善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

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3 事件発生・緊急報道

 翌朝、俺はあくびをしながら定刻通りに神山警察署地域安全課、住民問題対応班の事務室に足を踏み入れた。春野は既にデスクについており、例のピーポ君のぬいぐるみと真剣な対峙を続けている。その集中ぶりは、まるで古い名画の鑑定でもしているかのようだった。

 勤務開始前に書類でも確認してくれればいいのに、と思ったが、俺たちにはそもそも確認すべき書類が存在しない。春野に注意したところで「でも何の書類を確認するんですか?」と逆に質問攻めにされるのが関の山だろう。実に虚しい職場環境である。

 

「おはようございます、北島さん!」

「ああ、おはよう」

 

 俺はデスクの引き出しからインスタントコーヒーの瓶を取り出しながら、今日もまた平穏無事な一日であることを祈った。住問班の理想は何も起きないことだ。住民トラブルの電話も、上からの面倒な指示もなく、ただ静かに時間が過ぎていく。それが一番いい。

 

「北島さん、見てくださいよ!」

 春野がスマートフォンを振りかざした。

「ピーポ君の公式アカウントが更新されてるんです。でも、なんか文章が硬くないですか? 『法と秩序の維持に努めます』って、もっと親しみやすい感じで『今日もがんばるピー』みたいな方が……」

 

 ピーって何だよ。お前の脳内ピーポ君はどんなキャラ設定になってるんだ。それに春野のスマートフォンを確認してみると警視庁広報課のアカウントだった。これはピーポ君の公式アカウントではない、断じてな。

 

「知らん。そんなこと俺に言われても困る」

 

 俺は電気ケトルでお湯を沸かしながら、素っ気なく答えた。せめて午前中くらいは平和に過ごしたい。できることなら一人きりで。

 

「でもピーポ君の中の人って誰なんでしょうね? まさか警視総監が『今日も安全な街づくり、がんばるピー』とか書いてるとか……」

 

 警視総監がピーとか言ってる姿を想像してしまった。あの脂ぎった初老のおっさんが可愛い呟きをしているってか? 世も末だな。できれば俺のいないところでやってほしい。

 

「あり得ん」

 

 

 春野の妄想トークが続く中、署内の空気が突如として変化した。ドカドカドカと廊下を慌ただしく駆け回る足音が響き、内線電話がひっきりなしに鳴り響いているのが、かすかにここまで聞こえてくる。朝の署内が、まるで戦場のような喧騒(けんそう)に包まれていた。

 

「なんだ? まさか署内に変質者でも乱入したか? ピーポ君に会わせろ! なんて言ってきたりしてな」

「なんですかそれ? そんな奴いたら、頭おかしいですよ」

 春野が眉をひそめながら突っ込んできた。お前のことだよ、と俺は心の中で毒づいた。

 

「僕、ちょっと聞いてきますね!」

 春野が立ち上がった。こういう時の行動力だけは感心する。

「おい、余計な詮索はするなよ」

「大丈夫ですよ!」

 

 俺が注意を促そうとしたら春野は既に事務室を出る寸前のところだった。深いため息が出る。どうせまた何か面倒な事件でも起きたのだろう。できれば俺たちには関係のない話であってほしいものだ。住問班(じゅうもんはん)にお鉢が回ってくるとしたら、色んな意味でとんでもない事件なのだろうし。

 俺はインスタントコーヒーを淹れ、ゆっくりと口をつけた。春野、余計なトラブルだけは起こすなよ、と内心で願う。ノートパソコンを起動させ、インターネットのニュース記事をダラダラと読みながら時間を潰した。

 

 

 しばらくして春野が戻ってきた。その表情には明らかな不満が浮かんでおり、唇を尖らせている。二十五歳にはどうも見えない。出来の悪い息子でも出来た気分だ。それも小学生程度の。

 

「どうだった?」

 

 俺は春野には視線もくれず、コーヒーカップを口元に運びながら聞いた。

 

「誰も詳しいことを教えてくれませんでした」

 春野が椅子にドスンと座った。

 

