玄関に入った瞬間、足が止まった。薄暗い。春の午後だというのに、光が届ききらない。少ない光がホコリを照らし、チラチラと光っているようだ。明らかに空気が重い。なんとなくクビを締め付けるような感覚が嫌で、俺は視線を泳がせた。
玄関には靴が並んでいた。男性用の黒い革靴。その隣に、女性用のパンプス。ヒールの部分が少し擦り切れているが、丁寧に磨かれている。意外にも、ここにはホコリが積もっていない。
その隣。
子供用の小さなスニーカー。ピンク色で、側面に小さなリボンの飾りがついている。つま先の部分に、うっすらと擦れたような跡。まるで昨日公園で遊んできたかのような。全て、きちんと揃えられている。向きも、間隔も。靴箱の横には小さな傘立て。子供用の黄色い傘。柄の部分に、マジックで「ひな」
「あれ? 靴がたくさんありますね」
春野の声が響いた。
「ご家族がいらっしゃるんですか?」
息が止まった。お前、何を言ってる。ここまで調べてきただろう。三年前に光崎家で二人殺されてる。この靴が何なのか、この傘が誰のものなのか、言わなくても分かるだろう。なんでそれを遺族の前で聞く。空気を読め。頼むから空気を読んでくれ。
「いえ、もういません」
光崎の声は静かだった。怒りもない。悲しみも
光崎が廊下の奥へ歩き出す。俺たちは後に続いた。歩いている廊下の壁にはいくつもの写真が飾られている。光崎と女性と、小さな女の子。どれも笑っている。俺自身がこの空間にビビっているのか、なんだか写真が多すぎるような気もする。
「どうぞ、こちらへ」
光崎が
整然としていた。
異常なほど、整然。テーブルの上には何も置かれていない。リモコンすら見当たらない。床にはホコリ一つなく、窓ガラスは磨き上げられている。生活感がない。人が暮らしている家の匂いがしない。
リビングの壁にも家族写真が並んでいる。光崎と女性と、小さな女の子。廊下と同じだ。テーブルの脇に、子供用の小さな椅子が置いてある。座面にクッションが敷いてある。キャラクターの絵柄が少し古ぼけている。使い込まれたような跡だ。
「すみません、散らかってて。おかけください」
光崎が申し訳なさそうに言った。
散らかっていない。どこが散らかっているんだ。むしろ逆だ。綺麗すぎる。毎日磨いているのか。毎日、この部屋を。
俺達は光崎に促された通り、リビングの椅子に腰掛けた。沈黙が起きる暇もなく、座る動作の途中で春野は続ける。
「いえいえ、綺麗なお家ですね!」
春野がリビングを見回しながら言った。
「ん? カレンダーが……」
春野が壁を指差した。今月のカレンダー。日付と曜日が合っていない。
「曜日がおかしいですね。あ、これ三年前のカレンダーになってますよ!」
おい。気づくな。いや、気づいてもいい。でも口に出すな。
「ああ……ちょっと忙しくて、なかなか」
光崎が苦笑いを浮かべた。
「三年間も忙しかったんですね!」
こいつは本当に——
「春野」
「はい、なんですか? 北島さん」
「黙りなさい」
「え、なんでですか?」
光崎が静かに笑った。怒っていない。怒っていないのが、逆に怖い。明らかに地雷を複数回、踏み抜いたというのに。
「そうですね。時間があの日から、なかなか進まなくて」
沈黙が降りた。
春野も流石に何かを感じ取ったのか、口を閉じた。壁掛け時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。カチ、カチ、カチ。規則正しく、正確に。この部屋で唯一、ちゃんと動いているもの。
「あ、お茶を淹れますね」
沈黙を破るように光崎が立ち上がった。その瞬間だった。
光崎の姿がぶれた。
