「北島さん、見てくださいよ。また何か事件みたいですよ!」
俺が遺失物管理台帳の更新をやらず、のんびりとコーヒーを飲んでいると春野が騒ぎ出す。事務室のテレビから、緊急速報のチャイム音が響いていた。俺は春野の声とテレビの音に気を取られ、パソコン画面から目を離した。
テレビ画面には赤い「速報」のテロップ。ここ最近よく見かけるな、このテロップ。慣れとは怖いものだ。おおかたさっき春野が言っていたデモ隊と警察の衝突だろうな。こういう時、東京中の若いもんが集められる。サミットやら外国のお偉いさんやらが来たりした時もだ。若いって大変だな、俺もピチピチだが、何故か招集されることがない。
『繰り返しお伝えします。本局屋上にて立てこもり事件が発生しております』
女性アナウンサーの声が震えている。本局立てこもりだって? すごいな、デモ隊はそこまでやったのか。最近の治安悪化の流れから、今度はメディア本社で立てこもり発生って。世も末だな。これからは日本犯罪ランドとして観光客から入場料でも取るといい。税収も増えて、行政も嬉しい限りだろ。というより、立てこもり事件が起きているのはこのテレビ局の屋上なのか。それはそれは。アナウンサーの声も震えるのも仕方ないだろうな。
『現在、ヘリコプターからの映像をお届けしています』
画面が切り替わる。空撮映像。都心の高層ビルの屋上が映る。予想では大量のデモ隊が群がっている映像が映るかと思っていたが、屋上には二つの人影しかなかった。カメラがズームされていき、屋上の端に立つ男の顔が、はっきりと映し出された。映像を見た春野が立ち上がり、テレビにかじりつく。俺も椅子から腰を上げる。
「おいおい、あれ光崎じゃないか?」
俺は呟いた。確かに光崎善人だ。穏やかな表情、まるで春の公園を散歩しているような、リラックスした佇まい。両手は体の前で組まれ、何かを大切そうに持っている。一緒にいるもう一人は誰だ? そうこうしているうちに報道フロアのワイプも画面右上に表示された。
『えー、現場の状況を……そのまま、お伝えしています』
アナウンサーの言い回しがおかしい。「そのまま」という言葉に、妙な強調があった。そして、その背後で、『これは報道すべきだ! 国民の知る権利があるだろう!』『正気か? だれが責任を取るんだ!』
スタジオ内の口論が、マイクに拾われている。画面に写っている人間は誰も喋っていない。恐らく裏方の人間が言い争っているのだろう。
『……申し訳ございません。現在、テレビ局屋上の状況を中継しております』
アナウンサーの声が震えていた。彼女はちらりとカメラではないところに視線を泳がす。視線が泳いだ後、視線が上に行ったり、右に行ったり。どうにも混乱している様子だ。
『立てこもっているのは光崎善人さん、三十五歳。人質は権藤真澄さん、二十五歳で……』
一瞬の沈黙。
『……三年前に発生した光崎一家殺人事件の——』『それ以上、言うな!』『事実だろ! 真実を報道して何が悪い!』『あいつには無罪判決が出ている、責任は——』
ワイプが消え、テレビ局屋上の映像だけに変わった。報道フロアの映像も音も完全に消された。映像は光崎ではなく、もう一人の人影に注目している。アナウンサーが言った権藤真澄という名前。そうか、こいつが、そうか。三年ぶりに動いているところを見た。だが、久しく見た旧知のご友人はどうにも体調が悪いようだ。膝を地面について震えて、手を組んで祈っている。可哀想に、膝が汚れる。お母さんが洗うんだろ、そのズボンは。それともお父さんか?
