一日目、神山署。神山署の証拠品倉庫は、地下にあった。カツカツと階段を降りるたびに、空気が変わっていく。地上の陽気が嘘のように、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。蛍光灯が低い音を立てている。ジジジ、という、虫の羽音のような不快な雑音が耳にまとわりつく。壁際にはいつ購入したのかも分からない除湿機が置かれている。まともに機能しているのか怪しいものだ。焼け石に水、警察署に除湿機。
「うわ、すごい量ですね」
春野が声を上げた。倉庫の中には、スチール棚が整然と並んでいる。その棚の上に、段ボール箱が積み上げられている。茶色い箱の群れが、蛍光灯の白い光の下で、どこまでも続いているように見えた。
「これが清水刑事の担当案件リストです」
春野が分厚いファイルを開いた。
「全部で……ええと、とりあえずいっぱいですね」
清水の警察官人生が、ここに凝縮されている。
「昔の案件に紛れ込ませてるんじゃないか、って斎藤が言っていたな」
「なるほど。最近の事件だと注目されるけど、昔の事件なら誰も見ない」
春野が頷いた。それから、ファイルを閉じて、倉庫を見回す。その顔には、場違いなほどの笑みが浮かんでいた。
「北島さん、これ宝探しみたいですね」
何を言っているのか分からない。
「僕、こういうの好きなんですよ。ピーポ君のレアグッズ探すときと同じ感覚です。どこかに絶対あるはずなのに、なかなか見つからない。でも、探してる時間が一番楽しいんですよね」
俺は目薬を差した。目が乾いている。この埃っぽい空気のせいだろう。
「片っ端から当たるしかないか」
「はい!」
春野が元気よく返事をした。俺の無反応など、気にした様子もない。最初の段ボール箱を棚から降ろす。ずしりと重い。物理的な重さか、それとも死んだ人間の残し物が入っていることを考えての精神的なものか。
箱の側面には、事件番号と日付がマジックで書かれている。八年前の殺人事件だ。ガムテープを剥がす。乾いた音が倉庫に響く。中には、ビニール袋に入った証拠品が並んでいた。
被害者の財布。運転免許証が入ったままだった。写真の男は、三十代後半。俺より少し若い。この男には家族がいたのだろうか。妻。子供。両親。証拠品リストを見る。
「犯人:逮捕、起訴、懲役十八年」と書かれていた。八年前だから、あと十年で出てくる。この財布の持ち主を殺した男が、十年後には娑婆に戻る。まともに服役していれば、刑期よりも早く出れるもんだが、この手のクズどもがまともに服役するなんてことはない。報われん話だ。被害者は永遠に三十代のままなのに、コイツは時間を堪能できると。大した努力もせず、人を殺すクズのためにまともな人間が犠牲になるとはな。
「北島さん、これ見てください」
春野が隣の箱から何かを取り出した。古びたビニール傘だった。拾得物として保管されていたらしい。
「この傘、ピーポ君柄ですよ。珍しくないですか?」
薄れた印刷で、確かにピーポ君らしきキャラクターが描かれている。
「関係ない」
「でも、もしかしたら清水刑事もピーポ君好きだったのかも——」
「関係ない」
俺は次の箱を開けた。春野は「そうですか」と言って傘を戻したが、その声に落胆の色はなかった。次の箱。また殺人事件。被害者は女性。二十八歳。写真が残っていた。笑顔の写真。日常の一枚。もう二度と笑うことのない顔。犯人は無期懲役。なぜ死刑ではないのか。檻に閉じ込め続けるのであれば殺してしまうのが税金のためだろうに。
しばらく探しても何も見つからない。当然だ。清水が素直に証拠を残すはずがない。現場から盗んだのであれば、必死に隠したのだろう。
三時間が過ぎた。
蛍光灯の音が、頭の中にこびりついている。ジジジ、ジジジ。古臭い、カビ臭い。除湿機のモーター音が低く唸っている。段ボールの埃が喉に絡みつく。
「北島さん、休憩しません?」
春野が声をかけてきた。
「……ああ」
倉庫を出て、階段を上がる。地上に出ると、昼下がりの光が眩しかった。地中深く長く、モグラのように捜索をしていた体に、風が当たる。不愉快な風が。春と夏の境目、季節の変わり目を報せるこの湿気。不愉快。
俺は自販機でコーヒーを買った。ボタンを押す。ガコン、という音。冷たい缶を握る。春野はカフェオレを買っていた。
「北島さん、今日中に終わりますかね?」
「無理だろうな」
「ですよね」
春野がカフェオレを啜る。その横顔は、相変わらず楽しそうだった。何も考えていない顔だ。殺人事件の証拠品を漁っていたことなど、もう忘れているんだろう。
