六月の半ば。月曜日。いい天気だった。駐車場に車を停めた。エンジンの振動が手のひらに伝わっている。キーを回して、切った。駆動音でドコドコと賑やかだった車内が、急に静かになった。時計を見た。十時五分。予定より五分遅い。道が混んでいた。
青葉台中央病院。初めて来る場所だった。四階建て。壁は白いが、雨染みがつける灰色の跡が少し目立つ。駐車場の隅に花壇があり、白い花が咲いていた。種類は分からない。美咲が好きそうだ。綺麗だと、彼女ならつぶやきそうだと思う。
まあ、いい。
権藤真澄がここにいることは、インターネットで知った。なんとなく眺めていたSNSに、いつからか「光崎一家殺害事件まとめ」という投稿がいくつもできていた。私は頼んでいない。でも事件の経緯、裁判の記録、権藤昇の政治活動、すべてが整理されていた。中には私も知らないことも多かった。取材記者の内部メモとか、裁判所の人事異動とか。どこから集めてくるのだろうと思った。私の家族が殺されたこの事件。インターネット上の関連記事は削除されており、見つけるのは非常に困難なものだ。事件当時の新聞記事の切り貼りなど、物理的な情報をかき集めてまとめている。凄まじい執念だと思った。
そしてその中の一つに、ある投稿があった。
権藤真澄、横浜の精神科に入院中。青葉台病院らしい。誰が書いたか分からない。名前のない、番号だけの捨てアカウント。そこに返信がいくつかついていた。
「特定班すごい」「因果応報」「あいつ、まだ生きてたんだ」
私はその投稿を見たとき、何も感じなかった。いや、感じなかったというのは正確ではない。「ああ、そうか」くらいには思っていた、それだけ。横浜なら車で行ける。月曜の午前に行こう。それだけのことを考えた。
車から降りようとした時にふと、胸ポケットに入れていたブローチを触った。特段、触る意味もないが、なんとなく。青い小鳥。陽菜が買ったもの。いくらだったかな。五百円くらいだった気がする、たぶん。陽菜にはお小遣い制なんてまだなかったから、私と相談して最寄りのデパートで一緒に買った、と思う。思い出そうとしても黒っぽいモヤがかかって、不確かな記憶しかない。
ブローチを手に取って、ダッシュボードに置いた。フロントガラスから差し込む光が、小鳥をかたどった青っぽい装飾を少しだけ光らせた。これは、置いていこう。別に意味はないがここから先はこの子には見られたくない気分だ。車を降りた。湿度が高い。シャツが背中に貼りついた。
病院の自動ドアを通ると、消毒液の匂いがした。恐怖で目が閉じ、足が止まった。この匂いは知っている。三年前の霊安室で嗅いだ。怪物の体臭だ。眼の前に、口が裂けた怪物が蘇る。でもそれは一瞬だった。目を開けると、少し古臭いがきれいなロビーだった。受付に若い女性がいる。
「こんにちは」
私の挨拶に女性が顔を上げた。
「こんにちは。ご用件は?」
「権藤真澄さんにお会いしたいのですが」
「権藤さんですね。その、面会は、ご家族の方でないと……」
女性の声が小さくなった。権藤真澄の両親は既に殺害されている。この受付の女性もそのことは承知なのだ。だから、私が親族ではないということも分かっている。
「権藤さんとはどのようなご関係で?」
「光崎善人と申します。昔からの知り合いで。少しお話がしたいんです」
女性の目が見開かれる。驚きは隠せていない。インターネット上で今、最も楽しまれている娯楽の話題、光崎一家殺人事件。この女性も名前を知ってしまった。まあ、権藤真澄の事情を知っているのなら、インターネットを見ていなくても知っているのかも知れないが。そして誰がどう考えても、目の前の私は報復や復讐を考えての来院であると思うだろう。困るのは当然だ。