いや、二重に見えた。二人の光崎が、微妙にズレて重なっている。片方は普通の光崎。もう片方は——何だ? 青っぽくて輪郭が滲んでいる。目を凝らす。瞬きをする。元に戻っていた。光崎は何事もなかったようにキッチンへ歩いていく。背中を見つめる。普通の背中だ。普通の歩き方だ。
見間違いだ。最近スマホの見すぎで目がかすむ。四十五にもなると色々ガタが来る。春野を見た。春野は何も気づいていない様子で、部屋を見回している。まあ、二十代には分からんだろうな、この衰え。
キッチンから湯を沸かす音が聞こえる。カップを置く音。蛇口をひねる音。どれも普通の日常的な音だ。それなのに、この部屋の空気は重いままだった。死んだ人間の写真に囲まれている。居心地がいいわけがない。壁の家族写真が、こちらを見ている気分だ。被害妄想なのは分かっているが、なぜ助けてくれなかったのかと俺を非難してくるような。
やがて光崎が戻ってきた。湯気の立つ湯呑が、俺たちの前に置かれる。
「どうぞ」
光崎が向かいに座った。穏やかな顔。普通の顔。しかし、なぜ光崎は俺たちを招き入れたのだろうか。刑事課は門前払いだったはずだ。「清水さんの上司」それだけでこの態度か。それとも別の理由があるのか。聞くべきだ。聞かないと始まらない。だが聞きたくなかった。
「お茶、どうぞ」
光崎が静かに促す。俺は湯呑を手に取った。カップから手に伝わる温度、温かい。普通のお茶だ。口元まで持っていく。持っていくだけで、飲めなかった。
春野は違った。
「あ、美味しい」
普通に飲んでいる。二口目、三口目。何も感じていない。この部屋の空気も、遺族を前にしたプレッシャーも、何も。ある意味、羨ましかった。
「光崎さん」
春野が湯呑を置いた。
「実は近所で事件がありまして、聞き込み調査をさせていただいているんです!」
「ええ、ニュースで見ました。裁判官の方が亡くなったみたいで」
光崎が静かに頷いた。
「それで三年前の事件について教えていただけませんか? もしかしたら今回の事件と関係があるかもしれなくて」
おい。待て。何を言っている。いきなりそこに行くのか。もう少し回り道があるだろう。天気の話とか、体調の話とか、何でもいい。なんでいきなり三年前の事件なんだ。火の玉ストレートにもほどがある。相手は家族を殺された遺族だぞ。受け止められるわけがない。
「春野、それは」
「いえ、大丈夫です」
光崎が遮った。静かな声だった。湯呑を持つ手も震えていない。目も伏せていない。まっすぐこちらを見ている。
大丈夫? 本当に大丈夫なのか。三年前に家族を殺された男が、その話を振られて、この反応か。家族が惨殺されても三年経てばこんなものなのかな。
俺は結婚していないし子供もいない。家族を殺されても。案外たいしたことないのか? いやそんなはずないだろ。他の事件の遺族はこんな平静じゃなかったぞ。
「当時のこと、覚えている範囲で結構ですので、お聞かせいただけますか?」
春野が改めて聞いた。光崎は湯呑を見つめた。湯気が静かに立ち上っている。数秒。いや、もっと長かったかもしれない。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「そうですね。三年前の四月一五日、妻と娘を亡くしました」
光崎が淡々と語り始めた。
「その日、私は仕事で外出していました。学校の職員会議があって、夕方くらいに急に警察の方から電話があったんです。急いで帰宅すると、自宅の周りはもう近寄れるような状況ではありませんでした。テープが張られていて、規制線っていうんですかね?」
春野が真剣な顔でメモを取っている。
「私は結局、現場保全の観点からしばらく自宅に入れませんでした。なので警察の方に聞いた内容しかわかりませんが」
光崎が一瞬、言葉を詰まらせた。
「リビングで妻の
「死因は?」
春野が慎重に聞いた。
