善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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最終章
1 列島は魔術に沈む


 六月の半ば、月曜日。梅雨に入りかけたここ最近の空はどっちつかずで、晴れれば蒸し暑く、降れば降ったで湿気が重い。幸運なことに今日の窓の外は今のところ晴れている。気温だけならまだ悪くない。俺にとっては穏やかな春でさえ、愚痴の対象だったのだ。梅雨なんてもってのほかだな。

 

 俺は本日二杯目のインスタントコーヒーを啜りながら、事務室の窓からぼんやり外を眺めていた。裁判官殺害、国会議員殺害。二つの重大事件に捜査協力という名目で駆り出され、気がつけば六月だ。体感としては、犯人がいつの間にか捕まって終わっている。捜査の本筋には関わっていないので、働いた実感が全くない。

 まるでベルトコンベアの横に突っ立っていたら製品が勝手に完成しているようなものだ。俺等がしたことなど、聞き込み調査と遺族面会、そしてブローチを探したことくらい。これしか仕事をしていないのだ。なまじ世間より少しばかりお高いお給料をもらっている身としては、少々心苦しい。しかし、窓際族の特権だ。簡単な仕事で高い給料をむさぼる。そう、これは特権なのだ。

 

 ……普段だったら、この考えでも問題はなかった。しかし、今の俺は得体のしれない、耐えられない重圧を感じている。これは何とも言えないが、なんというのだろうか。胸の内側がムカムカと苛つく感覚。吐き気を催した時と似ているかもしれない。今の俺にはどうにもこの感覚を言語化するすべを持っていない。ずっとずっと苛つく。理由もなく、内側から爆発しそうな感情がラベルを求めている。自分の感情が答えを要求している。俺を産んだんだから認知しろ、俺に名前をつけろ。この感情がそう言ってデモ行進をしているような。

 

 いや、何を考えているんだ。バカみたいだ、若者みたいな考えだ。こんなバカなことを考えるのならば、今度の休日は自分探しの旅でもしてみるか。定番のインドに行く、というのは体力が必要なので秩父らへんで自分探しをしてみよう。幸せの青い鳥は近くにいた。ならば自分探しも近くでやったほうが効率がいい。これはコスパを求める若者的思考。俺はまだ四十五歳の若者だ。

 

 

 くだらない思考を切り裂きたくて、窓から視線を部屋に戻す。住民問題対応班のオフィスはいつも通り静かだった。いつも通り、のはずなのだが最近はその「静か」の質が変わった気がする。以前は単にやることがないから静かだった。今は、何か変な違和感がある、そんな静けさだ。廊下ですれ違う同僚の会釈が一瞬遅い。雑談の声がひとつ低い。そういう、指で摘めないくらい小さな変化が積もっている。神山警察署の空気全体が、少しだけうねっているような。まあ、俺には関係のないことだ。

 

 ため息をついて、ストレッチをする。感じてはいなかったが、体が少し緊張していたみたいだ。バキバキというおじさんのテンプレート効果音が体中から鳴った。そんな中で、春野は自分のデスクでスマートフォンをいじりながら、あーでもないこーでもないと呟いている。机の端ではピーポ君のぬいぐるみが相変わらず重力と戦っていた。いつ見ても落ちそうで落ちない。あれはあれで才能だと思う。

 

「北島さん北島さん、光崎さんの投稿についてなんですけど」

「……ああ、それがどうした? まだあいつは日記を書いては消してをやってるのか?」

「なんか投稿自体、今ほとんどしていないみたいで」

「何?」

「ネットの人たちも必死に探しているんですけど、新しい投稿が見つからないんですよ」

 

 ここ最近の春野は、光崎に対する調査や考察をずっと続けている。さながら名探偵、いや刑事か。暇なのはこっちも同じだが、この話題にいつまでも首を突っ込んでいる気力は俺にはない。

 

