光に目が慣れてくると、屋上に立っているのが光崎善人だということが分かった。こちらに背中を向けている。そうなるとその足元にうずくまっているのは権藤真澄か。そいつは両手で頭を抱え、胎児のように丸まっていた。光崎の口が動いていた。声はここまで届かない。ヘリのローターが空気ごと言葉を刻んでいく。唇の形だけが、無声映画のように動いている。
一歩踏み出す。腰のホルスターに手が触れる。拳銃の重みが、脇腹に食い込んでいた。ヘリの旋回の頂点で、一瞬だけ轟音の谷間ができた。光崎の声が、断片になって届いた。
「——の髪型は?」
真澄が何か答えた。聞き取れない。
「——ニーテール……」
音の壁が落ちてきた。視界だけの世界に戻される。光崎の肩が上下していた。呼吸が荒いのか、笑っているのか、この距離では分からない。春野が俺の袖を引いた。唇が動く。ヘリの轟音のせいで読み取れたのは「あの人達は何をしてる?」だけだった。俺は首を横に振った。エスパーじゃないからな、近づくしかないだろう。次の音の谷間は、もう少し長かった。轟音の合間に、声が散らばった。
「……本当に? 本当に、そうだったか?」
光崎の問いに真澄は答えていなかった。口を開いてすらいない。光崎は頭を落として地面を見つめていた。
「ポニーテール、左側に垂れる癖が……あったはずだ。あった、よな?」
音が戻った。こいつはあれか、権藤真澄に直接聞いているのか。自分の家族が殺された事件の内容を。そこまでして記憶を呼び起こしたいのか。さながら記憶中毒だ。記憶の過剰摂取で死者が出たら、厚労省が動くかもしれんな。依存性あり、今後は国民の思い出を要規制と。
俺は拳銃をホルスターから抜いた。手にずっしりとした重みを感じる。スライドを引き、乾いた金属音がヘリの残響に紛れた。銃口はまだ下を向いたまま。まだ、どこにも向けていない。
ヘリが遠ざかった。俺は屋上の状況を確認する。光崎は本当に一人で立てこもりを行っているのか、共犯者は、武器の所持は。ざっと見渡してみたが、光崎と権藤真澄以外は見当たらない。光崎も権藤真澄も特別何かを所持しているようには見えない。手ぶらだ。
しかし、テレビ局の屋上ってのはインフラ施設だからか、思った以上にゴテゴテとした配管や設備が多いもんだな。もっとおしゃれなカフェが設立されている場所だと思っていたが。そして、皮肉なことに屋上の縁は思ったより低かった。安全柵などない。ただ、膝ほどのコンクリートの立ち上がりがあるだけだ。
そもそも屋上に人が立ち入るのは設備屋しかないという想定なんだろう。頼むから柵を今から設置してくれ。手ぶらの人間が警察の突入を防ごうとするなら、やることはたったの一つ。飛び降り自殺を示唆してくることだ。それくらいしか交渉手段がないからな。
視線を光崎に戻す。鬱陶しいヘリの音は完全に消えたわけではない。旋回の軌道が広がったのか、轟音が薄い膜のように後退して、屋上に不自然な静けさが残った。風の音と、真澄の啜り泣きだけが、コンクリートの上を這っていた。
俺の足音に気がついたようで、光崎がこちらに振り返った。穏やかだった。異様なほど穏やかだった。怒りも、恨みも、恐怖も、全部どこかに置いてきたような顔をしていた。今から飲み会にでも行くかのような顔つきだ。
「北島さん。良かった、来てくれたんですね」
「……地域安全課、住民問題対応班の北島だ。今の気分はどうだ?」
「最低ですよ。でも来てくださって、ありがとうございます」
「本当だよ、もっと感謝してくれ」
数歩だけ近づいた。光崎との距離が約七メートル。春野が右後方に控えている気配がある。真澄は変わらず地面に丸まっていた。
「交渉人を指名したのはあんただ。でも急ぎで内容を聞いてなくてな。何を交渉したいんだ?」
光崎は少し首を傾げた。
「お願いが、一つだけあります」
「聞くだけ聞く。内容によっては金を払えよ」
「その拳銃で、私を撃ってくれませんか」
俺の小粋なジョークに被せるように、光崎の願いが響く。どうやらコイツは高額な請求書をお望みらしい。風が吹き、髪が揺れる。それだけのこと。驚きはない。驚きはなかったが、俺の腹の底に沈んでいた感情が、一段下がったような。腹が冷えて下しそうだ。
「本当はただ、なんとなく北島さんとお話をしてみたかっただけなんです。ブローチを探し出してくれて、感謝の言葉を伝えたかった。それだけの理由」
「じゃあ、警視庁としてサービスできるのはお喋りまでだ」
「北島さんの手に拳銃があるのが見えてしまったので、とりあえずでお願いしたくなったんです」
とりあえずビールが絶滅した令和の世の中。次に流行るのは、とりあえず射殺で。本日のおすすめ、とりあえず射殺セット二百九十八円。ポイントカードはお持ちですか。くだらない。
「射殺オプションはVIP専用だ。一見さんにはお出しできない」
「拳銃を持っているってことは射殺命令が出ているんでしょう? 今ここで私を撃てば、立てこもり犯の射殺です。そんなに問題にはならない」
「大問題だろ。テレビゲームじゃあるまいし、引き金はそんなに軽いものではない」
「でも、筋は通る」
何の筋なのかよく分からん。お前の言っている筋は俺にとってはバナナの筋くらいの価値しか無い。俺は首を傾げて理解できないというジェスチャーを取るしかなかった。光崎が口を閉じた。数秒の沈黙があった。ヘリのローターが遠くで空気を叩いている。
「……すみません」
光崎は本当に謝っていた。社交辞令ではない声だった。光崎が胸ポケットからブローチを取り出した。こちらに見えるように持っている。