「「あれはなんというんでしょうか。遺体の状況は身元確認が難しいほどむごたらしいものでしたので」」
一瞬、耳鳴りがした。
「犯人は捕まったんでしたよね?」
「ええ。一週間も経たず、
光崎が続ける。
「事件当日の午後二時頃、権藤が私の家に入っていくのを近所の方が目撃しています。そして午後四時頃、慌てた様子で家から出てくるのも見られています」
「目撃証言があるんですか」
春野が驚いた顔をする。
「ええ。それだけでなく、現場にも権藤の指紋が複数残っていました。リビングのドアノブ、机、椅子。DNA鑑定でも、妻の爪の間から権藤のものと一致する皮膚片が検出されました。抵抗した時に、引っ掻いたんでしょう」
「それだけ証拠が揃ってて」
「はい、裁判で無罪になりました」
光崎の声が、わずかに沈んだ。
「無罪、そうなんですよ」
春野が呟いた。
「調べたんですけど、事件の記事が全然出てこなくて。
光崎の表情は変わらなかった。
「そうでしょうね」
それだけだった。肯定も否定もしない。ただ、当然のことのように受け止めている。
「どうして無罪になったんですか? 理由が僕には分からなくて」
「証拠の採用手続きに不備があった、指紋の採取方法が適切でなかった。DNA鑑定のやり方に問題があった。目撃証言は思い込みの可能性がある。一つ一つ、証拠能力がないことが裁判中に決定していきましたね」
「ええ? そんなことがあるんですか?」
春野は俺と光崎を交互に見ている。光崎はすぐには答えなかった。俺もこの場では自分なりの見解を述べるわけにはいかない。職務中だ。遺族の前で裁判がおかしかったなんて言ってみろ。後々面倒なことになる。
光崎は湯呑を見つめている。湯気はもう立っていない。冷めてしまったのだろう。
「私にも分からないです」
静かな声だった。
「なんでそんな事が起きたのかなんて」
光崎の肩に力がこもっているのか、震えていた。声は平坦だった。顔も動かない。でも、肩だけが震えている。この男は、この三年間、何度この話をしてきたんだろう。何度、同じことを聞かれてきたんだろう。あの春野が何も言えずにいる。俺も、言葉が見つからなかった。当時、捜査本部で間違いなく有罪だと言われるほど証拠が集まった。こんな簡単な捜査も滅多にないと言われるほどに。それなのに、法廷で全てが崩された。警視庁ではこの件を司法介入の結果だと噂するほどだった。
「清水刑事は、この事件の主任だったんですか?」
春野が聞いた。
「いえ、主任ではなさそうでした。警視庁の刑事さんでしたが、遺族である私にとても良くしてくださって」
光崎が俺を見た。
「清水刑事は、本当に優しくしてくれました。勤務時間外であっても私に会いに来て、何度も声をかけてくれました」
清水の顔が浮かんだ。あの生真面目な目。まっすぐすぎる正義感。遺族対応なんて職務範囲外だ、他部署にやらせておけと何度も言ったのに、頑なに無視をした面倒なヤツ。俺は湯呑を持つ手に力が入った。
「「でも権藤さんも、ある意味では被害者なのかもしれません。無実なのに疑われて」」
耳の奥で、何かがざわついた。一瞬、本当に日本語なのか理解できなかった。音は認識できる。だが光崎の吐いた言葉が俺の知っている言語と違うのかもしれない。だって意味が通っていないだろ。
「もし本当に無実なら、彼の人生も壊されたわけで」
俺は顔を上げた。さっきからコイツ、何を言っているんだ? 家族を殺された遺族が、犯人に同情している。いや、無罪だから犯人ではない? 馬鹿な。指紋があった。被害者に権藤の皮膚片が付着していた。目撃証言があった。全部、全部の証拠が権藤真澄を
光崎の顔を見た。怒りがない。恨みもない。何もない。ただ静かに、淡々と、湯呑の中の液体を見つめている。
