「北島さん、事務室戻りません? 僕、忘れ物まだ取ってないんですよ」
「ああ」
そうか、そういえば春野は忘れ物を取りに来たのか。俺たちは事務室に向かって歩き始めた。
事務室のドアを開ける。蛍光灯が白々と光っている。誰もいない。机の上には、清水の担当案件リストが広げられたままだった。いや、正確にはそれ以上に異様な光景が広がっていた。
あっちこっちにボロボロになった書類が飛び散っているのだ。俺が何度も殴りつけた書類。まるで獣がここで暴れた後のように見える。これは俺がやったのか? 別の誰かが暴れたと思いたい、そんな惨状だ。
どうしてこんなことをしてしまったのか。さっきまでの俺はおかしかった。さっきって、いつだ。廊下を歩いていた。拳銃保管庫の前にいた。春野が来て、自販機で。それより前は。
思い出そうとして、やめた。頭の奥に何かがある。触れてはいけない何かが。
「うわ、なんですか? もしかして泥棒が入ったんですか?」
春野が事務室を見渡している。どうやって言い訳しようか。警察署に泥棒なんてあからさまな嘘をついたら不味い。当たり前だが、お巡りさんがすぐに捜査をしてしまう。こういう時は半分だけ嘘をつくのがいい。俺がやったと認めるけれど、理由を誤魔化すのだ。
「すまん、実はさっき転んで書類をぶち撒けたんだ」
「ああ~、なるほど。北島さん、分かりますよ。分かります。それでイライラして蹴ったりしたんですよね? 書類グチャグチャですし」
「本当に申し訳ない」
「良いですよ良いんですよ! こんだけ頑張って疲れたタイミングで転んだら、僕だってムカつきますし!」
以前だったら頭の悪いやつだなんだ罵っているところだった。だが今の俺にはコイツの言動は非常にありがたい。頭がおかしくなって書類を何度も殴りつけたなんて説明、そんなの出来るわけがない。
春野は自分の机に向かい、スマートフォンを手に取った。どうやら忘れ物はそれのようだ。春野は流れで床に落ちていたピーポ君の人形を拾い上げ、机の上に戻した。
「あったあった。それにやっぱり落ちてた」
「お前、それ何回落としてんだよ」
「愛が重すぎるんですよ。だから自重で落下しちゃうみたいで」
意味が分からない。膝が自然と折れ曲がるように、俺は自分の椅子に座り込んだ。書類を片付けてから帰ろうと考えたが、どっと疲れが押し寄せてくる。何故か春野も向かいの椅子に座りはじめた。忘れ物を取りに来ただけなんだから帰ればいいのに。そう思ったが、どうやらお喋りがしたいようだ。顔つきがどうも不満げ。
「しかしですね。何だったんですかね、あれ」
春野が脱力した声で言った。机に突っ伏して話し始めた。上半身を机に預けて、顔だけこちらを見ている。
「あれって何のことだ?」
「斎藤さんの依頼ですよ! 二週間ですよ、二週間。毎日毎日、埃まみれの段ボール開けて!」
「ああ、それか。まあ、そうだな」
俺も机に肘をついた。事務室に戻る前に斎藤に対するチクチク言葉があったから不満なんだろうな、とは思っていたが。この二週間は面白かったとかなんだかんだ言っていたじゃないか。なんだ、愚痴大会の始まりか? 仕事の愚痴ってのは案外面白いから止められないんだ。俺も疲れが酷い。流れに身を任せたい気分だ。他愛もない話をしていれば気分も晴れるかもしれん。
「結局、どんだけ探しても何も無いじゃないですか。なんか光崎さんのためになるかなって思って期待してたのに」
「何だお前は。そんなに人助けに興味があったのか? 意外だな。良いやつだったのか」
「何を言っているんですか。僕はもともとナイスガイじゃないですか」
そうだったかな。春野がナイスガイだったことは、一緒に仕事をしていて見たことがないが。今どきの言い回しで、自認ナイスガイと言ったところか。気が合うな。実は俺も自認ハードボイルドなんだ。
「それなら俺はハードボイルドだな」
「いや、それはないと思いますけど。滑って転んで書類に当たり散らすハードボイルドって厳しいですよ」
眼の前の小僧を、この散らばった書類と同じようしてやろうかどうか迷って拳に力が入る。少しくらいはカッコいいと認めてほしいものだ。警視庁捜査一課だったんだぞ、昔はな。春野が顔を上げた。