「清水さんが命がけで守ってくれて、北島さんと春野くんが見つけてくれた。感謝しています」
俺は何も言わなかった。
「この三年間、ずっと考えていました。どうやって終わるか。権藤真澄を殺すことでこの苦しみから解放されるかも、なんてね。でもそんなこと出来ないんですよ。そんなことしたら、私のために戦ってくれた色んな方たちの努力が無駄に。皆さんは新しい殺人鬼を生み出すために仕事をしていたわけではないですから」
光崎は俯いていた。
「だから警察官の手で終わらせてほしい。犯罪者が射殺された。そういう形なら、少しだけ筋が通る。妻と娘を殺され、仇を討とうとした愚かな男が警察に止められた。それなら、ニュースになる」
「ニュースになって、何の意味がある。あの世でワイドショーでも見るつもりか? 残念だが、閻魔様は年寄りすぎて機械がいじれない。地獄にはテレビなんて無いぞ」
「家族が本当にこの世にいた、その実感が欲しい。劇的な最後なら、みんなが私の家族のことを覚えていてくれるでしょ? 永遠にエンタメとして各メディアで語り継がれます。そうすれば妻と娘がこの世に存在していたことを証明できる」
「自分の死を利用して家族の記憶を世の中に繋ぎ止める、と。良い筋書きだな、前世はシェイクスピアか? ただ残念なことに、俺は台本通りに動く役者じゃない。お前の配役はセンスがなかった」
光崎のクソみたいな理論に唾を吐き捨てた。西日が目に入る。太陽すら俺を煽ってくる。鬱陶しい季節が近づいている。鬱陶しい気温、鬱陶しい湿度。鬱陶しい人間。クソったれな日常。どいつこいつもイライラする。好き勝手喋って、好き勝手要求しやがって。俺の体の五感すべてが不快感を主張している。
「もう生きている望みがないんで——
俺は光崎に銃口を向け、トリガーを引いた。銃声は想像よりも大きかった。破裂音が鼓膜を叩き、頭の中が真っ白になる。手首に鈍い衝撃が走り、銃口が跳ね上がる。硝煙の匂いが鼻をつく。耳鳴りが鳴り続けていた。ヘリのローター音ですら、一瞬止まったように感じる。実際には止まっていない。遠くにいっただけだ。銃声というのは、他の全ての音を踏みつけにする。
銃弾は光崎の足元、三十センチほど手前に着弾。コンクリートの破片が小さく弾けた。光崎は動かなかった。目だけが動いていた。銃口を見た。俺の目を見た。そしてほんの少しだけ、肩の力が抜けた。撃たれていないことを理解するのに、時間がかかっていた。自分の体を見下ろし、足元の弾痕を見て、それから俺を見た。
「すまんな、歳で手が震えるんだ。上手く当たらん」
射殺命令が出ていたのは確かだ。権藤真澄を殺せと。そして光崎自身も殺されることを望んでいる。もはや権藤真澄と光崎、どちらを撃っても良いのだろう。どちらかを殺せば、俺の愛する平穏な日常が帰ってくる。そんな確証などどこにもないが、そう思ってしまう位には、世の中ハチャメチャな状態だ。
ただ、俺は銃を撃つのが下手で誰にも当たらなかった。やることはやったが失敗しました。そう報告して難を逃れる。最高の責任逃れだ。四十五年生きてきて学んだ処世術。警視総監殿も脱帽の一休さん的とんち。宿題を家に置いてきたと言い張る小学生みたいなもんだ。こんな言い訳上手くいくか? 上手くいくさ。何故なら俺はスーパーエリートだからだ。運は俺に味方する。根拠等ない。必要もない。
目的を果たした用済みのションベン銃を下ろす。銃口を地面に向けたまま、肩の力を抜く。俺の右手は震えているのかもしれない。分からない。反動のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どっちでもいい。ああ、そうだ。他の言い訳も考えついた。俺に渡される前に既に銃が壊れていた、というのも有りだ。整備不良、自衛隊さんの責任か斎藤の保管方法の問題か。全員巻き込んで責任の押し付け合いゲームと洒落込むのもハイカラだ。文明人らしいおしゃれな発想だ。
光崎がまだ俺を見ていた。理解が追いついていない目だった。本当に殺されると思った。殺されなかった。その二つの事実の間で、立ち尽くしている。光崎の口が開きかけたが、俺はそれを遮って続ける。
「銃弾はどうだ、初めて見るだろ? 清水を撃ち抜いた鉛玉だ」
光崎が何か言いかけていたが、俺は絶対に言わせない。弾丸の重みを一般市民のお前にも分からせてやる。軽々しく拳銃で死ぬとかテレビゲームみたいな事言いやがって。生きていく望みが無いって? テメェが簡単にくたばったら、俺の三年間のこの苦しみの意味はどこに行く? 左遷されて、ゴミみたいな扱い受けて、必死こいて言い訳して逃げ回って。そもそもの発端はテメェのために現場探し回って、証拠集めて裁判に負けて。そしたら部下が、勝手に死にやがって、さらにさらに事件から三年後には遺族が魔法を使って殺人教唆? 馬鹿じゃねえのか? スーパーエリートな俺様の今までの惨めな時間は全部無駄だったってか? ふざけんな! 本当にぶっ殺すぞ! 何のために俺が刑事を目指したと思っている。カッコいい男になりたかったからだ! テメェが死んだら、俺は何のために今まで仕事をしてきた、何のために左遷された、何のためにここに来た。俺のプライドはどこに行くんだ。行き場所を見失った俺の存在意義は? 俺のキャリアをめちゃくちゃにした責任を取れ。お前は俺のために生きるべきだ。俺のために死ぬべきだ。無様に這いつくばって生き長らえろ糞野郎が!
