善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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幕間2 光崎善人
1 第二の死 光崎善人


 美咲と陽菜が殺されてから五ヶ月後、裁判が始まった。

 

 五ヶ月。その間、何をしていたのか思い出せない。兄の家にいたはずだ。食事をして、眠って、また食事をして。たぶん、そういう日々だった。気づいたら法廷にいた。法廷に入ったのは初めてだった。正面に何人もの人間が並んでいた。裁判官というやつだろうか。誰が何をしている人間なのかはわからない。法廷はテレビで見るより狭い。天井が低い。傍聴席の椅子は硬くて、長時間座っていると腰が痛くなりそうだった。そんなことを考えている自分がいた。

 

 被告人席に、権藤真澄(ごんどうますみ)がいた。二十二歳。紺色のスーツを着ている。髪は短く整えられていて、顔色も悪くない。五ヶ月間、拘置所にいたはずなのに、日焼けでもしてきたかのような血色の良さだった。

 

 目が合った。

 

 権藤は私を見た。三秒か、四秒か。それから視線を外して、弁護人と何か話し始めた。笑っていた。小声で何か言って、笑っていた。

 美咲と陽菜を殺した男が、笑っている。

 

「被告人、権藤真澄は——」

 

 起訴状を読み上げる検察官の声で、裁判が始まった。担当検察官。五十代半ばほど。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけている。清水さんから「叩き上げの検察官で、絶対に手を抜かない人です」と聞いていた。

 

「検察側は、被告人の犯行を次の証拠により立証いたします」

 

 検察官の声は落ち着いていた。顔つきも自信に満ちていた。まさに、必勝。そのような雰囲気。

 

 最初に、防犯カメラの映像が提示された。事件当日、私の家の周辺を歩いている男の姿。黒いパーカーにジーンズ。フードを被っているが、横顔が一瞬映る。権藤真澄だ。体型、歩き方、靴。全部一致している。映像の時刻も、美咲と陽菜が殺された時間帯と重なっている。

 

 次に、目撃証言が読み上げられた。近所の主婦が、不審な男を見たと証言している。「何度もこの辺りをうろうろしていた」「若い男で、落ち着きがなかった」「光崎さんの家をじっと見ていた」

 

 さらに、物的証拠。現場から採取された指紋。権藤真澄のものと一致。現場に残されたDNA。権藤真澄のものと一致。

 

 これで終わる。

 

 証拠は揃っている。防犯カメラ。目撃証言。指紋。DNA。権藤真澄は刑務所に入る。死刑になるかは分からない。でも、少なくとも。

 

 私は傍聴席の硬い椅子に座ったまま、初めて息を吐いた。こんなにもあっけないのか。法廷にいる誰もが、そう思っているように見えた。傍聴席の人々。書記官。裁判官でさえ、淡々と証拠を確認しながらも、結論は見えているという表情をしていた。

 

 だが、権藤真澄だけが、笑みを消さなかった。

 

 裁判は数日間の予定だった。検察側の立証が終わった時点で、私は確信していた。勝てる、と。警察や検察の方々が命を削って集めた証拠は、完璧だった。検察官の立証は、隙がなかった。素人だって理解できるレベルだ。

 

 

 二日目の朝、法廷の空気が変わった。最初は気のせいだと思った。裁判官の表情が、昨日と少し違う気がした。硬い。何かを警戒しているような目つき。弁護人が立ち上がった。

 

「防犯カメラの映像についてですが」

 

 弁護人は五十代の男だった。高級そうなスーツを着ている。昨日までは自信なさげに見えたのに、今日は背筋が伸びていた。

 

「この映像の画質では、被告人本人と断定することは困難です」

 

 傍聴席がざわめいた。私も眉をひそめた。何を言っているのか。あの映像には、はっきりと権藤真澄が映っている。

 

「映像を拡大しますと、顔の特徴は極めて不鮮明です。同じような体格の人物であれば、誰でも該当し得ます」

 

 裁判官が頷いた。弁護人の方を向いたまま、三回。昨日、検察官が同じ映像を説明した時、裁判官は一度も頷かなかった。

 

「目撃証言についても、記憶の曖昧さが懸念されます」

 弁護人が続ける。

 

