善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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2 空の額縁を抱いて眠る

 どれくらい経ったのか、分からない。兄の家で横になっていた。天井を見ていた。兄が何か言っていた。食事を持ってきてくれた。食べたのか、食べていないのか、覚えていない。ある日、警察から連絡があった。自宅に戻っていいと。現場検証が終わったと。

 

 兄は止めた。まだ早いと。でも、私は戻ることにした。いつまでも兄の家にはいられない。荷物をまとめた。兄が車で送ってくれた。玄関の前で、兄は何か言った。何を言ったか、覚えていない。

 

 ドアを開けた。家の中は、綺麗だった。兄が清掃業者を手配してくれたのだろうか。警察は現場の清掃までしてくれるわけではない。少しだけ、血が飛び散っていて欲しかったと思った。まるで、何も起きていないかのようなこの空間が、私の全てを否定しているように感じてしまった。何も、何も変化のない日常。それが目の前に広がっている。

 

 最初に違和感に気づいたのは、匂いだった。

 

 なんだこれ。

 臭い。

 

 何が臭いのか分からない。でも、くさい。吐き気がする。知らない場所の匂いがする。知らない家の匂い。ここはどこだ。私の家のはずだ。私が住んでいた家のはずだ。美咲と陽菜と、三人で住んでいた家。

 

 でも、匂いが違う。何もかもが違う。美咲の匂いがしない。

 

 クローゼットを開けた。美咲の服が並んでいる。白いブラウス。花柄のワンピース。顔を埋めた。柔軟剤の匂いしかしなかった。

 

 えずいた。

 美咲の匂いは、どんな 匂いだったか。思い出そうと した。思い出せなかった。

 

 陽菜の部屋に入った。

 

   ベッドがある。机がある。本棚がある。折り紙が箱に入っている。ぬいぐるみが並んでいる。くまと、うさぎと、犬。陽菜はどれが一番好きだったか。    分からなかった。くまだった気がする。でも、うさぎだった気もする。毎晩抱いて寝て いたのはどれだったか。

 

 分からない。

 本棚から絵本を引っ張り出した。表紙に折り目がついている。何度も読んだ本だ。でも、どのページで陽菜が声を上げて笑ったのか、分からない。膝の上の重さも、髪の匂いも、ページをめくる小さな指も、何も戻ってこない。

 

  分からない。分からない。

 

 リビングに戻った。引き出しを開けた。写真が出てきた。美咲が笑っている。陽菜が笑っている。でも、それは写真の中の顔だ。動いている美咲が思い出せない。喋っている陽菜が再生できない。 頭の中で、動画を再生しようとした。美咲がキッチンに立っている。振り返って、何か言う。何て言った。   声は。声の高さは。再生できない。静止画しか浮かばない。写真と同じ、動かない顔。

 

 押し入れを開けた。段ボール箱を引っ張り出した。中身をぶちまけた。アルバム。手紙。陽菜が描いた絵。

 

 陽菜の絵を見た。クレヨンで描いた家族の絵。お父さん、お母さん、ひなちゃん。   でも、陽菜がこれを描いている姿が浮かばない。どの引き出しを開けても、どの箱を開けても、同じだった。

 

 物はある。思い出の品はある。でも、それを見ても、何も蘇らない。他人の家を荒らしている気分だった。知らない家族の遺品を漁っている空き巣みたいだ。床に座り込んだ。周りには、ぶちまけた思い出の品が散らばっている。

 

 あの日。

 あの日の朝。

 私は何て言って家を出たんだっけ。

 

「行ってきます」とは言った。たぶん。

 美咲は何て返した。陽菜は何て言った。

 思い出せ。

 最後の会話だ。最後に交わした言葉だ。

 思い出せ。

 

「いってらっしゃい」だったか。「気をつけてね」だったか。「傘持った?」だったか。美咲の声で再生しろ。陽菜の声で再生しろ。

 

