斎藤が咳払いをして、重い空気を破ろうとした。
「それでは……事件の詳細に移りましょうか」
その声で部屋にいる全員が捜査に向けて気持ちを切り替えようとした。
「まず、犯行の詳細についてお話しします」
斎藤が立ち上がり、ホワイトボードの前に移動する。会議室内の雑談や笑い声は完全に消え失せ、全員が無言で斎藤を見つめている。先ほどまでの雰囲気は跡形もなく、緊張感だけが支配していた。俺は思考を会議室に戻した。そうだ、国会議員が殺された事件の説明だ。
「昨夜午前二時頃、港区の高級住宅街にある邸宅で、現職議員、
斎藤が現場見取り図を指しながら説明を続ける。ホワイトボードに貼られた図面を見ると、権藤昇の邸宅がいかに豪華なものかが分かる。敷地面積、建物の構造、警備システムの配置——すべてが一般的な住宅とは次元の違う規模だった。俺は図面を凝視した。これだけ広い土地、港区の一等地。流石の国会議員といえども、こんな邸宅が買えるはずがない。相続か? 資産運用か? いや、違う。この規模の豪邸を維持するには、正規の収入だけでは絶対に足りない。まあ、殺されるだけのことはやっていたんだろう。今さら同情する気にもならん。
「現場は権藤昇氏の邸宅一階リビング。高い塀と警備会社の最新システムに囲まれていましたが、何らかの方法で犯人は侵入を果たしています」
「その警備システムは正常に作動していたんですか?」
先ほどの失言で少し委縮してくれるかと思っていたが、平然と春野が手を挙げた。
「それが問題なんです」
斎藤の表情が曇った。
「システムは正常に動作している状態でした。侵入者がいれば警備会社に通報がいくはずなんですが…」
前回の裁判官殺人事件でも監視カメラにノイズが走った。同じパターンか。何かしらの要因でシステムが動かなかったのだろう。もしかしたら警備会社の人間に恨まれて、システムを切られていたなんてあり得るかもな。
「犯行時間の推定は?」
山田刑事が質問した。その声には春野への苛立ちがまだ残っているようだが、職業的な関心の方が勝っているらしい。
「死亡推定時刻は午後十一時から午前一時の間。犯人は最低でも二時間、おそらくそれ以上の時間をかけて『作業』を行ったと思われます」
作業——斎藤の配慮なのだろう。端的に言うと拷問だ。二時間か。丁寧な仕事だ。
「現場のメッセージについて説明します」
斎藤がレーザーポインターで壁の写真を指した。リビングの白い壁に、血で大きく「悪に報いを」と書かれている。文字は震えていない。むしろ、丁寧に、ゆっくりと書かれたような印象を受ける。犯人は興奮状態ではなく、冷静に、確実にメッセージを残したのだろう。それに少しではあるが折り鶴があるのが分かる
「以前発生した
香水も撒かれているのか。確かに、公正忠裁判官が殺された時と同じような内容だ。あの時も折り鶴や香水が現場にあったはずだ。
「捜査一課の方が神山警察署に来た理由は、この光崎一家惨殺事件との関連性の高さからですね。光崎一家惨殺事件の捜査資料は神山警察署内に保管されていますから」
「ああ、だから
「ええ、前回の事件の際に色々と手伝っていただきましたので。それと個別に捜査協力をお願いしたいことが」
個別に捜査協力という斎藤の言葉に胸がツンと痛くなる。また、面倒事か。この事件の内容で俺達にやれることなんかあるのか?
