長々と聞き込み調査を終えて車に戻り、ふと横を見ると春野が満足そうな顔をしていた。反面、俺は久しぶりの長時間の聞き込み調査に足が悲鳴を上げていた。膝が死んだ。英語で言うならデスニーってか。俺のプリプリのお尻までも痛みを訴え、抗議している。おしりデモ隊の行進だ。すまんが春野、足を揉んでくれないか。
「今日の聞き込み、すごく収穫ありましたね!」
何も収穫などなかった気がするが、と思いつつもエンジンをかけながら適当に相槌を打った。結局、裁判官殺人に関する情報などは一つ手に入らなかったし、三年前の光崎一家殺人事件に関しても概要がさらっと手に入った程度だろう。この程度の情報を集めたところで何になるのか。
車を発進させるためにエンジンをかけた。エンジンの振動が疲れた腰に響く。ここは光崎家のすぐ近くの路上だ。さっさと発進して神山警察署に戻りたい。できるだけ何も考えたくなかった。ラジオのボリュームを上げる。
「北島さん、整理しますね!」
しかし、俺の気持ちとは裏腹に、春野が勝手にメモ帳を開きだす。そしてラジオのボリュームに負けない程度の大きめの声で喋りだした。
「三年前の光崎家事件、犯人は大学生の
「…ああ」
「それからSNS投稿の件。内容が過激化しているのと内容が光崎家事件のことを書いているのは間違いないだろうと。あと、投稿を読むと人格が変わるって旦那さんが言ってましたね」
春野が一人で喋り続ける。俺は窓の外を見ていた。
「で、今回の被害者である
「分かった分かった。すごいすごい」
俺は少し苛立った声を出してしまった。
「十分だろ。もうすっごいいっぱい色んな事わかったな。さあ、署に戻るぞ」
「でも北島さん」
春野がメモから顔を上げた。
「肝心なことは何も分からなかったじゃないですか」
「何が肝心なんだよ」
「光崎さんが本当に
確かに春野の言う通りだった。表面的な情報は集まったが、事件の核心には全く迫れていない。だが、今の疲労感や充足感なら俺の思惑通り、このまま仕事を切り上げれる。押し切るぞ。
「捜査本部に報告して終わりだ」
「えー、つまらないですよ」
春野が露骨に不満そうな顔をした。まずい、このままコイツのペースにしてはならない。とても自然な話題転換でこの場を凌ぐ。
「春野、昼飯は」
「食べましたよ。カツ丼大盛り。それより光崎さんに聞き込みするのが斎藤さんからの依頼内容じゃないですか」
図星だった。斎藤が俺に頼んだのは「光崎善人に話を聞いてくれ」だ。周辺住民への聞き込みなんて、俺が勝手に迂回しただけだ。
「……いや、まだ準備が」
「準備って何ですか? 他にやることなんてありますか?」
「慎重にいかないと」
「慎重に?」
春野が首を傾げる。
「もう十分、情報集まりましたよね。北島さん、なんかえらく消極的ですね。ビビってるんですか?」
その言葉に、俺は少しムッとした。今日一日フォローしてやったのに何だその態度。
「消極的って何だよ」
「なんていうか……逃げてるみたいですよ」
「逃げてない。慎重になってるだけだ」
「でも、答えは光崎さんが握ってるじゃないですか」
握っている。それは分かっている。だから厄介なんだ。
「だからって勝手に接触するわけにはいかない」
「斎藤さんは『話を聞いてみてくれ』って言ってましたよね?」
「あれは周辺調査の結果次第だ。今回の聞き込みで十分だろ」
春野が不満そうに唇を尖らせた。不満を隠す気がないらしい。この男はいつもそうだ。思ったことがそのまま顔に出る。
「このまま行っても断られて終わりだ」
「やってみないと分かんないですよ」
「重要参考人だぞ。下手なことしたらクレームが来る」
「それは分かりますけど」
「それに、事前連絡なしのアポなし訪問だ。非常識だろ」
「さっきの聞き込みも全部アポなしでしたけど」
反論が飛んでくる。いちいち正しい。春野の言葉には悪意がない。ただ純粋に疑問を口にしているだけだ。だから余計に厄介だった。悪意なら
「あれは一般市民だ。光崎は違う」
「何が違うんですか?」
違う。違うに決まっている。光崎善人は、三年前のあの事件の、被害者遺族だ。家族を殺された男だ。犯人が無罪になった男だ。そして、俺は——
「……報告書の書式が変わる」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「書式?」
「証人と参考人で書式が違うんだよ。参考人用の書類は署に置いてきた」
嘘だ。そんな書類はない。あったとしても、そんな理由で引き返す馬鹿がどこにいる。
「取りに戻りますか?」
「いや、それは……時間の無駄だ」
「じゃあ、このまま行きましょうよ」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題なんですか?」
知らん。俺が聞きたい。どうしてこんなに抵抗しているのか、自分でも分からなくなってきた。いや、分かっている。分かっているから認めたくないだけだ。
「春野、お前昼飯食ったか」
「食べましたよ。カツ丼大盛り」
「胃もたれしてないか」
「全然。それより光崎さんに——」
「大盛りは体に悪いぞ。塩分過多だ」
「北島さん」
春野がじっとこちらを見た。
「話、逸らしてますよね」
「……逸らしてない」
