善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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2-1 警視庁捜査一課

 翌朝、俺は重い頭を抱えながら神山警察署に出勤した。昨夜はあまり眠れなかった。ベッドに入っても、光崎の言葉が頭の中で反響し続けた。具体的には思い出せないが、なんだか同じ単語が繰り返し聞こえてくるような。脳が記憶を整理するときに同じことを繰り返すという話は聞いたことがあるが、ここまで不愉快な夜は初めてだ。

 

 事務室に入ると、春野が既にデスクに座っていた。今日も例のピーポ君のぬいぐるみを手に、真剣な表情で眺めている。

 

「おはようございます、北島さん!」

 

 春野が元気よく挨拶してきた。その明るさが、少しだけ俺の気持ちを楽にしてくれる。いや、重い頭に鈍く響いているのか。

 

「おう、おはよう」

 

 俺は自分のデスクに腰を下ろし、インスタントコーヒーの準備を始めた。今日は濃いめに作ろう。いつも通りの朝になる、これはルーティンなのだ。

 

「北島さん、見てください!」

 春野がピーポ君を俺の方に向けた。

 

「このピーポ君、昨日より目つきが優しくなった気がするんですよ。なんか、僕たちを励ましてくれてるみたいな」

 

 見せつけられたアヘ顔宇宙人の顔は別に何も変わっていなかった。こいつ、昨日は「憑りつかれてる」とか言ってなかったか。

 

「……そうか」俺は適当に相槌を打った。

「北島さん、大丈夫ですか?」

 春野が不意に真顔になった。

 

「昨日から、なんか元気ないですよね。顔色も悪いし」

「ああ、少し寝不足でな」

「そうですか……」

 

 春野が心配そうに俺を見ている。この若造、意外と人の変化に敏感なんだよな。

 

「でも、無理しないでくださいね。北島さんがいないと、僕一人じゃこの部署回せませんから」

 

 その言葉に、少しだけ気持ちが和らいだ。確かに、春野一人では回すも何もない。何も出来ないだろう。

 

「心配するな。コーヒー飲めば元気出る」

「そういえば」

 春野が周囲を見回した。

 

「今朝、署内の雰囲気、なんか変じゃないですか? みんな慌ただしくて」

 

 確かに、廊下を行き交う刑事たちの足音が、いつもより多い気がする。

 

「昨日の事件の関係だろう。現職の国会議員の殺害だ。本庁からの応援だかなんだか色々ある」

「ああ、ニュースで見たやつですよね。でも、なんか……」

 春野が言葉を濁した。

 

「なんかって?」

「いや、うまく言えないんですけど。みんな、重大事件にしては妙にざわついてるというか……」

 

 春野の言う通りかもしれない。重大事件なら、もっと張り詰めた空気になるはずだ。でも今日の署内は違う。緊張感というより、どこか浮足立っている。すれ違う署員たちの声が妙に弾んでいる。国会議員が殺されたというのに。

 

 その時、事務室の内線電話が鳴った。けたたましいベルの音が、空気を切り裂く。俺は嫌な予感を覚えながら、ゆっくりと受話器を取った。その時、春野がビッタリと隣にくっつき、電話の音声を盗み聞こうとしている。もう、どうせ後で聞かれるから放っておくことにした。説明する手間も省けるもんだ。

 

「あー、地域安全課、北島です」

『北島警部補ですか? 刑事課の斎藤です。お疲れ様です』

 

 電話主は先日、色々と世話になった斎藤だった。彼の声には、いつもの穏やかさがなかった。電話越しでも、何か抑えているのが伝わってくる。

 

『昨夜、大きな事件が発生しまして。権藤昇国会議員の殺害事件です。申し訳ないんですが今すぐ、刑事課の方にお越しいただけませんか? 警視庁の方が北島さんに確認したいことがあるそうです』

 

 警視庁の捜査員が俺に用がある? 嫌な予感を感じた俺は短い沈黙の後、答えた。

 

「分かりました。すぐに向かいます」

 

 電話を切った後、俺は深いため息をついた。コーヒーを飲む暇もなかった。横をちらりと見てみると、春野が嬉しそうにしている。

 

「北島さん、また重要事件ですね! エリートコンビの出動ですよ!」

 