しかし、この馬鹿はなにをそんなに必死に祈っているのか。光崎が神にでも見えているのだろうか、そう思うほどには熱心に祈っている。祈りの願いが強すぎるのか、指先の爪が剥がれ落ち、血がしたたり落ちているのが映像で確認できる。こんなに信心深い男だとは知らなかったよ。それとも命乞いをしているだけだろうか。お前が殺した女もそうやって命乞いをしていたんじゃないのか。
権藤真澄は光崎の近くでしゃがみ込んでいる。祈りながら頭を何度も振っている。カメラがその顔を捉えた。目は見開かれ、唇が動いている。何かを喋っている。当然、声は拾えない。
「権藤真澄ってこんな顔してたんですね」
春野がぽつりと言った。
「興味あるのか」
「いや、別に。初めて見たなって」
そうか、春野は実際に権藤真澄本人を見るのは初めてなのか。今までの調査でも父親の権藤昇については出てきたが、その息子の顔写真はどこにもなかったからな。事件のニュース記事もほとんど削除されている。事件そのものが葬り去られている。俺はテレビに視線を戻した。画面の中では三年前に腐る程見てきた男が震えている。
「哀れだな」
口をついて出た。誰に向けた言葉なのかは、自分でもよく分からなかった。光崎か。権藤真澄か。テレビの中で怒鳴り合っている連中か。はたまた俺自身も含まれているのかもしれない。ただ、この箱の中に写っている景色が、空虚でバカバカしく見えた。
なあ、三年だ。俺が全て失ってから三年。そして、これが俺の苦しんできた三年間の結末になるという、そのくだらなさに怒りが止まらない。クソったれな結末だ。
春野が俺を見た。それから、もう一度テレビを見た。光崎の穏やかな横顔。真澄の震える肩。夕日が二人の影を長く伸ばしている。
「北島さん」
春野が言った。
「行きませんか? なにか出来るかもしれませんよ」
俺はテレビ画面を見たまま、何も答えなかった。そんなこと出来るわけがない。そう言わざるを得ない。だから何も言わない。春野の言葉を否定してまで喋る内容ではない。じっと見つめた画面の中の光崎の表情は変わらない。権藤真澄が震えている。
その時、内線電話が鳴った。部屋に立ち込めるじんわりとした、そんな不愉快な湿気を切り裂くような音。ここ最近ずっと、この内線を取るととてつもない面倒事に巻き込まれている。取りたくない俺は五秒ほど、電話とにらめっこだ。ギロリと睨みを利かせれば、こいつもビビッて他のところに走って逃げるかもしれない。だが、睨んでも電話は俺を気にせず、鳴ったままだった。電話すら俺を舐めているのか。
ちらりと春野を見る。テレビを見たまま、ぼーっとしているマヌケ顔があった。こいつ、電話を取る素振りすら見せん。上司に電話を取らせるなんて。たまには代わりに取ってくれないか。仕方ないとため息を春野に聞こえるようについてから、受話器を取った。
「地域安全課、北島です」
「北島さん、刑事課の斎藤です。お忙しいところすみません」
敬語は崩れていない。ただ、声が硬い。切迫感も伝わる。もう間違いないな、面倒事だ。
「テレビ、ご覧になってますか」
「ああ、今見てますよ」
「光崎さんが、交渉人を指定してきました」
俺は画面を見た。空撮の人影は動かない。
「……交渉人」
「はい、北島さんと話したいと」
春野がこちらを見た。テレビと俺を交互に見ている。
「それだけですか」
「はい。それだけです。金銭も、逃走手段も、何も」
「交渉って、何を交渉するんだ。それに何故、俺が選ばれたんだ」
斎藤は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
「五分後に署の玄関に車を回します。それと……」
間があった。受話器の向こうで、斎藤が息を吸う音がした。
「……詳しくは、車内で」電話が切れた。
俺は受話器を置いた。テレビの中では空撮映像が同じ屋上を映し続けている。人影は動かない。春野がこちらを見ていた。テレビと俺を、もう見比べてはいなかった。俺だけを見ている。
「北島さん、今の電話は何ですか! もしかして光崎さんの件ですか?」
「ああ、交渉人に指名された。俺がな」
春野が瞬きをした。顔中に「面白そう」といったワクワク感が滲み出ている。遊びじゃないし、多大な責任が発生する仕事なんだけどな。まあ、これくらいのメンタリティの方が人生楽なのかも知れない。俺も見習うべきだ。