「というか斎藤さんの『刑事の勘』って何だったんですか。全然当たってないし」
「まあ、そういうこともある」
「いや、無いですよ!」
春野が珍しく声を荒げた。
「だって二週間ですよ! 時間が無くなったから僕は彼女とのデート、三回キャンセルしたんですよ!」
「お前、彼女いたのか」
「いませんけど! もしいたら三回キャンセルしてたってことですよ!」
何を言ってるんだこいつは。そんな理屈がありなら、俺は彼女を七人いる設定にして張り合うぞ。
「というか斎藤さん、絶対に鏡の前で練習してますよ」
「何をだよ」
「『俺の目は誤魔化せねえぞ』とか。あと『お前、何か隠してるな?』とか」
「取り調べの練習なんてしないだろ」
「してますって。取調室に入る前に深呼吸して、『さあ、ショータイムだ』とか言ってますよ絶対」
「刑事ドラマの見すぎだ。いくらなんでも馬鹿すぎるだろ」
春野がピーポ君の人形を掴んで振り回している。興奮は収まるところを知らない。
「あの人、絶対に家で古畑任三郎を全話持ってますよ」
「持ってたら何だよ」
「しかもVHSで」
思わず笑った。最近ならネット配信で見れるんじゃないのか、そういうヤツって。
「今どきVHSかよ」
「斎藤さんですよ? 絶対そうですって。テレビ放送を録画したやつ。ラベルに『古畑 第3話 絶対見る!』とか手書きで書いてあるんですよ」
妙に具体的だった。本当にありそうで怖い。そういう場合はラベルの文字を一生懸命、装飾しているんだよな。無駄にクオリティの高いラベルになっているやつ。
「で、寝る前にそれ見て、『やっぱり俺と古畑って似てるよな……』とか思ってますよ」
「思ってねえよ」
「思ってますって。で翌朝、署に来て後輩に『あー、昨日も眠れなくてさ。事件のことが頭から離れなくて』とか」
「不眠症だろ」
「違いますよ! 刑事ぶってるだけですよ! 本当は古畑見てただけなのに!」
春野が机を叩いた。俺も笑いが止まらなくなってきた。もう夜も更けている。普段ならこんなに人の悪口は言わないが、二週間の徒労はさすがに堪える。しばらく二人でゲラゲラ笑った。完全にテンションがおかしい。大学生が明け方まで飲み歩いているような感覚に近い。
「あ、そういえば」
春野が何かを思い出した顔をした。
「何だよ急に」
「前に聞いた質問、まだ答えてもらってないなって」
「どの質問だよ。お前質問多いんだよ」
「なんで警察官になったんですかって」
ああ、それか。都市伝説の話を喜々として語ってきた時に、ついでに聞いてきた内容か。あの時は婦警さんが好きだからとか、拳銃をぶっ放してみたいとかそう言って誤魔化したな。
「今、それを聞くか」
「あの時、北島さんは答えてくれませんでしたよね」
「まあな」
しかし、警察官を目指した理由なんて語るのは気恥ずかしいものだ。俺がためらっていることを察したのか、春野は机に肘をついて、別の話をし始めた。
「二週間前、捜査会議の時なんですけど。山田刑事たちにバカにされたの覚えていますか?」
春野がいつものヘラヘラした表情を消した。珍しい。こいつは基本的に何を言われても笑っている。捜査会議の時のことか。住問班はお茶汲み係だがなんだかとか、けっこう長いこと言われたやつか。
「お前がめっちゃ煽ったやつな。死体が出るとボーナスが出るとかなんとか。俺が必死に頭下げたんだから、感謝してくれよ」
「あれ、わざとです」
「は?」
「山田刑事たち、北島さんのことバカにしてたじゃないですか。ムカついたんで」
春野がいつもの顔に戻って言った。ニヤニヤとした薄ら笑いを顔に貼り付けている。
「言い返してやりましたよ」
「待て、マジか。お前わざとやってたのか」
「はい。めっちゃムカついたんで」
春野の目が、珍しく鋭い。嘘だろ。こいつは普段から天然失言野郎だ。計算なんてできるはずがないと思っていたが。
「お前、意外と腹黒いな」
「腹黒いって酷くないですか? 正当防衛ですよ」
「正当防衛は違うだろ」
正当防衛の意味を理解していないらしい。
「でもまあ、今になってみるとスカッとするもんだな」