 春野の目が輝いている。こいつにとっては面白いイベントなんだろうが、俺にとってはただの面倒事だ。重要事件なんかじゃない。頭痛と胃痛が普段の七割増しだ。胃潰瘍で入院出来たら嬉しいもんだ、なんて考えながら春野を連れて事務室を出た。

 

 

 廊下に出ると、署内の異常な熱気をより強く感じることができた。普段はもっと静かな平日の朝が、まるで年末の繁忙期のような慌ただしさに包まれている。制服警官や私服刑事が足早に行き交い、どこか昂揚した空気がある。

 

 刑事課に向かうエレベーターの中で、春野のそわそわしている様子が手に取るように分かった。俺の視界に映るその顔は、まるで遠足前の小学生のように期待に満ちている。

 

「北島さん、権藤昇ってどんな人だったんですか?」

「俺も大したことは知らない。光崎一家惨殺事件の容疑者、その父親ってことくらいしか」

「権藤真澄の父親……なんかきな臭いですね」

「そうだな、胃が痛くなるよ」

 

 エレベーターの数字がだんだんと上がっていく。俺は階数表示を見つめながら、三年前のことを思い返そうとした。権藤昇。清水が死んだ原因を作った男だ。俺のキャリアを終わらせた男でもある。まあ、死んでくれて清々した。今さら考えても仕方ない。

 

 エレベーターのドアが開くと、地域安全課のある階とは全く違う空気に包まれていた。刑事課の扉から漏れる声、電話の音、コピー機の作動音、そして紙をめくる音。普段の倍以上の人間が動き回っているのが、音だけでも分かる。

 

「うわあ、すごい熱気ですね!」

 

 春野が興奮気味に呟いた。確かに、ここまで大がかりな捜査体制は久しぶりだ。国会議員殺害なんて大事件、通常なら捜査本部は警視庁に立つはずだ。なぜ神山署にこれだけの人間が集まっている? 権藤昇が神山署の管轄内で殺されたわけでもないだろうに。お金持ちの先生だ。どうせ港区とかそこら辺で殺されたんじゃないのか?

 

 

 刑事課の重厚な木製ドアを開けると、刑事たちが慌ただしく動き回っていた。壁のホワイトボードには事件の相関図、デスクには資料の山。パソコンの画面には現場写真が映っている。

 

 空気が張り詰めている。同時に、どこか熱気がある。当然だ。権藤昇が死んだのだから、気分が上がるのは当たり前だろう。

 

 俺は久しぶりに重大事件捜査の現場に立っていることを実感した。三年前、俺もこの輪の中にいた。光崎家事件を追っていた時のことを思い出し、少しノスタルジーに浸ってしまった。

 

「うっ……」

 

 春野が顔を青くしていた。彼の視線の先には、壁に貼られた現場写真。おそらく、権藤昇の現場なのだろう。俺も足を止めて、眺めた。

 

 権藤昇の遺体が写った現場写真は、先月の裁判官殺人事件とは比較にならないほど残虐だった。高級な革張りの椅子に縛り付けられた権藤昇の体には無数の切り傷があり、両手の指の爪は全て剥がされている。顔は識別不能なほど「削られている」と言ったほうがいいのか。明らかに長時間の拷問を受けた痕跡があった。先月の裁判官殺しが綺麗に見えるほどだ。ここまでやるか。いや、ここまでやりたくなる気持ちは分かる。

 

「これ、前回のよりもずっとひどいです……」

 

 春野が小声で呟いた。顔が完全に青ざめている。交番勤務で交通事故の遺体くらいは見たことがあるだろう。だが、これは違う。ただの遺体ではなく、明確な殺意のもとに破壊された人間。

 

 俺は刑事をしていた経験から、こういった遺体には耐性があるつもりだ。だが、これは確かに残酷だ。どんな人間であろうと、このような死に方をするべきではない。そう思うべきなんだろう。だが、同情する気にはなれなかった。この男がしてきたことを思えば、因果応報だ。

 

 壁には血で「悪に報いを」と大きく書かれていた。公正忠裁判官の現場と酷似している。

 

「北島警部補!」

 