「その、あの、申し訳ございません。少し難しいかもしれないです……」
「そうですか。では、担当の先生にお取り次ぎいただけますか?」
丁寧に言った。怒鳴ったり強引にしたりするのも変だし、この女性が可哀想だ。人に何かをしてもらうときは、丁寧にお願いするのが一番早い。私のお願いを聞いた女性が内線を取った。手が少し震えていた。それを見て、申し訳ないなとは思う。
待っている間、ロビーの椅子に座った。隣に高齢の女性がいて、編み物をしていた。目が合ったので会釈した。女性が微笑み返してくれた。いい病院だと思った。清潔だし、静かだし、職員の対応も悪くない。権藤真澄がここで治療を受けているのは、良いことだと思う。
そうして待っているとすぐ、奥から白衣を着た初老の男性が現れた。この歳の男性にしては痩せ型。気の良い顔つきをしている。その男性はロビーで待っている私の目の前まで歩いてきた。
「光崎先生ですね。初めまして。わたくし、当院の院長をしております」
院長を名乗る男性がぎこちない笑顔で言う。受付の女性と似たような感情。顔からなんとなくは察せる。断られるかどうか、この男の次の言動が楽しみだ。
「そ、それでは、どうぞ。ご案内させていただきます」
少しだけ驚いた。まさか通してもらえるとは。受付の女性は私以上に戸惑っている様子で院長を見上げた。
「院長、でも面会の規則が……」
「構いません」
院長は穏やかに言った。
「光崎先生は特別なお客様です。ご案内します」
受付の女性は何か言いかけたが、結局何も言わずに視線を落とした。組織というものは、こうして動くのだろう。上司の指示には逆らえない。院長はどう考えているのだろうか。権藤真澄は死ぬべきだと考えて私を案内するのか。それとも世の中のバッシングが自分に降りかかることを恐れての行動なのか。もしも私の行動を止めたら、世間は誰の味方をするのか分からないのだろう。どちらにせよ、私には関係ない。ただ、歩いて部屋に行くだけのこと。
院長に導かれて階段を上る。廊下では看護師たちが働いていた。
「い、院長。これは……」
廊下を行き来していた一人の看護師が院長に問いかける。だが、院長はその問いには何も答えなかった。返事がないことに看護師たちは驚いていた。本当にこれって大丈夫なのか? そういった疑問と恐怖に、彼らは小さな足音で、意味もなく我々の後ろを着いてきた。着いてくる必要もない。
ただ、なんとなく。この結末を最後まで見ておかないと、怖い。そう感じただけなのだろう。彼らの表情は暗いものから、嬉しそうな顔をしてハツラツとしているものまで様々だった。
廊下の奥から、白衣の中年男性が早足で近づいてきた。額に汗が浮いている。
「院長、お待ちください」
男性はそのまま我々の前に立ち塞がった。息が上がっている。
「すみません、権藤真澄さんの担当医です」
私に向かって言った。自己紹介というより、宣言に近い口調だった。私に口を挟まれたくない、その意志の表明なのだろう。こうやって走ってきたのは、看護師の一部が彼に急いで報告したからか。そして急いでこちらに向かってきたのだ。
「失礼ですが、この方はどなたですか」
「光崎先生だよ。ご存じだろう」
院長が答えた。担当医の顔が強張った。
「院長。権藤さんと光崎さんの関係をお考えください。面会を許可する根拠がありません。権藤さんの症状はご存じですよね? 重度のPTSDで、事件関係者との接触は症状を悪化させる可能性が」
担当医はまっすぐ院長を見ていた。声が震えていたが、言葉は明確だった。
「患者の安全を守るのも我々の仕事の範囲です。院長」
院長は黙っていた。数秒。担当医の言葉が空気中に霧散していくような沈黙だった。院長は担当医の方を向かない。顔を少し逸らして返事をする。