「北島さんには世話になってますから」
世話? 俺がこいつに何かしたか? 春野が視線を落とした。
「僕、本署にいた時、みんなに嫌われてたんです」
「知ってた」
「え、なんで知ってるんですか!?」
「お前の噂は俺のところまで届いてたからな。交番放置して、三時間お茶してたって」
「困ってるおばあちゃんがいたんですよ!」
「それは職務放棄っていうんだよ」
「でも放っておけないじゃないですか」
「放っておけとは言ってない。三時間も使うなって」
なぜ三時間もお茶を飲む必要があるんだ。春野が不満そうな顔をする。
「僕としては頑張って仕事してたつもりなんですけどね」
「頑張る方向が間違ってんだよ」
このアホチンは一生理解しないだろう。
「で、住問班に来たときは警察官辞めようとしてたんです」
「……そうなのか」
これは初めて聞いた。何が起きてもまったく気に留めないやつだと思っていたので少し驚いた。色々と言われていることについて、思うところがあったのか。
「はい。でも北島さんは違った」
春野が俺を見た。
「普通に接してくれたんです」
普通? 俺は普通に接してただけだ。春野が配属されてきたのは、去年の四月だった。清水の自殺の影響で人と話すのが億劫だったの気がする。もう面倒事はゴメンだった。
『よろしくお願いします!』なんて満面の笑みで挨拶してきた春野を見て、俺は何も言えなかった。頷くことしかできなかった。でも春野は、翌日も、その次の日も、変わらず話しかけてきた。
『北島さん、コーヒー飲みます?』
『北島さん、ピーポ君ってなんで警察のマスコットなんですかね?』
うるさかった。正直、うるさかった。こいつは俺が何も答えなくても、勝手に喋り続けた。本来であれば、注意をしたり怒鳴ったりするレベルだったが、清水の自殺が尾を引いたんだ。だから注意が出来なかっただけ。それを春野視点から見ると受け入れてくれる良い上司に見えたってか。なんだかな、締りの悪い話だが結果としては相性が良かったってことか。
「くだらない話も聞いてくれますし」
「半分寝ながら聞いてたけどな」
「寝てたんですか!?」
「冗談だよ。七割くらいは聞いてた」
実際は九割聞いてた。こいつはピーポ君の話を一時間でも続けられる。俺は相槌を打ちながら昼飯のことを考えている。
「三割寝てるじゃないですか!……まあ、そんなこんなで北島さんといると悪くないんですよ」
春野がいつもの笑顔を見せた。悪くない、か。お前のハードルはどうなってるんだ。
「俺、別に何もしてないし。お前に救われたとか言われても困るんだけど」
「それで十分だったんです」
「十分って、お前のハードル低すぎない?」
「いいじゃないですか。低い方が生きやすいですよ」
このバカは本気で言っている。
「つーか、お前『みんなに嫌われてた』とか言ってるけど、そりゃそうだろ。交番放置するし、失言するし」
「北島さん酷い!」
「事実だろ」
「でも僕、頑張ってたんですよ?」
「頑張る方向が違うって、さっきも言っただろ」
「じゃあ北島さんはどうなんですか」
「何がだよ」
「なんで警察官になったのか。さっきから誤魔化してますよね」
しつこいやつだ。中年警察官の志望動機なんて何が面白いのやら。
「わかったよ。警察になった理由、教えてやるよ」
「なんですか!? めっちゃ楽しみですよ!」
春野が身を乗り出した。さっきまでの話題なんか忘れたみたいに目を輝かせている。切り替えが早すぎる。
「日曜朝のヒーローが好きだったんだよ」
「は?」
春野が目を丸くした。予想外だったらしい。
「子供の頃、強いヒーローに憧れてた。かっこいいから。それだけだ」
本当にそれだけだ。深い理由なんてない。
「北島さんも僕と同じレベルじゃないですか!」
「同レベルって、お前と一緒にするな」
待て待て。
「俺はヒーローだぞ? お前はピーポ君だろ。格が違う」
「え、でもピーポ君も十分かっこいいですよ?」
「いや、ピーポ君って要するにマスコットだろ。変身しないし」
マスコットキャラクターと変身ヒーローを一緒にするな。いや、端から見たら同じ扱いになるのか?