「次はこいつをテメェのこめかみに当ててやる。清水と同じ場所だ。死に化粧のペアルック。もう一度聞こうか。気分はどうだ?」
光崎の喉が動いた。聞こえるはずもない唾を飲み込む音が、風の切れ間に聞こえた気がする。
「……北島さんは、残酷な人ですね」
「褒め言葉として受け取ってやる」
光崎が目を逸らし、足元の弾痕を見ていた。さっき俺が撃った痕。コンクリートが小さく削れている。俺は息を吐いた。吐いてから、自分が長く息を止めていたことに気づいた。胸の奥にぱんぱんに溜まっていた何かが、抜けていく。怒鳴った後の、無力感のようなものだった。怒りが発せられたことで何かが変わったわけではない。ただ、無意味に血圧が上がっただけだ。呼吸をゆっくりと繰り返すことで少しばかり気持ちが落ち着いてきた。
光崎は「撃ってくれ」とも言わなくなった。殺される寸前まで行って恐怖を感じたのか。それでも十分だった。拳銃をホルスターに戻す。光崎が顔を上げた。銃をしまったことに、少し驚いた顔をしていた。光崎の唇が微かに動いた。笑おうとしたのか、何か言おうとしたのか。どちらにもならなかった。
「それよりどうだ、地上に降りて飯でも。メディアさんの本社近くだ。こういうくだらない街には、どうせおしゃれなパスタ屋でもあるだろ。独り身同士、乙なもんだ。ちなみに俺は今どきなおじさんだから、パスタは啜らずに食べるぞ。モテる男はこういう所作で差がつくのさ」
沈黙が続く。光崎が、息を吐いた。短い呼気だった。笑いの手前のような、ため息の手前のような。
「パスタは好みじゃないのか。じゃあ話を変えよう。今は多様性の時代だろ?」
言ってから、自分でも何を言い出すのかと思った。だが今まで押さえつけられてきた怒りが波のように押し寄せ、開いた口は止まらなかった。
「俺がテメェの嫁になってやる。毎日コンビニ弁当買ってやるよ。からあげクン付きだ」
光崎が目を丸くした。それから、口元が歪んだ。笑いを堪えようとして、堪えきれなかった種類の顔だった。
「……何ですか、それ」
「プロポーズだ。光栄に思え。忘れたくないんだろ? だから一生、お前の家族の話をしてやる。それで忘れずに済むだろ。はい、目的達成。さっさと地上に降りろ」
「……からあげクンでプロポーズする人、初めて見ました」
「贅沢言うな。グダグタいつまでも面倒くさいヤツの再婚相手など、老けたおっさんがお似合いだ」
光崎が息を吐いた。笑いなのか、呆れなのか。たぶん両方なのだろう。はたまた色男に誘惑されてときめいているとかもあり得るな。俺の言葉を本気にされても困るが。
「見た目が好みじゃありません」
「手厳しいな、自認イケメンなんだけどな」
残念ながら俺のプロポーズは失敗に終わったみたいだ。馬鹿みたいな会話。足元にはさっき撃った弾の跡がある。三メートル先では三年前の殺人鬼が丸くなって泣いている。空にはヘリが旋回し、地上では群衆が怒鳴り合っている。その真ん中で、男同士のラブプロポーズ。だが光崎の肩が、ほんの少しだけ下がった。張り詰めていた糸が一本切れたのかもしれない。切れたからといって何が変わるわけでもないが、少なくとも、さっきの「撃ってくれ」の顔ではなくなっていた。
「でもあなたと食事するってのはなんだか想像しやすいです。不思議と。コンビニ弁当を開けて、くだらない話をして。北島さんが缶ビールを開けて、僕がお茶を飲んで。それは、なんだろう。想像できる」
声が柔らかかった。さっきの震える声ではない。もっと手前の、何でもない声だった。
「でもね、北島さん」
光崎が空から目を下ろした。俺を見ていなかった。俺の後ろの、何もない空間を見ていた。
「妻と娘との食卓のシーン、私、想像すらできないんです。三人で食卓を囲む。美咲が味噌汁をよそって、陽菜が箸を並べて。それだけのことが、もう頭の中でも映像にならない」
光崎の手が、胸ポケットに触れた。
「体験したことあるのにね」
この流れは理解した。パスタの話も、コンビニ弁当の話も、全部ここに着地するのだと。何を言っても結果は同じだ。この男の中で、妻と娘が食卓についている映像は、もう再生されない。光崎はまだ、ブローチの輪郭を指先でなぞっている。
「北島さん」
「何だ」
「聞いてください。私はずっと、自分のやっていることが間違っていないと思っていました」
光崎の声は弱々しかった。風が吹けば消えてしまいそうな、儚い声。
「たとえ魔法を使ったとしても、これは家族の記憶を守るためだ、仕方がない。人が死んでも他人の人生が壊れても、私のやっていることは間違っていないんだって。そう、私は間違っていない。私は家族を殺された被害者なはずです。だから、許されるはず……でも、今の私は本当に間違っていないのか。もう自信がない」
光崎がブローチを見つめている。青い小鳥が、夕日を受けて鈍く光っている。その光はなんだかとても綺麗で、無駄に輝いて見える。ほしのきらめきの、ような。
「三年間、ずっと家族のことを忘れないように、そのためにSNSに書き込んで。そしてそれを見た色んな人を巻き込んで、人が死んで人が殺して。でも、結局何も残らなかった」
光崎が俺を見た。
「……殺したのに美咲の顔も、陽菜の声も、もう確信を持って思い出せない」
しばらく沈黙が続いた。屋上に吹く風だけが、音を立てている。今この瞬間、他にもっと色んな音が起きているはずだ。民衆の怒りも、ヘリの音も、俺の耳には届かない。全身の神経がこの男の言葉を聞くことだけに集中している。