「一ヶ月前は『投稿は止められない』とかなんとか言ってなかったか、あいつ」

「そう! そこなんですよ。光崎さん、ニュースになると家族のこと思い出せるって言ってたじゃないですか。それが上手くいってたのに、やめる理由ないですよね?」

 春野がこちらを見た。

 

「やめたんじゃなくて、完全に思い出せなくなったから書けなくなったのかな?」

 

 俺は答えなかった。答えを持っていなかったからではなく、頭の中で浮かんだ答えが気に入らなかったからだ。思い出せなくなった人間が、次に何をするか。書けなくなった人間が、書く以外の方法を選ぶとしたら。また、不愉快だ。

 

「それで、もう一つ気になってることがあるんですけど」

「まだあるのか」

「光崎さんの魔術についてです!」

 

 数ヶ月前はピーポ君のニュースを延々と喋るラジオだったが、今となっては光崎の魔術に首ったけだ。

 

「お前、その話好きだな。ここ最近は何もないし。もう良いんじゃないのか?」

「せっかくですし。こんな面白い事めったにないですから」

 

 面白い。まあ、確かに魔法だかファンタジーだかの話が警察の仕事で聞けるとはな。俺だって手から暗黒の炎を出しながら、女の子にモテモテ。チートでハーレム、そんな話は好きだ。だが人が死んで、しかも化け物が関わっているなんてお話、それは流石に好きではない。ジャンルが違うじゃないか。

 

「面白いって。お前、よくそんなに調べる気になるな」

「光崎さん、いい人だったじゃないですか。聞き込みの時、僕がいろいろ変なこと言っても全然怒らなかったし。そういう人、あんまりいないんですよね」

 

 春野の「いい人」の基準は独特だ。怒らない人はいい人。単純だが、こいつにとっては切実な尺度なのだろう。こいつは俺のことを高く評価してくれているが、その理由は『自分を悪く言わない人物』という同じようなものだった。いつも相手に失礼なことを言って怒られている春野にとっては、大切な評価基軸なのだろう。その失礼小僧が鼻息荒く続ける。

 

「光崎さんの魔術って、要するに気持ちのボリュームを上げるスピーカーみたいなもんですよね。裁判官に恥をかかされた。普通なら『恥ずかしかったな』で終わる。それが殺すところまでいった」

「それが魔術のせいなのか、SNSが元々そういうもんなのか。区別がつかんのが厄介だな」

「魔術って言われなかったら、ただのSNSで過激化した人にしか見えないですよね」

 

 今どきよくある話だ。精神的に不安定な人物が被害妄想を受けてしまう。それで暴走して事件を起こす。これが魔法によるものでした、なんてもはや陰謀論者ですら言わない。アホらしすぎて誰も信じんだろうな。

 

「それと、ブローチのことなんですけど」

 

 話が二転三転、今度はブローチか。光崎のSNS投稿が無くなったこと、光崎の魔術の効果について、からの三つ目の話題。オジサンの脳みそではそろそろオーバーヒートしてしまう。春野がスマートフォンを置いて、椅子ごとこちらに向き直った。

 

「あの日、署内で会ったあの黒い化け物は本物でしたよね。青白い手も」

「ああ。次に光崎と会う機会があるなら、あの青白い手に首絞められて死んでるかもな」

「有り得そうな話やめてくださいよ。というかあの日以降、どっちも出てきませんね」

 

 春野の言う通り、署内で襲ってきた黒い影も青白い手もどちらも再会することはなかった。襲われて殺されかけた最初の一週間は春野が駅前で俺のことを待ち構えていたな。どうにも一人で神山警察署に行くのが怖かったと。まあ、正直俺も怖かったから一緒に通勤をしてくれるのはありがたかった。まるで女子高生の登下校のワンシーン。お待たせ、待った? 出演俳優がむさくるしい男同士でなければ、なお良し。

 

「北島さん、あの化け物に襲われた時のこと覚えてます?」

「忘れたいが覚えてる」

「あの時、ブローチが光りましたよね。そしたら青白い手がばーっと出てきて。それで思ったんですけど、あれっていつ光りました?」

 