「交渉人って、テレビで見るやつですか。『要求を言え!』みたいな」
「そういうのとは違うと思うが」
「じゃあ何するんですか」
「分からん。光崎は交渉人の指定だけで、他に何も言ってないらしい」
「何も言ってない?」
「金も、逃走手段も、何も要求していないってよ」
春野が首をかしげた。俺だって首をかしげたい状況だ。まあ、俺が色男だから話がしたいんだろう。モテる男は辛いもんだ。
「それじゃあ……行くか」
「今度は交渉人ですか! 頑張りましょう、スーパーエリートコンビの出動ですよ!」
春野が立ち上がった。指定されたのは俺だけだが、一人で行くのは心細い。「一緒に行くぞ」と言うにはなんだか憚られるような気持ちだった。察してくれと願っていたが、春野は着いてきてくれるようだ。
「これで光崎さんを助けられますね!」
「期待するな」
ジャケットを取った。春野はもう部屋の入口に立っている。行動だけは早い。署の廊下を歩きながら、さっきの斎藤の声を思い出していた。詳しくは、車内で。署内で言えないことがある。電話で言えないことがある。それを車の中で言う。説明する場所を選ばなければならない理由があるということか。
早く早くと促してくる生意気な若造に着いていくと、すぐに神山警察署の玄関に到着した。電話で言っていた通り、斎藤が準備したパトカーが玄関前に横付けされている。俺は助手席に乗り込む。春野が後部座席に滑り込んだ。斎藤はすでに運転席で準備しており、俺等が乗り込むのを確認するとすぐにギアを入れた。サイレンはなかった。
「斎藤さん、サイレンは」
「目立ちたくないので。このまま行きます」
斎藤の判断は正しいのだろう。テレビに映った局前のデモの様相を考えれば、無用な刺激をしないに越したことはない。すでに群衆で溢れている所にパトカーのサイレンは、火に油を注ぐ。
窓の外を見た。商店街を抜ける。月曜の昼過ぎにしては、人が多い。歩いている人間の肩に力が入っている。赤信号で止まった。交差点の角で、二人の男が向かい合っていた。一人が相手の胸ぐらを掴んでいる。もう一人は掴まれたまま、何か叫んでいる。周囲の人間は、止めない。見ている。
信号が変わった。斎藤がアクセルを踏む。
「増えましたね」
春野が後部座席から言った。
「何がだ」
「ああいうの。先月はそこまで見なかったですよ」
春野は窓の外を見ていた。
「北島さん」
「何だ」
「光崎さん、ブローチ持ってましたね。さっきのテレビに映っていましたけど」
「ああ、あいつは律儀に持ち歩いているのか。探したかいがあったな」
「あれ、モチーフは青い鳥でしたよね? 幸せの青い鳥とか言いますけど。光崎さん、全然幸せそうじゃないですよね」
「……そりゃそうだろ。おもちゃだしな。百円そこそこで幸せが買えるわけもない」
「偽物だったんですかね?」
本物なんてこの世にはそもそも存在すらしないだろう。そして、あんまり子供のプレゼントを偽物だとは言ってやりたくはないがな。斎藤がバックミラーをちらりと見た。春野を見たのか、後続車を見たのか、分からなかった。
それから五分ほど、誰も喋らなかった。斎藤が口を開きかけて、閉じるのが二回あった。あーとかうーとか、そういう言葉が詰まって出ないような様子だった。斎藤がバックミラー越しに、窓の外を見ている春野を確認してから、三度目にようやく口を開いた。
「北島さん」
俺に声をかけた斎藤が左手をハンドルから離し、助手席の足元を指さした。どうやら俺の足元においてある黒いケースを取ってほしいようだ。そのケースを取り、俺は斎藤に差し出した。
「それは、北島さんに渡すものなんです。開けてください」
ほう、もしかして財布かバックか? 俺がモテる男なのは周知の事実だが、男からの貢ぎ物なんて初めての体験だ。ありがたくフリマサイトで売り飛ばすとしよう。俺は斎藤に言われた通りに箱を開けた。
中身は拳銃だった。
警察官がよく使うリボルバー形式ではない。自動拳銃というやつだ。黒い樹脂のフレームに、スライドの金属が鈍く光っている。斎藤が何も言わない。これが俺に渡すものと言っていたな。最高だ、センスがいい。遠慮せずに持たせてもらおう。
