしまおう。
そうだ、今日の夕飯でも見繕うか。独身貴族は気ままなものだ。食べたいときに食べたいものを買う。それがコンビニ弁当であっても、誰にも文句は言われない。まあ、自宅の最寄り駅で買うほうが良いからここではジュースでも買おうかな。コーヒーも好き、甘いジュースも大好き。おじさんだって良いじゃないか。
自動ドアをくぐると、蛍光灯の白い光が疲れた目に刺さった。ちらっとレジの店員を確認する。朝の怖いやつは流石に退勤しているようだ。今は若いお姉ちゃんが立っている。
意気揚々とまずは弁当コーナーで物色しようとした時、俺は足を止めた。見たことある顔。あれは誰だ。そうだ、
まずい。
俺は咄嗟に身を
棚の隙間から様子を窺う。光崎はまだ弁当を選んでいる。よし、このまま気づかれずに——
「北島さん?」
しまった。光崎がこちらに気付いた。俺の姿を認めて、わずかに目を見開いている。
「あ、ああ……光崎さん」
俺は観念して棚の陰から出た。後は野となれ山となれってところだ。
「こんな時間に、奇遇ですね」
光崎が穏やかに笑った。その笑顔には、どこか疲れたような
「北島さん、今……棚の陰から覗いてました?」
「いやあ、最近ミッション・インポッシブルの映画を見ましてね。スパイごっこをしてたんですよ。実は警察官ではなくてCIAでして。ロシアのスパイなんです、CIAのね」
我ながら酷い言い訳だ。四十五歳の男がコンビニの中で一人スパイごっこ。職務質問待ったナシ。俺の経験から言わせるとこういう場合、だいたい薬物を持っている。せめて俺も薬物くらい持っていたい。頭が素でおかしいと思われるよりマシだ。
光崎が一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「……面白い方ですね、北島さんは」
「よく言われます」
嘘だ。そんなこと言われたことない。光崎が弁当棚に視線を戻した。俺が面白い男であるという話題からは早く逸らさないと。なんか面白いことしてよ、なんて雑なフリをされてしまう。
「光崎さんは夕飯のお買い物ですか?」
「そうなんですよ。恥ずかしい話なんですが、何を買えばいいのか分からなくて」
「分からない?」
「妻が生きていた頃は、買い物なんて任せきりだったので」
光崎の声は淡々としていた。
「食事のことは全部任せていました。仕事から帰れば温かい食事が用意されていて、それが当たり前だと思っていた」
光崎が唐揚げ弁当を手に取った。
「妻は、私が唐揚げばかり食べようとすると怒るんですよ。『また揚げ物?』って」
その手が、少しだけ震えていた。
「今なら毎日でも唐揚げ弁当を食べられます」
弁当をじっと見つめている。
「怒ってくれる人が、いないので」
辛気臭い話に、俺は何も言えなかった。勘弁してくれよ、このまま一緒にいると俺までカビが生えちまう。俺は心理カウンセラーじゃないから、これ以上、話をするなら金を取るぞ。
俺も結局、手持ち無沙汰になってしまったため、適当に弁当を選んで二人で会計を済ませた。本当は自宅近くで買うはずだったのにな。ビニール袋を片手に電車に乗るのは少し面倒だ。
店を出ると、夜の空気が肌に触れた。少しだけ湿気がある、この季節特有のじっとりとした風。俺は何気なく空を見上げた。
今日は星がほとんど見えない。雲が出ているわけでもないのに、空全体がぼんやりと濁っている。まるで黒い膜が夜空を覆っているような。いや、違う。都会の空なんて、いつもこんなものだ。光害で星が見えないだけだ。それでも、今夜の空は妙に重く感じた。圧迫感がある。何かが、上から俺たちを見下ろしているような。
「北島さん、少しだけお時間いいですか」
光崎の声で、俺は視線を戻した。
「ええ」
少しだけ時間を、この文言はだいたい少しでは済まない。覚悟を決めるしかないだろう。断りにくいのだ。何故ならこのまま帰ってしまった場合、さっきのスパイごっこが監視業務と捉えられてしまうかもしれない。
だって考えてみろ? 権藤昇が殺された、必ず刑事たちは光崎に声を掛ける。その時、事件が起きた当日に警察は私を監視していた! なんて光崎に騒がれてみろ。俺の立場がまずいだろ。
ここで話を聞いてあげれば「心配だったから気になってさ」という誤魔化しができるかも知れない。いや、本当に断りたかったが、ここで逃げるのも問題だ。保身のため、ここは時間を使うしかない。