 春野がこちらの目を見ている。何かを確認したがっている目だ。

 

「……廊下だったような。黒い影が出てきてすぐだろ」

「ちょっと違うんですよ。正しくは階段から落ちた時です。証拠品保管室に逃げようとして足が滑って」

 

 ああ、そうか。……そうだったか? 正直記憶が曖昧だが、春野のほうがあの瞬間の記憶が鮮明だろう。俺の記憶などあまり当てにはならない。

 

「それで二人とも一瞬、浮きましたよね。体が」

 

 浮いた。確かに浮いた気がする。春野の手が俺の袖を引っ張って、バランスを崩して、階段から転げ落ちて。その直後にブローチが光り始めた。

 

「それがなんか関係あるのか?」

「お化けの話ってあるじゃないですか」

「話がまた飛んだな。どんなおばけだ」

「なんでも良いんですけど……例えば、学校の怪談とか病院の幽霊。ああいうのって、人が死にやすい場所に出るって。昔おばあちゃんが言ってたんですよ」

 

 おばあちゃんの知恵袋、オカルト版だ。マニアックおばあちゃんだ。

 

「階段、水辺、屋上。事故で死ぬ人が多い場所。つまり、生きてる側と死んでる側の境目が薄いところ」

「お前オカルト好きだったのか」

「面白いじゃないですか。無駄にロジックを整えているのが特に」

 

 まあ、それについては俺も同意だ。たまに見ると面白いんだよな、ああいうのは。

 

「あのブローチって、光崎さんの奥さんと娘さんの遺品ですよね。で、あそこから出てきたのは女の人の手と、小さい手」

 春野がこちらの反応を窺っている。

 

「普通に考えたら、光崎さんの奥さんと娘さんですよね」

 普通に考えたら、確かにそうだろう。家族の遺品から女と子供の手が出た。ロジックなんてもんじゃない。ただの出来事の足し算だ。

 

「そんな都合の良い話なんてあるか? 遺品に死んだ人間の魂が乗り移るってか? 安っぽい話だ」

「まあ、光崎さんの遺族の魂って話にしておいたほうがエモいですから。そういうことにしときましょうよ」

 

 否定はできないな。こういう冗談話なら確かにそっちのほうが素敵だ。亡くなった家族の魂が遺留品に込められている。売れるな、この話は。いや、セクシーなお姉ちゃんが出てくるならともかく、青白い大量の手が首を締めて殺そうとしてくるなんて。このドラマはやっぱり売れない。

 

「で、霊界の力を出すには、条件があるんじゃないかなって思ったんです。人が死にやすい場所とか、事故が起きやすい状況とかだけじゃなくて、もっと具体的な発生条件ですね」

 

 春野はそこで言葉を切って、ピーポ君を手に取った。指先でぬいぐるみの頭を弄びながら、頭の中でロジックを組み立てている。発生条件か、おばけも色々大変なのかもな。契約形態とかそういうので雁字搦めで。山梨県出身、おばけのAさん。派遣社員なので、契約外の条件では出没できません。管轄は閻魔労基署。冥界派遣労働法に抵触すると、あとが恐ろしい。くわばらくわばら。

 

「階段で足を滑らせる。水辺で溺れる。屋上から落ちる。そういう、死に近づく瞬間に境目が薄くなって、ブローチが反応する。僕たちが足を滑らせた時に光ったのも、そういうことなんじゃないかなって」

「つまり?」

「つまり……死にそうな時にブローチが守ってくれる、みたいな」

「守ってくれる割には首を絞めてきたがな」

「そこはまあ、あの、副作用的な……」

 

 春野の理論が曖昧な領域に突入した。考えが詰められているわけではないのか、しょうがない。あの青白い手と直接話をしてみれば分かるんだろうが、目も口もない化け物だ。コミュニケーションの取りようもないだろう。紅茶でも入れてクッキーでおもてなしでもするか? あら、ごめんなさい。あなた口がないから飲めないのね。なんて言ったら次の瞬間には絞め殺されているだろう。

