その日の夜、神山署に戻れたのは夜九時を過ぎた頃だった。既に事務室には誰もいない。蛍光灯が白々しく光っている。白と黒のコントラストが強い。事務室の色味が極端だ。視界の端は黒く、蛍光灯の光が照らされているところは白飛びしている。
事務室は静かだった。無音。窓の外は暗い。春野は先に帰った。「お疲れ様です」と言って。いつもと同じ声で。いつもと同じ顔で。
俺は一人だった。椅子から立ち上がる。足が重い。二週間の疲労が、今になってのしかかってくる。机の上には、清水の担当案件リストが広げられたままだった。
駄目だ、帰れない。俺は再び、椅子に座る。二週間。大量の案件。無数の段ボール箱。被害者の遺品。犯人の記録。遺族の沈黙。全部同じ。同じような物の繰り返し。なにもない、通常の遺品。面白みもない。
そして、何も見つからなかった。斎藤に報告しなければならない。「何も見つかりませんでした」と。二週間かけて、休日も返上して、それでも何も。
机の上のリストを見る。清水の名前が、何度も出てくる。担当刑事:清水。担当刑事:清水。担当刑事:清水。お前のせいで俺は。
目を閉じた。
なぜ俺がここにいる。
住民問題対応班。ゴミ出しのトラブル。騒音の苦情。猫の糞。隣人が気に食わない。町内会費を払わないやつがいる。カラスがゴミを荒らす。犬の鳴き声がうるさい。毎日毎日、同じような電話が鳴る。同じような顔をした住民が来る。同じような愚痴を聞かされる。救うべき必要のないゴミどもが、俺の時間を奪う。警察署内部でも軽んじられる。嫌な仕事を代わりにやれと。背中を預け合うべき仲間が、俺を侮辱する。
これが俺の仕事か。
違う。俺は刑事だった。警視庁の、警視庁捜査一課の。
子供の頃からなりたかった。悪いやつを追い詰める刑事。銃を構えて、犯人に迫る。「お前を逮捕する」かっこよかった。正義の味方だった。
あれになりたいと思った。
子供の頃、俺は臆病だった。体が小さかった。クラスで一番前の席。背の順で並ぶと、いつも先頭。夜中にトイレに行けなかった。廊下が暗いのが怖かった。母親を起こして、ついてきてもらっていた。小学三年生まで。学校では高学年の生徒が怖かった。廊下ですれ違うだけで体が強張った。目を合わせないように、壁際を歩いていた。
父親にバカにされた。「男のくせに情けない」と。「お前は俺の息子か」と。そんな俺が「刑事になりたい」と言った。笑われた。腹を抱えて笑われた。
「お前が? トイレにも一人で行けないお前が?」
悔しかった。見返してやると思った。強くなってやると思った。
違う。俺は違う。
誰よりも勉強した。誰よりも部活に励んだ。同級生が遊んでいる間もずっと走ってきた。夏休み。冬休み。みんなが遊び回っているときに、俺は机に向かっていた。
大学は法学部に入った。周りの奴らは遊んでばかりだった。講義にも来ず、酒を飲んだくれて中退して。俺だけが、俺だけは違った。警察官になる。刑事になる。捜査一課に入る。それだけを考えていた。警察官採用試験。一発で受かった。当然だ。誰よりも準備した。
でも、そこからが長かった。交番勤務。最初の配属。繁華街の小さな交番。
道を教えれば「説明が下手だ」と吐き捨てられる。酔っ払いを介抱すれば「俺は東証一部上場企業の部長だぞ。低学歴が」と胸ぐらを掴まれる。財布をなくしたと喚き散らした男は、見つかったと伝えても礼の一つも言わずに去っていく。親切に対応すれば「暇なんだな」と鼻で笑われる。ストーカー被害を涙ながらに訴えていた女は、翌週、別の男につきまとった容疑で捕まった。税金泥棒。死ね。税金泥棒。死ね。狂ったように吐かれた。
これが警察の仕事か。違う。俺がやりたいのはこれじゃない。
我慢した。
三年。長い三年だった。毎日同じことの繰り返し。朝起きて、交番に行って、くだらない相談を聞いて、夜になって、帰って、寝る。週末も呼び出される。逮捕術の訓練、柔道の訓練。訓練なんて名ばかりでただのシゴキだ。休みなんかない。仕事のうっぷんを晴らすために、先輩にマットに叩きつけられて、ゲボを吐いて。訓練ではなく、ただのサンドバッグ。いじめ用の肉袋だ。