「事件から五ヶ月が経過しております。人間の記憶は時間とともに変容します。特に、苛烈なメディア報道の影響を受けて、本来の記憶が上書きされている可能性があります」

 

 また、裁判官が頷いた。気が付いたら、私は傍聴席の椅子の背もたれに、背中がついていた。いつの間にか、体が後ろに引いていた。

 

「そして、最も重要な物的証拠についてですが」

 弁護人の声が、わずかに上ずった。緊張しているのか。それとも、興奮しているのか。

 

「指紋およびDNA証拠について、重大な問題を提起いたします」

 

 検察官が立ち上がり、異議を唱えたが、裁判官は弁護人に続けるよう促した。

 

「これらの証拠は、採取過程において手続き上の瑕疵があったことが判明しました」

 法廷が静まり返った。

 

「具体的には、証拠採取時の立会人が適切に記録されておらず、証拠の連続性に疑問が生じております」

 弁護人が書類を示した。

 

「よって、これらの証拠は採用されるべきではありません」

 

 裁判官が書類を受け取った。目を通している。長い時間、目を通している。検察官が立ち上がった。

 

「裁判長、これは——」

「検察官、お座りください」

 

 裁判官の声は冷たかった。検察官は座らなかった。何か言っている。声が大きくなっていく。異議、という言葉が聞こえた。前例がない、という言葉も。裁判官が何か言った。検察官がまた何か言った。私の耳には、断片しか届かなかった。ただ、見えているものだけは分かった。検察官の顔が赤くなっていく。裁判官の表情が動かない。弁護人の顔が青ざめている。

 

 そして、その隣で——権藤真澄が、笑っていた。

 

 私は裁判官の顔を見た。目が合った。一瞬だけ。裁判官はすぐに視線を逸らした。この裁判は、何かおかしい。そう理解した時、自分の手が膝の上で握りしめられていることに気づいた。爪が掌に食い込んでいた。痛みはなかった。

 

 

 

 審理の最終日。検察官の論告求刑は、声が震えていた。

 

「被告人の犯行は計画的であり、残忍極まりない。何の罪もない母子を、長時間にわたり拷問し、殺害した。人間の所業とは思えない」

 

 法廷で、検察官は何度も言葉を詰まらせた。

 

「検察側が提出した証拠は、すべて合法的に採取されたものであり、手続きに何ら問題はありません。弁護側の主張は、犯罪者を逃がすための詭弁に過ぎません」

 

 裁判官は無表情だった。何も考えていないのか、聞こえていないのか。本当に同じ人間の顔なのか。

 

「遺族である光崎善人(こうざきよしひと)氏は、最愛の妻と娘を失いました。その無念を晴らすことが、司法の役割ではないでしょうか」

 

 私を見た。検察官が、私を見た。

 

「被告人には死刑を求刑します」

 

 弁護側の最終弁論は、短かった。

「証拠に重大な瑕疵がある以上、有罪とすることはできません。被告人は無罪です」

 

 それだけだった。そこから先の記憶がない。裁判官が何か言っていた。次回の日程。傍聴席の人々が立ち上がる気配。私も立ち上がったのだろうか。法廷を出たのだろうか。どうやって兄の家に帰ったのだろうか。

 

 

 判決の日。裁判官が口を開いた。

 

「判決を言い渡します」

 法廷が静まり返った。私は拳を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。

 

「被告人、権藤真澄を——」

 裁判官の声が、一瞬途切れた。

 

「無罪とする」

 音が遠くなった。

 

「主文、被告人は無罪」

 裁判官の口が動いている。声が聞こえない。

 

「証拠の採用過程に重大な瑕疵があり、被告人の犯行を立証するに足る証拠がない。よって——」

 

 椅子が倒れる音がした。検察官が立ち上がっていた。顔が真っ赤だった。

 

「ふざけんな」

 静かな声だった。法廷全体に響いた。

 

「ふざけんなよ」

 声が大きくなった。

 

「誰がどう見てもコイツが殺してるだろ!」

 

 検察官が、権藤真澄を指さした。警備員が駆け寄った。検察官の腕を掴もうとした。振り払った。

 

「DNAも指紋も、目撃証言も全部揃ってる!」

 二人目の警備員が来た。検察官の体を押さえつけようとした。

 

