翌朝、定刻通りに神山警察署地域安全課の事務室に足を踏み入れた。住民問題対応班はいつも通り、俺と春野だけの島だった。春野は既にデスクに座っていたが、いつものピーポ君のぬいぐるみとの睨めっこではなく、真剣な顔でパソコンの画面を見つめている。
「おはようございます、北島さん!」
春野が振り返った。その目にはいつもの能天気さとは違う、何か熱っぽいものが見受けられた。
「おはよう。何やってるんだ?」
「聞き込みの前に、事件のこと調べてたんです。光崎家事件について!」
俺は嫌な予感を覚えながら、デスクに近づいた。コイツは昨日の斎藤の話を聞いてから、ずっと調べているのか。春野のパソコン画面には、検索エンジンの結果が並んでいる。
「そんなことしなくてもいいんじゃないか? 適当に聞き込み調査をして終わりにすればいい」
「うーん、『光崎家事件』で検索しても、ほとんどヒットしないんですよ」
どうやら俺の言っていることは聞こえないようだ。もうコイツの興味は完全に光崎家事件を調べるということが優先されており、脳の容量がパンクしている。俺の声がダンディすぎてデータ量が重いのか、それともコイツの脳みその容量が少ないのか。春野はノートパソコンをスクロールしながら続ける。
「『一家惨殺』『家族殺害 東京』で調べても、該当する事件が見つかりません」
春野が見せる画面には、無関係な事件の記事ばかりが並んでいる。まあ、そんな小学生がエロサイトを調べるような検索方法では見つかるものも見つからなさそうだがな。おっぱい、スペース、女。お母さんが悲しむやつだ。
「おかしくないですか? 二人も死んでるんですよ? 一家惨殺事件なら、普通はもっと大きく報道されるはずじゃないですか」
二人殺されて報道が見つからない。確かに普通じゃない。しかし、いくら聞かれようが、俺はそれ以上深入りしたくない。
「報道規制がかかってたんだろ」
「でも、ここまで徹底的に? SNSもニュースサイトも、まるで最初から存在しなかったみたいになっていますよ。斎藤さんと北島さんが結託して僕にドッキリを書けている説が一番ありえるレベルです」
誰がそんな面倒なことをするか。大学生のサークルじゃないんだから。勤務時間中にこんなことをやってたらクビにされるわ。
「北島さん、これって異常ですよね?」
「まあ……そうだが聞き込み調査をするときにその情報は必要ないだろう?」
俺の無理くりな説明でも、春野はまだ納得していない顔をしていた。
「よし!」
春野が突然立ち上がった。
「刑事課に行って、当時の資料を見せてもらいましょう! ネットにないなら、そうするしかないでしょう! そもそも光崎さんの事件って神山警察署の管轄内で発生してるんですよね? じゃあ、資料があるはずです!」
「おい、待て」
俺が止める間もなく、春野は事務室を出ていった。慌てて後を追う。俺達はいつも言っている通り、署内でのヒエラルキーは最下層なんだ。急に他部署にわがままを言いだしたら怒られてしまうじゃないか、主に俺が。
事務室を出るとすでに春野はずんずんのしのしと廊下の先に行っており、俺の華麗な
「すみません!」
春野が元気よく声をかけた。
「光崎家事件の資料を見せてもらえませんか?」
近くにいた中年の刑事が露骨に顔をしかめた。
「資料? 何の話だ」
「はい! 昨日、斎藤さんから
春野が自信満々に答える。反対に刑事課の人間は明らかに嫌な顔をしているのが分かる。俺はこのタイミングでビビってしまった。ああ、これはとんでもなく怒られると。だから春野をここで止めればよかったものの、金魚のようにパクパクと口を開いて閉じてを繰り返す愚かな男になっていた。
「詳しくって……君、地域安全課だろ? 捜査に関わる者以外には見せられない。規則だ」
「でも、ネットで調べても全然情報が出てこないんです! これって変じゃないですか?」
春野の指摘に、刑事課の空気が微妙に変わった。何人かの刑事が顔を見合わせている。
「それは……」
刑事が言葉を濁した。
「地域安全課の仕事に、三年前の事件資料は必要ないだろ。被害者遺族のプライバシーもある」
「でも!」
春野が食い下がろうとした時、奥から斎藤警部補が歩いてきた。その表情は、どこか申し訳なさそうだった。
「……すみません、春野さん」