同期が辞めていった。「割に合わない」と。「思っていたのと違う」と。俺は続けた。
ある日、本署勤務になった。異動だ。少しはマシになると思った。甘かった。交番から上がってくる届出書類の山。終わらないデータ入力。それでも電話は鳴る。隣人の騒音がうるさい。不審者を見た。猫がいない。同じだった。クズどもの声が直接届くか届かないか、それだけの違いだった。
我慢した。
五年。
刑事課に異動願いを出し続けた。毎年毎年。却下され続けた。「まだ早い」と。「経験を積め」と。何の経験だ。猫探しの経験か。それとも首吊り自殺した遺体をロープから下ろす経験か。
我慢した。
やっと刑事課に配属された。三十二歳だった。遅かった。
でも、嬉しかった。
初めて刑事になれた日のことを覚えている。鏡の前に立った。俺は刑事だ。やっとなれた。嬉しくて、親にも連絡して。休みを合わせて、家族みんなで外食を。俺を馬鹿にした父親だって、その時ばかりは俺のことを、カッコいいと、カッコいいと、何度も何度も。酔いに任せて。それが嬉しくて、嬉しくて。この時のために実績を積んで、上に認めてもらって、やっと研修に行かせてもらえたんだ。土日を削ってずっと頑張ってきた。
でも、それからも我慢の連続だった。先輩刑事の鞄持ち。書類整理。聞き込みの下働き。書類仕事や雑用ばかり。でも違った。これは「刑事の雑用」だった。意味があった。現場に近かった。
所轄で刑事をしていたらもっともっと欲が湧いてきた。捜査一課に行きたい。凶悪犯罪を扱いたい。殺人犯を追い詰めたい。大きな捜査に関わりたい。
勉強を続けた。仕事が終わってから、法律を学んだ。休みの日は、過去の事件記録を読み漁った。捜査一課の刑事に話を聞きに行った。何が必要か。どうすれば行けるか。
検挙率を上げた。どんな小さな事件でも手を抜かなかった。痴漢。窃盗。詐欺。全部、全力でやった。
六年かかった。
捜査一課への異動が決まったとき、俺は三十八歳だった。
長かった。でも、辿り着いた。
初めて捜査一課の部屋に入った日のことを覚えている。大きな部屋だった。先輩刑事たちが忙しそうに動き回っていた。そして課長に呼ばれ、バッジを渡された。噂では知っていた。捜査一課の赤いバッジ。その場で付けろと言われ、付けたときには泣きそうだった。
子供の頃からの夢、ここが俺の居場所だ。
殺人事件を担当した。本物の殺人事件。被害者がいて、犯人がいて、動機があって、証拠がある。テレビで見たのと同じだった。いや、もっと生々しかった。もっと重かった。もっともっと複雑だった。
やりがいがあった。
被害者の遺族に報告に行った。「犯人を捕まえました」。遺族が泣いた。「ありがとうございます」と言われた。頭を下げられた。
俺は正しい側にいる。悪いやつを捕まえる側。被害者を守る側。正義の側。
ずっとそう思っていた。
全部失った。
清水が死んだからだ。
俺の部下。年下。若くて、真面目で、正義感が強かった。俺とは違う。ほとんどストレートに捜査一課まで来た。優秀なやつ。
光崎家事件。清水は遺族に感情移入した。俺は止めた。「地域課の仕事だ」と。余計なことをするな、と。手順を守れ、と。
清水は聞かなかった。
勝手に動いて、勝手に調べて、勝手に遺族に寄り添おうとした。政治的圧力があった。権藤昇。国会議員。息子の犯罪を揉み消そうとしていた。
無罪判決が出た。
清水は絶望した。二週間後、拳銃で自分の頭を撃ち抜いた。
俺のせいじゃない。
俺は正しかった。手順通りにやろうとした。余計なことをするなと言った。清水が聞かなかっただけだ。勝手に関わって、勝手に絶望して、勝手に死んだ。
迷惑な部下だった。最後まで。
管理責任を問われた。部下が自殺したんだから、上司の責任だと。左遷された。捜査一課から、住民問題対応班へ。
十年かけて辿り着いた場所から、一瞬で落とされた。