「私は本当は復讐がしたかったのかもしれません。家族を殺した奴らに残酷な最後を。そう願っていただけなのかもしれない。権藤昇が死んだときも、公正忠裁判官が死んだときも」
俺は次の言葉を待った。待ちたくなかったが、待った。
「気持ちよかった」
俺は何も言わなかった。
「そんなことを考えてはいけないなんて思っても。自分と同じ苦しみを、他の誰かが受けるんだと考えたら嬉しくて嬉しくて」
光崎が口を閉じた。そして足元でうずくまっている権藤真澄を一瞥して続けた。
「そして、最後に殺すのはこの男。さぞかし気持ちが良いのでしょう……でも、自分の手で殺す、その踏ん切りがつかない」
「それはなんでだ? 仇討ちだ。そいつを殺せばもっと気持ちいいぞ」
「……家族の記憶が無くなっていくのに、別の記憶が邪魔をするんです」
光崎の視線が、どこか遠くへ向いた。俺でもなく、空でもなく、もう存在しない何かを見るような目だった。
「事件を担当してくれた検察官がいました。あの人には、関係なかったはずなんです。死んだのは自分の家族じゃない。担当した案件の一つに過ぎない。それでも法廷で必死に戦ってくれた。清水さんも、関係なかった。遺族対応は地域課の仕事だって。それでも現場からブローチを持ち出した」
清水、という名前が出た。
「あなたたちだって、関係ないんでしょう? でも、ブローチを届けてくれた」
二週間。徹夜で各警察署を回った日々が頭をよぎった。ただの仕事だ。それだけだ。
「みんな、自分の生活があった。自分の仕事があった。私の家族とは、何の縁もなかった。それなのに。そこまでしなくていい人たちが、そこまでしてくれた。その人たちが作り出したのが、結局これです」
光崎がブローチを握った。
「私は教師でした。でも人を殺させた。私は被害者でした。でも別の家族を壊した。私は父親でした。夫でした。でも家族の顔が思い出せない」
俺は何も言えなかった。
「私は今、何ですか」
風が止んだ。光崎はブローチを握ったまま、答えを待っているのか、もう待っていないのか、俺には分からなかった。
「人間ですら、ないのかもしれない。魔法なんて使ったからバチが当たった」
光崎の目が、俺に向いた。
「みなさんはこんな化物を作り出すために戦ってくれていたのでしょうか?」
「さあな、知らん」
ああ、うざったい。うざったい、うざったい。同じ話の繰り返しだ。何度この話を聞けば良いんだ。ノイローゼになっちまう。コイツが前を向かないのであれば、俺はいつまでも三年前の事件を突きつけられる。俺が前を向きたくてもコイツがウジウジしていたらいつまでも忘れられない。目障りだ。お前が前を向かないのであれば俺等が仕事した意味は。これまでなんのために走り回ってきた。先ほどの怒りが再燃して止まらない。
「お前は逮捕されろ。お前を撃つのは地域課の仕事じゃない。逮捕するのが仕事だ」
光崎は黙って俺を見ていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「逮捕されて、牢屋に入っても十年もしないで出れてしまいます」
「十年あれば十分だろ」
「十分じゃない! 出てきたら、また同じ苦しみを味わうんです。いや、同じじゃない。もっと酷い。十年経てば、美咲の顔も、陽菜の声も、今よりもっと遠くなる。それが、一番怖い」
声が震えていた。怒りじゃない。
「私は悪です。ここで断罪されるべきだ。北島さんもそう思いませんか?」
「神にでも聞け。俺に聞くな」
「……現役警察官としてはどう思いますか?」
「善悪を決めれるほど賢くないんでね」
俺はポケットに手を突っ込んだまま、光崎を見据えた。
「手順に乗っ取って逮捕する。それが俺の仕事だ。これ以上、何も言うことはない」
光崎が呆然と俺を見ている。理解できない、という顔。
「それだけですか」
「ああ、それだけだ」
俺はため息をついた。面倒くさい。本当に面倒くさい。だが、これが俺の仕事だ。
「面倒くさい善悪の話はお偉いさんに任せる。俺はただの地域安全課のお巡りさんだ」
光崎の顔が歪んだ。怒りなのか、悲しみなのか、判別がつかない表情。
「私の家族が殺されて、それでも」
「それでも、だ」
俺は光崎を見据えた。目を逸らさない。
「法律がどうとか、正義がどうとか、そんな難しい話は俺には分からん」
俺は一歩、光崎に近づいた。
「ただ、あんたは犯罪者だ。だから逮捕する。市民には人権がある。自分は人間じゃない? 笑わせるな。地球上の生物で人間だけが逮捕される権利がある。俺が今お前に手錠をかけようとしてるのが、その答えだ」
俺はジャケットの内ポケットから手錠を取り出した。金属の鎖が鳴る音、それを聞いた光崎の身体が震え始める。手錠にビビっているわけではない、もっと別の答えが欲しかっただけなのだろう。
「そんな、そんな軽いものなんですか……」
「軽くはないさ」
俺は静かに答えた。
「でも、俺に出来るのはそれだけだ。もしもこれ以上のサービスが欲しいなら、あきらめて俺を嫁として迎え入れるんだな。家族だったら人生のケツ持ちくらいはしてやるさ」
光崎の肩から、少しだけ力が抜けた。俺はそれを見ていた。見逃さなかった。ほんの僅かな変化だった。張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだような。それだけだった。それだけだったが、俺には十分だった。このまま捕縛できる。そう確信した。