「光崎先生には、真澄さんと話していただく必要があります」
同じ言葉を、同じ穏やかさで繰り返した。担当医は院長を見て、それから私を見た。私は何も言わなかった。担当医の言っていることは正しい。正しいと思う。彼の肩が落ちた。
「……記録には残します」それだけ言って、彼は横に退いた。
私たちはそこから歩き、廊下の突き当たりにある鍵のかかった重いドアを開けた。道なり進み、階段を上がる。帰り道を覚えていられるか少し不安になる構造だったが、院長がある部屋の前で立ち止まった。プレートには「権藤真澄」と書かれている。
「何かありましたら、遠慮なくお声をかけてください」
院長が微笑んだ。私は扉をノックした。
扉を開けると、権藤真澄は窓際のベッドに座り、外を眺めていた。風が心地よくなびき、カーテンを揺らしている。太陽の光が優しく降り注ぎ、彼を照らしていた。私は彼の後ろ姿を見た時に、なんとなく旧知の友人と会えたような、そんな懐かしさに似た感情に支配された。
そして私の入室音が聞こえたのか、彼はこちらを向いた。振り返った彼の顔は三年前の裁判の時と違い、痩せ細り、頬はこけ、目に生気がない。まるで別人のようだった。両親を目の前で殺されたことが原因なのだろう。私と同じ、家族を失ったのだ。可哀想に。
「あ……」
真澄は私を見て、困惑したような表情を浮かべた。私の顔を見ても分からないみたいだ。それもそうか。殺した女の夫など、彼にとってはどうでもいいのだろうし、それも仕方がない。
「病院の人ですか? 新しい先生?」
権藤真澄の声を聞きながら、私は静かに扉を閉めた。
「いえ、違いますよ。光崎善人と言います」
真澄の顔が青ざめた。名前を聞いて、ようやく私が誰なのか理解したらしい。
「え、あ、あの、僕は何も」
「お久しぶりです、権藤真澄さん」
私はベッド横に置かれていた椅子を、なるべく音を立てないように引いて、真澄の近くに座った。彼は身を縮めるようにしてベッドの端で座ったまま、固まっている。
「「あなたのご両親の件、お悔やみ申し上げます」」
皮肉ではない。私は本当にそう思っていた。家族を失う痛みは、私にもよく分かる。この人は私と違って、目の前で家族を殺されているのだ。その苦しみは人一倍なのだろう。
「あ、ありがとう……ございます」
真澄は震え声で答えた。彼はどう答えるのが正解か分からず、語尾が震えて上がっている。この返答で間違っていないのか、そういった疑問があるのだろう。
「でも、僕は何も悪いことはしていません。お父さんもお母さんも、僕を守ろうとしただけで……」
聞いてもいないのに勝手に喋りだした。私がここに来た目的なんてまだ分からないはずなのに。しかし、守ろうとしただけ。その言葉を聞いて、私は深いため息をついた。
「そうですね。ご両親は、あなたを愛していたのでしょう」
「はい……だから、僕は被害者なんです。お父さんとお母さんを殺した人が悪いんです」
被害者。権藤真澄が、自分を被害者だと言った。私の妻と娘をなぶり殺したこの男が、被害者。清水さんが自殺した後も、メディアが権藤真澄をそのように取り扱ったのが思い出される。清水さんは権藤真澄を陥れた悪い警察官。権藤真澄はその被害者。被害者、被害者、被害者、とても美しい言葉だ。
私は静かに立ち上がり、窓の外を見た。病院の中庭では、患者たちがのんびりと散歩をしている。リハビリなのだろう、平和な光景だった。
「権藤真澄さん」
「は、はい」
「三年前のことを、詳しく教えてください」
真澄の呼吸が荒くなった。過呼吸のように、息が切れている。
「あ、あの……僕は何も……」
「私の妻と娘に、何をしたか」