今は何だ。ゴミ出しのトラブル。騒音の苦情。猫の糞。最初の最初の下層。俺がやりたかったのはこれか。違う。俺はこんなことをするために警察官になったんじゃない。
俺は目を開けた。目に映る全てが敵だ。最初に視界に入ったのは書類。
力任せに机の上の書類に拳を叩きつける。これが、この書類が世の中に蔓延るクズどもを可視化した紙だ。俺を何年も侮辱してきた、クズどもの。
一度では晴れない、心に張り付いたゴミどもが吹き付けてきたこのカビが、取れない。何度も何度も拳を振り下ろす。これは暴力ではない、掃除だ。紙は折れ曲がる、シワが付く。でも簡単には破れない。切り裂くわけではない、殴っているだけでは穴すらあかない。殺したい、この紙を。金切り声を出したい衝動が全身を襲う。呼吸が、乱れて戻らない。酸素がこの世から消えたみたいだ。
二週間で見た証拠品が、脳裏に浮かぶ。財布。携帯電話。写真。手帳。赤い靴。全部、死んだ人間の持ち物だ。殺された人間の。そして、殺した人間たちは——刑務所にいるか、出所しているか、社会に戻っているか。普通に暮らしている。生きる価値のないクズどもが世界にのさばっている。権藤真澄は、権藤真澄だけが、罰を受けていない。光崎の妻と娘を殺して、無罪になって、今も生きている。病院で。保護されて。世界がおかしい。
お父 さん
声が 聞 こえる。誰かが誰 かが俺を呼んでいる。
廊下に出る。
蛍光灯が点滅している。チカチカと、不規則なリズムで。廊下は長く、暗い。夜の警察署は、昼間とは違う顔を見せる。歩く。足音が響く。コツ、コツ、コツ。自分の足音だけが、廊下に反響している。でも足音が二重に聞こえる。まるで俺の真後ろに人がくっついて歩いているような。誰かに見張られているような。
権藤真澄は精神病院にいる。面会には許可がいる。でも、警察手帳を見せれば通る。今、行けばいい。面会の手続きは簡単だ。書類を書いて、許可をもらって、病室に入る。それだけだ。
廊下を歩く。足が勝手に動いている。
権藤真澄。三年前、光崎の妻と娘を殺した男。無罪判決。反省なし。被害者の体内から権藤真澄のDNAが検出されている。犯行は確定。ヤツは笑っていたと聞く。法廷で、笑っていたと。二週間、殺人犯たちの記録を見続けた。懲役十五年。懲役二十年。無期懲役。
権藤真澄は、懲役ゼロ年。
子供の泣き声が聞こえる。ずっとずっとずっと、泣き止まない。
廊下の奥から聞こえる。深夜の警察署。当直の誰かがいるはず。でも廊下の先は真っ暗だ。何も見えない。その先から、廊下の先から子供の泣き声が。気が、気が狂いそうだ。この泣き声を止めないと、殺さないと。俺が。
そうだ、清水の葬式に行ったんだ。
葬儀場の駐車場に車を停めた。エンジンを切った。切ってから、動けなかった。ハンドルを握ったまま、フロントガラスを見ていた。曇っている。俺の息で曇っている。今は春、春のはずだ。
手が震えていた。
行かなければならない。部下の葬式だ。上司として、行かなければならない。俺が行かないわけにはいかない。俺の部下だ。俺の。
受付で名前を書いた。自分の名前が書けなかった。一画目で手が止まった。北の字。何度も書いた字。書けない。ペンを握り直した。震えている。後ろに人が並んでいる。早く書かないと。汗が出てきた。額から。背中から。冷たい汗。
なんとか書いた。自分の字じゃなかった。子供が書いたような字だった。
香典を渡した。汗で湿っていた。受付の女性が眉をひそめた。汚いものを見る目だった。
会場に入った。
線香の匂い。甘い匂い。重い匂い。煙が漂っている。空気が違う。生きている場所の空気じゃない。死んだ人間を送る場所の空気だ。
参列者が座っていた。黒い服。黒い服。黒い服。全員が黒い。当たり前だ。葬式だ。でも、その黒さが目に刺さった。
俺を見た人がいた。
捜査一課の人間だ。同僚だ。俺を見た。
あいつが清水を殺したんだ
別の人間も俺を見た。首を振った。
上司のくせに何もしなかった
誰かが咳払いをした。わざとだった。俺に聞こえるように。
部下を見殺しにした男
俺は歩いた。歩くしかなかった。