斎藤が低い声で言った。俺に目配せをする。その目には「俺の力じゃどうにもならない」と書いてあった。
「そういう決まりなので諦めてもらうしか……」
「そんな……」
春野の声が小さくなる。斎藤が続けた。
「光崎さんの周辺から、今回の事件に繋がる何かが見えてくるはずです。それが昨日お願いした調査の
斎藤の声は丁寧だが、どこか苦しそうだった。板挟みになっているのが伝わってくる。もっともな話だとは思う。だが、春野は納得していない顔をしていた。ふくれっ面とはこのことを言うのだろう。
「北島さん」
斎藤が俺を見る。
「……すみません」
二度目の謝罪だった。俺は春野の腕を掴んで引っ張ろうとしたが、春野は動かない。
「おかしいですよ!」
春野の声が刑事課フロア全体に響いた。
「同じ警察なのに、なんで教えてくれないんですか! 僕たち仲間じゃないんですか? 事件の真相を知る権利があるじゃないですか! 変ですよ!」
一斉に顔を上げる刑事たち。視線が突き刺さる。顔から火が出そうだった。何人かはあからさまに眉をひそめている。背中に嫌な汗が流れる。頼むから、これ以上騒がないでくれ。
「春野、いい加減にしなさい」
俺がなるべく低い声で制止する。独身なのに子供がいる気分だ。親ってのは大変だな。
俺はなんとか春野を引きずって刑事課から出た。振り返ると、斎藤が困ったように頭を下げていた。
「……本当にすみません」
三度目の謝罪。その苦笑いを見て、申し訳なさと、この場から消えたい気持ちで胸がいっぱいになった。
刑事課のドアが閉まると同時に、春野が不満そうな顔で振り返った。
「北島さん、なんで途中で諦めるんですか?」
「諦めるって……お前な、俺たちには資料を見る権限なんて無いんだ」
「でも、捜査に関わってるじゃないですか」
まだ言うのかコイツは。流石にこれ以上、暴れられると困る。強引にでも止めないと、尻拭いをずっとやらされることになりそうだ。
「関わってるって言っても、周辺調査だけだ」
春野が立ち止まった。
「おかしいですよ。みんな何か隠してる」
「隠してるって……」
「だって、ネットにも情報がない。刑事課も教えてくれない。まるで事件自体が存在しなかったことにされてるみたいじゃないですか」
春野の指摘は的確だった。だから余計に踏み込みたくなかった。認めたら、また厄介事に巻き込まれる。そんな予感があった。春野がじっとこちらを見ている。何かを探るような目だった。
「北島さん、本当は何か知ってるんじゃないですか? 清水さんって人が担当してた事件なんですよね? 北島さんと清水さんは上司と部下の関係性、つまりなにか知っているはずですよね?」
矢継ぎ早に叩きつけられる質問に俺は答えなかった。廊下の先に目を向けて、歩く速度を上げた。春野が何か言っているが、適当に聞き流す。知っていることなんて特にない。清水の持っていた案件だ。俺は関係ない。
「腹減ったな。昼飯にしよう」
「え、まだ十時ですけど」
「じゃあコーヒーでもどうだ? 俺がインスタントの粉を溶かしてやる」
「北島さん、絶対逃げてますよね? 僕苦いの飲めないのでカフェオレにしてください」
俺は黙って歩き続けた。後ろから春野の足音がついてくる。頼むから諦めてくれ。願わくばカフェオレは自分で作ってくれ。そう思った矢先だった。
「あ、そうだ!」
春野が急に声を上げた。
「それなら、予定通り近所の人たちに聞けばいいんですよ! 昨日『聞き込み調査する』って言ってたじゃないですか!」
うっ、やっぱりそうなるか。コイツの脳みそがショートして、忘れてくれるというのを期待したが無理みたいだ。
「だって、現場近くに住んでた人たちなら、まだ事件のことを覚えてるはずです。ネットや刑事課がダメなら、直接聞き込みすればいいんですよ!」
俺は深いため息をついた。確かに、それは論理的な結論だ。春野の目が輝いている。こうなったら止められない。
「……分かった。聞き込み調査に行くか」
「やった!」
春野が満面の笑みでガッツポーズをした。まるで初めてホームランを打った子供のように見える。
「でも春野」
俺が釘を刺す。
「失礼な質問はするなよ。住民を困らせるな」
「大丈夫ですよ!僕、人と話すの得意ですから!」
その自信満々な返答が、俺の不安を一層深めた。本当に得意なら、お前の言動で俺が日々胃を痛めることもないはずなんだけど。