倉庫に戻る。また段ボールを開ける。中身を確認する。被害者の遺品。犯人の所持品。血痕のついた衣類。人生の残骸。証拠品には返却に関する規則がある。でもここに残り続けている。遺族が拒否したのか、運用ルールの徹底がなされず、そのまま放置されているのか。被害者は報われるのか。
何も見つからない。次の箱を開ける。何も見つからない。
夕方になった。窓のない地下では、時間の感覚が曖昧になる。腕時計を見て、もう六時を過ぎていることに気づいた。
「今日はここまでにするか」
「はい。お疲れ様でした!」
春野がファイルを閉じる。
「明日は杉並署ですね。楽しみです」
楽しみ。この男は本気でそう言っている。俺には理解できなかった。
練馬署を出る。外はもう暗くなり始めていた。風が、汗ばんだ首筋に冷たい。
「北島さん、明日からも頑張りましょうね」
春野が手を振って、駅の方へ歩いていく。
俺は何も答えなかった。
三日目。杉並署の証拠品倉庫は、練馬署よりも新しかった。それでも、匂いは同じだった。埃と湿気と、古い紙の匂い。
段ボールを開ける。中には、二十年前の殺人事件の証拠品が入っていた。被害者の財布。中身はそのままだった。運転免許証。写真の男は、四十代くらいに見える。俺と同じくらいの年齢だ。
この男には家族がいたのだろうか。妻は。お父さんを殺した。子供は。
証拠品リストを見る。「遺族への返却:未」と書かれていた。十年経っても、誰も取りに来ていない。忘れられたのか。それとも、思い出したくないのか。
犯人の名前が目に入る。懲役十五年。もう出所しているはずだ。どこかで普通に暮らしている。この財布の持ち主を殺した男が。被害者の家族が遺品を取りに来ることすらできないでいる間に、犯人は社会に戻って、普通に生きている。
俺は財布を箱に戻した。
「北島さん、これどう思います?」
春野が古い携帯電話を持ち上げた。ガラケーだ。もう動かないだろう。
「……何が」
「この携帯、ストラップがピーポ君なんですよ。やっぱり清水刑事、ピーポ君好きだったんじゃ——」
「被害者の遺品だ」
俺は春野を遮った。
「……あ」
春野が携帯電話をそっと箱に戻した。珍しく、少し気まずそうな顔をしている。
「すみません」
「……いい。続けろ」
俺は次の箱を開けた。
五日目
目が痛い。充血している。目薬を差しても、すぐに乾く。倉庫の空気が悪いのだ。
「北島さん、目、真っ赤ですよ」
「……ああ」
「大丈夫ですか?」
「問題ない」
段ボールを開ける。今日の箱には、強盗殺人事件の証拠品が入っていた。
被害者は若い女性。二十三歳。写真がある。笑っている。どこかの観光地で撮った写真だろう。後ろに海が見える。この写真を撮ったのは誰だろう。恋人か。友人か。家族か。
犯人は無期懲役。でも、日本の無期懲役は仮釈放の可能性がある。この男には娑婆に出て人間に戻るチャンスが残っている。被害者は永遠に二十三歳のまま。火葬場で燃やされた。
権藤真澄は今頃、病院のベッドで寝ているんだろう。三食付き。看護師が世話をしてくれる。精神を病んだ可哀想な被害者として。光崎の妻と娘を殺した男が、被害者面をしている。俺は埃まみれの倉庫で段ボールを漁っている。
「北島さん、これ見てください」
春野が何か言っている。俺は聞いていなかった。
七日目。腰が痛くなってきた。中腰で段ボールを漁る姿勢が、四十五歳の身体には堪える。立ち上がるたびに、背骨が軋む音がする。
今日は三件分の証拠品を確認した。殺人、殺人、傷害致死。
どの箱にも、被害者の遺品が入っていた。財布。携帯電話。鍵。日常の欠片。突然奪われた人生の残骸。
一つの箱に、子供の靴が入っていた。小さな、赤い靴。サイズは十五センチくらいか。事件ファイルを確認する。被害者は五歳の女児。犯人は近所の男。懲役二十年。五歳。光崎の娘より少し幼い年齢だ。
この子の親は、今どうしているだろう。二十年後、犯人が出所してきたとき、何を思うだろう。清水さんは間違っていない。光崎は三年で限界を迎えた。二十年も待てるはずがない。俺は赤い靴を箱に戻した。
「北島さん、休憩しません? もうお昼ですよ」
春野の声が、遠くから聞こえる。
「……ああ」
十日目
指先が乾燥して、段ボールを開けるたびに引っかかる。ガムテープを剥がすと、皮膚が一緒に持っていかれそうになる。
「北島さん、絆創膏いります?」
春野が救急セットを差し出してきた。
「……いや」