最前列に、清水の家族がいた。
妻が座っていた。俺は清水の妻を知っている。捜査一課の忘年会で、一度だけ会ったことがある。よく笑う人だった。清水の横で、ずっと笑っていた。
今は笑っていない。
猫背になっていた。うつむいている。泣いていなかった。涙が枯れたのか。それとも、泣いている姿を見せたくないのか。顔が強張っていた。唇が白かった。血の気がなかった。
俺を見た。
目が合った。
あなたが殺したのね
唇が動いた。声は聞こえなかった。でも読めた。はっきりと読めた。
見ていられなくて、視線を外す。視線の先には清水の息子がいた。
小さな男の子。妻の隣に座っていた。五歳。清水が言っていた。「息子が来年小学校なんですよ」と。嬉しそうに言っていた。ランドセルを見に行くとも言っていた。
喪服が大きかった。袖が余っていた。肩が落ちていた。裾が椅子の座面に擦れていた。サイズが合っていない。急いで買ったのだ。あの妻が、葬儀までの間で、泣きながら買いに行ったのだ。息子の手を引いて。「お父さんのお葬式に着る服を買わないと」と言い聞かせながら。
俺は何をしていた。
書類を書いていた。報告書を書いていた。部下が自殺した件についての報告書を。状況説明を。
焼香の列に並んだ。前の人が進む。また一人。また一人。祭壇が近づいてくる。
近づきたくなかった。
遺影が見える。清水が笑っている。若い写真だ。二十代の頃か。俺と組む前の顔だ。希望に満ちた顔だ。これから刑事として活躍するんだという顔だ。
俺がその希望を。
いや、違う。俺は関係ない。コイツが勝手に死んだんだ。
また一人、前に進む。俺の番が近づいてくる。遺影が近づいてくる。清水の顔が近づいてくる。
前に並んでいた男が振り返っていた。知らない顔だった。清水の親族か。
あんたが清水を見殺しにしたのか
俺は何も言えなかった。男は前を向いていた。
最前列の横を通った。
息子が見えた。
泣いていた。
声を出さずに泣いていた。小さな肩が震えていた。両手で顔を覆っていた。指の隙間から涙が溢れていた。妻が息子の肩を抱いていた。その手も震えていた。
俺は目を逸らした。
焼香台の前に立った。
遺影が俺を見ていた。清水が笑っていた。あの日、俺に言った顔が浮かんだ。「でも、光崎さんは一人なんです」俺は何と答えた。「お前の仕事じゃない」と言った。「地域課に任せろ」と言った。「余計なことをするな」と言った。
香を摘んだ。指が震えていた。額に持っていった。
落とした。香炉の灰の上に落ちた。煙が立ち上った。その煙の向こうに、清水の顔があった。
北島さん
遺影の唇が動いた。
僕は、間違っていましたか
聞こえた。清水の声だった。
頭を下げた。何を祈ればいいか分からなかった。
すまなかった、と思おうとした。思えなかった。
お前が勝手に死んだんだ。俺は悪くない。俺は正しいことをしていただけだ。手順を守ろうとしただけだ。刑事は職務範囲を守るべきだ。遺族対応は地域課の仕事だ。俺は間違っていない。
じゃあ、なんで僕は死んだんですか
遺影が笑っている。笑いながら、問いかけている。
うるさい。死ね。消えろ。消え失せろ。死ね死ね死ね死ね死ね。
顔を上げた。早く終わらせたかった。ここから離れたかった。
振り返った。席に戻ろうとした。
会場中の目が俺を見ていた。
黒い服。黒い服。黒い服。全員が俺を見ていた。
人殺し
誰かが言った。
見殺しにした男
別の誰かが言った。
部下を守れなかった上司
また別の誰かが。
俺は歩いた。歩くしかなかった。足がもつれた。
息子が顔を上げていた。
目が合った。
五歳の目だった。涙で濡れた目だった。赤く腫れた目だった。小さな目だった。
その目が、俺を見ていた。
お前のせいだ
お前がパパを殺したんだろ
唇が震えた。息子の唇が。何か言おうとしていた。
「ぱぱ」
小さな声だった。
「ぱぱ、どこ」
妻が息子を抱き寄せた。「静かにね」と言った。その声も震えていた。
息子が俺を見ていた。まだ見ていた。
なんで