「そして、これが最も重要な点です」
斎藤が証拠品の写真を次々とテーブルに並べる。権藤昇の書斎だ。高級な革張りの椅子、壁一面の本棚、重厚な木製の机。政治家らしい威厳のある空間。おかしいのは大量の血痕があちらこちらに付着しており、色合いが変わっていることだ。
「権藤昇の遺体は、この書斎で発見されました。椅子に縛り付けられた状態で」
机の写真が拡大される。その上には、いくつかの物が整然と並べられていた。
「そして、机の上には……これらの物が置かれていました」
斎藤が最初の写真を示す。開かれたノート。机の中央に、まるで展示するように置かれていた。
俺は写真を覗き込んだ。ページには几帳面な字で記録が並んでいる。
『光崎家事件裁判対策』という見出しの下に、日付と金額が箇条書きで並んでいた。弁護士への着手金および成功報酬八百万円。関係者との会食六十八万円。情報収集費用四十五万円。そして和解金五十万円。最後に『判決無罪確定』と締めくくられている。
春野が身を乗り出した。
「これ、裁判に不正に手を回したってことですか?」
「そう見ることも出来ます」
斎藤が頷いたが、その表情には困惑が浮かんでいる。会議室の空気が微妙に重くなった。誰かが小さくため息をつく音が聞こえた。皆が同じことを考えているのだろう。光崎一家惨殺事件の際も、警察組織内ではずっと噂されていた。その司法介入の証拠品が出てきていると見るのが自然だろう。
「しかし、筆跡鑑定の結果は『権藤昇本人のものに類似しているが、断定できない』とのことです」
「偽造の可能性を追っているのか?」
俺が聞くと、斎藤は別の角度から撮影された写真を示した。
「可能性はあります。特に気になるのは、このノートの状態です。ノート自体は新品に近い。使い込まれた痕跡がほとんどありません」
確かに、写真で見る限りノートの背表紙は真っ直ぐで、ページの端も折れていない。日常的に使われていたものには見えない。
「そして、机の中央に、開いた状態で置かれていました」
斎藤が現場写真をもう一度指差す。
「まるで、誰かに見せるために置かれたみたいですね」
俺はノートの写真を見つめた。展示品のような配置。犯人は権藤昇が司法介入をしたという物語を作ろうとしているのか。それとも、これは物語ではなく事実なのか? あまりにも生々しい数字。偽造にしてはリアルすぎる。
「実は……これはオフレコなんですが」
斎藤が声を落とした。周囲を気にするように視線を巡らせてから、資料をテーブルに置いた。手書きのメモだ。正式な書類ではない。
「事件発生直後、警察の上の方で銀行の役員と直接接触したんです。正式な令状を出す前に」
「それって……」
春野が眉をひそめた。
「令状無しで聞いちゃったってことですか? マズくないですか?」
「完全にアウトです」
斎藤が苦笑いする。
「だから、これは証拠能力ゼロ。あくまで『捜査の参考情報』として、銀行側が個人的に教えてくれた内容です」
俺は斎藤が見せてくれた銀行員の手書きメモを見た。几帳面な字で日付と金額が並んでいる。
・四月下旬に大口出金。金額は七百万から八百万程度
・五月中旬に出金。六十万から七十万程度
・六月上旬に出金。五十万程度
「銀行役員が口頭で流してくれた情報なので、正確な金額は分かりません」
斎藤が付け加える。
「これ、さっきのノートの金額と……」
「ほぼ一致しているように見えます」
斎藤が頷いた。
「ただし、これはあくまで『一致しているっぽい』というだけです。正式な捜査令状を取得次第、銀行の正式な記録と照合します」
「いつ令状が取れる?」
俺が聞くと、斎藤が資料を確認した。
「早ければ明日。遅くとも週明けには。そうすれば、正確な金額、振込先、取引の目的も全て確認できます」
「つまり、現時点では……」
「現時点では『怪しい』としか言えません」
春野が混乱した顔をする。
「でも、タイミングが一致してるなら、このメモは本物ってことじゃないですか?」
「断定はできません」
斎藤が首を振った。
「仮に出金記録が正確だったとしても、高額な弁護士費用や会食費用、それ自体は違法じゃありません。息子を助けたい父親が大金を使うのは、むしろ自然なことです」
確かに、そうだ。息子が人殺しでも関係ないんだろう。親ってのは。
「つまり……」
俺が口を開いた。
「このメモ帳は、権藤昇の実際の金の流れを『誰かが知っていて』、それを元に作った可能性がある」
斎藤が頷いた。
