神山署の証拠品倉庫は、地下にある。 深夜の廊下は静かで、俺たちの足音だけが響いていた。倉庫の扉を開ける。埃っぽい空気が鼻をついた。二週間、毎日のように色んな署で嗅いでいた匂いだ。この匂いを嗅ぐのも、これで最後にしたい。春野が印刷して持ってきた書類を確認する。倉庫の奥が、妙に暗い。照明が届いていないのか。はたまた気のせいか。
「北島さんの名前で登録された証拠品……うーん。ないですね」
「あれ? 俺の推理は完璧だと思ったんだがな。当てが外れたか」
世の中どうもうまくいかないようだ。清水は俺の名前で証拠品を不正に登録していたというのが俺の推理だったが。ため息が出てしまう。結局何も見つからずにこれでこの件は終わりか。
「……証拠品って刑事課の管轄なので追跡が厳しいですよね。清水さんは遺失物として地域課に登録しに行ったってのはどうでしょう? 隠したかったのなら管理が甘いところに置いておきたいって考えるのが自然なような」
ピーポ君による天啓だ。まさか、春野がこんなに鋭いとは。確かにその通りだ。遺族対応は地域課の業務範囲だからやめろ、なんて耳にタコができるほど言ってきた。清水の思考回路に地域課が刷り込まれているってのもポイントかもな。
「お前、それだよ。名探偵だ。浮気調査はお前に依頼するから頼むぞ」
「殺人事件を依頼してくださいよ! というか北島さん、独身じゃないですか」
「この仕事が終わったら結婚するさ。相手はいないが」
遺失物について確認をするために、俺たちは住問班のオフィスに向かった。俺たちはこう見えても地域安全課だ。管理台帳にアクセス出来る権限くらいならある。権限だけならな。これなら今から斎藤に許可を貰って捜索開始、そんな手間も必要ない。俺は管理用の普段使っていないデスクトップパソコンを起動する。
ほぼ使うこともない、形だけのおんぼろパソコンはうなり声をあげて起動した。今時、起動だけで数分間待たされるのも珍しい。待たされている間、ふと気になって俺はマウスの裏側を確認した。汚らしい薄鼠色のぼろぼろのマウス。裏側にはボールがついている。古すぎるだろ。春野にこの話題を振るのは止めておこう。またひどいことを言われるに違いない。
管理システムを起動して、また待つ。待っている間、普段電話も取らない春野が椅子を横取りしてキーボードを打ち始めた。こいつ、一番おいしいところだけをいただきやがった。春野はポップアップされたシステム画面に入力して、遺失物の捜索をする。入力したのは北島健太、俺の名前だ。
「ありました」
「何件だ」
「一件だけです」
一件。俺も書類を覗き込んだ。
登録日:令和三年六月十五日
届出場所:神山署管内
品目:装飾品(ブローチ)
届出者:北島健太
届出経緯:拾得物として届出
受領担当:清水勇
備考:届出者多忙につき、受領担当が代理提出。所有者不明。
保管場所;地下第二倉庫
「これだ。よし、もう一度地下に降りるか」
「僕、足パンパンですよ。今から階段がエスカレーターに変わりませんかね?」
「頑張れ青年。ちなみに俺くらいの年になると運動しないだけで頭痛がするようになるぞ。血流が悪すぎてな」
「老化って恐ろしいですね」
ここで血を流すというのも選択肢にあるぞ、馬鹿者が。
俺たちは再度、地下に降りて第二倉庫へ向かう。ここは長期保管されている遺失物をしまい込んでいる倉庫だ。原則、落とし物ってのは数か月程度で保管期間を超える。財布や身分証のようなものってのはそれでも廃棄しづらいものだ。
なのでこの空き部屋に適当に放り込んでいるのが、この神山警察署の実情。社会人の管理業務というのは存外適当なもので、この倉庫はその適当さの象徴的な場所だ。誰がこの倉庫の中の物を適切に廃棄するのか、後回しに次ぐ後回し。それがこのバベルの塔を築き上げてきた