なんでパパは死んだの
お前のせいだろ
お前が殺したんだろ
違う。
俺は関係ない。俺は止めようとした。手順を守れと言った。余計なことをするなと言った。清水が聞かなかった。勝手に遺族に寄り添って、勝手に絶望して、勝手に拳銃を口に咥えて、勝手に引き金を引いた。
俺のせいじゃない。
嘘つき
息子がまた口を開いた。
「ぱぱ、かえってきて」
妻が息子の頭を胸に押し付けた。声を殺すように。泣き声を殺すように。でも息子は泣き続けた。押し殺した声で。小さな身体を震わせて。
「やだ、やだ、ぱぱ」
その声が、会場に響いた。
お前のせいだ
誰かがすすり泣いた。親族席から。重い嗚咽が漏れた。
お前のせいだ
別の誰かが鼻をすすった。参列者席から。布が擦れる音がした。
お前のせいだ
全部。全部の音が。泣き声が。すすり泣きが。嗚咽が。衣擦れが。全部が俺を責めていた。
「やだあああああ」
息子が叫んだ。妻の腕を振り払って。立ち上がって。棺に向かって走り出した。
「ぱぱ、ぱぱあああ」
親族の誰かが息子を抱きとめた。息子が暴れた。小さな手足をばたつかせて。泣き叫んで。
「ぱぱ、いやだ、いやだああああ」
耳を塞ぎたかった。塞げなかった。葬儀場で耳を塞ぐわけにはいかない。立っているしかなかった。聞いているしかなかった。
息子が暴れながら、こっちを見た。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、俺を見た。
目が合った。
お前が殺した
お前がパパを殺した
人殺し
足が動いた。
人殺し
列を離れていた。
人殺し
参列者の間を縫っていた。誰かの肩にぶつかった。
逃げるのか、人殺し
謝らなかった。謝れなかった。
「北島さん?」
誰かが呼んだ。振り返らなかった。
廊下に出た。葬儀場の廊下。長い廊下。足が速くなった。早足になった。小走りになった。
走った。
革靴が床を叩いた。バタバタバタバタ。自分の足音。自分の呼吸。心臓の音。背後から追いかけてくる子供の泣き声。
ぱぱああああああ
どこまでも。どこまでも。どこまでも追いかけてくる。
出口を押し開けた。外に出た。
駐車場だった。日光が眩しかった。目が痛かった。涙が出た。泣いていたのか。分からない。汗か涙か分からない。
膝に手をついた。吐きそうだった。胃液が込み上げてきた。堪えた。葬儀場の駐車場で吐くわけにはいかない。
呼吸が荒かった。過呼吸になりかけていた。息を吸っても吸っても、酸素が足りなかった。
逃げた。
俺は、部下の葬式から逃げた。
息子が泣いていた。妻が震えていた。清水の遺影が笑っていた。参列者が俺を見ていた。人殺しと言っていた。俺は逃げた。
車に戻った。震える手でエンジンをかけた。アクセルを踏んだ。駐車場を出た。
バックミラーに葬儀場が映っていた。白い建物。その中で、まだ息子が泣いている。清水の妻が震えている。参列者が俺を呪っている。俺はここにいない。俺は逃げた。
建物がどんどん小さくなった。消えた。
それきりだ。
清水の妻にも、息子にも、それ以来会っていない。連絡もしていない。住所は知っている。電話番号も知っている。年賀状の一枚も出していない。香典の礼状が届いた。丁寧な字だった。返事を書かなかった。書けなかった。
あの子は、今どうしているだろう。
もう八歳か。小学校に入っただろう。ランドセルを背負っているだろう。清水が買ってやりたかったランドセルを、誰が買ったんだろう。
授業参観に、誰が行くんだろう。運動会で、誰が応援するんだろう。
「パパ」と呼べる相手がいない子供が、どうやって大きくなるんだろう。
俺を恨んでいるだろうか。
三年経っても、俺を恨んでいるだろうか。
会いに来るだろうか。大人になったら。俺を殺しに。
三年。
三年間、ずっとあの目が見える。
泣きながら俺を見た、あの目。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの、あの顔。「ぱぱ」と叫んだ、あの声。