 死体鑑賞をしていた俺の思考を遮るよう名前が呼ばれた。会議室の前方から斎藤が手を振っている。俺は写真から視線を切り、斎藤の方に向かった。

 

 斎藤の周りには、俺の知っているベテラン刑事たちが集まっている。この刑事たちは神山警察署の刑事ではない。彼らは警視庁に勤務している捜査一課の面々だ。三年前の現場で一緒だった顔が半数以上いる。俺が一課を離れてからも、メンバーはあまり変わっていないらしい。顔なじみの刑事たちは俺の顔を一瞥して、ニヤリと笑ったり、軽く手を上げて挨拶をしてくれた。

 

「お疲れ様です。お忙しい中、ありがとうございます」

「お久しぶりです、斎藤さん。隣にいるのは地域安全課の春野巡査です」

「よろしくお願いします!」

「ああ、春野さん。先月はご協力ありがとうございました」

 

春野が元気よく挨拶する。どうやら春野は以前の事件対応で斎藤からの信頼を手に入れたようだ。

 

「それで、何のご相談でしょうか?」

 

 警視庁組の生暖かい視線が俺を貫き続けていたため、早々に部屋から出たかった。だから俺はなるべく早く話を終わらせるために話を促す。斎藤は資料を整理しながら答える。

 

「実は今回の事件も前回の裁判官殺人事件と同様、光崎一家惨殺事件との関連性が疑われています」

 

 またか。現場写真を見た段階で察していたが。前回の聞き込み調査ですら嫌な気持ちが蘇ったのに、また対応しないといけないのか。

 

「現場に残された証拠品が、三年前の事件を明らかに意識したものでして。それで、当時の捜査員の方々に協力をお願いしているんです」

 

 斎藤が俺を見た。

 

「北島さんは前回の裁判官殺人事件の際にも協力してくださいましたし、光崎一家惨殺事件の当時の状況を最もよく知る方の一人です。今回もお力をお借りしたくて」

「なるほど……」

 

 思った以上にため息混じりの返事になってしまった。

 

「光崎一家惨殺事件の資料が神山警察署にあるため、警視庁の捜査一課からも何名か来ていただいています。北島さんの顔見知りの方もいらっしゃるかと」

 

 斎藤が俺たちを会議テーブルに案内すると、周囲のベテラン刑事たちの視線が俺に向けられた。テーブルを囲む顔には、三年分の時の流れが刻まれている。俺の記憶より少し老けて見える。その視線には懐かしさと、どこか優越感のようなものが混じっていた。俺の登場で、何人かが肩の力を抜いたのが分かった。蛍光灯の白い光。整然と並べられた資料の束。重要事件の捜査本部そのものだ。

 

「おお、北島か」

 

 年配の山田刑事が声をかけてきた。このオッサンは俺が刑事課にいた頃の先輩で、すでに六十近い年齢だが相変わらず精力的に働いているようだ。頑固で口が悪いことで有名だったが、同時に後輩の面倒見も良い男だった。白髪が増え、顔のしわも深くなったが、その鋭い眼光は昔と変わらない。その顔には、久しぶりに再会した後輩への懐かしさと、同時に落ちぶれた部下を見るような同情、そして微妙な見下しが混じっている。

 

 年配の男性特有の「俺が正しい判断をしてやる」といった思い上がりが全身から漂っていた。別に悪意があるわけではないが面倒臭い、よくいるオッサンってところだな。俺みたいなピチピチの若い男とは少し違う、乾燥してシワシワで皮膚がカチカチなザ・昭和の男という感じだ。男が化粧水をつけていたら馬鹿にしてくるタイプだ。

 

「久しぶりに見るな、まともな現場で」

 

 山田の言葉には、悪意はないのだろう、たぶん。彼の表情は穏やかで、むしろ親しみやすささえ感じられる。しかし、地域安全課を「まともじゃない現場」と言い切る無神経さ。彼にとって、刑事課こそが警察の本流であり、他の部署は支流に過ぎないのだろう。そんなコミュニケーションの取り方だから離婚するんだよ。口に出してしまったらぶっ飛ばされる自信があったため、俺は脳内で悪態をつくことにした。

 

「やっぱり住問班は合わなかったろう?」

 