「変身しなくてもかっこいいです!」
こいつは本気で言っている。
「まあ、変身ベルト配布されても俺の腹じゃベルト閉まらないかもな」
最近、少しだけ腹が出てきた。歳だし仕方ない。それなりにスマートな体型は維持しているつもりだが、ちょっとだけな。
どうにも春野には俺の自虐ジョークがウケたようでケラケラと笑っている。こういう時はそんな太っているようには見えないですよ、とおべっかを使うもんだぞ。
「でもキックやパンチで犯罪者をしばけないのが辛い。警察手帳じゃなくて変身ベルトを配布してくれればモチベーション上がるのにな」
本気で思う。警察手帳を見せて「警察だ!」なんて言っても、全然かっこよくない。
「それ、完全に暴力警官ですよ」
「正義の暴力だからセーフ」
「アウトです」
春野がツッコミを入れる。ここまで全部、くだらない話だ。でも悪くない。
「北島さんの相棒だった人も、そういう感じだったんですか」
「……何の話だ」
「清水さんですよ。清水さんもヒーローに憧れて警察官になった人だったのかなって」
春野は何気なく聞いている。深い意味はないんだろう。ただの好奇心。でも、その名前が出ると、胸の奥が少しざわついた。清水と警察官になった理由なんて、そんなの話したことなかったな。
思い返してみると個人的な話、趣味の話なんてのもしたことはなかった。捜査一課にいた頃の俺は仕事に対しても情熱があって、無駄なことをするくらいなら業務に集中しろなんて考えだった。だから答えられない。でも何か言わないと。
「あいつは……俺とは違う」
「違う?」
「ストレートに捜査一課まで来たエリートだ。俺みたいに何年もかけてない」
「へえ」
俺は天井を見上げた。
「光崎家の事件の時、遺族に会いに行っていた。俺が止めても聞かなかった」
あの時の清水の顔を覚えている。納得していない顔。何度言っても、光崎のところに通い続けた。
「面倒なやつだった」
本来なら馬鹿だクズだなんだ、そんな罵詈雑言の評価を下したいところだ。でも今はもう、そういう言葉を言いたくない気分だった。
「……それって」
春野が首を傾げた。
「めちゃくちゃ真面目だったってことじゃないですか」
「……は?」
「だって、上司に止められても遺族のところに通うって、相当ですよ。普通はやらないです。僕だったら仕事が終わったら遊びに行きたいので」
俺は春野を見た。
「真面目っていうか、本気で遺族のこと考えてたんですね」
真面目。そうか、そうだよな。普通、そう思うのが筋だ。誰がどう見ても清水は真面目だったのだ。
「……そうだな」
口から出た言葉は、自分でも意外なほど素直だった。
「真面目なやつだった。真面目すぎたのか」
春野が黙って聞いている。
「何度止めても、光崎のところに通い続けた。俺の目を盗んで。俺はそれを知ってて、見て見ぬふりをした。面倒だったから。責任を取りたくなかったから」
蛍光灯の音だけが響いている。
「無罪判決が出た後、清水は俺のところに来て言ったんだ『北島さん、俺たちは何のために働いてるんですかね』俺は何も答えられなかった」
沈黙が降りる。重い空気だ。
「なあ、春野」
「はい」
「ヒーローってのは、仲間を見殺しにしても平気なもんなのか」
春野が真剣な顔で俺を見た。なんとなく、軽い気持ちで言ってみた疑問なのだが、そこまで真剣な顔をされるとは思っていなかった。もっと、もっと軽く扱ってほしい。そう思ってしまった。