「それは……その……」
真澄は言葉に詰まった。誰も責めていないのに。
「僕は……僕は何も悪いことはしていません!」
真澄が突然大声を上げた。
「あの女の人が、僕に声をかけてきたんです! 最初は買い物袋を持って歩いてて……それで僕の目の前で転んで……」
彼の言葉に私の心臓が高鳴った。だが、嘘をついているのは明白だ。三年前の裁判の内容と全く違う。彼は嘘をついて逃げることを選んでいる。ただ、少しだけ続けよう。
「それで?」
「僕は親切心で助けてあげたのに、家でお礼したいから来てって言うから、仕方なく……」
「美咲に誘われて、家に着いてからどうしました?」
真澄は震えながら答えた。
「最初は玄関で帰ろうとしたんです。でも、あの人が『お茶だけでも』って言うから、それで中に入って……」
こいつの言葉を聞いても満たされない。何も感じない。何も変わらない。やはり駄目だ、これでは足りない。これは嘘だ。嘘では駄目だ。嘘では満たされない。嘘では戻らないのだ。もう、ここで一旦仕切り直そう。少し強めに言えば彼も理解してくれるだろう。
「権藤真澄」
「は、はい」
私は静かに真澄を見つめた。
「裁判であなたが窓ガラスを割って侵入したというのは確定していましたが」
真澄の顔が青ざめた。
「え?」
「玄関から招き入れられたのではなく、リビングの窓を割って不法侵入した。物的証拠も証人もいましたよね?」
「あ、あの、それは」真澄の声が震え始めた。
「どちらが本当ですか?」
「僕は、僕は」
真澄は慌てふためいている。慌てて、髪の毛を触ったり、ベッドのシーツを触ったり。とにかく落ち着きがない。落ち着きたいがために色んなものに触れて、リラックスをしようとしている。嘘がバレた時の典型的な反応だった。
「本当のことを教えてください」
私の声は相変わらず落ち着いていた。怒りはない。ただ、真実が知りたいだけ。
「僕は悪くない!」
真澄が突然叫んだ。
「あの女が僕を誘惑したんです! 窓から見えたんです! わざと僕を誘ってたんです!」
そこだ。やっと真実に近づいた。当時の、三年前のあの日、何が起きたのかが教えてもらえる。
「窓から何が見えたのですか?」
「あの人が、あの人が一人で家にいて、それで僕のことを見てて」
私の心臓が激しく鼓動した。記憶の断片が戻ってくる。そうだ、あの日の朝。あの日の朝の美咲はどんな見た目だったか。
「美咲は、どんな服を着ていましたか?」
「服は……白っぽい、明るい色で……」
私の記憶に色がついた。ここ最近ずっと、モザイクがかかったような、灰色の記憶に美咲だ。美咲が見える。白いブラウスだ。袖口のボタンが少し緩んでいた。彼女はいつも出かける前にそのボタンを直し忘れていた。私が指摘すると、よく怒っていた。普段、怒られる立場の私がやり返したことに腹を立てている美咲が見える。完璧に見える。窓から差し込む光に照らされた美咲の横顔。頬の産毛まで、はっきりと。美咲の指先。細くて、少し冷たくて、でも私の手を握る時は温かかった。肌が弱く、指先がよくあかぎれしていた彼女の指が。そうだ、この、この瞬間に、記憶が戻るこの瞬間に、全身に電流が走るのだ。
「髪型は?」
私の声が震えていた。喉の奥から、掠れた音が漏れる。興奮して、吐息が。
「髪は……まとめてたと思います。横に、何か垂れてて」
美咲のポニーテール。左側に少し髪を垂らす癖があった。彼女はそれを気にしていた。「曲がってる?」といつも私に聞いていた。「可愛いよ」と私は答えていた。彼女は私の問いに怒りを覚えていた。質問にちゃんと答えろ、曲がっているかどうかを聞いてるですけど、と私は怒られていた。そうだ、そう。私は完璧な返答だと思っていたけど、怒られるのがあの日常だ。