刑事課で大暴れした日の午後、俺と春野は光崎宅周辺の住宅街に向かっていた。今日も憎らしいほど天気が良く、中年の
俺は助手席でスマートフォンを弄っている若造を横目に複雑な気分だった。聞き込み調査という名目だが、実際には三年前の記憶を掘り起こす作業になるだろう。できるだけ関わりたくない事件に、再び足を踏み入れることになる。
「北島さん」
助手席の春野が口を開いた。
「光崎家の事件って、結局どうなったんですか? 犯人は捕まったんですよね?」
春野はずっと事件について調べているはずだが、事件の内容については一切掴めていない。どう探してもインターネットには光崎一家事件に関する情報はないようだ。まあ、警察としての職務を考えると情報共有するのが常だ。しかし、俺はあえてここは無視をすることに決めた。最後の足掻きってやつだ。
「……ふーん、北島さんはそういうやり方をするんですね。僕も警察官ですから取り調べのやり方くらいは知っていますよ」
お前にそんな仕事があったはずがない。トラブルメーカーに取り調べなんて任せるはずないだろ。おおかたその時喋りたい雑談を一方的に押し付けて、何も捜査が進まないなんて光景が目に浮かぶ。
「そうですねぇ。喋ってくれないなら何も前提知識がないまま、市民に聞きまくることになりますね。そうなったらどうなることやら」
春野はもったいぶるような、ゆっくりとした喋り方でこちらを牽制してくる。
「間違いなく、市民の方々は僕の質問に怒りますよ。『あなたが殺したんですか? 僕、犯人の名前すら知らないですけど。多分あなたは殺人鬼です!』って聞きまくるので」
ん? もしかして脅迫をするつもりか。それでは取り調べじゃなくてただの犯罪ではないか。春野が俺の顔を見て、にやりと笑った。最悪、小規模な邪神だ。十字架を杭にしてコイツの心臓に突き刺したい。普段の業務の尻拭いを強要するだけではなく、放火予告までするのか。流石にそれは駄目だ、そんなことされたら始末書を何枚書けばいいのか。観念して情報を吐くしかない。とはいえ、全部話すつもりはない。必要最低限だけだ。
「わかったわかった。ああ、捕まった。
「
春野がスマートフォンに急いで打ち込む。指で画面をスクロールしている。
「事件の記事、出てこないですね。あ、でも……
春野が顔を上げた。
「国会議員の息子さんなんですか?」
俺は前を向いたまま答えなかった。
「
俺は一瞬口ごもった。
「……いや、出てる」
「え? 脱獄ですか!?」
春野の声が上ずった。お前の想像力はどこに向かっているんだ。
「違う。無罪になった」
「えー! 無罪になったんですか? でも北島さん、捕まったって言いましたよね? この国の司法って起訴されたら九十九パーセント有罪になるって言われているのに。なんで無罪に——」
俺はアクセルとブレーキを交互に踏んだ。車体がガクガクと揺れる。隣にいる春野はまるでデスメタルのロックバンドのようなヘッドバンギング。面白いな、これ。あと二時間くらいやってみるか。
「うぇっ……北島さん、気持ち悪い……」
「古い車だからな。ガタが来てる」
「絶対嘘ですよ!」
春野が青い顔で抗議したが、俺は涼しい顔で前を向いた。この話題はここで終わりだ。誰が光崎一家を殺したのか。情報なんてそれだけ知っていれば良いだろう。斎藤の開示した情報と照らし出せば、ざっくりとした事件の概要は分かるはずだ。
三年前の神山警察署の管轄内で殺人事件が発生。容疑者は大学生の
そして今回、光崎一家事件を担当した裁判官が殺された。
しばらく走ると、春野が復活した。胃の不快感より好奇心が勝ったらしい。ただし、話題は変わっていた。
「北島さん、作戦会議しませんか?」
春野は相変わらず能天気な表情で、まるで楽しい遠足にでも行くかのような軽やかさだった。どうやら
「まず確認したいんですけど、北島さんって
「いや、光崎と俺はほとんど関わりがない」
そもそも遺族対応は地域課の仕事だ。捜査一課の俺たちが関わる必要はなかった。当時、清水が勝手に首を突っ込んでいたから俺は止めた。だから俺は光崎善人とは言葉を交わしたことすらない。捜査開始の段階で少しだけ顔を合わせたくらいはあると思うが。
「やっぱりそうなんですか……でもそれだと斎藤さんたち刑事課の人と一緒で、僕たちも話をしてもらえないですよね?」