取り出して手にとってみると、今まで握ったことのない感触だった。所属する部門や都道府県によってはこういった拳銃が配備されることもあるが、俺は警察官になって二十年以上、リボルバーしか触ったことがない。その手には、この銃の輪郭は異質に感じた。グリップを確かめるように握り直したら、指が何かの突起に触れて、黒い塊が膝に落ちた。落ちたのは弾倉だった。リボルバーの五発より明らかに多い。多少外しても殺せるように配慮されている。バリアフリーだな。老眼の中年でもこれだけぶっ放せれば、間違いなく人を殺せる。三年間、ずっとこういうものを求めていた気がした。それが今になって、お膳立てされた形で手の中に入った。
「お前の私物か? やるな、男の子だな。警察官が銃刀法違反、一発実刑間違いなし」
「警視庁本部からの直接命令です。自衛隊から借用したようで」
斎藤は笑わなかった。敬語は崩れていない。声だけが、別人のようだった。交渉人に拳銃を渡すってことはそういうことか。
「マジか。光崎を撃ち殺せってか?」
馬鹿馬鹿しい。現場で射殺するんだったらほかの犯罪者も全員、現場で殺せ。今までもこれからも。斎藤は答えなかった。
「ジャパンでも犯人を現場で射殺する方針になったのか。国際化のアオリだ。これからは全部そうすると良い。裁判の手間も省いて全員現場で死刑。もろもろの税金も浮く令和の事業仕分けだな。国民はこれを望んでいた。その場で射殺じゃダメなんですか? 国会議員様もそう仰ることだろう」
「……権藤真澄の、射殺命令です」
車内が一瞬静かになり、エンジンの音だけが低く響いている。何を言っているのか意味がわからず、すぐには返事が出来なかった。射殺対象は権藤真澄。人質のほうだ。立てこもり犯じゃない。
「すまん、もしかしてあれか? 屋上で立てこもりをしているのは権藤真澄の方だったのか? あまり状況を理解できていなくてな。それとも人質を射殺して一件落着ってことか? 最高の冗談だ、面白すぎるだろ」
「冗談じゃないんですよ」
斎藤のハンドルを握る手が白くなっていた。声も震えている。
「警視総監の直接命令です。射殺後、北島さんは依願退職扱い。北島さんのための天下り先のポストも用意されてます。メディア対策は『該当警察官は既に依願退職済み』で処理する、と」
全部お膳立てされている。撃って、辞めて、消える。最初から最後まで筋書きが出来ている。しかも拳銃すらも。そして、立てこもり事件が起きてからここまで、準備するにはあまりにも手際が良い。別件でそういう機会が無いか色々と準備していたのだろう。そこに今回の立てこもり事件が起きたから利用するって感じか。世の中、ここまで毒が回ると楽しくなってくるな。憎ければ何しても良いってか。次は権藤家の墓石が自衛隊に爆撃されるかもしれん。
「俺は、俺は、この命令はおかしいと思っています」
斎藤の一声が車内に響いた。
「この一連の事件は、ずっとおかしくて。三年前だって清水さんの、清水さんのたった一発の銃弾で、どれだけの人が苦しみ続けたか。その幕引きがまた拳銃なんて、冗談じゃないですよ」
ハンドルを握ったまま、斎藤の肩が震えていた。
「北島さん、捜査一課の赤いバッジ付けてましたよね。捜査一課だけが付けれる、あのバッジ。俺たちにとって、あれってなんなんですか」
支離滅裂だ。論理が繋がっていない。命令を伝えるという立場と、撃つなという気持ちが、同じ口から出ようとして渋滞している様子だ。
「バッジは三年前に外したから分からんな」
俺は拳銃の装備をしながらそう言い放った。合わせてホルスターも。ベルトに通し、腰に固定する。
「今は地域安全課だ。市民を現場で射殺するのがトレンドなのか。最高の地域安全だな」
「大企業のポストかあ」
後部座席から、春野の呑気な声がした。
「やっていけるかな、僕」
ポストが準備されているのは俺だけでお前にはない。というか天下り先にも着いてくるつもりなのか、コイツは。
「俺が撃つ前提すぎるだろ。もうちょい引き止めるくらいはしなさいよ」
「北島さんが撃てないなら、僕が撃ちましょうか?」
「お前は暴発させて俺のこと撃ちそうだからダメだ」
斎藤がバックミラー越しに春野と俺を交互に見ていた。信じられないものを見る目だった。お前の望み通り、警視総監様の命令を拒絶でもすると思っていたのか?