見える。朝、鏡の前で髪を結ぶ美咲。少し首を傾げて、髪を気にする仕草。その時の彼女の眉の形。少しだけ困ったような表情。でもそれが愛おしかった。記憶が鮮明になってくる。これだ。これが私の求めていたものだ。このためにここまで来たのだ。
「もっと」
私は真澄に言った。声が震えている。興奮で、全身が熱い。
「もっと教えてくれ」
権藤真澄が化け物でも見るかのような顔で私を見る。しかし、関係ない。君の口から溢れる言葉が、私の家族を蘇らせてくれる。
「それで、窓を割って入った後、美咲はどんな反応をしましたか?」
「……驚いていて、誰ですかとかやめてくださいって騒いでいました」
美咲の声が聞こえる。確かに聞こえる。少し高めの。
「陽菜は、その時どこにいましたか?」
「陽菜って誰ですか?」
「私の娘の名前です。子供もいたでしょ?」
「……子供がいたのは覚えてます。でも顔は、ちょっと」
私は何も言わなかった。手だけが、膝の上で強く握られていた。権藤真澄は私の表情がこわばってきたことに気がついたのだろう。焦ったように取り繕う。
「あ、ああ。その、二階に……いたんじゃないですか。声がして、降りてきて」
陽菜だ。階段を降りてくる音が聞こえる。タン、タン、タン、タン。いつも二段飛ばしで降りてきて、私に叱られていた。「危ないよ」と言うと、「大丈夫だもん」と——
あれ? 消えた。笑顔が、出てこない。声は聞こえた。でも顔が、見た目が見えてこない。顔面を黒塗りで潰されたように、体中にもやがかかったように、何かが私の娘の記憶に覆いかぶさっている。大丈夫、大丈夫。権藤真澄の話をもっと聞けば、戻るはずだ。戻るはずだ。
「陽菜は、あなたを見てどんな反応をしましたか?」
「怖がって、泣き出して。うるさかったので、少し押しただけなんです。そうしたら、急に静かになって」
この言葉を聞いても陽菜の顔が思い出されない。権藤真澄の言葉が信じられないのかもしれない。気持ちを仕切りなおすために私は窓の外を見た。六月の青空が広がっている。雲が流れている。馬のような形をした雲。たてがみが風になびいているように見える。空気中の埃の一粒一粒が、光を反射してキラキラと輝いているこれは、美しいはずだ。
「それから、何が起きましたか?」
私の声は落ち着いていた。いや、違う。これは落ち着きではない。陶酔だ。最高だ、最高なんだ。美咲のことを思い出せた。あとは陽菜だけ。だが、権藤真澄は答えない。汗をだらだらと流し、指先を弄って震えているだけ。
言葉を話せ。何故だ? 何故答えない。もしかして陽菜についての記憶がコイツの中にはないのか。答えられないのか。美咲の遺体はひどく損傷しており、陽菜はそこまでだった。つまり、コイツはは陽菜に対しては時間をかけなかった。だから曖昧なのか。
「それから、どうなりました?」
しびれを切らした私の二度目の催促に、真澄の声が震える。
「僕は、僕は帰ろうとしたんです。でも、急に、急に、あの人がおかしなことを言い始めて……」
「おかしなこと?」
「『警察を呼びますよ』とか『帰ってください』とか僕、悪いことしてないのに」
美咲の声が再び聞こえる。少し高めの、あの声。でも陽菜の話から逸れてしまった。陽菜の声は、まだ聞こえなかった。
「それから、具体的に何をしましたか?」
真澄は泣きそうな顔になっていた。
「僕は怒っただけです。正当防衛です。あの人が僕を犯罪者扱いしたから」
「どうやって怒ったのですか?」
「手が出ちゃっただけです。ちょっと押したら、そうしたら、あの人が倒れて頭を打って」
美咲が倒れる音が聞こえる。ドン、という鈍い音。リビングの床に後頭部を打ちつける音。そして陽菜の悲鳴。