 できない。

 文字だけが浮かぶ。    音がない。声がない。最後に何を話したか、分からない。

 

 私は床に倒れた。散らばった写真の上に、倒れた。美咲と陽菜の顔が、あちこちに散らばっている。笑っている。全部、笑っている。その笑顔が、どんどん他人の顔に見えてきた。知らない女。知らない子供。

 

 本当   にいた  のか。

 美咲は。 陽菜は。  本当に  この世に   いたのか。私が作り上げた       妄想なんじゃないのか。      寂しすぎて、頭がおかしくなって、   架空の家族を作り上げたんじゃないのか。

 

 だって、思い出せない。何も思い出せない。声も、匂いも、温度も。証拠がない。   この写真だって、どこかで拾ってきたものかもしれない。この服だって、誰かの服かもしれない。この家だって、    私が勝手に住み着いた他人の家かもしれない。

 

 私はずっと一人だったんじゃないのか。

 最初から。ずっと。

 

 一人で、この家に住んで、一人で喋って、一人で笑って。狂った男が一人で暮らしていただけなんじゃないのか。

 

 床に散らばった写真を見た。

 誰だ、この人たちは。知らない。知らない顔だ。

 私は笑った。

 また笑ってる。何で笑ってるんだろう。分からない。

 

 

 

 

 笑いが止まった。いつ止まったのか分からない。気づいたら、静かだった。床に横たわっていた。写真が散らばっている。知らない人たちの写真。

 

 体が動かなかった。動かそうという気も起きなかった。暗くなった。夜が来たらしい。電気をつける気力がなかった。暗闇の中で、天井を見ていた。天井は見えなかった。ただ黒いだけだった。

 

 検察官の顔が浮かんだ。

 法廷で叫んでいた。私のために。美咲と陽菜のために。「茶番だ」と叫んでいた。「裁判じゃねえ」と叫んでいた。

 

 声を枯らして、顔を真っ赤にして。引きずられていく時も、叫び続けていた。あの人は、私のために戦ってくれた。法廷で暴れて、それでも私たちのために戦おうとしてくれた。結果はどうなったのだろう。あの後、どうなったのだろう。処分を受けたのだろうか。仕事を失ったのだろうか。

 

 私は何もしなかった。お礼も言っていない。謝罪も言っていない。あの人がどうなったか、調べることすらしなかった。

 

 清水さんの顔が浮かんだ。

 雨の中、傘を差し出してくれた。断ったら、自分も濡れた。スーツの肩が黒く滲んでいった。

「必ず捕まえます」そう言った。

 

「個人的な約束です」そう言った。組織から止められていたのに。遺族対応は地域課の仕事だと言われていたのに。

 

 規則を破って、私に会いに来てくれた。息子の好きなクッキーを持って。

「また、お会いしてもいいですか」

 

 そう言ってくれた。あの時、私は何も言えなかった。言葉にすると、泣いてしまいそうだったから。清水さんは私のために戦ってくれた。私と、美咲と、陽菜のために。戦って、負けて、死んだ。私が巻き込んだのだ。私がいなければ、清水さんは死ななかった。普通に仕事をして、普通に家に帰って、息子とクッキーを食べて、普通に生きていた。私のせいで死んだ。

 

「正義は死んだ」遺書にそう書いてあったらしい。違う。正義は死んでない。正義のために戦った人が死んだんだ。私のせいで。他にも色んな警察の方が、行政の方が、兄が、私のために。みんなみんな私のために。

 

 

 美咲の顔を思い出そうとした。

 

 浮かんだのは、霊安室の顔だった。顔面の左半分が陥没している。右目があった場所は腫れ上がって、目の形をしていない。唇が裂けて、歯が覗いている。違う。その顔じゃない。生きていた時の顔を思い出したい。笑っている顔を。怒っている顔を。眠っている顔を。目を閉じて、集中した。

 

 美咲の顔。美咲の顔。美咲の——

 