「みんなに『君には関係ない』って言われちゃって。ひどくないですか?」

 俺は思わず吹き出した。

「当たり前だろ。住問班なんて署内最下層だぞ。情報が回ってくるわけないじゃないか」

「そんなこと言わなくても……」

 

 春野が不服そうに唇を尖らせる。まあ、現実を受け入れるのは辛いものだ。だが、何も考えずに受け入れるのが人生を楽しく生きる秘訣だ。

 

「でも、絶対に何か大きな事件が起きてますよ」

 春野がスマートフォンを取り出した。

「テレビでニュースになってませんかね? もしくはSNSとか」

 

 現代っ子らしい情報収集の発想だ。同僚に聞くよりも、テレビの方が確実かもしれない。署内では相手にされず、一般市民向けの報道で事件を知る。俺たちは警察官というより、制服を着た部外者だな。

 

「じゃあ、テレビをつけてみたらどうだ?」

 

 俺に言われるまま春野がテレビのリモコンを手に取り、ニュース番組に切り替えた。その瞬間、アナウンサーの緊迫した声が事務室に響いた。

 

『緊急ニュースをお伝えします。本日午前七時三十分頃、都内で東京地方裁判所の公正忠(こうせいただし)裁判官が自宅で死亡しているのが発見されました。現場の状況から他殺の可能性が高く、警視庁は殺人事件として捜査を開始しました』

 

 俺はコーヒーカップを持ったまま硬直した。裁判官の殺害。この国でそのような事件が発生した記録があっただろうか。法の番人を標的とした犯罪は、単なる殺人を超越した社会制度への挑戦を意味している。

 

「裁判官殺害って……聞いたことないぞ」

「うわあ、映画みたいですね! もしかして署内が騒がしいのはこれが原因ですか?」

 

 春野が鼻息荒く、目を輝かせていた。俺は対象的に嫌な予感しかなかった。重大事件が発生した時、必ずと言っていいほど、面倒事が末端の俺たちにも降りかかってくる。捜査本部の雑用係、膨大な書類のファイリング、意味のない聞き込み。華やかな捜査活動とは無縁の、地味で退屈な作業ばかりだ。俺達レベルの現場にすら、こういう事件の時は仕事が回るものなのだ。

 

「署内が騒がしいってことは神山警察署の管轄内で起きたのかもな」

『被害者の公正忠(こうせいただし)裁判官は御年(おんとし)五十歳。二十年以上の経験を持つベテラン裁判官として知られていました。現在、現場付近は封鎖され、鑑識による詳しい調査が行われています』

 

 署内の慌ただしさは刻一刻と増していく。ドタドタと廊下を行き交う同僚たちの足音に、緊急事態特有の切迫感が伝わる。

 

「北島さん、これって超大事件ですよね! 僕たちにも何か重要な任務が回ってきませんかね?」

「回ってくるはずもないし、来なくていいだろ」

 

 頼むから俺たちのような閑職(かんしょく)には関わらせないでくれ。平和が一番なんだ。

 

『現在、警視庁では特別捜査本部の設置を検討中とのことです』

 

 ニュースが一段落し、俺がようやく冷めかけたコーヒーに口をつけようとした、その時だった。

 

「北島さん、これ見てください! やばくないですか?」

 

 春野がスマートフォンの画面を振り向けた。画面には室内を撮影した写真が表示されていた。そこには、椅子にぐったりと座った人影、床に散乱する無数の色とりどりの紙片。部屋のあちこちに赤色が飛び散っている。一見すると殺人現場の写真に見える。しかも、犯人が撮影したかのような構図だ。スプラッターなピクチャーってところだ。

 

「人に見せるような画像ではないな」

 俺はそう言いながら画面から目を逸らした。まあ、こういうのには慣れているが。

 

「え、何がですか? あれ? 変だな……」

 俺に見せていた画面を春野自身が見直すと、困惑した声を上げ始めた。

 

「SNSのトレンドタグの画面だったはずなんですけど、写真が表示されちゃってますね。僕、これクリックしてないんですけど……」

 

