善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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4 緊急逮捕

 翌朝、俺は死んだ目で出勤した。昨夜の出来事が頭から離れない。瞼を閉じれば、黒い何かがうねる。首に手の感触が残っている。おかげで一睡もできなかった。

 住民問題対応班のオフィスに入ると、春野が既にいた。机に突っ伏している。

 

「おはようございます……」

 

 顔を上げた春野の目の下には、くっきりと隈ができていた。俺と同じだ。

 

「寝れたか」

「無理でした」

 

 だろうな。わけの分からん化け物に襲われて、その日の内にスッキリと眠れるなんて出来るわけがない。もしも出来るならソイツも化け物だ。俺は自分のデスクにどっかりと座った。椅子が軋む音が、やけに大きく聞こえる。

 

「コーヒー、飲みます?」

「ああ」

 

 春野が俺のデスクの引き出しを勝手に開ける。インスタントコーヒーの瓶を手に取り、のろのろと電気ケトルに向かった。普段、こんな気を使うなんて春野はしない。コーヒーを淹れるなど珍しい。コイツも相当堪えているのだろう。

 

 俺は目を閉じた。瞼の裏に、青白い手がちらつく。今もなお、すぐ目の前に現れてきそうな錯覚が。駄目だ、考えるな。

 

 ジョボジョボという情けない水音と共にコーヒーの匂いが漂ってきた。春野がマグカップを二つ持って戻ってくる。あ、コイツは自分も飲みたくてコーヒーを淹れると提案したのか。一杯分の金でも請求しようか。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 熱いコーヒーを啜った。苦い。目が覚める気はしない。春野はオエッとベロを出して飲めないアピール。そういやお前はコーヒー苦くて飲めないって言ってたな。悪いがダンディな俺はブラックで飲んでいる。だから砂糖やミルクは持っていないのだ。春野が波々と注がれているマグカップを睨んでいる。口つけたんだから最後まで飲みなさいよ。

 

 その時、ドアがノックされた。

 

「失礼します」

 

 斎藤だった。顔を見た瞬間、嫌な予感がした。気まずそうな顔をしている。何か言いにくいことがある時の顔だ。お前のその表情、ここ最近ずっと見ている気がするよ。

 

「北島さん、お疲れ様です。あの、それで……」

「何かありましたか」

「犯人、捕まりました」

 

 耳を疑った。捕まっただと? 俺は斎藤の顔をじっくりとねっとりと見た。斎藤は目を逸らす。

 

熊沢剛(くまざわつよし)、三十歳、元建設作業員です。ついさっき、警視庁捜査一課が逮捕しました」

 

 斎藤の説明を聞き、何も言わずに春野と視線を交わす。俺はおもむろに、これみよがしに胸ポケットからブローチを取り出した。青い小鳥。安っぽい作りで、塗装は剥げ剥げ。留め具も錆び錆び。鑑識が見たら鼻で笑う、百均アクセサリー。

 

 これを見つけるのに二週間かかった。

 

 ブローチに後付で着けられたチェーンに指を通す。斎藤の目の前で、くるくると振り回してやった。どうだ、欲しいか? 娘が母親を思ってプレゼントしたこのプライスレスな逸品を。

 

「あ……」

 

 斎藤の視線がブローチに釘付けになる。

 

「それが、清水刑事が盗んだ……」

「ああ」

「見つかったんですね」

「昨日、見つかったな。買い取ってくれるか? 人件費を考慮してざっと三十万くらいで良いぞ」

 

 ゆっくりと喋る俺の声は平坦だった。平坦にした。二週間。毎日のように他署を回った。埃っぽい倉庫を漁った。古い台帳を読み漁った。徹夜で資料を突き合わせた。そしてようやく、神山署の証拠品倉庫で見つけた。昨日の夜だ。

 

 斎藤の顔が複雑に歪んでいる。申し訳なさと、安堵と、気まずさが全部混ざったような顔だ。何か言おうとして、言葉が出てこない様子だった。

 

「北島さん、北島さん」

 

 春野が俺の肩をトントンと叩いた。その顔を見れば、何を言いたいかは分かる。というか俺も同じ気持ちだ。

 

「言いたいことは分かるぞ」

「ですよね」

 

 斎藤が両手を上げた。降参のポーズだ。

「あの、本当に申し訳ないと思っていまして……」

「斎藤さん」

 

 春野が一歩前に出た。笑顔だった。笑顔だが、目が笑っていない。

 