 浮かんだのは、やっぱり霊安室の顔だった。陥没した頬。腫れ上がった目。裂けた唇。首に巻きついた縄の痕。消えない。消えない。どれだけ振り払っても、この顔が出てくる。生きていた美咲を思い出そうとした。朝、キッチンに立っていた美咲。

 

 顔が思い出せない。顔が出てこない。出てくるのは、怪物の顔だけだ。私の妻を使って作られた、別の何か。人間の顔を、悪魔の顔に作り変えられた、あの——

 

 やめろ。やめろ。思い出すな。でも、他の顔が浮かばない。生前の美咲が、死後の美咲に上書きされていく。本物の記憶が、怪物の記憶に侵食されていく。

 

 陽菜の顔を思い出そうとした。

 

 浮かんだのは、天使の顔だった。目を閉じて、穏やかに眠っている顔。霊安室で見た、あの顔。

 でも、首から下は——

 

 やめろ。

 天使の顔を、ボロボロの人形に縫い付けたような。縄の痕。引っ掻き傷。八歳の小さな手で、自分の首を掻きむしった痕。やめろ。その記憶じゃない。生きていた陽菜を思い出したい。

 

「お父さん」

 声が聞こえた。でも、それは楽しそうな声じゃなかった。笑い声じゃなかった。

 

「お父さん、助けて」

 

 その声だけが聞こえる。最後の瞬間の声。首を絞められながら、助けを求めた声。違う、俺は現場にいなかった。だからこの声は聞いたことがないはずだ。妄想だ。うその記憶だ。他の声が思い出せない。「お父さん、見て見て」と折り紙を見せてくれた時の声。「お父さん、大好き」と言ってくれた時の声。

 

 全部、消えている。

「お父さん、助けて」この妄想の声だけが、他の全ての記憶を塗りつぶしている。

 

 床に散らばった写真が目に入った。

 さっき見た写真。美咲と陽菜が笑っている写真。

 

 ——違う。

 髪型が違う。美咲の髪型が、さっきと違う。さっきはポニーテールだった。今は下ろしている。いや。最初から下ろしていたか? 陽菜の服も違う気がする。黄色いワンピースだった。今は青い。

 

 青だったか?

 見つめていると、そういうものだった気がしてくる。最初から青だった。最初から髪を下ろしていた。私の記憶が間違っていたのだ。

 

 遺影を見た。

 棚の上に、美咲と陽菜の遺影がある。美咲が微笑んでいる。陽菜が微笑んでいる。

 ——表情が違う。

 

 さっきはもっと、歯を見せて笑っていなかったか。今は口を閉じている。いや。最初からこうだったか。最初から口を閉じていたか。分からない。何が本当で、何が嘘か。何が記憶で、何が妄想か。

 

 私は遺影から目を離せなかった。見つめている間は、動かない。目を離したら、変わる気がする。目を離したら、霊安室の顔になる気がする。

 

 死んでいる。美咲と陽菜は死んでいる。体が死んで、記憶も死んでいく。いや、死んでいくんじゃない。

 

 殺されていく。

 

 生きていた二人の記憶が、死んだ二人の記憶に殺されていく。笑顔が、怪物の顔に上書きされていく。笑い声が、「助けて」という悲鳴に上書きされていく。あと何年かしたら、私は美咲と陽菜の生前を何も覚えていなくなる。覚えているのは、霊安室で見た二人だけになる。

 

 怪物と、人形。

 

 それが、私の家族の最終的な姿になる。そして、誰も本当の二人を覚えていない。私ですら、覚えていない。世界から、完全に消える。光崎美咲と光崎陽菜は、最初からいなかったことになる。

 

 

 時間が経てば傷は癒える、と人は言う。嘘だ。傷は癒えない。癒えてはいけない。癒えるということは、忘れるということだ。痛みがなくなるということは、美咲と陽菜がいなくなるということだ。私は痛みを手放したくない。この傷が残っている限り、私は美咲と陽菜を覚えていられる。この苦しみが続く限り、二人は私の中に生きている。