「人殺し」と言った、あの声。
今でも聞こえる。ずっとあの泣き声が。自宅でも職場でも電車でも風呂の中でも。
俺のせいじゃない。
俺は悪くない。
俺のせいじゃない。
俺は正しいことをしていただけだ。手順を守ろうとしただけだ。職務範囲を守れと言っただけだ。
嘘つき
うるさい。
お前が殺した
違う。
俺はそんな人間じゃない。子供を泣かせるような人間じゃない。誰よりも努力した。誰よりも我慢した。誰よりも正しくあろうとした。ずっと「良い側」にいた。悪いやつを捕まえる側。守る側。正義の側。
俺が誰かを傷つけるはずがない。子供を泣かせるはずがない。こんなの自分じゃない。
じゃあ、なぜあの子は泣いている。
誰のせいだ。
権藤真澄。
そうだ。そうだ。
清水を殺したのは権藤真澄だ。
光崎の妻と娘を殺した。無罪になった。清水を絶望させた。清水に銃を持たせた。清水の指に引き金を引かせた。
清水を殺したのは権藤真澄だ。俺じゃない。
あの子が泣いているのは、権藤真澄が父親を殺したからだ。俺のせいじゃない。俺は関係ない。
俺の人生が壊れたのは、権藤真澄のせいだ。俺のキャリアが潰れたのは、権藤真澄のせいだ。俺がゴミ出しのトラブルを処理させられているのは、権藤真澄のせいだ。
全部。全部。全部、あいつのせいだ。
なのに、あいつは生きている。病院で寝ている。三食食べて、看護師に世話されて、のうのうと生きている。被害者面をして。精神を病んだ可哀想な人間として。
清水は死んだ。光崎の妻と娘は死んだ。俺の人生は壊れた。
権藤真澄だけが生きている。
おかしいだろ。間違っているだろ。
俺は警察官だ。悪いやつを捕まえるのが仕事だ。正義を執行するのが仕事だ。
法が機能しなかった。司法が腐っていた。
なら、俺が機能する。俺が執行する。
俺は正しい。
ずっと正しかった。これからも正しい。
俺は正義の側だ。
俺は足を止めた。拳銃保管庫の前だった。灰色の金属扉。蛍光灯の光を鈍く反射している。
手を見た。震えている。
寒くない。二週間、地下の倉庫で凍えていたのに。今は熱い。血が沸いている。心臓が速い。でも苦しくない。むしろ心地が良い。
二週間で学んだことがある。この世界には、殺される側と殺す側がいる。殺される側は遺品になる。財布。携帯。赤い靴。写真の中で永遠に笑っている。殺す側は刑務所に入って、出てきて、また生きる。それだけの話だ。
善悪の問題じゃない。運の問題だ。殺す側に生まれるか、殺される側に生まれるか。この不条理に抗うことは誰にも出来ない。
でも、選別することはできる。殺す側を、殺される側に移動させることは。俺は警察官だ。拳銃の所持が許可されている。選別の道具を国家の承認の下、合法的に持っている。
二週間、俺は被害者の遺品を見続けた。財布の中の免許証。携帯のストラップ。子供の靴。手帳に書かれた予定。運動会。授業参観。もう二度と来ない日付。
全部、声を持っていた。
殺してくれ
あいつを殺してくれ
聞こえた。確かに聞こえた。赤い靴が言った。手帳が言った。写真の中の笑顔が言った。
お前には銃があるだろう
なぜ使わない
俺たちのために使え
清水は間違っていなかった。間違っていたのは方法だ。清水は自分を殺した。銃口を自分に向けたからだ。だから何も変わらなかった。俺は違う。銃口はゴミどもに向けるべきだ。権藤真澄は生きている。光崎は苦しんでいる。世界は何も変わっていない。清水が殺すべきだったのは、自分じゃない。
俺が継いでやる。部下が果たせなかったことを。清水の弾丸が届かなかった場所に。
手が震えている。恐怖じゃない。
これは——期待だ。
手を伸ばした。ドアノブに触れる。金属の冷たさが、手のひらに伝わる。ひんやりとして、硬い。口から漏れる呼吸が白い吐息に変わる。興奮しきった体温がマグマのように熱い。
引く。動かない。引く。動かない。引く。引く。引く。
ガチャガチャガチャガチャガチャ。
金属が悲鳴を上げている。俺の手も悲鳴を上げている。どちらが先に壊れるか。