確かにその通りだろうな。おおかた光崎と会っても「昔のことは思い出したくない」の一点張りで跳ね除けられてしまうのは想像に難くない。だが、この若者にこの状況を打開する方法など思いつくのだろうか。出来ることなら、今回の聞き込み調査を
「作戦って何だよ」
「聞き込み調査のやり方ですよ! 光崎さんとお話しするための戦略です!」
春野がノートを広げて、几帳面に項目を書き始める。その真剣さが、どこか微笑ましくもあり、同時に不安にもさせる。
「光崎さんに聞く内容は現在の生活パターンや事件当日のアリバイ、三年前の事件について聞けばいいですかね?」
春野の整理は意外にも的確だった。いつもの会話ではうまくコミュニケーションが取れない。だから春野は頭が悪いと思っていた。もしかして俺の話を理解できないのではなくて、聞く気がないだけなのか? 年上の威厳というものが俺には足りないのだろうか。竹刀を持って、もっとビシバシと物理的に教育する必要があるのかもしれない。
「そして
春野はイキイキとした口調で続ける。まるで遠足の行き先を発表する小学生だ。もしかしたらウルトラCのスーパーすごい提案が来るのかもしれない。そんな凄みを春野から感じてしまう。
「ずばり! 近隣住民から面白いネタを聞き出すんです! そうしたら光崎さんが思わず話をしたくなるはずです! お、なんですかその面白いトークはって感じで!」
「……そうですか」
やっぱり無策じゃないか。近隣住民がそんなオモシロ情報を持っているはずもない。神山警察署の管轄内はお笑い芸人だけが住める都なのか? お笑いライセンスを取得するために漫才コンテストにでも参加する必要がありそうだな。現実に存在したら、居住移転の自由の侵害で違憲審査ものだ。俺しか住めなくなるな。
でも、これでいい。形だけ聞き込みをして、光崎に断られて終わり。俺としてはそれが一番いい展開だ。このまま春野に任せてしまおう。これは若者に仕事を任せるという教育的なサムシングだ。決して仕事から逃げたいわけではない。
「北島さん、それではどこから始めましょうか?」
「適当に回ればいい」
俺は短く答えた。計画的に進めるより、なるべく早く終わらせたい。
「じゃあ、光崎さんの家から近い順にしましょう!」
春野は楽しそうにノートを閉じた。
最初の家は、光崎宅の隣。二階建ての一軒家だった。門構えがそこそこ立派で、表札には「高橋」とある。
「春野、いいか。住民への聞き込みは慎重にやれ。失礼なことを言うな」
「大丈夫ですよ! 僕、人と話すの得意ですから!」
その自信満々な返答が、俺の不安を一層深めた。だから本当に得意なら、俺は日々お前の言動で胃を痛めていないって。さっきも思ったばっかだよ。
春野が思い切りよく、インターフォンを押した。しばらくして、四十代くらいの女性が出てきた。髪がボサボサで、どこか疲れた表情をしている。腕には一歳くらいの子供を抱えていて、その子供がぐずり始めているのが見て取れる。すでに気分が悪い。鳴き声を聞かされるくらいなら、今この場から立ち去りたい気分だ。
「はい、どちらさま?」
「警視庁地域安全課の春野です! お疲れさまです!」
春野が元気よく警察手帳を見せた。俺は何も言わなかった。訂正する気力がなかった。そもそも俺らは警視庁ではなく、その下部組織の神山警察署の地域安全課だ。所属すら間違えているじゃないか。これでは先行きが危ぶまれる。
「ああ、警察の方……何かありましたか?」
どうにも春野に任せっきりなのが不安になってしまい、俺が慌てて説明する。流石に話の誘導くらいはしておかないと、クレームがつきそうだ。
「近所で事件があったので、聞き込み調査をさせていただいています」
女性は近場で殺人事件が起きていることは知っているようで、納得したような顔つきだった。
「そうですか、物騒ですね」
「最近、不審な人物を見かけませんでしたか?」
俺が本題を切り出す。不審者の目撃情報さえ確認できれば、それを口実に光崎家事件の話には触れずに済むかもしれない。春野の興味がそちらに逸れることを願う。それが俺の望みだ。
「うーん、特に記憶にはないですが……」
女性は首をひねった。やはり具体的な目撃情報は限られているようだ。まあ、当たり前ではある。刑事課の連中が必死になって探しているんだ。こんな聞き込み程度で重要情報がほいほい手に入るなんて、都合のいい話はない。他部署の連中の努力を軽視したくはない。