 

 幸せだったあの日々。朝食のにんじん。トイレットペーパーの芯。弁当を忘れる私。傘を持たせてくれる美咲。「お父さん、いってらっしゃい」と笑う陽菜。あの箱の中に、私はいつまでもいたい。痛みという鍵で閉じ込められた、幸せの箱。苦しみ続けることだけが、あの幸せを守る方法なのだ。

 

 なのに。神は、私から苦しみすら奪おうとしている。時間という暴力で、強制的に前を向かせようとしている。痛みが薄れていく。記憶が薄れていく。私の意志とは関係なく、傷が塞がろうとしている。

 

 嫌だ。

 傷よ、開いたままでいてくれ。痛みよ、消えないでくれ。この苦しみが終わる時、私は私ではなくなる。美咲と陽菜を忘れた私は、もう私ではない。別の誰かだ。知らない男だ。そんな男になるくらいなら——

 

 

 このまま死ぬのかな、と思った。

 それでもいいか、と思った。どうでもよかった。

 

 その時だった。

 部屋の温度が、変わった。冷たい。

 

 今は暖房がいらない季節のはずだった。でも、冷たい。吐く息が白くなりそうなほど、冷たい。体が動いた。動かそうとしたわけじゃない。勝手に動いた。起き上がって、遺影を見た。美咲と陽菜が微笑んでいる。

 

 ——違う。

 絶対にさっきと、違う。

 

 美咲の目が、こちらを見ていた。写真の目だ。動くはずがない。でも、こちらを見ていた。さっきまで、少し右を向いていたはずだ。今は、真っ直ぐに、私を見ている。陽菜の口が、開いていた。さっきまで閉じていた。微笑んでいた。今は、少しだけ開いている。何かを言おうとしているように。

 

 目を凝らしてじっと見つめていると遺影の中の美咲の顔が、歪んだ。

 

 笑顔が崩れていく。目が溶けていく。輪郭が曖昧になっていく。陽菜の顔も、同じだった。溶けていく。混ざっていく。遺影は二人分、隣り合わせで置いてある。その遺影そのものが、くっついている。一つの大きな遺影になっているのだ。そして二つの顔が、その中で一つになろうとしている。私は叫ぼうとした。声が出なかった。遺影の表面が、波打った。水面のように、揺れた。

 

 そして——何かが、滲み出てきた。

 

 黒い。

 黒い何かが、遺影の中から、這い出てくる。最初は染みのように見えた。写真からこぼれ出たインクのように。でも、それは広がっていった。遺影の枠を超えて、棚を伝って、壁を這って。

 

 触手だった。

 

 黒い触手が、何本も何本も、遺影から伸びている。部屋の中に、広がっていく。天井に。床に。壁に。私の方にも、伸びてくる。

 

 逃げなければ。

 

 体が動かなかった。触手が私の足に触れた。冷たくなかった。熱くもなかった。何も感じなかった。触れているのに、何の感覚もなかった。触手は私の体を這い上がった。腰を。腹を。胸を。首を。締め付けてはこない。ただ、這っている。確かめるように。

 

 私は遺影を見ていた。

 

 遺影があった場所に、穴が開いていた。黒い穴。底が見えない。星のない宇宙のような、完全な暗黒。その穴から、何かが出てくる。

 

 触手の本体。黒い影。

 

 人の形をしていない。形がない。形があるようにも見えるし、無いようにも見える。見るたびに違う形に見える。最初は、恐怖だけがあった。叫びたかった。逃げたかった。目を閉じたかった。でも、目を閉じられなかった。

 