俺は棚の番号を確認した。B-7-23。春野と一緒に、該当の棚に向かう。倉庫の奥に進むにつれて、空気が冷たくなる気がした。空調のせいだろうか。そしてここは照明があまり届いていない区画だった。春野がスマホのライトをつけた。
ホコリが光に照らされてきらめく。何年も動かされていない段ボールが並んでいる。該当の棚。一番下の段。
小さな段ボール箱が一つだけ、隅に押し込まれていた。その段ボール箱を降ろす。軽い。丁寧に貼られていたガムテープを剥がす。乾いた音が倉庫に響いた。中には、小さなビニール袋が一つだけ入っていた。
袋の中に、青い小鳥のブローチ。ネックレススタイルでも着けれるように後付で細身のチェーンもつけたのだろうか。俺はそれを手に取った。
持ち上げた時にチャラっというチェーンのぶつかる音がした。安っぽい作りだ。塗装は少し剥げている。留め具も錆びかけている。鑑識が見たら、証拠品としての価値はゼロと判断するだろう。百円ショップで売っていても驚かない。
二週間の答えが、これだった。
「これ、ですか」
春野が覗き込んだ。その声には、俺と同じ脱力感が滲んでいる。
「二週間、走り回って……」
「言うな」
ああ、これは何なのかは既に察している。
いい話だ。泣ける。ああ、涙がちょちょ切れる。だが俺は今、それどころではない。
「なんかすっごい……事件を根底からひっくり返すみたいな物を期待していました」
春野が呟いた。俺と同じ気持ちらしい。
「清水刑事、なんでこんなの隠したんですかね」
「さあな。死んでるから分からんな」
俺はブローチを指先で弾いた。値段にふさわしい安っぽい音がした。
「どうせ盗むなら、もっと価値のあるもん選べよ。ダイヤの指輪とか」
「それ横領ですよ」
「冗談だ」
明日、斎藤に報告するのが楽しみだ。どれだけがっかりすることやら。そもそもなんで俺等がこんなものを必死こいて探さなければならなかったのか。斎藤のよくわからん理論が今となっては思い出せん。確か、世の中全体がおかしいとかなんとか。光崎の無念が晴らせれば、上手くいくんじゃないのかとかそんな話だったような。
じゃあこのブローチを使って、魔除けでもしてみるか。とりあえず祭壇を税金で準備するところからだな。
その時、倉庫の奥で何かが落ちた音がした。小さな音だ。段ボールが崩れたか、何かが棚から滑り落ちたか。
春野が振り返った。俺も見た。何も見えない。暗くて見えない。さっきより暗くなっている気がする。
「……猫ですかね」
「地下に猫が入るか?」
「ネズミ?」
「かもな。おんぼろ警察署だし」
俺はブローチをビニール袋に戻した。胸ポケットにしまう。
「行くぞ」
「はーい」
階段を上がる。深夜の神山署は静かだった。当直の人間以外は誰もいないはずだ。
俺たちの足音が響く。いや、響いていない。足音が、一拍遅れて聞こえるような。気のせいだ。疲れているんだ。二週間、働き詰めだ。
「北島さん」
「何だ」
「よく考えると二週間、無駄じゃなかったですね」
「どこがだよ」
俺は振り返らずに答えた。
「でも、掘り出し物が見つかったじゃないですか」
「おもちゃのブローチなんぞ、見つからない方がマシだったまである」
春野が後ろで笑っている。階段の踊り場で、蛍光灯がちらついた。一瞬だけ。
「斎藤さんに何て報告します?」
「『警察官二名の二週間分の人件費を使って、百均のブローチを見つけました』だな。あいつの顔が見ものだ」
「僕、あとでブローチの写真撮っていいですか?」
「好きにしろ。ある意味、記念品だ」
階段を上がりながら、春野が続けた。
「でも、清水刑事の気持ちは分かりましたよね」