お父さん。清水さんは、間違っていなかった。
俺の手に力が入る。お父さん、どうして。
法で関われないなら。ハンドルを握りしめる。金属が手のひらに食い込む。忘れないで。
笑いそうになった。扉が開く。
権藤真澄の病室に入った。白い壁。白いベッド。白い服を着た、白い顔をした男が寝ている。
目を覚ます。俺を見る。目が合う。
「痛いか」
右足を撃つ。悲鳴。白いシーツに赤が広がる。
「痛いか」
左足を撃つ。もう悲鳴にもなっていない。喉から空気が漏れる音。ひゅうひゅうと。
「痛いか」
腹を撃つ。身体が少しだけ、くの字に折れる。血が口から溢れる。べちゃべちゃと。シーツに。床に。俺の靴に。温かい。
「痛いか」
胸を撃つ。
びくんびくんと痙攣している。まだ生きている。目が俺を見ている。何か言いたそうに口が動いている。聞こえない。聞く価値がない。
銃口を顔に押し当てる。額に。冷たい金属が、温かい肌に触れる。
「痛かったか」
撃つ。顔だったものが飛び散る。壁に。天井に。俺の顔に。火薬の匂い。鉄の匂い。肉の匂い。
気持ちいい。
下腹部が熱い。下腹部が熱い。脈打っている。撃つたびに、何かが昇りつめていく。
五発。全弾。使い切った。それでも引き金を引いている。カチカチカチカチ。空撃ちの音。もっと撃ちたい。もっと壊したい。
カチカチカチカチカチ。
ガチャ。
ガチャ。
ガチャ。ガチャ。ガチャ。
ガチャガチャガチャガチャガチャ。
分かっている。分かっていて、止まらなかった。止める気もなかった。
下腹部がまだ「北島さん?」
すぐ真後ろから声がした。
俺は振り返った。
春野がいる。首を傾げて、俺を見て。
手に握っているものを見る。拳銃じゃない。拳銃保管庫の扉のドアノブ。灰色の冷たい。閉まっている。ハンドルを握りしめている。金属の角が、手のひらに食い込んでいる。赤い線がついている。血が滲んでいる。
手が痛い。
俺は何をしていた。
「まだいたんですか? 僕も忘れ物しちゃって。戻ってきたら北島さんの姿が見えたんで」
春野は。ポケットに手を突っ込んで、欠伸を噛み殺しながら。
「自販機でカフェオレ買いたいんですけど、小銭切らしちゃって。奢ってもらえません?」
俺はハンドルから手を離した。
「……何やってんだ、お前」
「いや、北島さんこそ何してるんですか?」
俺は答えなかった。答えられなかった。春野が首をかしげる。俺の後ろにある灰色の扉を見る。
「あ、拳銃保管庫じゃないですか。何か用事ですか?」
「……いや」
俺は口を開いた。何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
「同僚を拳銃で撃ち殺そうと思っただけさ」
軽いジョークのつもりだった。いなすつもりだった。
春野の顔が、ぱっと明るくなった。
「良いですね!」
俺は固まった。
「誰ですか? もしかして斎藤さんですか? 僕もちょっとムカついてるんですよね。あの人のせいでこの二週間働き詰めでしたし」
春野が俺の横をすり抜けて、ハンドルに手をかけた。
ガチャ。
「あれ、開かない」
ガチャガチャ。
「鍵かかってますね。残念」
春野が振り返った。いつもと同じ、ヘラヘラした笑顔で。
「北島さん、鍵持ってます? せっかくだから一緒に斎藤さんを撃ちましょうよ! 始末書一枚書けば済むでしょうし」
俺は春野を見ていた。
この男が、拳銃を持っている姿を想像した。
この男が、誰かを撃つ姿を想像した。
この男が、返り血を浴びている姿を想像した。
ありえない。絶対に、ありえない。
春野が人を殺す? この、ピーポ君の人形を何度も落とす男が? カフェオレを奢ってもらうために上司を追いかけてくる男が? 馬鹿馬鹿しい。想像したくもない。そんなもの、見たくもない。
じゃあ——俺は?
俺は、さっきまで何を考えていた?
春野が首をかしげる。その顔はいつもと同じだった。ヘラヘラした、能天気な笑顔。
俺は自分の右手を見た。さっきまで何をしていた。保管庫のハンドルを握っていた。引いていた。何度も。なぜ?