 別の刑事が口を開いた。四十代の中堅刑事で、俺が刑事課時代に何度か一緒に仕事をしたことがある。彼の表情には、同僚としての親しみと、同時に「やっぱりな」という納得が混じっていた。

 

「雑用係みたいな仕事、北島には向いてない。時間の無駄だったな」

「住民のお悩み相談なんて、所詮は女性職員か新人がやる仕事だろ」

 

 複数の刑事たちが口々に言い始める。会議室に苦笑いとも嘲笑ともつかない笑い声が混じった。彼らにとって、俺の三年間は格好の話のネタなのかもしれない。まあ、実際暇だしな。確かに彼らの言う通り、地域安全課は刑事課に比べて緊張感に欠ける。朝からピーポ君談義を聞かされ、住民のクレーム処理。たまに迷子の子供を探したり、近隣トラブルの仲裁をしたり。確かに「雑用係」と言われても反論できない面がある。

 

 でも、それなりに立派な仕事だと思うんだけどな。少なくとも、俺はそう信じている。住民の小さな困りごとを解決することで、地域の平和が保たれている。それも警察の重要な役割のはずだ。何より、隣にいる若者まで一緒に悪く言われているのは好ましくない。

 

「住問班なんて、警察官じゃなくても誰でもできる仕事だからな」

「市役所の窓口係と大して変わらん」

「いつまでも住民のクレーム処理なんかやってちゃダメだ。お前は刑事をやらないと」

「そうそう、子供の迷子探しとか、近所トラブルの仲裁とか、そんなのは北島の仕事じゃない」

「もう清水の件はいいだろ? 捜査一課に帰ってこいよ」

「新人一人でも十分だ。お茶でも飲みながら電話番してればいいんだから」

 

 怒涛のように悪口なのか叱咤激励なのか、曖昧な言葉が俺に雪崩かかる。そこまで言われると流石にムッとするが、反論する気力もない。実際、そう見られても仕方ない面もある。俺自身、地域安全課での日々に物足りなさを感じることもある。

 

 ちらりと斎藤の方を見ると、落ち着かない様子で手を組んだり解いたりしていた。捜査会議を始めたいのだろうが、変に話が盛り上がってしまったのだ。警視庁から来た刑事たちを相手に自分のペースを作るのは確かに大変だ。そして俺が悪く言われているのを目の前にしているもんだから、気まずくもあるのだろう。

 

「まあ、清水の件で精神的にまいってたから、リハビリには良かったかもしれんが」

 

 リハビリ、ね。清水さんは、間違っていなかったと思います。頭に声が響く。まあ、そうなのかもしれない。俺自身、清水の死から逃げるように地域安全課に身を置いていた。人事も、市民やメディアの追及から俺を逃がすために、すぐ異動させてくれた。誰かが死ねば解決する。

 

 

「もう十分休んだろ?」

 

 

 山田刑事が続ける。復帰のきっかけを作りたいのだろう。不器用なやり方だとは思う。ある程度歳を重ねると、こういう言い方しかできなくなるのかもしれない。

 

 確かに暇な時間も多い。一日中何も起きない日もある。そんな時は春野とコーヒーを飲みながら、たわいもない雑談をして過ごすことも少なくない。でも、住民の小さな困りごとを解決することにも意味があると思っているし、春野との関係も悪くない。

 

 まあ、彼らから見れば俺は落ちこぼれなんだろうな。刑事として第一線で活躍していた男が、今は住民の愚痴を聞く仕事をしている。落ちぶれて見えるのは仕方ない。

 

 ここで「捜査一課に戻りたい」と言えば、おそらく人事に口利きをしてもらえるのだろうな。だが、言語化できない。モヤッとした何かが、俺の気管支にでも張り付いているのか。口が開かない。理由はわからない。

 

 俺が黙って床を眺めていたその時、春野が勢いよく手を挙げた。小学校の授業で発言しようとする子供のような動きだった。

 

「あの、すみません! 質問があります!」

 

 刑事たちが一斉に春野の方を向いた。俺は嫌な予感を覚えたが、春野の表情を見て少し安心した。ただキラキラしていて、悪意は微塵も感じられない。少しくらいは俺が散々言われていることに憤慨してくれる可愛げがあったらな、なんて思ってしまった。

 

「僕、刑事になりたいんですよ!」

 