 

「まあいい。面白い話だったが、そのブローチはもう光崎に返しただろ」

「そうなんですよね」

「だったら意味ないだろ。俺たちが光崎の持ち物の仕様を把握したところで」

 

 春野が不満そうにピーポ君を机に戻した。ぬいぐるみは傾いて、いつもの角度で止まった。重力との交渉が成立した瞬間を見届けてから、春野が続ける。

 

「でも、光崎さんのために何かできないかなって思ったんですよ。ブローチのこと分かれば、何かの役に立つかもって」

 

 その言葉には計算がない、打算もない。そういった真っすぐな気持ちを感じる。ただ、自分のことを怒らなかった人のために自分の頭を使おうとしている。それだけのことだ。世の中の全ての人間がお前みたいな優しい男なら良かったのにな。いや、すまん。やっぱ前言撤回だ。俺がどんだけこいつに煮え湯を飲まされてきたのか忘れていた。

 

 俺は冷めたコーヒーを口に含む。窓の外では、六月の湿った風が駐車場の「振り込み詐欺に注意」と書かれた旗をだらしなく揺らしていた。春野のオタ話がいったん幕引きとなった。

 

 話が一旦終わり、興味が別に移った春野がスマートフォンを片手に頬杖をついている。そして別の話が続いた。

 

「あ、北島さん。なんかテレビ局の前でデモやってるみたいですよ」

「デモ? 何のだ」

「光崎一家殺人事件の隠蔽責任についてですって」

「おいおい、今更だな。もう三年前の事件じゃないか」

「ですよね。でも結構人集まってるみたいです。二百人くらいって書いてある」

「件の権藤昇も死んでるし、こいつらは誰を責めたいんだろうな」

「そうなんですけど。なんか、理由はどうでもいい感じですよね。怒りたいから怒ってる、みたいな」

 

 春野がスマートフォンをポケットにしまった。興味を失ったのか、それとも見たくなくなったのか。怒れる民衆はとりあえず叩けるものを叩いているというところで、よくある光景だな。テレビ局様は都内の一等地に根城を構えていらっしゃるおかげで神山警察署の管轄内ではない。よって俺は安全地帯にいるってわけだ。ああ、担当のお巡りさんはさぞ大変なのだろう。頑張ってください、応援していますよ。

 

 しかし、おそらくこれは光崎の魔術による影響なのだろう。やつはSNSに書き込みをすると人を扇動できるとかどうたら、そんなことを言っていた。このデモ隊はその扇動によって動かされている哀れな集団ということだろう。

 

 光崎のSNSの書き込みが止まっている以上、魔術は発動していないはずだが。おおかた一度発動した魔術は人を介して永遠に増幅されていくのだろうか。ウイルスみたいなものだ。みんなが一度はかからないと治らない。ここしばらくはずっとこの世間のノリが続くと。

 

 ではこいつらをどう止めればいいのか? 光崎が魔術で殺人教唆をしていると知っても、俺たちに出来ることはない。魔法による殺人教唆なんて立件のしようがない。とっ捕まえて火炙りにしてよいのなら喜んでやるが、令和の世の中でそれは難しい。

 

 

 窓の外は相変わらず晴れている。梅雨前の最後の快晴か。梅雨本番になれば、この景色も長い事、灰色に変わる。

 

 春野は完全にお遊びモード。話を続けるでもなく、仕事をするでもなく。まったりとした時間だ。そして俺はなんとなく、ノートパソコンを開き、メールをチェックする。特になにもない。変わらない日常。リラックスしてまったりとネットサーフィン。

 

 以前ならそれで時間を潰すことができた。だがまた、得体のしれない、耐えられない重圧が胸の中を支配する。これは世の中の雰囲気に引っ張られているのか、はたまた署内で会った黒い影の影響なのか。まるで自分を非難するような、ざわざわとした苛立ち。心臓部分が狭まった感覚で、とにかく落ち着かない。ただ、何か漠然と解放されたい。この三年間背負った鎖を放り投げたい感覚だ。