「それを手続きの瑕疵だと? 全部、適切に処理されているだろ! 誰に言わされてんだ!」

 

 三人目。四人目。検察官の体が、複数の腕に囲まれた。

 

「茶番だ! こんなの裁判じゃない! お前、自分の法服の左襟を見ろ! 恥ずかしくないのかよ!」

 

 引きずられていく。法廷の出口に向かって、引きずられていく。声が遠ざかっていく。廊下に消えていく。裁判官は席に座ったまま、書類を見つめていた。顔を上げなかった。被告人席で権藤真澄が立ち上がった。弁護人と握手した。笑顔だった。振り返って、傍聴席を見た。私と目が合った。

 

 権藤は笑った。口の端だけで、笑った。そして、法廷を出ていった。

 

 私は座ったままだった。立ち上がる力がなかった。周りで人が動いている気配がした。傍聴席から人がいなくなっていく。誰かが私の肩に手を置いた。振り返らなかった。

 

 

 

 無罪判決から二週間が経った。清水さんから連絡がなかった。裁判の間、清水さんは一度も法廷に来なかった。「上から圧力がかかっている」と言っていた。でも、判決が出れば連絡をくれると思っていた。権藤真澄は無罪になってしまったけど、控訴の準備があるとか、新しい証拠を探しているとか、何か言ってくれると。

 

 私は待っていた。

 

 兄の家で、スマートフォンを握りしめて、待っていた。着信音が鳴るたびに画面を確認した。広告メール。迷惑電話。清水さんからではなかった。三日目に、警視庁本部の代表電話にかけた。

 

「清水巡査部長をお願いします。光崎家事件の遺族の光崎です」

「少々お待ちください」

 

 保留音が流れた。一分。二分。三分。長かった。

 

「お待たせしました。申し訳ございませんが、捜査員への個人的なお取り次ぎは致しかねます」

「でも、清水さんは——」

「ご用件がございましたら、改めて担当部署からご連絡いたします」

 

 電話が切れた。連絡は来なかった。おかしい。何かがおかしい。清水さんは「個人的な約束」だと言ってくれた。どんな圧力があっても諦めないと言ってくれた。なのに、なぜ連絡がないのか。

 

 五日目にも電話した。同じ対応だった。

 七日目にも。同じだった。

 

 十日目、私は警視庁に直接行った。

 受付で清水さんの名前を出した。若い警察官の顔が強張った。「少々お待ちください」と言って、奥に消えた。戻ってきたのは別の人間だった。四十代くらいの、疲れた顔をした男。

 

「光崎さんですね」

「清水さんに会いたいんです」

「申し訳ありませんが、お会いすることはできません」

「なぜですか」

 男は答えなかった。目を逸らした。

 

「何かあったんですか。清水さんに何か——」

「お引き取りください」

 

 それだけ言って、男は背を向けた。私は警視庁の前に立ち尽くした。少し肌寒い風。季節が巡る、時間が進む温度。そうか、もう秋なんだ。

 

 

 

 ぼんやりとした日常の中、私は兄の家の居間で、コーヒーを飲んでいた。テレビはつけていない。新聞も読んでいない。ただぼんやりと、窓の外を見ていた。スマートフォンでニュースアプリを開いた。習慣だった。何を期待しているわけでもない。ただ、指が勝手に動いた。

 

 小さな記事が目に留まった。

 

『警察官が拳銃自殺。無実の男性を犯人に仕立て上げようとしたか』

 

 見出しを読んだ。でもなんだか理解できなかった。もう一度、読んだ。文字の並びは理解できた。でも、意味が頭に入ってこなかった。何度も何度もスクロールをし直して、読み直してやっと認知することが出来た。

 

『警視庁に所属する清水勇巡査部長が、警視庁内の倉庫内にて死亡しているのが見つかった。捜査関係者によると拳銃による自殺とみられている』

 

 自殺、拳銃、清水。三つの言葉が、頭の中でばらばらに浮かんでいる。繋がらない。一つの文章にならない。

 私が電話をかけていた時、清水さんはもう死んでいたのか。警察署に行った時、清水さんはもう

 