 見続けた。

 すると——

 変わった。黒い影の中に、何かが見えた。

 光。

 小さな光が、いくつも瞬いている。

 星だ。

 黒い影の中に、星がある。銀河がある。宇宙がある。

 恐ろしかった。恐ろしかったのに、目を離せなかった。

 美しかった。

 見たことのないほど、美しかった。

 深淵の中で瞬く無数の星。渦を巻く銀河。生まれては消える光。

 私は泣いていた。

 恐怖で泣いているのか、美しさで泣いているのか、分からなかった。どちらでも同じだった。

 存在が、私を見た。

 目はなかった。顔もなかった。でも、見ていた。

 私という存在の全てを、見透かしていた。

 

 頭の中に、何かが流れ込んできた。言葉ではなかった。声でもなかった。

 ただ、理解した。存在が、私を知った。

 光崎善人という名前。三十二年間の人生。出会いと別れ。喜びと悲しみ。全部、知っている。私が忘れていることまで、知っている。

 そして、今この瞬間の私。空洞になった胸。動かない体。壊れかけた頭。全部、見透かされている。存在が、何かを差し出している。

 手はなかった。腕もなかった。でも、差し出している。受け取れば、変われる。受け取れば、奪い返せる。奪われたものを。壊されたものを。殺されたものを。映像ではなかった。言葉でもなかった。ただ、可能性が流れ込んでくる。

 黒い影の中から、何かがこちらに伸びてくる。権藤真澄の首を絞める可能性。権藤昇の目を見ながら心臓を止める可能性。裁判官の家族の前で同じことをする可能性。

 全部、できる。

 この存在が差し出しているものを掴めば、全部、できる。

 私は——

 

 清水さんが、雨の中で傘を閉じた。

 検察官が、法廷で被告人席を指さして叫んだ。

 名前も知らない制服の警官たちが、黄色いテープを張って、雨に打たれながら走り回っていた。

 あの日、私の家の前にいた。美咲と陽菜のために。

 

 

 だから、拒絶した。

 

 声には出さなかった。出せなかった。でも、拒絶した。頭の中で、はっきりと。それにそれに、私は教師だ。生徒に命の大切さを教えてきた。人を傷つけてはいけないと教えてきた。どれだけ憎くても。どれだけ殺したくても。

 

 

 私は、人を殺す側にはならない。

 

 

 存在が、止まった。一瞬、全てが静止した。

 それから——

 黒い影が、揺れた。

 星々がちかちかと瞬いた。不規則に。痙攣するように。

 笑っている。

 

 声は聞こえない。音もない。でも、分かった。この存在は、笑っている。面白がっている。復讐を拒絶した人間を、珍しいものを見るように、面白がっている。

 

 影が膨らんで、縮んだ。また膨らんだ。興味を持たれている。玩具を見つけた子供のような、残酷な興味を。

 

 存在が、形を変え始めた。触手が絡み合い、編み上げられていく。人の形に近づいていく。

 頭が、二つあった。

 一つは、私の顔だった。

 

 鏡を見ているようだった。私の顔。私の目。私の口。でも、表情が違う。私はあんな顔で笑わない。あんな目で人を見ない。

 

 もう一つは——

 美咲と陽菜の顔が、混ざり合っていた。

 美咲の輪郭に、陽菜の目。陽菜の口に、美咲の表情。二人の顔が溶け合って、一つになっている。

 吐き気がした。

 愛した顔が、冒涜されている。

 でも、目を離せなかった。

 その合成された顔が、口を開いた。

 声が聞こえた。

 

 

善人(おとうさん)

 

 美咲の声と陽菜の声。二つの声が重なっている。完璧に重なっている。

 その瞬間、頭蓋骨の内側で何かが弾ける。神経が一本一本、焼き切れていく。頭皮から始まって、首筋、背中、腰、足先まで、全身が波打って。皮膚の下で何かが蠢いている。内側から何かが出ようとしているのか。腰が砕ける。膝が折れる。立っていられない。私は床に崩れ落ちた。

 