「ああ。俺の名前を使って証拠品を隠すような奴だってことが分かった」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
おおかた、証拠品として長期保管されるのが可哀想だったんだろう。事件が終わっても何年も倉庫に眠ったまま、遺族の手に戻らない。だからこっそり隠して、いつか光崎に返そうとした。
——で、その前に死んだと。
階段を登り終わり、地上階についた。廊下は静かだった。深夜の神山署は静かだった。当直の人間以外は誰もいないはずだ。
——いや、静かすぎた。俺は足を止めた。
「春野」
「はい?」
「当直、今日は誰だ」
「えーと、わかんないですね。でも各部署で一人ぐらいは配置されてますよね?」
「今、そいつらはどこにいる」
春野が周囲を見回した。
誰もいない。
「トイレですかね」
「全員同時にか? あっちに見える受付も空だぞ」
春野の表情が変わった。ようやく異変に気づいたらしい。
その時、神山署の入口照明が一つ消えた。
また一つ。また一つ。
受付があった入口の方は全ての照明が消え、真っ暗になって何も見えない。いや、真っ暗になるなんておかしいのだ。腐っても東京。外の電灯が入り込むはずだ。真っ暗にはならない。
なのに、暗い。崖を覗き込んで、底まで光が届いていないような暗さだ。あそこだけ重力の向きが違う。立っているだけで、体があちらに引っ張られている気がする。横向きの奈落だ。一歩踏み込んだら、落ちる。
お父さん
聞こえた。子供の声だった。入口の方、暗闇の奈落から。
「……今の、聞こえたか」
「聞こえました。子供の声ですよね」
春野がこちらを見ている。ふざけた顔ではない。拳銃保管室に向かったあの時も、この声が聞こえていた。頭の中だと思っていた。疲労と精神的な限界と、そういったなにがしかのせいだと。だが春野にも聞こえている。つまり、幻聴じゃない。これは、外にある。
お父さん
二度目。さっきより近い。
入口の非常灯が瞬いた。一瞬だけ、入口の近くが緑色に照らされた。暗闇の中に、何かが立っていた。黒い。輪郭だけが緑色に浮き上がり、すぐに消えた。人の形をしていた。
「……北島さん、今の」
「見た」
「これ、やばくないですか」
「何がだ」
「おばけ的な」
馬鹿馬鹿しい。そう言おうとして、言葉が出なかった。
奈落から、何かが近づいてくる気配がした。音はない。足音もない。なのに、確かに距離が縮まっている。
壁の掲示板が目に入る。防犯ポスター。「振り込め詐欺に注意!」女優が厳しい目つきでこちらを見ている。
お父さん、どうして
三度目。すぐ近くだった。壁の中から聞こえた気がした。
ポスターの女優の顔が溶けている。目が垂れ、頬が落ち、唇が崩れていく。そこから、黒い何かが滲み出した。液体のような、そうでないような。ポスターの表面から、じわりと。
嫌な感覚が肌を舐め、視線を戻す。入口の闇が動いていた。床を這うのではない。警察署の安っぽいビニール床が、下から押し上げられていた。表面はまだ光沢を保っている。なのにその下で何かが沸騰している。小さな膨らみがポコ、ポコと生まれては、弾ける。弾けた瞬間、そこだけビニールが黒く変色する。それが全体に広がり始めている。床の下に、何かがいるのか。
ポスターから滲み出した黒が、壁を伝い降りてきていた。
二つが床の上で出会った。境目が消えた。一つになった闇が、俺たちの足元へ向かって静かに半円を狭めていく。入口から俺等を追い詰めるように。そしてその暗闇の中に、影が立っていた。人の形をしているが、輪郭が定まらない。見るたびに背丈が変わる気がする。
「北島さん、逃げましょう!」