その時、ヘリが近くで旋回した。プロペラの音が大きく轟き、釣られて光崎の目が空に向いた。ヘリからは報道カメラが、こちらに向けられている。一秒、二秒と。
光崎の肩に、また力が戻った。さっきまでとは違う力だった。緊張ではない。もっと遠くにある、俺には届かない何かに引っ張られているような。まずい、俺のここまでの必死の言葉が、音と風に吹き飛ばされている。今、決めるしかない。そう考えた俺は一歩踏み出した。俺は少しずつ、光崎ににじり寄ったが、それに気づいた光崎は顔を上げ、こちらを睨んでいる。その眼力はなかなかのもので、まるで光崎の背中の空気が歪んでいくかのような迫力だった。
「北島さん、このまま光崎さんに近づいて大丈夫なんですか?」
右斜め後ろにくっついていた春野の言葉が俺の耳に入る。大丈夫か、とはどういう意味だろうか。このまま飛び降り自殺をされてしまうことか、はたまた光崎からの反撃を懸念しているのか。光崎は武器の類を持っているようには見えない。このまま走り寄れば取り押さえることは可能なはずだ。
だが、春野の言いたいことはわかる。どうしても魔術のことが脳裏をよぎる。先日教えてくれたあの内容だけなのか、他にも手段があるのかもしれない。どのような反撃手段を持っているのか分からない以上、手荒な真似をすれば、どう反撃されるか予想すらつかない。そして俺は近づくの止めて一呼吸ついた。
俺が近づくのを止めたのを確認すると、光崎は権藤真澄に向き直った。さっきまでの穏やかさが消えていた。消えたというより、剥がれた。下から出てきたのは、屋上に着いたとき断片的に聞いたあの声だった。
「権藤」
光崎の言葉に権藤真澄が体を強張らせた。丸まったまま、顔だけを光崎に向けた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。
「最後の質問だ。もう一度だけ答えろ。あの日、美咲はどんな服を着ていた?」
「し、白いブラウス、白いブラウスを着ていた! あの女性はきれいな白い服を着てた、おしゃれで」
光崎が唖然とした顔をして言葉を切った。
「……病院で聞いた時はそんな詳細に言ってなかっただろ」
どういうことだ。光崎は同じ質問を繰り返し、権藤真澄にしているのか。
「髪型は」
「ぽ、ポニーテール。左側に垂れてた!」
真澄が頷いた。頷いたが、光崎は真澄を見ていなかった。自分の手を見ていた。ブローチを握っている手。指の関節が白くなるほど強く握っている。顔の表情筋がこわばり、まるで般若のようだ。
「陽菜は」
「あの子は髪が長くて、大人しい子だった! 2階から降りてきて——」
「違う、髪は肩口までの長さだ」
光崎の口が開いたまま、閉じなかった。権藤真澄は嘘を言っていたのか。
「お前、私の話を聞いて、適当に合わせようとしているな?」
声が落ちた。地面に落ちるように。明確な殺意、光崎の周りの空気が歪んで見えるほどの。人が人を殺す瞬間とはここまで異質な雰囲気を纏うのか。
「もういい、時間の無駄だ」
「待って! まだ話せることならあります!」
「「この屋上から突き落として、お前を殺す」」
強烈な耳鳴りが始まる。この言葉を聞いた権藤は顔を下げ、床を見つめていた。
「「なあ、両親が目の前で殺されてどう思った? 悔しいだろ? もう二度と会えない」」
光崎の言葉を聞いた権藤真澄は口を開け、よだれを垂らしたまま、ずっとぶつぶつと言った独り言を言い出している。精神的な限界を迎えてしまったのだろう。光崎は権藤真澄に言いたいことを言い終えたのか。一瞬間を開けて、空を見上げた。
「陽菜の声は高かったか、低かったか。叫んでいたのか、泣いていたのか」
誰にも聞いていなかった。真澄にも、俺にも、自分自身にも。ただ口から零れていた。
「本当に、あの笑顔だったか? 遺影の顔なのか、本物の顔なのか、写真で見た顔なのか。どれが本物だ? どれが美咲だ?」
ブローチを握った手が震えていた。胸に押し当てるように。中にあるものを、体の中に押し込もうとするように。沈黙があった。ヘリが回っている。真澄が怯えている。春野が俺の隣で息を止めている。その全部が遠かった。
「最後に食べたのは味噌汁だったか……目玉焼きだったか。それともトーストだったか……」
光崎がブローチを握った手が胸から離さず、もう片方の手が屋上の縁に爪を立てた。
「覚えてない」
短い言葉だった。
「覚えてない。最後の朝に、美咲が自分に何を食べさせてくれたか。覚えてない。何も、何も思い出せない」
顔を上げなかった。床に向かって喋っていた。
「三年だぞ。たった三年だ。なのにもう。匂いも味も、何を話したかも。愛した人が本当にこの世にいたのかさえも」
声が途切れた。途切れたまま、肩が痙攣するように上下した。息は乱れ、目は見開き、ブローチを握る手だけが夕日で白く光っている。何も言えず、俺は立っていた。
「「ただ、ただ一緒にいたかっただけだ。家族と一緒にいたかっただけなんだ」」
光崎の声が脳髄に染みる。目の神経が拒否反応を起こしてるのか、まぶたがピクピクと痙攣を起こす。不思議と不快な気持ちもない。この緊張状態の中、理由は分からないが何故か幸せな、高揚感が。何故だ、なぜこんな。
その時、春野が俺の思考を切るように小声で話しかけてきた。
「北島さん」
「……何だ」
「光崎さんの立ち位置、おかしくないですか?」
俺は眉をひそめた。立ち位置? 演劇じゃないんだから立ち位置なんてどうでもいいだろ。ガムテープで床にバッテンでも付いているわけでもあるまい。お前までシェイクスピアだったのか?