 目がきらきらと輝いている。アイドルに会えた小学生のような興奮状態だった。

 

「捜査一課の皆さんって、本当にかっこいいですよね!」

 

 春野が身を乗り出している。その純粋な憧れに、刑事たちの表情が和らいだ。さっきまでの俺への見下しが、年長者の優しさに変わっている。あの、俺もまだ四十五歳なんだけど。少子高齢化の日本において四十五歳は中央値より下だ。統計的には若者側。俺にも優しくしてくれたっていいのにな。

 

 先ほど煽り散らかしてくれた山田刑事の口元に、微かだが確実な笑みが浮かんだ。年配の男性は、若い部下からの素直な尊敬に弱いものだ。俺だって弱いさ。

 

「殺人事件とか本格的な犯罪捜査をするなんて憧れます!」

 

 春野の声が弾んでいる。会議室の空気が少し明るくなった。

 

「僕たちの対応している住民トラブルなんて、刑事課の皆さんから見たら子供だましですよね」

 

 春野が謙遜まで始めた。刑事たちの表情がさらに和んでいく。自分たちの仕事を認めてくれる若手に悪い気はしないのだろう。

 

「まあ、経験を積めばいずれは……」

 

 山田刑事が応じかけた。完全に先輩面だ。春野は山田の言葉を遮り、続けた。

 

「証拠を集めて、犯人を追い詰めて、真実を暴く! まさに正義の味方! 僕も早く本格的な事件を担当してみたいです!」

 

 春野の目は本当にキラキラと輝いていた。さっきまで腕を組んでいた中堅刑事が、その腕を解いて椅子に深く座り直す。会議室の空気が変わっていくのが分かる。このまま行けば、先ほどの侮辱的な発言もうやむやになって捜査会議が始まるかもしれない。会議室の蛍光灯の白い光まで柔らかくなり、暖色の蛍光灯になった気がする。俺には一度も柔らかくなってくれたことがないのに。

 

「やる気があるのはいいことだ」

 

 山田刑事が満足そうに頷いた。斎藤がホッとしたように肩の力を抜いたのが視界の端に映る。春野がさらに身を乗り出した。

 

 まだ何か言いたそうだ。この流れ、嫌な予感がする。だが刑事たちは春野の次の言葉を待っていた。若者からのお世辞は気持ちいいもんな。もっと褒めてくれ、という顔をしている。

 

 

「ところで、刑事課って死体が出ると査定とかボーナスって増えるんですか?」

 

 

 会議室の空気が凍りつく。刑事たちの表情が一斉に硬直。さっきまで椅子に深く座っていた中堅刑事が、背筋を伸ばした。山田刑事の口元に浮かんでいた微笑みが、ゆっくりと消えていく。誰も何も言わない。蛍光灯の光が寒色に戻った。

 

「え?」

 山田刑事が声を漏らした。自分の耳を疑っている顔だ。斎藤が固まっている。

 

「僕たちは犯罪の予防が仕事なんで、死体が出ても全然喜べないんですよ」

 

 春野の表情は至って無邪気だった。本気で知りたがっているように見える。悪意がないからこそ、余計に始末が悪い。

 

「でも刑事さんたちはやっぱり死体が出ると嬉しいものなんですか? お金が手に入るぞって感じで」

 

 刑事たちの顔色がさらに悪くなった。山田刑事のこめかみの血管がピクピクと動いている。警察官を目指すような男たちだ。こんなことを言われて平気な連中ではない。

 

 俺は焦って制止しようとしたが、春野の口は止まらない。普段はこういう時でもヘラヘラ笑っている印象だが、何故か真顔で喋り続けている。さっきまでの屈託のない笑顔はどこに行った。頼むから笑ってくれ。

 

「僕たちは犯罪が起きる手前のトラブルを必死に予防してるのに、査定に全然影響しないんですよ。人が死んでから評価されるって、うらやましいです。だって、僕たちがどんなに頑張って予防しても『何も起きなかった』で終わりじゃないですか」

 

 春野の論理は、ある意味で的確だった。予防業務は確かに評価されにくい。成果が見えにくいからだ。しかし、それを口に出すのは組織の禁句だった。ある程度、みんな理解していることだ。

 