春野が俺の腕を掴んだ。来た道、階段のほうへ引っ張る。十メートル先。
走った。走ろうとした。足が重い。空気が粘っているような感覚。夢の中で走ろうとしている時みたいだ。水の中を歩いているような抵抗。これは実際にそういう現象が起きているのか、それとも恐怖でテンパっているからなのか自分では理解できない。
黒いものが床を緩やかに滑り、俺達の足まで到達する。足元が黒い影に置き換わっている。床が見えない。
世界が、裏返った。
暗い。暗いのに、見える。足元がない。壁もない。天井も真っ暗。俺はまるで浮いている。どこかの、暗い空間に。
黒いはずだ。でも違った。そこら中の黒い空間が、濃い紫が混じって見える。深い青が見える。チカチカとした白い光がきらめき、混ざり合って、渦を巻いている。
星だ。
無数の光点が、ゆっくりと回転している。渦の中心に向かって、螺旋を描きながら落ちていく。俺もその中にいる。一緒に落ちている。
きれいだ。
春野の声が聞こえる。遠い。何を言っているのか分からない。分かる必要がない。渦の中に、沈んでいく。温かい。粘膜のような感触が体を包んでいる。不快じゃない。むしろ心地いい。このまま溶けていきたい。
渦の底に、何かがあった。光の流れから外れて、一点だけ動かないもの。
球体だった。
暗い空間に浮かんでいる。拳二つ分ほどの大きさ。表面は滑らかで、透き通っている。ガラスのような、氷のような。
ガラスの中に光があった。青い光が、二つ。
最初、俺はそれも星だと思った。銀河の中の、少し大きな星。
でも違った。動いていた。
青い光がガラスの内壁にぶつかっている。一つが壁に激突する。弾かれる。間を置かず、もう一つが同じ場所にぶつかる。弾かれる。また一つ目が。また二つ目が。同時に。交互に。休みなく。
ガラスが軋んでいる。音は聞こえない。でも、軋んでいるのが分かる。球体の表面に、髪の毛より細い線が走る。光がその隙間から漏れかける。
黒い何かがヒビを塞いだ。ガラスの外側から、影が這い上がって、覆う。
光が遮られる。一瞬だけ、静かになった。
次の瞬間、青い光がヒビのあった場所に体当たりした。修復された壁に、真正面から。ガラス全体が振動した。黒い影が波打つ。
またヒビが入る。また塞がれる。
また叩く。また叩く。また叩く。
休まない。一切、休まない。
二つの光は同じリズムで動いていた。片方が突進し、もう片方が続く。どちらかが弾かれても、もう一つがすぐに同じ場所を叩く。息が合っているというのとは違う。同じ怒りが、同じ場所を目指しているだけだった。
ガラスの表面が、無数のヒビで覆われていた。蜘蛛の巣のように。どのヒビも黒い影で塞がれている。
何かを思いかけた。
温かい。温かくて、眠い。思考が溶けていく。
きれいだ。
あの光の色を、俺は知っている気がする。どこかで見た。いつ見た。思い出せない。思い出さなくていい。きれいだから。手を伸ばした。ガラス玉に触れようとした。指先があと少しで届く。
「北島さん!」
腕を引かれた。強く。肩が外れるかと思うほど強く。春野の声だった。耳元で叫んでいる。
「腕! 溶けてます!」
何を言っているんだ。腕は溶けるものだろ。
「見ろよ、春野。きれいだ」
「見えないです! 黒いドロドロしか見えないです! それから離れて!」
お父さん、忘れないで
声が聞こえた。すぐ耳元で。銀河の中から。甘い声。子供の声。
——いや、俺は独身だ。
何を言っている? 結婚して七年目だろ。妻の足音がリビングに消えていく。ドスドスと床が軋む音。結婚した頃はもっと軽やかだった気がするが、まあ七年も経てば色々と変わるものだ。本人には絶対に言えないが。
大丈夫だ。忘れない。忘れるわけがない。
誰を?
何を忘れないんだ?