「うーん、本当に権藤真澄を殺すつもりなら、なんで光崎さんが縁に近いところにいるんですか?」
俺は光崎の位置を確認した。光崎は屋上の端、柵というか縁というか。腰くらいの高さの心持たないコンクリートの縁のすぐ近くに立っている。確かに光崎が真澄を殺すつもりなら、真澄を縁の近くに追い詰めるべきではある。だが今、縁に寄りかかって立っているのは光崎自身だ。
「立ち位置なんて、別に深い意味はないんじゃないのか?」
「そうですね……さっきの話しぶりから本当は自殺を狙っているのかも?」
春野の言う通り、銃で殺してくれと言ってきたことを考えると実は自殺狙いというのも確かにありえる。自殺は出来なかったと言っていたが、気持ちが変わったのか。はたまた別の目的なのか。春野に言われると、自分が落ちる準備をしているように見えてきた。それに光崎は権藤真澄を殺すという選択肢が取れないと言っていたじゃないか。言っていることと違い、何かの意図を隠しているのだろう。とにかく捕縛してしまえば事足りる。
「北島さん、止めましょう」
「……ああ」
俺は光崎に向かって一歩を踏み出した。春野も俺の横を歩いている。
「光崎さん、こっちに来てください」
春野が声をかけた。
「危ない場所です」
光崎は答えない。ただ、ブローチをゆっくりと胸ポケットにしまい込んだ。顔は少し下がり、下を向いているのが分かる。夕日を背にして立っている。逆光で表情までは見えにくい。シルエットだけが、くっきりと浮かび上がっている。俺たちは慎重に近づいていく。
あと五メートル。四メートル。三メートル。光崎は何も抵抗しないのか? このまま、捕縛できる。
光崎がゆっくりと顔を上げた。剥き出しの白い歯。不気味なほど完璧に固定された、石像のような笑み。異様だった。この絶望的な局面で、なぜこいつは笑っていられる。
俺がそう思ったその時、奇妙な音が聞こえた。ヒュー、ヒュー、という荒い呼吸音。まるで獣が唸っているような。俺は足を止めた。音は権藤真澄の方から聞こえてくる。
「……死にたくない」
掠れた声。震えている。声の出どころは光崎ではない。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない!」
権藤真澄が呟いている。まるで呪文のように、同じ言葉を繰り返している。俺は真澄の方を見た。先程まで丸まっていた権藤真澄が立ち上がった。目が、完全に据わっている。瞳孔が開ききっている。白目の部分が妙に目立つ。汗が額から顎へ、止めどなく流れ落ちている。呼吸は荒く、肩が激しく上下している。両手が震えている。だが身体は、妙に力んでいる。まるで押し付けられたバネのように。
「お前が……お前さえ死ねば!」
「春野、権藤を抑えろ!」
俺が叫んだ瞬間、権藤真澄が光崎に向かって突進した。大の大人が全力で駆ける姿はまるで獣だ。俺の声を聞いた春野が真澄に向かって走る。だが、真澄の方が速い。恐怖が人間を動かす時、理性では考えられない力が出るのだろうか。
「やめろ!」
俺は叫んだが、権藤は一切止まる様子はない。この距離では走っても光崎の場所まで絶対に間に合わない。俺達も近いが、権藤は光崎の足元にいたのだ。
俺はホルスターから拳銃を取り出し、瞬時に権藤真澄に照準を合わせる。距離はたった三メートル程度、至近距離だ。撃ち殺せば終わる。殺すための銃弾はたっぷりあるのだ。これだけの弾を叩き込んで、死なないわけがない。そう、終わる。銃口を向けた瞬間、世界の全てが赤色と白色が交互にフラッシュするような感覚に陥る。一線を超える。超えるんだ。
引き金が馬鹿みたいに重い。引き金そのものが癒着しているように思えるほどだ。しかし、物理的に重いわけではない、指の筋肉が脳からの命令を拒否している。これは引いてはならない、人を殺してはならない。黙れ、ここまで来てビビったのか、臆病者。人を殺すのが怖いのか。三年前、部下を見殺しにした分際で今さら自分の手を汚すのが怖いのか。助けを求める仲間を見捨てた、そういった間接的な殺人までなら許されると思っているのか。考えてみろ、本部から射殺命令が出ている。三年前、俺のキャリアを終わらせたこのゴミをこの手で殺せる。殺す動機が俺にはある!俺には正義がある。母娘おやこを惨殺した悪魔を殺しても世間の誰も、俺を咎めない。目の前にいるのは人間ではない、人の形をした泥人形だ。無罪判決が出て、警察官としての誇りを奪われたあの日からずっとずっと、こいつを殺したいと思ってきただろ!朝起きた時も通勤している時も寝ている時も、殺したかっただろ!今この瞬間、待ち焦がれていた状況が来た。十数発ある銃弾が肉塊を作るだけだ。悪魔を弾き飛ばす、これは正しい殺人だ、これは正しいのだ!この殺人は非難されない、称賛される。誰もが俺を正しいと認めるはずだ、世論も法律も、俺自身も!世界が俺の殺人を肯定している。何のために警察官になった、何のために刑事を目指した。悪魔を殺せ!そうだ、引き金を引け!