「命令は命令だ。従わない理由がない」
俺は腕を組んで、あくびをする。そして前を向いたまま言った。
「まあ、手順通りにしておけば責任を負わなくて済むしな」
斎藤の目がバックミラーから俺に移った。口が半開きになっている。
「手順通りって、射殺の手順って決まってるんですか?」
「知るか。やったことねえよ」
「清水さんはやったことあるんですよね」
車内の空気が凍った。春野の顔に悪意はなかった。ない。分かっている。こいつは拳銃を撃った経験者として清水の名前を出しただけだ。射殺じゃなくて自殺というのがズレているところだが。それだけだ。斎藤がハンドルを握り直し、何か言いかけてやめた。
「北島さん」
春野がまた口を開いた。
「もちろん僕も最後まで連れてってくれますよね?」
「ああ、よろしく頼む」
「……とうとう、僕の優秀さに気づいてくれたんですね。この、春野巡査に任せてください!」
春野が後部座席から身を乗り出し、両手で拳銃の形を作った。片目を閉じて、フロントガラスの向こうに狙いを定めている。今からやる仕事は交渉人であって、殺し屋ではない。
「北島さんが首になったら僕も一緒に辞めます。天下り先はぬいぐるみの製造工場とかにして、ピーポ君作りましょう!」
「問題は起こすなよ」
「その時はよろしくお願いします!」
斎藤は何も言わなかった。ハンドルを握ったまま、前だけを見ていた。この車の中で一番重いものを持っているのは、拳銃を渡された俺ではなく、渡した斎藤のほうだろうな。可哀想に。
沈黙の中、走り続けた車の中からテレビ局の周囲が見えてきた。群衆が道路にはみ出している。テレビ局が見えた時、最初に思ったのは「これは絶対に入れない」という感想だった。ビルの正面入口を、人が塞いでいた。機動隊ではない。市民だ。百人、いや、もっといる。腕を組み、肩を並べ、入口の前に壁を作っている。その外側で、機動隊が立っていた。盾を構えているが、押していない。驚いたことに警察は完全に市民の後手を取っている。
斎藤がパトカーを群衆の前で停めた。群衆の目線は俺等に降り注いでいる。降りた瞬間に取り囲まれて撲殺されるのではないのか。そんな不安すら感じる、異様な雰囲気だ。斎藤はエンジンを切る前に、こちらを見た。
「正面から行きます。裏口も搬入口も、同じく全部塞がれてますから」
俺は窓越しにビルを見上げた。屋上は、ここからでは見えない。
「覚悟決めて、行くか」
三人で車を降りた。そのまま歩いてテレビ局に近づくと、群衆がこちらを睨んでいるのが分かる。
「来るな! 光崎先生の邪魔をするな!」
最前列の男が叫んだ。四十代くらい。作業着を着ている。その目に、俺と同じくらいの疲労が見えた。光崎先生か、直接合ったこともない男を先生呼びしてデモ隊をやるとは、さながら宗教のようだな。何が彼らを突き動かしているのか、デモ隊の目的は何なのか。
斎藤が一歩前に出た。
「すみません、警視庁神山署の斎藤と申します。この二人は、光崎さんが呼んだ人です。通していただけますか?」
群衆がざわめいた。デモ隊もどうすればいいのか分からない様子で、キョロキョロと周囲を伺う。隣の人間の顔を見る。判断を探している。意思決定は誰がするのか。その場で集まっただけの団体にそんなものはない。誰も判断が下せないまま動かず、数秒たった。
「……先生が呼んだなら」
最前列の男が、半歩退いた。それに続いて、少しずつ、人の壁が割れた。一人分の幅。斎藤が振り返った。俺と目が合った。何か言いかけて、やめた。代わりに小さく顎を引いた。俺も顎を引いた。それだけだった。
春野と二人で、人の壁の間を歩いた。両側から視線が刺さる。敵意ではない。値踏みだ。光崎が呼んだ人間を、品定めしている。背中で、壁が閉じる気配がした。
振り返ると、斎藤の姿はもう見えず、穴の空いた人間の壁は塞がっていた。
テレビ局のロビーは無人だった。受付のカウンターに書類が散乱している。モニターの一つがつけっぱなしで、自局の空撮映像を映していた。自分たちのビルの屋上を、自分の局のヘリが撮っている。