「住民問題対応班は二週間もの間、証拠品倉庫を回り、台帳を調べ、徹夜で資料を読み、大変頑張ってきました。おかげさまで北島さんは白髪が増えました」

「それは元々では」

「おい」

 

 白髪染めしているからそんなにはない。

 

「事実です。それで昨日やっとブローチを見つけて、今日来たら犯人もう捕まってました。この二週間、なんだったんですか」

 

 斎藤が何も言えずに固まっている。俺は黙って見ていた。春野が俺の不満を代弁してくれているから、助け舟を出す必要はない。というか出す気もない。

 

「本当に……本当に申し訳ない……」

 

 斎藤が深々と頭を下げた。四十代の刑事が、二十代の巡査に頭を下げている。普通なら見ていられない光景だが、今は気分がいい。

 

「無駄な労力を使わせたお詫びに、今回の事件の話くらいは聞かせてもらえるんだろうな」

 斎藤が顔を上げた。

 

「捜査に関する情報は、関係部署にしか……」

「ふうん」

 俺はブローチを指先で弾いた。やはり安っぽい音がする。

 

「俺達のこと、都合のいい女みたいに使うんだな、お前は」

「え?」

「二週間も関係を持っておいて、用が済んだら『関係部署じゃないので』か。酷い男だ」

 

 春野が即座に乗っかった。

 

「酷い! 僕たち、弄ばれたんですか!」

 廊下を通りかかった職員が足を止めた。斎藤の顔が赤くなる。

 

「あの、声が大きい……」

「弄ばれた女性は声も出しちゃいけないんですか!」

 

 職員が斎藤の顔をじっと見て、首を振りながら通り過ぎていった。明らかに軽蔑の目だった。男女のもつれ、いや男男(だんだん)のもつれか。

 

「斎藤さん。住民問題対応班は二週間もの間、大変頑張ってきました」

「——奇遇ですね。神山警察署、刑事課も同じく頑張ってきました」

「そうですかそうですか! 僕達は立派ですね!」

 

 春野と斎藤はワハハと笑い合っているが、これは不満の鍔迫り合いだ。春野は今にも斬りかかりそうな気配を見せており、斎藤はそれをさせまいと冗談の雰囲気を出している。達人の間合いだ。どちらが死ぬか見ものだな。

 

「斎藤さんの勘ってなんですか! せっかく清水刑事が残した遺品を見つけたんですよ! 犯人捕まってたらこの二週間が全部パーじゃないですか!」

「本当にすみませんでした。本当に本当に申し訳ない……」

 

 春野が怒り狂っている。本来なら止める必要があるが、面白いから止めない。俺も乗っからせてもらう。

 

「もう一度言おうか。無駄な労力を使わせたお詫びに、今回の事件の話くらいは聞かせてくれるんだろ?」

「捜査に関する情報は関係部署にしか……」

「このブローチを三十万で買い取るか、ふらちな噂を流されるか。どちらがいい?」

 

 斎藤は肩を落とし、ため息をついた。

 

「……分かりました」

 

 俺は椅子に深く座り直した。これから斎藤によるすべらない捜査話が始まる。これは警察関係者だけが聞けるバラエティ番組だ。コーヒーを一口飲む。まだ眠い。

 

 

「逮捕された熊沢の動機について調べていたら、色々と出てきまして」

 斎藤が鞄から資料を取り出した。

 

「まず先に例の銀行記録、正式に届きました」

「銀行記録……って何でしたっけ」

 

 春野が首を傾げた。二週間、ブローチ探しに明け暮れていたから無理もない。俺も正直、細かいことは曖昧になっている。

 

「権藤邸の現場に、ノートが置いてあった件ですね」

 斎藤が説明を始めた。

 

「怪しいお金の動きがあった、みたいな内容のやつです。権藤昇が実際に光崎一家殺人事件の際に司法介入したのかどうかって」

「あー、ありましたね。そんなの」

「で、そのノートが本物かどうか確認するために、権藤昇の銀行口座を調べたんです。ノートに書いてある金額と、実際の出金記録が一致するかどうか」

「なるほど」

 

 春野が頷いた。理解しているのかどうかは怪しい。

 

「それで、ノートと照合したんですが、金額が概ね一致してるんです」

「あ、じゃあ本当に」

「ノートに書いてあった金額と、実際の出金記録が。日付は数日ずれてますし、完全に同じではないんですが、規模感が近い」

 