しぶしぶと俺はコンビニの脇、街灯の下に立った。夜の駅前は静かで、時折サラリーマンが足早に通り過ぎていく。
「今日、ニュースを見ました」
光崎が静かに言った。
「権藤昇さんが亡くなったと」
「はい」
俺は短く答えた。光崎も空を見上げた。
「星が、見えませんね」
光崎が呟いた。
「妻と娘と暮らしていた頃は、よく星を見ていました。庭にシートを敷いて、三人で寝転がって」
光崎の視線は、空に向いたままだった。
「陽菜が星座を覚えるのが好きで。『お父さん、あれがオリオン座だよ』って、教えてくれるんです。私の方が教わってばかりでした」
光崎が小さく笑った。
「今は、何も見えない。見上げても、ただ暗いだけで」
その声には、深い虚無があった。
「複雑な、気持ちです」
それだけ言って、光崎は黙った。沈黙が続いた。俺は何か言うべきか迷ったが、光崎の方から再び口を開いた。
「清水さんのことを、思い出しました」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「清水さんは」
光崎の声が、少し震えていた。
「「あの地獄のような日々で、ただ一人、私の側に立ってくれた方でした」」
——知ってるよ。俺は黙って聞いていた。
「『警察は必ず犯人を捕まえます』『そのために刑事になったんです』って。何度も、何度も言ってくれました」
だから何だ。光崎の言葉が続く。俺は顔に出さないように努めた。
「仕事が終わった後も、わざわざ私の家まで来てくれて。話を聞いてくれて」
それで死んだんだろうが。
「「本当に、正義感の強い方でした」」
——正義感。
その言葉が、脳みそに直接響くような感覚。耳からではなく脳内に。正義感が強かった。だから遺族に寄り添った。だから俺の制止を無視した。だから勝手に絶望した。だから勝手に死んだ。お前の言う正義感とやらで。それで俺の人生はめちゃくちゃになった。
「でも」
光崎の声が途切れた。
「結局、清水さんは死んでしまった」
沈黙。
「私のせいで」
知らんがな、と俺は内心で呟いた。少なくともお前のせいじゃない。清水が勝手にやったことだ。俺にも関係ない。
「そんなことは」
俺は言葉を探した。形だけでも何か言わなければ。ここで黙っているのも気まずい。
「……俺には、分かりません」
それだけ言うのが精一杯だった。光崎が俺を見た。
「すみません。変なことを言いました」
光崎が小さく頭を下げた。
「忘れてください」
沈黙が降りた。光崎が弁当の袋を握りしめている。何か言いたそうに口を開きかけては、閉じる。それを何度か繰り返した。
「光崎さん?」
「……いえ」
光崎が首を振った。
「すみません。変なことを言いそうになって」
「構いませんよ」
早く帰りたかった。しかし大人とは建前上、冷たい態度がとれないものなのだ。光崎がそんな俺を見る。その目には、何かを堪えるような。
「北島さんは、清水さんの上司だったから」
光崎の声が、小さくなった。
「だから、聞いてもらえるかもしれないって、思ってしまって」
「何をです」面倒な話になりそうだ。光崎が黙った。
長い沈黙。
「三年間」
絞り出すような声だった。
「三年間、誰にも言えなかったことがあるんです」
光崎の手が震えている。弁当の袋がかさかさと音を立てた。
「家族が殺された後……あの事件の後、ある夜」
光崎が言葉を探すように、視線を彷徨わせた。
「部屋で、妻と娘の位牌の前にいた時。何かを、感じたんです」
「何かを?」
「部屋の温度が下がって、ろうそくの炎が揺れて」
光崎の声が途切れた。
「そこに、何かが、いました」
何の話だ。主語が明確でない話ほど理解に苦しむものはない。俺は黙って聞いていた。
「人のような。でも、人じゃない」
光崎が頭を振った。
「うまく説明できません。黒っぽい影が、いや虹色だったか。でも、確かにそこにいた」
光崎の目が、俺を捉えた。
「頭の中に、声が聞こえました。美咲と陽菜の声で『お父さん、忘れないで』って」
光崎の声が震えた。
「完璧に、あの二人の声で」
再度、沈黙。
光崎が急に我に返ったように、顔を背けた。
「すみません。何を言ってるんでしょうね、私は」
自嘲的な笑みが浮かんでいた。いや、本当だよ。位牌の前に佇んでいたら、人じゃない何かが死んだ家族の物まねをしてきたって? 病気だろ。