ロビーは広かった。広すぎた。天井が高い。受付カウンターがあり、ソファがあり、観葉植物がある。テレビ局の一階ロビーとは立派なもんだ。だが、人がいない。受付に誰もいない。警備員もいない。廊下の奥も、静まり返っている。
外から、拡声器の音が届いた。機動隊のものだろう。群衆の怒号がそれに被さる。ビルの壁を通しても聞こえるほどの音量だった。音の爆弾が落ちて、ビリビリとした唸りを上げている感じだ。
全員、外に出ている。警察も、テレビ局のスタッフも、全部あちら側に吸われている。ビルの内部構造はよくわからないが、エレベーターの前に立った。ボタンを押す。待っている間に、ロビーを再度見回した。
本来なら、ここに人がいるべきなのだろう。俺はそういった現場に詳しい訳ではないが、交渉人が現場に入る時は、まずブリーフィングがあるはずだ。心理分析官が犯人のプロファイルを説明し、指揮官が方針を決め、通信機器を渡され、合図の取り決めをする。交渉が長引いた時の交代要員、万が一の突入班との連携。だいたいそんな流れか。
でもここには誰もいない。ソファには誰も座っていない。ホワイトボードもない。通信機もない。「行ってこい」と言う人間すらいない。今の流れ、なんとなく理解してきた。通常ならいろんな部署の人間が入り乱れるはずの状況にも関わらず、誰もバックアップについていない。そして俺が現場にて射殺する。
警視庁本部としては交渉人による射殺ではなく、そもそも勝手に突撃して人質を殺した愚かな熱血警察官というシナリオにしたいのかもな。だから、誰も配置についていない。命令は残らない。結果だけが残る。
なぜこんなことをするのか。それは光崎の魔術による影響なのか、それとも三年前の事件の怒りが余韻として残っているのか。今の俺にはどれか判別することは出来ない。外の轟音と対比して、静寂なロビー。ここにいると、まるで世界から切り離されたような感覚だ。俺は、一人か。
「北島さん」
思考が長くなっていた。隣にいる若者の声が耳に届く。こいつのことを忘れていた。そうか、一人ではない。頼りないのは間違いないが、一人ではない。
「何だ」
「交渉って、何するんですかね」
外で拡声器が割れたような音を出した。怒号が一段高くなる。
「さあな。行ってみないと分からん」
「住民問題対応班って、立てこもり事件の対応に行くんでしたっけ」
「行かないな」
エレベーターの数字が降りてくる。春野が首をかしげたまま続ける。
「じゃあなんで僕たち、ここにいるんですかね?」
「市民との定期面会」
「え?」
「屋上にいる市民と、面会する。十分、地域課の対応範囲内だ」
春野が瞬きをした。一回。二回。それから、ぱっと顔が明るくなった。
「そうですか」
チンっという音がなり、エレベーターが到着した。扉が開く。乗り込むと箱の中は明るかった。春野が最上階のボタンを押し、扉が閉まる。上昇する感覚。階数表示が変わっていく。
「北島さん。射殺現場を生で見れるの、期待してますよ」
こいつもなかなか鋭いジョークを言うようになった。優秀な上司による教育の賜物だ。腰の拳銃の重さだけが妙に感じる。春野はそこからは何も言わなかった。珍しく、何も。
扉が開いた。エレベーターを降りると目の前にもう一つの扉がある。安全管理上、勝手に屋上に入れないようになっている設計か。俺はそのまま非常口の重い扉を開ける。
扉を開けた途端、風が叩きつけてきた。六月の湿った風で、髪が目にかかる。そして雷撃かと勘違いするほどのバリバリといった轟音。報道ヘリが空気を切り裂く音だ。うるさすぎるだろ、こんな近くを飛ぶな。こっちはお前らと違って失敗したら責任が発生するんだ。デカい蠅がうろちょろしている現場で仕事をしろってか。大人になるっていうのは大変だな。
音と共に夕日が目に突き刺さる。風に煽られて、一瞬目を細めた。フェンスの向こうに、空が広がっている。そして。屋上の端に、二つの人影。一人は座り込んでいる。そいつは小さく、丸まっている。もう一人は、立ってそいつを見下ろしている。夕日を背にした男の影が、俺の足元まで届いていた。