「北島さん?」
春野が怪訝そうな顔をする。僕のボケ滑ってたかなぁ、なんて呟いている。俺は保管庫を振り返った。灰色の金属扉。蛍光灯の光を鈍く反射している。この向こうに拳銃がある。俺はそれを取り出そうとしていた。取り出して、権藤真澄のところに。
急に、足から力が抜けた。壁に背中を預ける。冷たい。コンクリートの冷たさが、背中に染みる。何をやっていたんだ、俺は。権藤真澄を殺そうとしていたのか。本気で。拳銃を持ち出して、病院に行って、撃ち殺そうとしていたのか。
馬鹿な。そんなはずがない。俺は警察官だ。四十五年間、法律を守って生きてきた。生まれてからずっと。人を殺そうなんて、考えたこともない。
「北島さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
春野が覗き込んでくる。
「……疲れてるだけだ」
「ですよね。二週間ぶっ通しでしたもんね」
春野が頷く。その顔には、心配そうな色と、いつもの能天気さが同居している。
「カフェオレ、奢ってくれます?」
「……ああ」
俺は壁から背中を離した。足がまだふらつく。春野が俺の横に並んで、歩き始める。保管庫が、背後に遠ざかっていく。
「北島さん、僕ホットがいいです。この時間、冷たいのは体に悪いんで」
「好きにしろ」
自販機のある場所まで歩く。足音が二つ、廊下に響く。コツ、コツ、コツ。さっきまでは一人だった。今は二人。それだけのことなのに、廊下の空気が違って感じる。
薄暗い廊下の先に自販機の光が見えた。電気代節約のため、あくせくと働いている俺等を尻目に至るところで電気が落とされている。
春野が小走りで駆け寄っていく。「北島さん、早く早く」と手招きしている。俺は財布を取り出した。小銭を入れる。ボタンを押す。ガコン、という音。春野がカフェオレを取り出す。
「ありがとうございます!」
春野が缶を開けてそのまま飲み始める。せめて俺が買うまで待ちなさいよ。さっさと飲みやがって。俺は自分用にブラックコーヒーを買った。熱い缶を握る。季節的にはもう寒くないはずなんだがな、手がまだ少し震えている。しかし、よく考えてみたらなんで俺が奢らなければならないんだ?
「北島さん、明日から何します?」
「さあな」
「斎藤さんに報告しないとですね。何も見つかりませんでしたって」
斎藤。そうだ。報告しないといけない。二週間かけて何も見つからなかったと。
「……ああ」
「斎藤さん、がっかりしますかね」
「……だろうな」
「でも、仕方ないですよね。ないものはないんですから。斎藤さんの勘が外れただけで、僕たちは悪くないですし」
春野がカフェオレを啜りながら言った。その声には、特に感慨もなかった。
「まあ、僕は楽しかったですけどね」
俺は春野を見た。
「北島さんと色んな署を回れたし。普段行かない場所って新鮮じゃないですか。証拠品倉庫なんて、普段入らないですし。斎藤さんの依頼は正直どうでもいいですけど、ちょっとした旅行みたいでしたよ」
この男は本気で言っている。二週間の徒労を「楽しかった」と。何も見つからなかった捜索を「新鮮だった」と。春野がヘラヘラ笑っている。俺はコーヒーを飲んだ。苦い。熱い。
「まあ、光崎さんって僕に優しくしてくれたんで。出来れば何か見つかれば嬉しかったのは事実ですけど。って北島さん、大丈夫ですか? なんか、ぼーっとしてますよ」
「……いや」
俺はコーヒーの缶を握りしめた。
「……疲れてるだけだ」
「ですよねー。明日はゆっくり休んでください。僕も休みます。ピーポ君の新しいグッズが届く日なんで。フリマサイトで見つけたんですよ。値切って値切って、交渉が大変でしたよ」
春野が嬉しそうに言った。俺は何も答えなかった。ただ、熱いコーヒーを飲み続けた。
廊下の向こうに、拳銃保管庫がある。灰色の金属扉。あそこに、俺は立っていた。ハンドルを握っていた。何をしようとしていたんだ。
分からない。分からないまま、春野と並んで自販機の前に立っている。それでいいのかもしれない。分からないまま、日常に戻る。それが、一番いいのかもしれない。