沈黙が降りた。エンジンの音だけが車内に響いている。春野の視線がまだこちらを向いている。横目で確認しなくても分かる。この男は納得するまで絶対に引かない。
俺はバックミラーを確認した。特に意味はない。確認する必要なんてなかった。ただ、春野の目から逃げたかっただけだ。
「北島さん」
春野がメモを見せた。
「さっきの旦那さん、すごく困ってましたよね。『何か手を打ってください』って」
俺は黙った。確かに、あの男の表情は切実だった。妻の変化に苦しみ、助けを求めていた。
「…それでも、俺たちにできることは限られてる」
「だから光崎さんに話を聞くんじゃないですか!」
春野の声が大きくなった。
「光崎さんが何をしてるのか。どうしてこんなことになってるのか。直接聞けば全部分かりますよ!」
「簡単に言うな」
俺はため息をついた。
「光崎は捜査に協力的じゃないんだ。清水ならとにか——」
「清水さん?」
春野がこちらを見た。おもちゃを見つけた猫みたいな顔をしている。
「ああ、俺の元部下だ。斎藤が言ってただろ? 光崎家事件を担当してた刑事で……光崎と懇意にしてた」
「じゃあ!」
春野が目を輝かせた。
「『清水さんの上司です』って言えば話ができますよ! そうだそうだ、最初からそれでお願いすればよかったんですよ!」
嫌な予感がした。
「おい……」
「光崎さんに会いに行きましょう!」
春野が助手席のシートベルトを外し始めた。
「やめろ」
「大丈夫ですよ! 清水さんの上司って言えば、きっと歓迎してくれます!」
ドアが開く音。俺は必死に止めようとしたが、春野はもう車から降りていた。
「春野、待て!」
俺も慌てて車を止めて後を追う。春野は既に光崎家の門の前に立っていた。インターフォンに手を伸ばしている。
「やめろ、勝手に接触するな!」
「でも北島さん、これが一番効率的じゃないですか」
「効率の問題じゃない!」
俺が制止しようとした瞬間、春野がインターフォンのボタンを押した。
「あ、押しちゃった」
「バカ、何やってんだ」
俺は天を仰いだ。
「大丈夫ですよ、なんとかなります」
春野は相変わらず能天気な笑顔を浮かべている。殴りたい。
しばらくして、インターフォンから落ち着いた男性の声が聞こえた。
『はい』
春野が元気よく答えた。
「こんにちは! 警視庁の春野です! 清水刑事の同僚なんですが、少しお話を伺えればと思いまして!」
おい。清水の名前を勝手に出すな。しかも「同僚」ってなんだ。お前、清水と会ったこともないだろうが。
『清水さんの……』
光崎の声が一瞬詰まった。
『少し、お待ちください』
インターフォンが切れた。俺は春野を睨みつけた。
「お前、何考えてる」
「いや、清水さんの名前を出せば話を聞いてくれるかなって」
「勝手に人の名前を使うな」
「北島さんの名前も出しましょうか?」
「やめろ」
春野が何か言い返そうとした時、玄関のドアが静かに開いた。
音もなく、ゆっくりと。
薄暗い玄関の奥に、人影があった。
最初に見えたのは輪郭だけだった。肩、腕、体の線。顔だけが闇に溶けている。その影が、ゆっくりと前に出てきた。一歩。また一歩。まるで暗闇から這い出てくるように。
三年前とほとんど変わっていなかった。三五歳の元教師。メガネをかけて、穏やかそうな顔立ち。人の良さそうな目元。街ですれ違っても、振り返ることすらないだろう。そういう顔だ。どこにでもいる、職場でもどこでも。本当に特徴がない。ただ、よく見ると疲れたような影がある。目の下には薄いクマ。頬も少しこけている。それでも、立ち姿には妙な落ち着きがあった。自分の家の玄関に立っているだけなのに、まるでずっと前からここで俺たちを待っていたような——そんな気味の悪さがあった。
「清水さんの……」
光崎が俺たちを見て、少し困惑したような表情を浮かべていた。
「お久しぶりです、北島さん」
覚えている。俺のことを覚えている。事件当時、顔を合わせたのは捜査の初期段階だけだ。ほとんど接触らしい接触もなかった。それなのに。
「……ああ、お久しぶりです」
一瞬思案する。何を喋ればいいのか全く思いつかない。とりあえず出任せでもいいので言葉を続けた。
「すみません、突然押しかけてしまって。こちら、春野巡査です」
「初めまして!」
春野の声だけが明るかった。場違いなほど弾んでいる。光崎の眉がわずかに動いた。
「どうぞ、上がってください」
「……いいんですか?」
「何がですか?」
「用件も聞かずに」
光崎が少し首を傾げた。まるでこちらの質問の意味が分からないという顔だ。
「清水さんのお知り合いなんでしょう?」
さっきまで気づかなかった風の音が、急に耳についた。住宅街の静けさ。遠くを走る車。自分の呼吸。全部が妙にはっきり聞こえる。
光崎は理由などそれだけで十分だ、とでも言いたげな口調だった。
俺は春野を見た。春野は気づいていない。何も気づいていない。屈託のない笑顔を浮かべている。おかしい。斎藤の言葉が頭をよぎる。「光崎さんは完全に話をしてくれない状態」だと。刑事課が何度接触を試みても門前払いだったはずだ。それが、清水の名前を出しただけでこれか。
「北島さん?」
春野が不思議そうにこちらを見ている。光崎は玄関の奥で静かに待っていた。俺は深く息を吸った。足が重い。それでも、踏み出すしかなかった。