目に映る全てが深紅に染まる視界の中に、春野が入った。権藤真澄を止めるために駆けている青年の背中が。人を殺す瞬間をこいつに、見られたくない。そのことが今までの思考に薄い膜を貼った。 結局、俺は指に力が入りきらなかった。
拳銃を捨てて、走る。この判断がもっと大きな問題を起こすかもしれない。撃てば一番簡単に事が済むはずだった。臆病風が吹いたのだろう。ビルの上だ。風も強い。
たった一瞬の出来事で、春野も俺も間に合わない。真澄の体が光崎に激突した。鈍い音。光崎の体がバランスを崩す。コンクリートの縁に体が寄りかかる。頭は縁よりも外にあり、間違いなくそのまま落下してしまう。権藤真澄はそのまま光崎を突き落とすつもりだ。そこに春野が真澄の腕を掴んだ。真澄は暴れている。
「動かないで!」
春野の声は、いつもの天然な調子ではない。警察官としての、強い声だ。俺はほんの一瞬の遅れの後、縁に駆けた。思考より先に、身体が動いていた。縁に手をかけて身を乗り出す。光崎の体がほぼ縁を乗り上げ、腰から上は既に落ちかけている。シャツが風に煽られて、翻る。俺は手を伸ばした。腕が限界まで伸びる。肩の関節が悲鳴を上げる。だが、もう少し。あと少しで。
「掴まれ!」
俺の手が、光崎の左腕を掴んだ。ギリギリのところ、寸でのところで間に合った。落下する男を支えている腕も肩も悲鳴を上げる。強く握りこめた手のひらの中に骨を感じる。袖の下に確かに人間の腕の硬さがあった。引き上げようとした。腕に力を込める。光崎は重かった。当たり前だ。成人男性の体重が片腕にかかっている。このままでは俺も一緒に落ちてしまう。歯を食いしばった。もう片方の手も伸ばそうとしたそのとき、手のひらの中で、骨が薄くなった。
握っている。確かに握っている。爪が皮膚に食い込む感触がある。なのに、握っている部分の質量が、少しずつ抜けていく。布越しに砂を握ったときのような。袋の底に穴が空いていて、中身だけが落ちていくような。俺は光崎を落とさないように握力を強めた。光崎の腕に爪を立てたはずだった。爪の下に、何かが入った。皮膚ではない。もっと冷たい、湿ったもの。
光崎の身体の右側、俺が握っていない方から、黒いものが垂れていた。それは布のようでもあり、髪のようでもあった。それが何本もあって、光崎のシャツの下から這い出している。シャツの繊維の隙間から、それぞれがまるで別々の意志を持っているかのように蠢いていた。光崎の腰に巻きつき、太腿に絡み、引いている。下に。引いている。
強く、吸い込まれるような感覚に違和感を覚えた俺は思わず光崎の後ろ、ビルの下に目線を向けてしまう。テレビ局の真下は黒色だった。夕日が差し込む先には真っ黒な世界、音もない。腐っても東京。建物の隙間からの照明、道路から立ち上る光、夕日。何かしらの光が拾えるはずだ。なのに、黒い。
人間が、消えていた。このビルの真下で、機動隊とデモ隊が衝突していた。あれだけ怒号や地響きが伝わっていたじゃないか。なのに、消えていた。一人もいない。都市一区画分の世界に、上から黒い布をかけて、棚にしまい込んだみたいに。
代わりに、紫があった。黒の中に深い青が混じり、白い粒が散って、ゆっくりと螺旋を描いていた。回っている。地面のあるはずだった場所が、回っている。それがどれだけ深いのか、どれだけ距離があるのか目で測れない。建物の輪郭がもう途中で溶けていた。隣のビルの足元から、その向こうのビルの足元まで、全部が同じ渦の中に沈み、各々のビルが傾き、飲み込まれていく。東京の地面が、消えている。
光崎が重くなった。腕にかかる重量が、ずっしりと増した。重いものを持った時とはもっと別の、異質な重さ。重力によって下に引かれているのではない。あの渦に向かって、吸い込まれている。
俺の足が、ふわりと浮いた。靴底がコンクリートを噛んでいない。爪先から先が、もう床に乗っていない。光崎が引かれている先に向かって、俺の体も傾いていた。
落ちる、と思った。光崎ごと、あの渦の中に。
その時、俺が掴んでいる左腕からは、青い光が滲んだ。光崎のシャツの胸ポケットの位置だった。ブローチをしまった場所。光がそこから染み出して、シャツの白を内側から青に染めていく。染まった部分から、指が出てきた。最初は一本。女の指だった。第二関節から先だけが布から突き出して、光崎の鎖骨に触れた。それから手首。腕。弱い光の中から這い出てくる。もう一本。子供の手。光崎の頬に添えられた。その瞬間を境に、無数の手が光崎の左半身から湧き出した。
青と黒の境界が、光崎の身体の真ん中を縦に走った。臍のあたりから胸骨まで、一本のジグザグの境界線。線の右側は黒く湿り、左側は青く光っていた。線そのものが肉だった。光崎の肉が、線になって、そこで二色に分かれていた。
俺は左腕を握っていた。左側を。青い方を。
握っている腕の感触が、変わっていた。骨があった。だが骨の中身が、軽い。鳥の骨のような。袖の中で、別の手が、内側から俺の指に触れた。俺は腕を握っているはずだ。なのに、手のひらに別の感触が。掴むのではなく、触れる。労うように。女の指の柔らかさだった。爪の長さまで分かるほど、はっきりと。
俺は何を握っているのか分からなくなった。
俺の手のひらの中にあるのは光崎の腕なのか、それとも別の何かなのか。爪を立てれば立てるほど、握っているものが奥へ逃げていく。布の中の煙を握るような感覚。
その時、光崎の右半身を引いていた力が、急に強まった。
黒い布たちが一斉に下を向いた。あの渦に向かって、ぐん、と。光崎の右側だけが、急激に落下方向へ持っていかれるのが見える。そう見えるだけ。俺の握っていた左腕には、重さが伝わっていない。重くない。視覚として、光崎の右半身だけが引き伸びていく。