「三年間、誰にも言わなかったのに。なんで今——」
光崎が頭を押さえた。
「清水さんの話をしていたら、つい。清水さんになら聞いてもらえたかもしれないって、ずっと思っていたから。だから、その上司の北島さんにも——馬鹿ですよね。本当に馬鹿だ」
光崎の声は平坦に聞こえる。俺もなんて返事をすればいいのやら。
「忘れてください。疲れてるんです、私。頭がおかしくなってるんだ」
俺は光崎の顔を見つめた。正直、どうでもよかった。幻覚だろうが何だろうが、俺には関係ない。でも、ここで突き放すわけにもいかない。一応、相手は被害者遺族だ。
「光崎さん」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「それは……極度のストレスが引き起こした体験だと思います」
「そうですよね」
光崎が寂しそうに笑った。
「私も、最初は自分が狂ったのかと思いました」
「狂ったわけじゃない」
俺は続けた。
「あなたは、想像を絶する苦痛を経験された。そういう状況では、脳が現実と幻覚の区別をつけられなくなることがある。珍しいことじゃないんです」
「幻覚……」
光崎が虚ろな声で呟いた。
「そうかもしれません」
光崎が俺を見た。
「でも、聞いてくれて助かりました。ありがとうございます」
その声には、深い疲労と、そして微かな安堵があった。
「三年間、誰にも本当に、誰にも言えなかったから」
光崎が深く頭を下げた。
「長々と引き止めてすみませんでした。お疲れのところを」
「いえ」
俺は首を振った。
「また何かあれば、いつでも連絡してください」
社交辞令だ。本心では、もう関わりたくなかった。
「ありがとうございます」
光崎が顔を上げた。
「北島さんも、どうか無理なさらないでください」
光崎が背を向けて歩き出す。その背中は小さく、どこか頼りなげだった。数歩進んだところで、光崎が立ち止まった。
「北島さん」
振り返らずに、光崎が言った。
「「清水さんは、間違っていなかったと思います」」
その声は小さかった。独り言のような。でも、心にストっと入り込んでくるような声色だった。俺は何も答えなかった。光崎はそのまま歩き去った。俺はしばらくその場に立っていた。
疲れた。
間違っていなかった。夜風が冷たい。間違っていなかった。帰ろう。明日も早い。
お父さん
足を止めた。今、何か聞こえたか。気のせいだ。疲れている。俺は駅に向かって歩き出した。
電車の中は混んでいた。ガタンゴトンと揺れる車内で、隣のサラリーマンがスマホでニュースを見ている。画面に権藤昇の顔写真が映っていた。俺は視線を逸らした。こめかみが鈍く痛む。
光崎の言葉が、頭の中に残っている。
「本当に、正義感の強い方でした」
正義感が強かった。遺族に寄り添った。俺の言うことを聞かなかった。
——だから死んだ。
俺は目を閉じた。清水が死んだのは、清水のせいだ。俺は止めた。何度も止めた。「やめろ」「お前の仕事じゃない」と言った。
清水は聞かなかった。聞かなかったのは清水だ。俺じゃない。清水は正義感で動いた。遺族に寄り添おうとした。それは立派なことだ。警察官として正しい姿勢だったのかもしれない。
でも、俺には関係ない。清水が勝手にやったことだ。俺は関わっていない。俺は悪くない。じゃあ、誰が悪い。決まってる。
権藤真澄だ。
あいつが人を殺さなければ、何も起きなかった。光崎の家族は死ななかった。清水は自殺しなかった。俺は左遷されなかった。
全部、あいつのせいだ。なのに、あいつは生きている。無罪判決を受けて、のうのうと生きている。権藤真澄。あいつがまだ生きてるから、この話が終わらないんだ。
死んでくれないかな。
別に俺が何かするわけじゃない。ただ、事故とか。ビルから落ちるとか。車に轢かれるとか。そうすれば、全部終わる。俺はもう、過去の話をしなくて済む。光崎に気を遣わなくて済む。あの事件のことを、思い出さなくて済む。
電車が自宅近くの最寄り駅に着く。ホームに降りると、冷たい夜風が顔に当たった。少しだけ、頭が冴える。
何を考えてたんだ、今。人の死を願うなんて。警察官が。俺は首を振った。疲れてるんだ。寝れば治る。改札を抜け、自宅に向かって歩く。明日になれば、もう少しまともに考えられるはずだ。
——たぶん。