 

 いっそのこと警察でもやめて、実家に帰るか。実家に帰って元警察官系ユーチューバーに転職。いや、バカバカしい考えだ。それでは鎖を背負ったまま場所を変えるだけ。辛いのは変わらない。

 

 

 そんなくだらない思案していると、ふと思い出した。

 台帳。遺失物管理台帳だ。

 

 

 清水が俺名義で登録したブローチの記録が、まだシステムの中に残っている。光崎に返却したのは五月だ。もう一ヶ月ほど経つ。台帳の上では、北島健太名義で遺失物が保管されていることになっている。そう、システムの書き換えをしていない。システム上では神山警察署内に、遺失物が残っていることになっている。

 

 しかし、現物はない。これはまずい。倉庫の棚卸しが年末ごろにある。次がいつかは正確には覚えていないが、たしかそうだったはずだ。そのときに現物と台帳を照合されたら、不整合が出る。北島名義の遺失物が、棚にない。どこにもない。

 

 そうなったら面倒なことになるだろう。あのブローチは清水が勝手に盗んで、勝手に俺の名前で登録した。それは事実だ。だがそんな説明が通るわけがない。名義は俺だ。遺失物の紛失は追跡調査されるかもしれない。防犯カメラには倉庫を出入りしている俺と春野の映像がある。最悪の場合、遺失物横領だなんて疑われたりな。左遷の次は免職か。順調にキャリアを転がり落ちている。

 

 では、この問題をどう乗り越えるか。処理自体は簡単だ。台帳を開いて、返却欄に「持ち主に返却済み」と入力する。日付を入れて、エンターキーを押す。三十秒もかからん。

 

 俺は端末を操作して、システムにログインする。検索欄に登録番号を打ち込むと画面にブローチの登録情報が表示された。清水が代理で地域課に渡した旨が記載されている。

 

「持ち主に返却済み」

 

 この八文字を打てば終わる。そうすれば台帳は整合する。遺失物は手順通りに遺族に返却された。登録者の北島が責任を持って処理した。何の問題もない。そう、全く問題はない。何故なら適切に手順通り、持ち主に返しただけだ。なにもおかしいことはない。美しい筋書き。誰もこんな粗末な落とし物の所在なんて詳しく見ない。するっと棚卸しのチェックをすり抜ける。

 

 美しい手順。そして、美しい嘘。いや、嘘はついてはいない。大切なことを言わないだけ。

 

 清水が手順を破った。現場から証拠品を盗んだ。上司の名前を使って隠した。それは違法行為で、懲戒処分の対象で、メディアに叩かれて当然の不祥事だ。清水はそれを分かっていてやった。分かっていて、遺族の思い出の品を守ろうとした。

 

 捜査の雲行きが怪しい、もしかしたら押収した証拠品が遺族の元に返らないかも。だから僕の手で隠して、届けるんだ!動機なんてどうせそういう、クソみたいなことだろう。くだらない考え。本当にくだらない。倫理の自慰行為だ。エンターキーを押せば、このバカのオナニー、それそのものを消し飛ばせる。

 

 そう、真面目なバカが命をかけてやったことの痕跡が、事務処理一つで消えるのだ。台帳上に残るバカの最後の痕跡。そうだそうだ、今更こんなものが問題視されても清水の家族も気分が悪かろう。目覚めも悪い。なんの意味もない。注目されれば、清水は現場から証拠品を盗み、拳銃で自分の頭を撃ち抜いた問題児として扱われ、それはそれは面白い記事になるだろう。やれコンプライアンスだ、やれこれは金銭目的の横領なんじゃないのか。警察の不祥事で記事を書いて、小銭拾いしているクズどもにくだを巻かれることになる。

 