『清水巡査部長は、先日無罪判決が出た光崎家殺人事件の捜査を担当。違法な証拠収集や、被告人への執拗な追及が問題視されていた。関係者によると、清水巡査部長は遺族感情に強く肩入れし、捜査において冷静な判断力を失っていたという。「最初から犯人を決めつけていた」との証言もある』

 

 文字が滲んでいた。画面が揺れている。スマートフォンを持つ手が震えていた。いつから震えていたのか分からない。

 

『一方、無罪判決を受けた権藤真澄さんは、長期にわたる勾留や裁判の影響から、現在も精神的なダメージを抱えているという。周囲に「何もしていないのに犯人として扱われた。人生を大きく狂わされた」と話しているとの情報もある』

 

 権藤真澄が被害者。美咲と陽菜を殺した男が、被害者として描かれている。

 

『清水巡査部長の遺書とみられるメモには、「正義は死んだ」との言葉が記されていたという。法曹関係者からは「典型的な冤罪未遂のケース」「警察の体質的な問題が露呈した」との声が上がっている』

 

 最後まで読んだ。読み終わった後も、指が動いていた。画面を下にスクロールしている。記事はもう終わっているのに、指だけが動いている。

 

 清水さんが死んだ。

 テーブルの上に、クッキーの空箱があった。うさぎの絵が描いてある。

 うさぎ。クッキーなのに、うさぎ。うさぎはクッキー食べないだろ。草だろ。草食べるだろ。

 私は笑った。笑い声が止まらなかった。うさぎがクッキー食べてる。おかしい。おかしいだろ。なんでうさぎなんだよ。喉から音が出た。止まらない。うさぎ。クッキー。清水さんが持ってきたうさぎ。兄が駆けつけてきた。何か言っている。聞こえなかった。

 

 

 

 気づいたら、学校に復帰していた。いつから復帰したのか、よく覚えていない。兄に勧められたのだったか。医者に言われたのだったか。とにかく、教壇に立っていた。授業をしていた。生徒たちがいた。問題なくやれていたと思う。たぶん。

 

 ある日、校長室に呼ばれた。校長は六十代の男だった。穏やかな顔をしている。私が座ると、お茶を出してくれた。湯気が立っている。

 

「光崎先生」

「はい」

「少し、休まれてはいかがですか」

 

 休む。その言葉の意味を、頭の中で転がした。

 

「何かありましたか」

「いえ、その……」

 校長は言いよどんだ。目が泳いでいる。

 

「先生のことを心配する声がありまして」

「心配」

「ええ。生徒からも、同僚の先生方からも」

 

 何のことか分からなかった。私は普通に授業をしていた。普通に出勤して、普通に帰っていた。何も問題はないはずだ。

 

「休職という形で、少しお休みになられては」

 

 校長の声は優しかった。私は湯呑みを見た。お茶の表面に、天井の蛍光灯が映っている。

 

「辞めます」

「え?」

「辞めます。教師」

 校長の顔が固まった。

 

「光崎先生、落ち着いて——」

「いや、辞めますよ!」

 

 声が弾んでいた。自分でも分かった。なんで弾んでいるのか分からないけど、弾んでいた。とても気分がいい。

 

「辞めれば解決じゃないですか。心配されなくて済む。いいですよね。いい解決だ」

「先生、今は大きな決断をされる時期ではないと——」

「ありがとうございました」

 

 立ち上がった。頭を下げた。

 

「お世話になりました」

 

 校長が何か言っている。聞こえなかった。廊下に出た。足が軽い。なんだこれ。楽しい。分からない。何も分からないけど、楽しい。職員室に戻って、荷物をまとめた。同僚が何か言っている。心配そうな顔をしている。大丈夫ですよ、と言った。笑顔が出た。自然に出た。

 

 学校を出た。空が青い。風が気持ちいい。陽菜も学校に通っていたな、と思った。何年生だったっけ。八歳だったから、二年生か。三年生か。どっちだ。まあいいか。

 

 美咲は何て言うだろう。教師辞めたって言ったら。怒るかな。笑うかな。美咲の声。美咲の声って、どんなだっけ。

 

 まあいいか。

 最高の気分だった。なんでだろう。分からない。でも、最高だった。

 

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