「陽菜は、その時にはどんな声で叫びましたか?」
「『お母さん』って……何度も何度も……」
陽菜の声がまた蘇る。泣き叫ぶ、あの可愛い声。高い声。震えながら、でも必死に母親を呼ぶ声。陽菜の声のトーンが思い出せた。顔は、まだ見えない。
私は椅子にもたれかかった。全身が震えている。これだ。これが私の求めていたものだ。三年間失われていた記憶が、権藤真澄の口から甦ってくる。家族の最後の瞬間が、断片的だが鮮明に、生々しく、私の中に戻ってくる。ここ最近はどんなことが起きても、詳細に思い出すことは叶わなかった。でもやはり、直接聞けば。
「もっと詳しく教えてください」
「え?」
「家族の最後の時間を、もっと詳しく」
真澄は怯えた表情で私を見た。しかし、私にはもう他に方法がない。記憶を取り戻すためには、この男の口から全てを聞き出すしかない。どんなに残酷な内容でも。美咲と陽菜が戻ってくる。私の中に、完璧に戻ってくる。彼女たちがこの世に存在していたことが確定する。世の中から消え去っていく家族の証跡が、彼の口から。
「あ、あなたおかしいですよ」
「何が?」
「こんな話聞いて、喜ぶのは……」
「あなたは無罪です。何も悪いことをしていない。だからあなたの話すことにおかしいことはないですよ。だから、続けてください。当時のことをすぐに、今すぐに。全て。今すぐ」
権藤真澄は俯いて、固まってしまった。冷房の少し効いた心地よい温度。その中で彼は大量の汗を流している。冷房の風の音、締め切った窓のせいか無音がキンと耳に響く。静寂が音になっている。
「権藤さん?」
答えない。震えている。
「権藤真澄」
私は静かに真澄に近づいた。私に名前を呼ばれ、彼は怯えたような表情で私を見上げている。駄目か、これ以上はこの男は話せないみたいだ。なら次に行こう。
「権藤真澄さん」
「は、はい」
「今から、一緒に来てもらいます」
「え? どこに?」
教える気にはならなかった。ただ、私は真澄の目を見つめた。三年間、私が何のために生きてきたのか。それを理解してもらうために。私が問いに答えないことから、殺されると思ったのだろう。真澄の顔が真っ青になっていた。
「いやです! 僕は何も悪いことはしていません!」
「悪いことなんて誰も言っていないですよ?」
「それは、その」
真澄は答えられなかった。私は静かに立ち上がった。
「行きましょう、権藤真澄さん」真澄は首を振った。
「いやだ! 行かない!」
私は彼の腕を掴んだ。無理やり立たせようとした時、思いのほか簡単に権藤真澄は持ち上がった。弱っていても成人男性。連れて行くのは大変かと思っていた。権藤真澄を掴んだ時、右手に奇妙な感覚があったのだ。皮膚の下で、何かが蠢いているような。まるで、誰かの手が私の腕を包んでくれているような。真澄の腕が強く握られた影響か、手先がうっ血している。
「痛い痛い痛い! やめて! やめてください!」
真澄が暴れているが、特に問題はない。太陽の光が窓から差し込み、私の目に入る。ふと、窓の外に目をやる。柔らかな光が、カーテンを透過して病室を照らしている。光の粒子が空気中で踊っているように見える。一粒一粒が、虹色に輝いている。プリズムを通した光のように。美しい。世界が、こんなにも美しかった。ずっとずっとモノクロの世界だった。視界に色が戻った。そう感じたのだ。
私は彼を引きずって扉に向かった。扉を開けて、廊下に出たタイミングで真澄が床に倒れ込む。その拍子に私は手を離してしまった。権藤真澄が近くにあったドアノブにしがみつく。
「誰か! 誰か助けて!」