分からない。分からないが、忘れないと答えてあげたい。答えなければいけない気がする。
「立ってください! 階段! 階段まで走って!」
春野が俺を引きずっていた。腕を掴んで、廊下を走っている。俺の足はまともに動いていない。引きずられている。黒いものが、いや銀河が俺達を追ってくる。床を壁を天井が、宇宙に変わる。
階段が見えた。春野が俺の体を引っ張ったまま、階段に飛び込んだ。
足を踏み外した。
春野の手が離れた。俺の体が宙に浮いた。ほんの一瞬。階段のたった一段の、わずかな落差。
地面から足が離れた。
背中から落ちた。肩を打った。腰を打った。そのまま転がる。止まらない。踊り場まで転がり落ちて、壁にぶつかって、ようやく止まった。
息ができない。肺の中身が全部出ていった。何がどうなっている。上も下も分からない。
突然胸が、焼けた。
ブローチだ。胸ポケットの中で焼けている。皮膚を焦がすような熱さ。反射的に胸を押さえた。指の隙間から光が漏れた。
青白い光。
壁や天井に視えていた銀河が消えた。温かさが消えた。甘い声が消えた。代わりに、痛みが戻ってきた。階段に叩きつけられた背中が痛い。肘が痛い。膝が痛い。喉の奥に血の味がする。
春野が隣で倒れていた。俺と一緒に転がり落ちたのだろう。必死に起き上がろうとしている。
光はブローチから溢れていた。漏れるというより、噴き出していた。胸を押さえた指の隙間から、手の甲を伝って、腕を這い上がっていく。
背中に回った。肩甲骨の内側から、何かが押し出されるような感覚。痛くはなかった。痛くはなかったが、自分の体が自分のものではないような。
背中から、何かが抜けた。
空気が変わった。俺の背後で、空気の密度が変わった。
黒いものが階段の上から降りてくる。壁を伝って、天井を這って。
青白い手が、それに殺到した。
宙に浮いている。腕も肩もない。手だけだ。大小さまざま。大人の手。子供の手。十、二十——数え切れない。
俺等を追いかけてきた黒い影を、掴む。引き裂く。
さっき見た光景が重なった。ガラス玉の中で、内壁に体当たりしていた青い光。あれが、今、解き放たれている。同じだ。同じ獰猛さ。休まない。一切休まない。一つが引き裂き、次が掴み、また次が叩きつける。
黒いものが散っていく。カラカラと笑い声を立てて。美しい、乾いた笑い声。
負けて悔しがっているんじゃない。笑っている。本当に笑っている。
黒い銀河が消え去った。
助かった——
そう思った瞬間、青白い手が俺に向かってきた。肩を掴まれる。腕を。背中を。そして、首に。小さな手だった。子供の手。細い指が、俺の喉に巻きつく。
締まる。息ができない。
春野が視界の端に見えた。同じだ。首を押さえて、口を開けている。声が出ていない。小さな手が、さらに強く締める。ガラス玉の中で壁に体当たりしていた、あの力。全く同じ力で、俺の首を絞めている。
視界が暗くなる。息が止まった。吸えない。吐けない。胸が痙攣している。肺が空っぽのまま潰れていく感覚。頭の芯が痺れる。耳の奥で心臓の音だけが聞こえる。どくん、どくん、どくん。だんだん遅くなっていく。
その時、別の手が俺の顔に触れた。
大きい手だった。細い指。滑らかな感触。大きいが、女の手だ。
頬に触れる。違う、撫でているんじゃない。指が、俺の顔をなぞっている。頬骨の位置。鼻筋の形。眉間から額へ。
何かを確かめている。
指先が瞼に触れた。睫毛の一本一本を確認するように、ゆっくりと。顎の角度。耳の形。何度も。同じところを、繰り返し優しく。
対照的に首を締める小さな手の力は変わらない。息ができない。意識が遠い。なのに、顔を触る手は止まらない。髪の生え際。うなじ。また頬に戻る。
執拗に。丁寧に。
暗闇の中で、誰の顔か確かめるように。この顔は。この骨格は。この人間は。