 斎藤がカバンから資料を取り出して机に置いた。どうやら簡易的な捜査会議に使う資料のようだ。俺はその資料を見た。確かに、現場のノートに書かれていた金額に近い数字が並んでいるようだ。

 

「じゃあ、あのノートは本物だったってことか」

「いえ、そこが微妙なんです」

 斎藤が別の項目を指差した。

 

「一致しているのは『出金があった』という事実だけで。百万とか、十万とか。現金で引き出されてるんですが、何に使ったかは分からない」

「現金引き出しか」

「ええ。振込先が記録に残る支払いは、弁護士費用とか会食費とか、違法性のないものばかりで。使途不明なのは全部現金なんです」

 

 春野が首を傾げた。

 

「じゃあ、怪しいけど証拠にはならない?」

「そうなんです。現金を引き出すこと自体は違法じゃないので」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「まあ、そのまま調べるのは当然だろうな。殺人事件の被害者の背景を洗うのは普通の捜査だ」

「それはそうなんですけど……」

 

 斎藤が言葉を切った。

 

「刑事課では、もう『確定』みたいな空気なんです」

「確定?」

「『やっぱり権藤昇は司法介入してた』『このノートは本物だ』『だから殺されても仕方ない』みたいな」

 

 俺は斎藤を見た。

 

「証拠は揃ったのか」

「揃ってないです。現金の使途は不明のままで、ノートが本物かどうかも断定できない。でも……」

 斎藤が声を落とした。

 

「みんな、もう決めつけてるんです。『一致してるんだから黒だ』って」

「反論したのか」

「しました。『使用用途が分からないから断定はできない』って言ったら、『権藤昇の肩を持つのか』って」

 

 俺はコーヒーを啜った。苦い。コーヒーが急に不味くなった。

 

「まあ、そういう空気になることもあるだろ。大きい事件だしな」

「……そうですかね」

 

 斎藤の声には、納得していない響きがあった。

 

「それで、熊沢の動機は何なんだ」

 

 俺は話を進めた。銀行記録の話はいい。気になるのは犯人の方だ。刑事課の雰囲気がおかしい話をされると、昨日の気分が戻りそうだった。

 

「それが……」

 

 斎藤が別の資料を見せてくる。紙には写真が載っていた。地方の商店街の写真だ。東京ではなかなか見ない、と思わせておいて意外と存在しているオールドタイプな商店街だ。風情があって良い。

 

「熊沢の実家、雑貨店なんです」

「雑貨店?」

「ええ。五年前に権藤昇が推進した開発事業で、この地域に大型ショッピングモールが出来まして」

 

 斎藤がスマホから別の写真を見せた。巨大なモールの外観だ。

 

「それで売上が落ちたと」

「そうです。刑事課では『権藤の開発で地域経済が破壊された』『熊沢は被害者だ』という見方で」

 

 俺は頷いた。よくある話だ。大型店が来れば、個人商店は苦しくなる。

 

「で、それで実家の店が潰れたってことか」

「いえ、二割くらいです」

「二割?」

「ええ。売上が二割減って、大変にはなったみたいですが……」

 

 斎藤が最初の資料をもう一度指差す。商店街の風景。よくよく見るとシャッター通りというほどではなく、普通に営業しているのがわかる。

 

「ここですか。確かにお店やってますね」

 春野が資料を覗き込んだ。

 

「『営業中』って札、出てます」

「……ええ」

 斎藤が頷いた。

 

「ご両親に電話で確認したんですが、『大変だけど何とか続けてる』と。息子がそんなことを考えていたなんて知らなかった、って」

 

 俺は写真を見た。確かに、店は営業している。もはや何がなんだか分からん。分からん続きで困っちゃうな。誰かいい大学を出た人、説明してくれないか。

 

「潰れてない、のか」

「潰れてないですね」

「売上が二割減で、でも営業は続けてると」

「はい」

 

 春野が首を傾げた。

 

「それって、『破壊された』って言います?」

 斎藤が黙った。俺も黙った。

 二割減は確かにきつい。でも、廃業するほどじゃない。「大変だけど何とかやってる」レベルだ。

 

「刑事課では、どういう扱いなんだ」

「『深刻な被害だ』『熊沢の怒りは理解できる』って」

「二割減で?」

「……はい」

 斎藤の声が小さくなった。

 

「それを指摘したら、『被害者の苦しみを軽視するのか』って」

 

 俺は腕を組んだ。

 被害者? 熊沢は殺しをしたから容疑者だろ。人を殺した側だ。それが被害者か。容疑者が被害者なら、被害者が刑罰を受けることになるということか?