「俺の話じゃないぞ、一般論の話だ。確かに俺はヒーローだが」
嘘だということはバレているだろう。俺の問いに春野が首を傾げている。
「だいたいのヒーローって、間違いを犯してますよ。話の都合ですけどね。そうしないと盛り上がりませんし。でもそのあと立ち上がるから、面白いんですよ」
春野が続ける。
「実際どうですか? やっぱりしんどいですか? 北島警部補」
「……ヒーローも四十五年やると膝にくる」
自嘲的な笑いが出た。
「変身出来れば節々も楽になるんだがな」
冗談のつもりだった。でも、本気でそう思っている自分がいる。
「そうですよね。僕もピーポ君の着ぐるみがあれば楽なのに」
春野が笑う。——こいつは本当にバカだ。
「お前はそれでいいのか」
「いいんですよ。それで誰かが笑ってくれれば」
春野がいつものヘラヘラとした顔で言った。単純だ。こいつは、本当に何も考えていないのか。それとも、全部分かっているのか。分からない。形は違えど、清水もこういう単純さがあったのかもしれない。
「清水ももしかしたら盗んだんじゃなくて、間違えて持って帰ったのかもな」
ふと、そんなことを思った。証拠品を盗む。そんな大それたことを清水がするとは思えない。あいつは真面目だった。真面目すぎて融通が利かないくらいに。
「そんな事ありえます?」
「まあ、ありえないか。盗んだって斎藤も言ってたし」
「斎藤さんに盗むところを見られていたってのも手際が悪いですよね。もし僕が証拠品盗むとしたら、もっと上手くやりますよ」
春野が笑いながら言った。物騒なことを言うな。
「清水刑事より絶対に上手く隠せます。怪盗春野、ここに見参」
春野がカッコいいポーズを取りながら言う。俺がヒーローでお前は怪盗か。住民問題対応班のスーパーエリートコンビ、属性もおしゃれだ。少年漫画で超人気間違いなしだ。第一話、頭のおかしい住民からのクレーム処理。少年たちも夢中になるだろうな、この漫画。俺が編集長なら企画会議の段階で潰す。
「お前は持って帰ることはあっても、盗むことはないだろ」
お前は悪意がない。ただのバカだ。
「いや、仮にですよ、仮に」
春野がピーポ君を机に置いた。またすぐ落ちそうな位置に。こいつは毎回同じ場所に置く。ピーポ君への愛を公言しながら、この扱い。現代の愛の形は俺には理解できない。
「僕なら絶対に他人の名前で登録しますね。自分の名前だとバレるじゃないですか」
俺は何気なく相槌を打とうとして、止まった。
他人の名前で登録。
「例えば北島さんの名前とか使っちゃいます!」
春野が笑顔で言った。お前、それ上司に向かって言う台詞か。
「で、バレたら『知りません、北島さんが勝手にやりました』って」
俺は春野を見た。
春野は笑っている。自分が何を言ったか分かっていない顔だ。
「春野」
俺は立ち上がった。こういう雰囲気の時は意外と仕事がうまくいくもんだ。中年の経験ってやつだな。
「今から証拠品倉庫、行くぞ」
「神山署のですか?」
春野が目を丸くした。
「最初に調べたじゃないですか」
「俺の名前では調べてないだろ」
「あ」
春野が間抜けな声を出した。二週間前、神山署の倉庫は真っ先に調べた。清水の名前で。何も出てこなくて、だから他の署を回り始めたんだ。もう夜中、帰って寝たいところだがもう一踏ん張りだ。
「行くぞ」
俺たちは事務室を出た。