酸欠で視界が白くなる。もう駄目だ。
その瞬間、大きな手が動いた。俺の首を締めている小さな手を掴んだ。
引き離そうとしている。小さな手が抵抗する。締める力が強まる。
大きな手が、それを引き剥がす。小さな手がもがく。それでも、大きな手は離さない。ゆっくりと。確実に。小さな手が、俺の首から離されていく。
離された小さな手が暴れた。宙で、何かを掴もうとしている。大きな手が、その小さな手を包んだ。両手で。指を一本ずつ押さえるように。暴れる小さな手を、しっかりと。
小さな手の動きが止まった。大きな手の中に収まっている。すっぽりと。小さな手が、大きな手の中で、微かに震えていた。大きな手の親指が、小さな手の甲を撫でた。一度だけ。
空気が流れ込んだ。
俺は階段の踊り場に崩れ落ちた。四つん這いで咳き込む。呼吸が戻らない。喉が潰れたかと思った。隣で春野も咳き込んでいる。
顔を上げた時、青白い手は消えていた。黒いものも。階段の蛍光灯が、何事もなかったように点いていた。
しばらく、どちらも動けなかった。
「北島さん」
春野が壁にもたれていた。
「何だ」
「僕、怖かったです」
俺は春野を見た。返事ができなかった。
「おばけが怖かったんじゃないです」
春野の目が、まっすぐ俺を見ていた。
「北島さんが怖かった」
俺は何も言えなかった。
「笑ってたんですよ。腕を溶かされながら」
腕を見た。手首の内側に、薄い痣のようなものがある。火傷の跡に似ている。
「きれいだって言ってました。僕には黒いドロドロにしか見えなかったのに」
春野の声が、少し震えていた。
「僕が何回叫んでも、振り向いてくれなかった」
俺は壁に手をついた。
「……すまん」
「謝らないでください」
春野が立ち上がった。膝が震えている。俺と同じだ。
「謝られると、なんだかもっと怖くなるんで」
ふっとため息を付いた春野が思い出したかのように続ける。
「そういえば北島さん、腕大丈夫ですか? よく見たらスーツ、別に溶けていないです」
「え? ああ、そうだな。確かになんともないな」
手足をぷらぷらとして見てみたが、何もおかしいところはない。腕なんて溶けていないし、スーツも大丈夫だ。強いて言うなら、背中と首が非常に痛い。
「うわ、北島さん。首やばいですよ。青痣になってる」
首を絞められた影響は残っているのか。春野の首の方を見るとコイツの首にも青痣が残っているのが確認できた。お揃いのおしゃれダメージ加工だ。おばけが入れてくれるタトゥー屋さん。温泉施設から追い出されるか微妙なラインだな。
「労災おりるかな、これ」俺は言った。
「申請書、なんて書くんですか。『おばけに首を絞められた』とか?」
「却下だな。上長がお前なら承認降りそうだけど」
春野が鼻で笑った。首を擦りながら立ち上がる。俺もブローチを取り出した。青い小鳥。安っぽいプラスチックの質感。熱を持っていたと思うが、溶けたりはしていないみたいだ。
「……それが助けてくれたんですよね? ピカピカ光りだしてましたし」
春野が聞いた。
「分からん。でも、生きてる」
春野が首を傾げた。黒い影を追っ払ってくれたのは助かるが、その後もこっちをターゲットにしてきやがったのはマイナスポイントだ。残念だが、女に首を絞められて喜ぶ趣味は俺にはない。彼女にしてやることは難しそうだ。他の男に当たってくれ。
「帰るぞ」
立ち上がる。膝が震えたままだ。胸ポケットにブローチをしまった。気色が悪いから捨ててしまうか迷ったが、女を床に投げ捨てるのは気が引ける。
廊下を歩く。歩き始めてもまだ膝が震えてる。階段を上がる。非常灯が正常に点いている。
一階に出た。壁のポスターも、女優が微笑んでいる。
「あ、北島さん」