 

 被害者を罰するなんて閻魔様にしか出来なそうだな。閻魔様にお伺いをするために、首吊ってあの世に出張でもするのか。神山署の労働環境はどうも良くないらしい。

 

「熊沢本人は何て言ってる」

「それが一番、引っかかるんです」

 

 斎藤が熊沢の言葉を並べた。

 

「『権藤昇は俺の家族の生活を破壊した』『両親は毎日苦しんでいる』『家族を守るために、俺が戦わなければならなかった』——本気で、そう言ってます」

「でも、ご両親は『何とか続けてる』って言ってるんですよね?」

 

 春野が呟いた。コイツも相当混乱しているようだ。眉間に皺が寄っている。

 

「ええ」

「ズレてますね」

「そうなんです」

 斎藤が俺を見た。

 

「客観的な事実と、熊沢の認識が全然違う。店は潰れてない。両親も『大変だけどやってる』と言ってる。でも熊沢は『破壊された』『毎日苦しんでる』と信じてる」

 

 俺は目を閉じた。頭が痛くなった、目も霞んできたのだ。破壊。毎日苦しんでいる。戦わなければならなかった。大袈裟すぎる。二割減の売上で、ここまでの言葉が出てくるか? 誰かさんみたいな論理の飛躍だ。拳銃保管室に向かったおバカさんと同じ。

 

「刑事課は、このズレをどう見てる」

「……誰も気にしていないですよ」

 

 斎藤の声が苦い。半笑いだ。

 

「熊沢の怒りは正当だの一点張りで。もう反論なんて出来ない雰囲気です」

 

 SNSの世論みたいだ。開示請求でもされそうなノリだな。刑事課がそれでいいのか。

 

「あと、気になる話なんですが。熊沢剛はネットで光崎一家の事件について書かれた投稿を見てたみたいなんです。それで共感したと」

「投稿?」

「ええ。ただ、どの投稿か聞いても『消えた』『もう見つからない』って。裏は取れてないです」

 

 俺は黙った。光崎一家の事件。ネットの投稿。消えた。裁判官殺しの時、聞き込みで主婦が言っていた話と一致する。あれは光崎本人が書いているという噂だった。

 斎藤は書き込み主は誰か知らないだろう。俺と春野が聞いた噂でしかない。しかも裁判官殺しの時も、俺が斎藤には教えなかった情報だ。

 

「署内では都市伝説みたいになってるんですよね。光崎一家の事件について書いた謎の投稿があるって。見た人はいるけど、証拠は残ってない」

 

 斎藤が肩をすくめた。

 

「熊沢の妄想なのか、本当にそういう投稿があったのか。分からないままです」

 俺は春野をちらりと見た。春野は何も言わなかった。珍しく空気を読んでいる。

 

「で、刑事課ではそれについてはどういう扱いなんだ。聞かなくてももう分かるが」

「お察しのとおり、調べる必要はないって」

 

 三人とも黙った。

 銀行記録。熊沢の背景。歪んだ認識。光崎の投稿。全部、調べること自体は正当だ。殺人事件の捜査として、何もおかしくない。

 

「斎藤さん」

 春野が言った。

 

「刑事課の人たち、最初から結論決まってませんか」

 斎藤が顔を上げた。

 

「権藤昇は悪人。熊沢は被害者。証拠を深堀りする前から、そう決めてる気がします」

 斎藤の肩から、少しだけ力が抜けた。

 

「……やっぱり、そう見えますか」

「見えます」

「よかった」

「正直、刑事課では……息子の方も、って声がありまして」

「息子?」

「権藤真澄です。今は精神病院にいますけど、『あいつも同罪だ』『生きてる方がおかしい』って」

 

 俺は黙った。拳銃保管室の前で、春野に声をかけられた昨日の夜のことが頭をよぎった。斎藤が小さく息を吐いた。

 

「俺の考えすぎじゃなかったんだ」

「考えすぎじゃないと思いますよ」

 春野があっさり言った。

 

「だって、店潰れてないのに『破壊された』はおかしいでしょ。普通に」

 斎藤が苦笑した。

 

「……その『普通』が、今の刑事課では通じないんです」

 俺は斎藤を見た。こいつも、一人で抱えていたのか。

 

「斎藤さん」

「はい」

「あんたの感覚は正しいと思うぞ」

 斎藤が、少しだけ笑った。

 

「……ありがとうございます」

 

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