 疲れた。もう疲れたんだ。三年だ、あの日から三年も経った。清水の家族も、今はもう前を向いているはずだ。みんな、前に進もうとしている。これが表沙汰になって、証拠品の運用管理について再調査が開始されたらどうなる。辛くても前を向こうとしている人間たちが、首根っこを掴まれて無理やり後ろを振り向かされる。みんなもう忘れたいはずだ。だから、ここは、整合させるべきだ。消すべきだ、あのバカの痕跡を。俺の指で、ワンクリックで消し飛ばす。それが、正しいんだ。

 

 

 パソコンの画面で、台帳の返却欄にカーソルが点滅している。細長い棒がチカチカと。

 

 

 なんとなく葬式のことを考えた。考えたくなかったが、勝手に浮かんできた。清水の葬式。親族の泣き声。特に、小さい息子の泣き声。三年経った。それでもあの泣き声は、まだ聞こえる。風呂に入っているとき。布団に入ったとき。静かになると、どこからか聞こえてくる。高くて、細くて、鉛みたいに重い声。聞こえるたびに不愉快な、あの声。

 

 このエンターキーを押したら、あの声が永遠に消えなくなる気がした。一生、耳にガムがくっついたかのように、俺を非難し続けるんじゃないのか。そんな不安がずっとある。根拠はない。台帳の処理と、死んだ部下の息子の泣き声に、論理的な因果関係はない。分かっている。分かっているが、指が動かなかった。説明は上手く出来ないが、この感情は少しずつ形を変え始めた。

 

 ああ、そうだ。分かった。名前無き焦燥感はラベルを得た。怒りだ。そうだ、俺は非常にムカついている。この俺が迷惑をかけられて、そのまま終わりにするだけなのは癪だ。三年間ずっと追われてきたこの出来事が、このエンターキーでなかったことになる? 誰が得するんだ? 俺が嫌な思いをしたこの三年間が綺麗さっぱりなくなるだと? ふざけるな、だったら最初から自殺なんてするな。俺のキャリアに泥を塗るな。俺にだけ責任を押し付けるな。全員が苦しんでくれなきゃ、俺の苦しみ損じゃないか。

 

 そうだ、逆だ。記録を残せば、この不整合を放置すれば。いつか棚卸しで掘り起こされる……かもしれない。誰かが「台帳にあるはずのものがない!」などと騒ぎ立てて、調査が始まれば、清水の名前が出てくるかもしれない。清水が何をしたのか、調査が続くかもしれない。もしかしたら、清水がやったこの不祥事が、ある種の美談として世の中に受け入れられる……わけもないが。でも、可能性はある。自殺した刑事の最後の勇姿、遺族のためにルールを破り、証拠品を隠した。そうだ、みんなそういう話好きだろう? 今の世論は光崎への同情で満ち溢れている。この流れがあれば、都合の良い未来が存在している、かもしれない。

 

 それが清水の息子の耳に届くかどうかは分からない。たぶん届かない。そこまで都合のいい話はないだろう。でも、万に一つ届いたら。あの泣き声が、少しだけ遠くなるかもしれない。

 

 カーソルが点滅し続けている。俺は台帳システムを閉じた。

 

 後で台帳更新をやろう、そう思った。まあ、こういう時はどうせ後になってもやらないがな。そのことは自分が一番よく知っている。年末の棚卸しで不整合が出たら、そのときはそのときだ。面倒な説明が必要になる。始末書かもしれない。処分かもしれない。知ったことか。

 

 記録の上でもバカが一匹死滅するのは気分が悪い。他の誰かにやってもらおう。まあ、どうせ何も起こらないさ。大きな組織の運用ルールなど存外適当なもので「遺失物が無くなってるみたいだから台帳から消しときますね」なんて流れになるだろう。そんなもんさ。そう、そんなもの。

 

 ノートパソコンを閉じて、コーヒーを啜った。これは利他的な動機ではない。清水のためでも、やつの息子のためでもない。あのブサイクなガキの泣き声を消したいだけだ。耳について離れない、あのわめき声。自分が楽になりたいだけ、いわゆる悪魔祓いだ。

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