「でも刑事さんたちは事件が起きればお手柄ですもんね」

「春野、やめなさい」

 

 俺は春野の肩に手をかけて止めようとした。だが春野は俺の顔を見ると、スイッチが切り替わったようにニコニコと笑顔になった。そのまま俺の手を取り、すっと優しく下ろす。

 何故だ。お前が何を考えているのか、全く分からない。

 

「どのくらい人が死んだら昇進できるんですか?」

 

 春野がさらに続ける。本当ならすぐにでも黙らせるべきだったのが、俺が一瞬止めることを躊躇してしまった。もしかしたら俺を庇って言ってくれているのかも、と思ってしまったからだ。いや、まさかな。この一瞬のためらいのせいで完全にタイミングを失った。

 

「殺人事件一件で何ポイントみたいな感じですか? スタンプカードがあってそれにハンコが押されていくとか?」

「春野!」

 俺の声は既に悲鳴に近かった。

 

 完全な沈黙。

 

 会議室の空気は、まるで葬式のように重かった。刑事たちの反応は様々だった。怒りで顔を赤くしている者、呆れて天を仰ぐ者。一部の刑事に至っては机に顔を伏せて爆笑している。俺は春野を見つめた。人の死を点数制にして語っている。刑事たちの前で。さっきまで好意的に見てくれていた人たちを、完全に敵に回している。

 

「僕も早く刑事課に移りたいです。死体を待ってる方が楽そうなんで」

 

 その瞬間、山田刑事の拳がテーブルに叩きつけられた。ドンという鈍い音が会議室に響く。春野はきょとんとした顔でそちらを見た。

 

「おい……!」

 

 山田刑事が低い声で言った。昔一緒の現場にいた時ですら見たこともないほど怒っている。春野以外の全員が固唾を呑んでいる。

 

「お前は何を言ってるんだ?」

 春野はまだ分かっていないようだった。

 

「いえ、組織のシステムについて教えていただきたくて。予防業務って評価されないから、みんな刑事課に憧れるんですよね?」

 

「春野!」

 俺は立ち上がって、深々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません! 部下が失礼なことを!」

「北島さん? どうしたんですか? なんで謝るんですか?」

 

 俺が頭を下げている姿を見て、察してくれ。願わくば静かにしてほしい。

 

「僕、刑事課の皆さんを尊敬してるって言ってるだけですよ?」

 

 刑事たちの表情が、怒りから呆れに変わりつつあった。俺は春野の肩を掴んで、強引に座らせた。

 

「本当に申し訳ありませんでした。こいつはまだ若くて、組織のことが分かってないんです」

 山田刑事の顔が真っ赤になっていた。

 

「北島……お前、部下にどういう教育してるんだ?」

「申し訳ありません……」

 俺は頭を下げ続けるしかなかった。

 

「俺たちが死体で金儲けしてるって? 人の死を喜んでるって?」

 別の刑事も怒りを隠せずにいた。

 

「あれ? 地域安全課を馬鹿にしていましたし、そういうお考えではなかったんですか?」

「もういいから」

 

 俺は春野を睨みつけた。これまでにない厳しさを込めたつもりだ。俺に怒られても普段はヘラヘラ笑っている春野が、珍しく黙った。

 

「本当に申し訳ありませんでした。厳重に注意しておきます」

 見かねた斎藤が仲裁に入ってくれた。

「まあ、新人さんですから……」

 

 しかし、斎藤の仲裁も虚しく部屋の温度は下がりっぱなしであった。良ければ、暖房をつけていただけると助かります。そっと横目に見ると、刑事たちの半数は、俺を見る目が明らかに冷たいのが分かる。そして残り半分は、新人が山田刑事を煽り散らかしたことがツボに入ったのか、唇を噛み締めて笑いをこらえている。顔が真っ赤に膨らんでおり、ツンと突けば破裂する風船のような顔だ。くそ、俺だってその立場になりたい。

 

 俺は怒っている刑事たちに向けて、頭を下げ続けるしかなかった。春野が最初に好印象を与えたからこそ、その後の爆弾発言の破壊力が倍増していた。善意で言っているからこそ、タチが悪い。悪意があれば叱って終わりだが、どう対処していいか分からない。

 

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