声をかけられた。反応が、一拍遅れた。当直が、受付のカウンターから顔を上げていた。二十代後半ほどの男。
「こんな時間までお疲れ様です。証拠品倉庫ですか?」
「……ああ。そんなところですよ。刑事課から依頼をされていて」
声が掠れていた。喉が痛い。
「大丈夫ですか? 風邪ですか?」
「寝不足でしてね。歳を取ると眠りが浅くなるんですよ」
当直が愛想笑いをしてくる。若者にとって、おじさんのこういう触れづらいジョークはしんどかろう。だが、普通に何事もなかったように。さっきまで、誰もいなかった。受付も空だった。
でも今、当直がいる。俺はそれ以上、何も言わなかった。
帰り支度をして、春野と一緒に外に出た。夜風が首の痣にしみた気がする。神山署から最寄り駅まで、歩いて十五分ほどの道のりだ。二人で並んで歩く。商店街のシャッターが全部降りている。街灯がまばらに道を照らしていた。俺たちの影が、長く前に伸びている。
春野が黙っている。珍しい。こいつは普段、黙っていられない人間だ。コンビニの前を通り過ぎた。自動ドアの光が明るかった。店員がレジに突っ伏して寝ている。勤勉な態度だ、いずれビックな男になる。ああ、平和な夜だ。さっきまでのことが嘘みたいだ。
しばらく歩いた。春野の足音と、俺の足音。二人分の革靴が、アスファルトを叩いている。
踏切の手前で、春野が口を開いた。
「北島さん」
「何だ」
「さっきの手」
春野が前を向いたまま言った。俺の方を見ていない。
「北島さんの背中から出てきてましたよね」
俺は歩きながら、前を向いていた。
「ブローチが光って、北島さんの体を何か通っていって。で、背中から出てきたんです。あの青い手」
春野の声は平坦だった。事実を並べているだけの声だった。
「……そうなのか」
「見えなかったですか?」
「背中は見えんだろ」
「それは確かに」
踏切が鳴り始めた。遮断機が降りてくる。二人とも足を止めた。電車が来るまでの間、赤い点滅が俺たちの顔を照らしている。
「気持ち悪くなかったですか」
春野が聞いた。
「何がだ」
「体の中を通っていったんですよ。あの手が。何本も」
「別に」
「別に?」
「嫌な感じはしなかったな」
嘘じゃなかった。胸が焼けた時は痛かった。背中を何かが通り抜けた時は、自分の体じゃないみたいだった。でも、嫌じゃなかった。むしろ——
「暖かかったぞ」
春野が黙った。
電車が通過した。風が吹いた。春野の髪が揺れた。窓の明かりが、何十枚も連なって流れていく。電車が過ぎ、遮断機が上がった。
歩き出した。駅にもうすぐ着く。目の前だ。
「北島さん」
「何だ」
春野が口を開きかけた。閉じた。もう一度開いた。
「……何でもないです」
改札の前で立ち止まった。春野は反対方向のホームだ。ここで別れる。
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
春野が冗談混じりに敬礼をした。形が崩れている適当な敬礼。
俺は改札を通った。ホームに出た。電光掲示板を見上げた。次の電車まで八分。
ベンチに座った。首が痛い。痣を指で触る。ざらついた感触。向かいのホームに、春野が立っていた。スマホを見ている。
しばらくぼんやり眺めていた。
スマホの画面が光っている。でもスクロールしていない。同じ画面をずっと見ている。立ち方もおかしい。いつもは片足に重心を預けて、だらしなく立つ。今は両足に均等に体重をかけて、まっすぐ立っている。
ふと、手を振ってみた。
理由は分からない。向かいのホームで突っ立っている部下の顔が妙に硬くて、ちょっとからかってやりたくなっただけだ。
春野がスマホから顔を上げた。
俺を見た。
一瞬、きょとんとしていた。それから、手を振り返してきた。大きく。子供みたいに。何だそれは。俺等は小学生か。春野が嬉しそうに笑っていた。