「遠慮しないでくださいよ。僕、いつも持ち歩いてるんです。ピーポ君の絆創膏」
見ると、確かに絆創膏にピーポ君がプリントされていた。
「……いらん」
「そうですか? 可愛いのに」
春野は残念そうでもなく、いつもと同じ顔で救急セットをしまった。
段ボールを開ける。また殺人事件。被害者は主婦。三十五歳。夫と子供が二人いた。遺品の中に、手帳があった。開くと、子供の学校行事の予定が書き込まれていた。運動会。授業参観。遠足。もう何年も前の予定だ。この人は、これらの行事に参加できなかった。
犯人は強盗目的の男。懲役二十五年。あと十年で出てくる。
子供たちは成長しただろう。お父さん。母親の顔を覚えているだろうか。声を覚えているだろうか。光崎も同じことを考えているのかもしれない。清水さんは、間違っていない。清水さんは、間違っていない。妻と娘の声を、顔を、忘れないように必死に——
痛みで思考が止まる。指先がひび割れていた。血が滲む。清水は何を隠したんだ。遺品か、証拠か。そんなもの、今さら見つかったところで何になる。
光崎の家族は死んだ。権藤真澄は生きている。無罪判決。反省なし。法律は何も解決しなかった。警察も、検察も、裁判所も。清水はそれを分かっていたのかもしれない。だから死んだのか。もう救えないと悟って。俺は違う。それなら、法律以外の方法で——
「北島さん、お昼にしません?」
春野の声で、思考が途切れた。
「……何でもいい」
「じゃあ、ラーメンにしましょう。この近くに美味しいラーメン屋さんがあるんですよ」
春野が楽しそうに言った。俺は何も答えなかった。
十二日目。
今日も殺人事件の証拠品を漁った。何件目か、もう数えていない。
被害者の遺品を見るたびに、同じことを考える。この人の家族は。犯人は今どこに。反省しているのか。していない。権藤真澄も反省していない。法廷で笑っていたと聞く。無罪判決を聞いて、弁護士と握手していたと。傍聴席の光崎を、一度も見なかった。清水は間違っていない。あの男は今、病院にいる。両親が拷問される様子を見て、精神を病んだ。因果応報だ。でも、足りない。両親が死んだだけだ。本人は生きている。清水は間違っていない。光崎は妻と娘を殺された。権藤真澄は両親を殺された。同じ——いや、同じじゃない。光崎は何も悪いことをしていない。権藤真澄は人を殺した。父親の権藤昇は司法に介入した。天罰が下ったのだ。なのに、光崎は三年間苦しみ続けて、俺は左遷されて、権藤真澄は病院で保護されている。清水は間違っていない。清水は間違っていない。清水は間違っていない。
法で関われないのなら、法以外で関わるしかない。
「北島さん、今日のお昼休憩いつ取ります?」
「……何でもいい」
段ボールの中を見る。十五年前の事件。被害者は主婦。四十二歳。夫と子供が二人。遺族はどうしているだろう。夫は再婚したか。子供たちは成長したか。母親を殺した男のことを、まだ覚えているか。
いや、忘れられるはずがない。光崎も忘れていない。三年経っても。妻と娘を殺した男のことを。俺も忘れていない。清水のことを。勝手に死んだ、あの男のことを。忘れられるはずがない。忘れてはいけない。
「北島さん?」
春野が覗き込んできた。俺は箱を閉じた。
「……カレーでいい」
「え、僕カレーなんて言ってないですけど」
「じゃあ何でもいい」
十四日目。最後の署。
俺は開けた箱の数を数えるのをやめていた。数えても意味がない。どうせ何も出てこない。
「北島さん、これで最後ですね」
春野が最後の段ボール箱を棚から降ろした。俺はガムテープを剥がした。乾いた音。中には、古い書類の束が入っていた。事件の調書。証拠品リスト。どれも、光崎家事件とは無関係なものだった。
「……何もないな」
「そうですね」
春野が箱の中を覗き込む。ふっとため息を付いてから俺の方を見て、微笑む。
「でも、僕は楽しかったですよ。北島さんと色んな署を回れて」
俺は春野を見た。この男は何も分かっていない。分かる必要もないのかもしれない。二週間、殺人事件の証拠品を漁り続けた。被害者の遺品を見て、犯人の行方を調べて、遺族の苦しみを想像した。
春野には関係ない話だ。清水も、光崎も、権藤真澄も。この男の世界には存在しない。
権藤真澄。
あの男は今も生きている。病院で。三食食べて、ベッドで寝て、生きている。それを許している世界がある。俺はその世界で働いている。この醜い世界で。生きながらえる意味があるのか、へらへらと笑って。
「……神山署に戻るか」
俺は立ち上がった。お父さん