「そうですか。ありがとうございました」
大した話は掴めない、俺はこれで切り上げようとした。しかし、春野が明るい声で急に話題を変えた。
「そういえば、この辺りに住んで長いんですか?」
女性が少し戸惑いながら答える。
「ええ、もう十五年くらいになりますね」
「じゃあ、三年前のことも覚えてますよね?」
俺は春野の横顔を見た。コイツ、何を言い出すんだ。
「三年前……?」
女性の表情が微かに曇った。明らかに嫌がっていることが見て取れる。
「この近くで事件があったって聞いたんです。光崎さんって方のご家族の」
「ああ……お隣の光崎さんのところですね」
女性は、すぅと息を吐きながら答える。春野、こいつ余計なことを、と思いながらも、ここで止めるのも変だろう。俺は黙って様子を見ることにした。
「私が知ってるのは娘さんと奥さんが、その……酷い殺され方をされたってことくらいです」
「酷い殺され方?」
「詳しいことは分かりません。ただ、当時は警察の方がたくさん来て、マスコミも押し寄せて……でもすぐに報道が止まっちゃって」
女性の表情に困惑が浮かんでいる。
「最初は連日ニュースで流れてたのに、ある日突然、どの局も取り上げなくなったんです。新聞記事もネットのニュースも、あっという間に消えて」
春野がメモを取り始めた。
「それって変ですよね? 普通、そういう事件って報道が加熱していくものです」
「ええ、変でした。みんな不思議に思ってました」
女性が小声で続ける。
「噂では、犯人が偉い人の息子だったとか……でも、結局無罪になったって聞きました」
「無罪、北島さんが言ってた通りですね」
春野の声が上ずった。
「でも娘さんと奥さんが酷い殺され方をされたのに、無罪なんですか? 誤認逮捕だったのかな」
「詳しいことは分からないんです。みんな口を揃えて『あの件は触れない方がいい』って」
女性が周囲を気にするように視線を巡らせる。
「光崎さん、可哀想ですよね。家族を失って、それなのに犯人は無罪で……あんな理不尽なことってありますか?」
女性の声に同情が
「あの事件があって、怖かったんですよ。家族を作ってもこんな終わり方するのかなって。だから最近まで子供を作る決心が遅れちゃったんです」
その時、先程から女性が抱えていた赤ん坊が限界を迎えた。耳をつんざくほどの不快な鳴き声に、俺は思わず顔を背けた。
「十分です。ありがとうございました」
このままではまずいと考えた俺は丁寧に礼を言って、この聞き込み調査を切り上げることにした。
「お忙しいところ、ご協力ありがとうございました。何かあればまたご連絡させていただきます」
女性は少しほっとしたような顔を見せた。
「いえ、お役に立てたかどうか……お仕事頑張ってください」
女性が玄関のドアを閉めた。俺と春野は静かにその場を離れた。俺はホッと胸を撫で下ろす。
「春野」
「何ですか?」
「意外とちゃんとできるじゃないか」
俺は少し安堵の気持ちを込めて言った。確かに所属を間違えたが、それ以外は特に問題なかった。女性も不快な顔をせず、必要な情報を話してくれた。
「当たり前ですよ! 僕、人と話すの得意ですから!」
春野が誇らしげに胸を張る。
「まあ、次もこの調子で頼むぞ」
俺は珍しく春野を褒める気持ちになっていた。このまま残りの聞き込みも問題なく終われば、早々に光崎のところに行って形だけの挨拶をして、今日の仕事は終わりだ。そう思うと、少し気が楽になった。
「でもあれですね。北島さん子供が苦手なんですね。初めて知りましたよ」
「え、ああ。そうだな。可愛いんだけどな」
「でもあんなにしかめっ面したら駄目ですよ! 苦手なのはしょうがないですから」
二十そこそこの若造にたしなめられてしまった。だが、言っていることは正しい。次からは気をつけなければ。
「あ、春野。一つだけ注意がある。俺達は警視庁ではなく神山警察署所属だからな。間違えないように」
「……わかりました!」
春野の顔面中にハテナマークが点在しているように錯覚した。コイツ本当に理解しているよな?
「次行きますか、北島さん!」
春野が元気よく言った。
「ああ…次だ」
俺は軽い足取りで次の家に向かった。一件目が思ったよりスムーズだったことで、俺の警戒心は少し緩んでいた。