 這いつくばったまま、顔を上げた。合成された顔が、私を見下ろしている。美咲の輪郭。陽菜の目。溶け合った二人の顔。

 

 なのに、目が離せない。

 

善人(よしひと)、起きて。善人(よしひと)ってば」

 

 美咲の声。

 忘れかけていた声が、完璧に再生されている。口の中が、一瞬冷たくなる。次の瞬間、鼻の奥から温かい液体が流れ出た。赤い。赤くて、温かい。涙が流れていた。いつから流れていたのか分からない。

 

 涙と鼻血と、全部混ざって、顔を伝って、床に落ちる。歯が腐って抜け落ちそうな感覚がある。舌先で確かめる。ぐらついている。いや、錯覚だ。錯覚のはずだ。でも、確かにぐらついている気がする。

 

「お父さん、靴下もいっつも脱ぎっぱなしだよね」

 

 陽菜の声。ああ、そうだ、言いたいことがあるんだ。実はお父さん、今は片付けちゃんと出来ていて、だから、家が綺麗だ、だから、

「いってらっしゃい。傘持った?」

 玄関に美咲がいる。見える。匂いがする。次の瞬間、玄関が消えた。式場だった。ウエディングドレスの美咲が笑っている。参列者の顔が全部見える。止まらない。記憶が止まらない。指輪をはめた時の、あなたの顔が——「お父さん、しっかりしてねー」

 

 

 この声が本物かどうか、もうどうでもよかった。

   もう一度。もう一度声を聞かせてくれ。

 もっと。もっと聞きたい。

   気持ちいい。

 こんなに気持ちいいことがあるのか。体の奥底から、何かが込み上げてくる。吐き気とは違う。泣きたいのとも違う。

 

 

 二人の声が途切れた。

 

 式場が消えた。美咲の顔が消えた。匂いが消えた。さっきまで全部見えていたのに。全部聞こえていたのに。

 

 また、この部屋だった。暗い部屋。一人の部屋。

 美咲の声を思い出そうとした。

 

 さっき聞いた。数秒前に聞いた。完璧に聞こえていた。「いってらっしゃい」の声。「傘持った?」の声。なのに、もう輪郭がない。音の高さが分からない。どこで息継ぎをしていたか分からない。数秒で、もう。

 

 陽菜の声を思い出そうとした。「お父さん」。さっき聞いた。聞いたはずだ。でも再生できない。頭の中で鳴らそうとしても、自分の声で読み上げてしまう。陽菜の声じゃない。私の声だ。私が陽菜のふりをしているだけだ。

 

 存在は、まだそこにいた。

 

 美咲と陽菜の合成された顔で、こちらを見ていた。微笑んでいた。何も言わなかった。何も差し出さなかった。ただ、そこにいた。

 

 私の中で、何かが終わった。

 何が終わったのか、分からない。でも、終わった。音もなく、静かに、何かが折れた。

 

 床を這った。腕で体を引きずった。膝が写真を踏んだ。美咲の顔を踏んだ。陽菜の顔を踏んだ。構わなかった。構えなかった。存在の足元——足元と呼べるものがあるのかは分からない。黒い影が床と接しているあたりに、たどり着いた。

 

 手を伸ばした。触手に触れた。感触がなかった。なのにしがみついた。感触のない何かに、爪を立てて、縋りついた。

 

 顔を上げた。合成された顔が、私を見下ろしていた。美咲の輪郭。陽菜の目。

 

「助けてください」

 自分の声が聞こえた。聞いたことのない声だった。掠れてもいない。震えてもいない。平坦だった。何もかもが抜け落ちた後の、空洞の声だった。

 

「助けてください」

 二度言った。二度目は、もっと静かだった。

 

 存在が、揺れた。星々が瞬いた。

 合成された顔が、微笑みを深くした。美咲と陽菜の微笑みが、一つになった微笑み。

 

 光崎の膝の下で、家族写真が折れた。

 

「お父さん、大好き」

 

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