「そういうことです。完全な偽造ではない。しかし、本物とも断定できない。そして仮に本物だったとしても、それが犯罪なのか、単なる高額な正当経費なのかも分からない」
春野がノートを見つめながら呟いた。
「じゃあ、権藤昇は悪人だったんですか? それとも……」
誰かが小さく「決まってんだろ」と呟いた。山田刑事だったかもしれない。
「分かりません」
斎藤が資料を閉じた。
「それが、この事件の一番厄介なところです」
斎藤の声には感情がなかった。いや、正確には——あえて感情を排除しているようだった。彼にとって重要なのは、権藤昇が悪人だったかどうかではない。今回の殺人犯を捕まえることだ。プロとして、それだけを見ている。
「……以上が現場の状況です」
誰も質問しなかった。普通なら「本当に権藤が?」とか「偽造の可能性は?」とか、そういう声が上がるはずだ。
でも、誰も権藤昇の悪事を疑わなかった。全員が、当然のように頷いていた。斎藤が一瞬、会議室を見回した。何かを測るような目だった。
「……すみません、少し話しすぎました。ここから先は捜査本部の管轄なので」
誰かが咳払いをした。妙な空気だった。皆、聞きたかったのか、話したかったのか、よく分からない顔をしていた。俺も含めて。一旦、話を切るという空気。そんな流れを感じ取った。
「
気づいたら口を開いていた。次の話に進むという空気を読めなかった。読む気が起きなかった。
「無事なのか」
斎藤がこちらを見た。
「……ええ。息子の真澄さんは無事でした。殺害されたのは権藤昇と、その妻のみです。真澄さんは権藤昇が殺害される時に現場で拘束されていたそうです」
「あれ? なんで被害者の人数を最後に言うんですか?」
春野が首を傾げた。
「普通、最初に言いません? 奥さんも殺されていて、実際死んでるのが二人? しかも息子さんが現場にいたって——それが一番重要じゃないですか? 僕ずっと犯人像考えてたのに。目撃者いるなら全部やり直しじゃないですか。」
斎藤が軽く頷いた。
「……申し訳ありません。
「ああ、そうですか」
春野はあっさり引き下がった。
「権藤真澄は、どこの病院だ」
斎藤の手が止まった。
「……それは、捜査に必要な情報ですか?」
会議室の空気が微妙に変わった。山田刑事がこちらを見た気がした。
「いや」
俺は腕を組んだ。
「今後、被害者遺族への接触が必要になる可能性がある。光崎への聞き込み調査をやってる以上、関係者の所在は把握しておきたい」
自分でも筋が通っていると思った。住民問題対応班として、地域の関係者を把握するのは業務の一環だ。斎藤は数秒黙っていた。何かを測るような目だった。
「……横浜の青葉台中央病院です。ただ、面会は当面禁止と聞いています」
「分かった」
俺は頷いて、会議に意識を戻した。青葉台中央病院。横浜。面会禁止。情報が頭の中に収まった。それだけだった。俺は会議室の壁に貼られた事件の相関図を見た。光崎家事件を中心に、複数の線が伸びている。公正忠裁判官、権藤昇、そして今回の犯人。全てが繋がっているように見えて、実際には何も分からない。
「北島さん、少しお時間をいただけませんか?」
捜査会議が終わり、刑事たちがまばらに散っていく中、斎藤が俺と春野を残すよう声をかけた。蛍光灯の白い光の下、テーブルに散らばった資料が事件の複雑さを物語っていた。
春野は相変わらず無関心な様子で、退室する先輩たちに一瞥もくれない。あれだけ捜査一課に憧れていると言っておきながら、この態度は何なんだ。
他の刑事が完全に去ると、斎藤はドアを閉めた。
「個別にお話したい内容になります」
斎藤は椅子に深く座り込み、手を組んで俺を見つめた。
「実は……その、最近なんですが。この街の雰囲気、おかしくないですか?」
たどたどしい斎藤の言葉に朝の体験が蘇る。コンビニの店員、駅前の集団、タクシーの運転手。全員が「権藤昇」の死を喜び、「正しさ」を叫んでいた。
「おかしいって……どういう意味ですか?」
「住民トラブルの通報件数、先月から三倍に増えてます。しかもその内容が『隣人が社会正義に反する行動をしている』『正義の執行が必要』全部、こんな言葉遣いなんです」
確かに、最近対応した住民トラブルも同じような言葉遣いだった。正義、正義、正義。うんざりする。集団ヒステリーでも起きているのだろうか。
「それが光崎さんと関係あると?」
「……分かりません。でも、何かが確実に起きてる」
斎藤が躊躇してから、話題を変えた。
「それで……北島さんにお願いがあるんです」
声を落とす。
「実は三年前、清水さんが光崎家の現場から何かを持ち出すのを目撃したんです。それを探してほしいんです」