 スプラッター写真が自動的に開いたとでも言いたいのだろうか。そんなことがあるわけがない。だが、春野の困惑した表情には嘘がなかった。

 

「指が当たったんだろ。最近のスマホは敏感肌だからな」

「そうですかね……でも、確実にトレンドページを見ようとしただけなんですけど」

 

 春野が画面をもう一度確認している。俺のスマホ擬人化ボケについては完全に無視された。若者にとって年寄りの小ボケほど触れづらいものはないのだろう。ちなみに説明するとスマホのタッチ反応が敏感というのと敏感肌をかけた素晴らしいジョークだ。我ながら絶妙だと思うんだが。

 

「これ、さっきの事件の現場じゃないですか? コメントもこれは裁判官の死体だって大騒ぎしていますし」

 

 その言葉で俺も気になり、身を乗り出して春野のスマホ画面をもう一度覗き込んだ。確かに殺人現場らしき写真だ。椅子に座った人影、床に散乱した紙片、飛び散った赤い液体。だが、事件が報道されたのはさっきだ。この人影が裁判官である確証なんて見当たらなかった。それに捜査が始まったばかりだろうし、こんなに早く写真が出回るものだろうか? 

 

「まあ、間違いなくフェイク写真だろうな。投稿者は?」

「匿名アカウントです。『正義の使者』って名前で」

 

 正義の使者? なんだそのネーミングセンスは、中学生か。だが、俺も学生時代には✟セフィロス✟なんて個人掲示板で名乗っていた過去がある。当時は十七歳。若さとは罪だ。俺がSNSのダサすぎるハンドルネームにしみじみとしていると、春野が投稿文を読み上げる。

 

「『正義の裁きが下された』って書いてありますね」

 うすら寒い気持ちになった。正義、か。裁判官が殺されたってのに正義を語るとはどういう神経をしているんだ。本当に犯人のアカウントかどうかは分からないが、こんな悪趣味な画像をネットにあげる奴に、正義なんて言葉を使ってほしくはない。

 

「床に散らばってるのは……折り紙ですか? 折り鶴っぽく見えますね」

 春野が画面を拡大する。確かに色とりどりの折り鶴が無数に散乱していた。それらは丁寧に折られており、殺人現場に存在するものとしては異様に美しい。まるで何らかの宗教的儀式の一部のようにすら見える。

 

「これ、犯人が投稿してるってことか?」

 

「どうなんですかね? さっき投稿されたばかりですけどリツイート数がすでに五千を超えています。コメントも『これ本物?』『AIで作った偽物でしょ』『怖すぎる』『通報した』って感じで盛り上がっていますね」

 

 インターネットの拡散力は恐ろしい。あっという間に全国に広がってしまうのだ。俺は仕方なく内線電話の受話器を手に取った。こんなものを発見してしまった以上、関連部署に報告するしかない。まったく、承認欲求のためにこんな悪趣味な画像を投稿するとは。フェイクであることを祈るしかない。

 

「念のため、上には報告しておくか。SNSに犯行現場の写真が投稿されてるかもってな」

「でも北島さん、『正義の裁き』って、何の意味なんでしょうね?」

「そんなもん知るか、俺が犯人だったら教えてやるよ」

 

 俺が犯人だったら、もうちょっとマシなネーミングにしてるわ。春野が首をかしげながら続けた。

 

「あ、そういえば現場にある折り紙って手がかりになりませんかね? 折り紙得意な人を調べるとか」

「全国の折り紙愛好家を調べ上げる気か?」

 

 そんなことしたら日本中が容疑者になるぞ。折り鶴なんて、小学校で習うんだから。ちなみに俺は今でも手裏剣を折り紙で折ることが出来るのが自慢だ。

 

「でも意外とニッチな趣味だから絞り込めるかも……」

「折り鶴はどうせ被害者の家族が作ったもんだろ。そもそも写真自体がインプレッション稼ぎのフェイクに決まっている」

「それじゃあつまんないですね」

 

コイツは面白さで考えているのか。

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