青い手たちが、何かを掴んでいた。光崎の体だけではない。光崎と渦を繋ぐ、見えない引っ張りそのものを。指が、空気の中の一点を、確かに握って、引き裂いていた。
光崎の胴体が、縦に裂ける音がした。臍のあたりから胸骨までの一本のジグザグの境界線から体が半分にちぎれていく。その音は紙ではなかった。ただの布でもなかった。湿ったタオルを引き裂くような、繊維が一本ずつ湿り気を持って千切れる、長く粘る音。
光崎が、俺を見ていた。
彼の顔面は既に裂けており、空中に残った左側だけが俺の方を向いていた。右側は黒い布の中に沈んでいき、見えなかった。左側の目だけが、俺を見て、笑っていた。本物の笑顔だ、と思ったあとで、それがどうしてそう思えるのか分からなかった。光崎の本物の笑顔を、俺は今まで見たことはない。
青い指が増えた。
光崎の左半身を、無数の手が包んでいた。もう数えられない。手は光崎を撫でていた。撫でながら、引いていた。上に。空に。俺の手の中の腕が、ふわりと軽くなった。重さが消えたのではなかった。重さの方向が、変わった。下に引かれていたものが、上に引かれている。光崎を握ったままの俺の手も、それに引かれて、空のほうへ持ち上がっていく。
俺の体にも、手が群がっていた。
脇の下に。背中に。肩に。腰に。腿に。掌が、指が、シャツの上から押し当てられていた。小さな手が肋骨の間を一本ずつ押さえ、大きな手が俺の腹部を支えて持ち上げようとする。別の掌が足を掴み、下から押し上げていた。縁から傾きかけていた俺の体が、宙でふわりと止まった。地表の星空に引きずり込まれていたはずの体が、軽くなっていた。
触れ方が、人間ではなかった。撫でているのとも違う。「ここに人間がいる」と確かめるように、骨の位置を一つずつ押さえていた。優しい、というのが一番近かった。体験したことのない種類の優しさだった。
俺はまだ握っていた。離していなかった。
光崎の左腕の袖口から、青い光が逆流するように俺の手首に流れた。冷たくはなかった。温かくもなかった。その青い光と地表から立ち上ってきた黒が目の前で混ざり、一瞬、視界の全てとなった。目の奥でちかちかと、何かが点滅した。瞼の裏側で。閉じてもいないのに、閉じた瞼の裏側のような暗さがあって、その中で青い粒が散っていた。耳の奥で、子供の声がかすかに聞こえ、何かを言いかけて、消えていく。
全部、消えた。
ふと見ると俺の手は、何かを握っていた。視線を落とすと、握っていたのは自分の左腕だった。手首から肘にかけて、五本の爪痕が並んでいる。鬱血して、紫色になっていた。ぎゅっと、ずっと、じぶんの左腕を握りしめていたのか。もしかして最初から光崎の腕を掴めてなどおらず、自分の腕を握りしめていただけだったのだろうか。
自分の腕についた爪痕だけが、はっきりしている。他のことが、全部、遠い。まるで自分のことを後ろから見ているような。ここは屋上なはず。風が吹いているはず。なのに、どの情報も脳まで届かない。
光崎は、連れて行ってもらえた。半分。俺の握っていた、青い方。上に。空に。妻と娘の手に。
いいな。
あの渦は、きれいだった。神山署で初めて見たときも、俺はきれいだと思った。引きずり出されなければ、たぶんあの中に居続けれたのに。今は、誰も引きずり出さない。
ビルの下に目を向けた。
まだ、あった。紫と深い青、白い粒の螺旋が、地面のあるはずだった場所で、ゆっくりと回っていた。消えていなかった。
彼は待っている。
いつの間にか足が動いていた。足が縁の上に乗った。一歩。あと一歩。踏み超えれば、入れる。
あの中に。ほしのなかに、俺もはいれる。
何か固いものがぶつかるような鈍くて乾いた音が聞こえた。何の音か分からなかった。遠くで、近くで、何かが倒れたような——ビルの下、見た。紫が、消えていた。アスファルトが戻っていた。デモ隊の怒号、地響き、ヘリのローター音。何百人の人間が、最初からずっとそこにいたみたいに、ぶつかり合っていた。
落ちかけた夕日が、目に刺さった。太陽が、声をかけてきた気がした。ここが現実だと。お前はこっち側だと。地球が、出迎えてくれていた。
もう一度、乾いた音が聞こえた。今度は近かった。すぐ後ろから。肉が肉を打つ音。振り返った。
視界がぼやけていた。誰かが立っている。春野だ。春野が、誰かの上に立っている。右手を下ろしている。足元に、権藤真澄が倒れていた。鼻から血が出ている。春野が、殴ったのか。真澄が顔を押さえたまま叫んでいる。
「俺は悪くない! あいつがいなければ、父さんも母さんも。俺は普通に暮らせたんだ!」
春野の拳が振り上がった。
「……やめろ」
声が掠れた。慌てて出した自分の声がまるで他人のように掠れている。春野の拳が止まった。空中で震えている。春野が自分の手を見た。拳が赤くなっている。春野は黙ってそれを見ていた。長い時間、見ていた。それから口を開く。
「……北島さん、すみません」
春野はこちらを見ない。春野の顔からは、いつもの表情がなかった。あほ面もヘラヘラした笑顔も、ピーポ君の話をしているときの目の輝きも、何もなかった。声だけが静かだった。何に対して謝っているのか、俺には分からなかった。殴ったことか。止められなかったことか。
床で権藤真澄が泣いている。俺は歩こうとした。だが足がふらついて、春野の腕に掴まった。春野の腕は確かだった。骨の硬さ。筋肉の弾力。体温。人間の腕だ。そうだよな、これが人間の感触だよな。
深呼吸をした。もう一度。もう一度。
「……仕事は終わった。本部に連絡するか」
俺の言葉に春野が頷いた。夕日が沈んでいく。屋上は静かだった。今、耳に入るのは三年前の殺人鬼のすすり泣きだけだった。