彼の声が裏返っている。喉が潰れそうなほどの絶叫だ。廊下に真澄の悲鳴が響く。廊下には先ほどの院長や、看護師達がいた。だが、誰もが床を見ている。こちらを見ていない。見れていない。
権藤真澄は腰が抜けてしまっているようだ。四つん這いになって、私から必死に逃げようとしている。腰が抜けたまま、にじり寄ってドアノブに縋り付いている。私は真澄の足を掴んで引きずった。彼の指がドアノブから剥がれる。爪が割れる。カリッという、小さな音。まるで、秋の枯れ葉を踏んだような音。ドアの取っ手に、そして引きずられていく廊下の上に、赤い線が残った。五線譜のような赤い線が。
病院を出て、駐車場に着いた。真澄を引きずりながら、アスファルトの上を歩く。駐車場には、車が何台か止まっている。白いワゴン車、青いセダン、赤い軽自動車。真澄はもう声も出せない。ただ、呻くような音を出しているだけだ。彼の両手は完全に血まみれだ。指先が変な方向に折れ曲がり、爪はほとんど残っていない。
真澄を車に押し込んだ。彼はもう抵抗する力もないようだ。ただ震えて、泡を吹いている。後部座席のシートに、血と尿の染みが広がっていく。しかし、気にならない。後で掃除すればいい。美咲はいつも車を綺麗にしていた。「車は第二の家だから」と言っていた。私もそういえば、自室は汚かったが、何故か車の中だけは綺麗にしていたな。後部座席のドアを閉めた。手が、震えていた。
陶酔ではなかった。陽菜の声を思い出した時のような、あの震えとは違った。もっと静かな、冷えた震えだった。満ちている。完全に満ちている。それなのに、もう一度あの感覚を求めようとしても、手がかりがない。これ以上はない。権藤真澄はこれ以上、情報を出せない。これが最後だったのだと、身体が知っていた。
私も続いて、運転席に乗り込んだ。運転席の窓から空を眺める。雲が流れている。犬の形をした雲が、ゆっくりと形を変えていく。今度は、猫のようにも見える。いや、違う。今度は、鳥の形だ。青い小鳥。
ふと、ダッシュボードに置いていたブローチを見た。胸の奥が、ざわつく。目を逸らそうとしたけど、出来なかった。小さな青い安物のプラスチックが、私を見ている。見ているわけがない。子供が買える程度のブローチだ。安っぽいプラスチックでできた、ただのおもちゃだ。
それなのに、コイツがうるさい。私がやろうとしていることを、思い出せもしない記憶程度の分際が、私を助けもしない、私を守ろうとしない分際が。こちらを見て、私を、非難している。
視界から消し去りたい。手に取った。窓を開けた。腕を外に出した。六月のぬるい風が、手首を撫でた。指が、開きかけた。手を開いて、このブローチを道路に捨ててしまえばいい。どうせこんなもの、誰も拾わない。こんなものが存在しなければ、もっと早くに——
その時、脳裏に警察の制服が浮かんだ。スーツの男たちが見えた。法廷で吠えた検察官の横顔が見えた。清水さんの声が、顔が、私を。苦しいこの瞬間に見えたのは、家族ではなかった。家族ではなく、自分のために戦ってくれた人達が脳裏に。そしてそれは鮮明だった。三年間で一番、鮮明だった。
開きかけた指が、強く閉じた。何も考えないようにした。考えれば、また動けなくなる。今日が最後だ。今日が終われば、全部終わる。私はこの安物を捨てることを諦め、胸ポケットにしまった。心臓の近くに、重さを感じた。
車のエンジンをかけた。後部座席から真澄の呻き声が聞こえる。駐車場を出た。バックミラーの中で、病院の白い建物が遠ざかっていく。通り過ぎていく窓がたくさんある。どの窓にも、誰かがいるのだろう。街は活気に満ちていた。買い物袋を持った主婦。スーツ姿のサラリーマン。学生たち。イチョウの葉が風に揺れている。全てが無駄なほどに綺麗だった。
アクセルを強く踏みこんだ。