俺の体が硬直した。
「何を?」
「分かりません。小さな何かを、胸ポケットに……」
清水。あの男の名前を聞くだけで、清水さんは正しいと思います。胃の奥が重くなる。
「なぜ今になって?」
「当時は見て見ぬふりをしました。清水さんは目上の方でしたし」
斎藤が申し訳なさそうに言った。三年間黙っていて、今さらか。清水が死んでから三年。その間ずっと知っていて、何も言わなかったということだ。
「でも今思えば、それが今回の事件の鍵になるんじゃないかって」
「正式な捜査令状を取れば……」
「それができないんです」
斎藤が首を振った。言われなくても分かる。拳銃自殺した刑事が、事件現場から証拠品を盗んでいた。これを公式に調査すれば、メディアが黙っていない。「警察の不祥事」「隠蔽か」と騒ぎ立て、清水の遺族に押しかける。そんな簡単な想像ができる以上、組織は絶対に動かない。
清水の妻と息子の顔が浮かんだ。葬式で泣き喚いていた、あの顔。勝手に死んだのは清水の方なのに、まるで俺が殺したみたいな目で見やがって。正義感の強い方でした。思い出すだけで胸糞が悪い。
「だから、表向きは別の名目で動いてほしいんです」
斎藤が資料を開いた。
「清水さんが応援派遣された事件を確認してください。練馬署、杉並署、中野署……光崎家事件の前後半年、清水さんは各署の捜査本部で捜査に関わっていました」
斎藤が地図を広げる。都内の複数の警察署に印がついている。
「証拠品は各署の倉庫に分散して保管されています。『権藤昇事件との関連性調査』という名目で、各署を回ってください。山田刑事の許可も取っています」
なるほど。表向きは関連性調査、本当の狙いは清水が持ち出した物を探す。面倒な話だ。
「もし何か見つかったら……それが清水さんの最後の願いかもしれません」
清水の最後の願い。知るか、そんなもの。勝手に死んでおいて、最後まで面倒をかける男だ。その時、春野が手を挙げた。
「すみません、質問があります」
斎藤が春野を見た。
「三年前に清水刑事が持ち出したものが、今の権藤昇殺害事件と関係あるんですか? 時系列的に全然繋がらないと思うんですけど。何かが見つかったところで意味がないような」
春野の指摘は的確だった。確かに、三年前の光崎家事件と、今回の権藤昇殺害事件。直接的な関係性は見えない。三年前の怨恨が元になっているからといって、三年前に盗んだ証拠品が今回の殺人事件の証拠品にはなりえないだろう。何かが見つかったところで何も起きない。それとも光崎一家惨殺事件の裁判をやり直しさせるのか? 権藤真澄を追い詰める裁判を。
斎藤が困ったような表情を浮かべた。
「……正直に言います。論理的には説明できません」
斎藤が資料を閉じた。
「でも、嫌な予感がするんです。この街の異常な雰囲気、そして清水さんが最後に守ろうとしたもの。全部が繋がっている気がする」
「気がする、ですか」
春野が首をかしげた。
「ええ。刑事の勘です」
斎藤が自嘲的に笑った。刑事の勘か。大した勘だ。三年間黙っていて、今さら「嫌な予感がする」とは。
「……分かりました」
俺は答えた。清水が何を持ち出したのか。それが分かれば、あいつが何を考えていたのかも分かるかもしれない。どうせ、また余計なことをしていたんだろう。生きている時からそうだった。むしろ証拠品捜索をもとに事件の関与を避けれる。この流れから隠れることが出来る。そう考えれば断る理由もない。斎藤の表情に、安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます。本当に……」
「北島さん」
春野が口を開いた。
「本当に、いいんですか?」
珍しく、真面目な顔をしている。
「やるしかないだろ」
俺は答えた。春野は少し黙ってから、小さく頷いた。権藤真澄は精神病院にいる。逃げも隠れもできない。まあ、いつでも会いに行ける。俺は話を切り上げるように立ち上がった。
「それと……これは余談ですが」
斎藤が思い出したように言った。
「公正忠裁判官の自宅周辺の監視カメラ、覚えてますか。ノイズだらけで使い物にならなかったやつ」
「ああ」
「法条が逮捕された翌日、勝手に復元されてたんです。技術部は何もしてないのに。三台同時に、同じタイミングで」
斎藤の声には、困惑と恐怖が混じっていた。
「そうですか」
俺は答えた。正直、どうでもよかった。監視カメラがどうなろうと、権藤真澄が死んでくれるわけでもない。俺は会議室を出た。