俺は光崎の様子を観察していた。確かに疲れた様子はある。でも、取り立てて異常には見えない。むしろ、理不尽な状況を受け入れようとしている普通の遺族に見えた。
その時だった。
「「妻と娘が……殺されて……」」
光崎の声が震えた。俺の頭の奥が、ぐらりと揺れた。光崎の肩が先程よりも強く震えているのが目についた。ああ、泣いているのか。遺族が事件を語る時、感情が溢れるのは当然だ。仕方ない、顔は見ないのがエチケットだ。視線を顔には向けないようにそっと外そうとしたその時。
ポタリ。
光崎の顔から床に落ちる液体が見えた。涙だろう。
ポタリ。
もう一度。
何か、涙にしては違和感があった。粘性があるような、涙はこんなに伸びない。気になって俺は光崎の方を見てしまった。凍りついた。光崎の口の端から、透明な液体が垂れていた。涙じゃない。
光崎の顔は少しだけ上を向いていた。目は半ば閉じられている。白目が見えている。口は半開きで、呼吸が荒い。頬が紅潮している。額に汗が浮かんでいる。
その表情は、悲しみではなかった。
恍惚だった。
ポタリ。
ポタリ。
液体が床に落ち続ける。光崎の身体が小刻みに震えている。喉の奥から、押し殺したような声が漏れている。
家族の死を語りながら。
この男は。
俺は目を逸らそうとした。逸らせなかった。身体が動かない。視線が縫い止められている。春野は気づいているのか。視界の端で、春野がメモをまとめているのが見える。下を向いている。この光景を、見ていない。
俺だけが見ている。
光崎の目が。
こちらを見た。
口元が、笑っていた。
「……北島さん?」
春野の声が聞こえた。声をかけられたおかげで、この緊張から解き放たれた。視線を春野に移す。彼は心配そうな顔でこちらを見ている。
「あ、ああ」
返事をした後に光崎に視線を戻す。何事もなかったような顔をしていた。目も普通だ。表情も、静かな悲しみを湛えた遺族のそれに戻っている。さっきまでの震えも、荒い呼吸も、どこにもない。
「すみません」
光崎が静かに言った。
「少し……思い出してしまって」
落ち着いた声だった。穏やかな声だった。
嘘だろ。確かに見た。あの表情を。あの恍惚を。白目を剥いて、よだれを垂らして、身体を震わせていた。確かに見た。
床を見た。よだれの跡がない。ない。どこにもない。ポタリ、ポタリと落ちていたはずだ。確かに聞いた。確かに見た。なのに、何もない。
足で拭いたのか。いつ。俺が目を離した一瞬か。それとも——最初から、何もなかったのか。
春野を見た。春野は普通の顔をしている。何も見ていない。何も聞いていない。
俺だけだ。俺だけが見た。俺だけが聞いた。
証拠は何もない。自分の鼓動が、耳の内側で暴れている。
「あの、この写真。拝見してもいいですか?」
春野が壁に飾られた家族写真を指差した。
「ええ、どうぞ」
光崎が静かに答えた。春野が立ち上がり、写真立てを手に取る。俺も流れで立ち上がり、一緒に覗き込んだ。動悸はまだ収まっていない。でも、じっとしているより何かをしていた方がましだった。
家族三人の笑顔。奥さんは穏やかに微笑んでいる。娘は無邪気に笑っている。光崎も写っている。血色が良い。本当に幸せそうな顔だ。さっきのよだれを垂らしていた男と同じ人間には見えない。
写真の中で、ひとつだけ目立つものがあった。
奥さんの首元。青いブローチ。やけに大きい。不格好なほど大きい。服装のバランスから明らかに浮いている。なんだこれ。正直、ダサい。奥さんの服のセンスを見る限り、自分で選んだものじゃないだろう。
「これ、大きなブローチですね!」
春野が指差した。「変ですね」とは言わなかった。珍しく空気を読んだのか。
「ああ、娘が妻にプレゼントしたものです」
光崎が微笑んだ。
「お小遣いから買ったので、五百円ほどのおもちゃみたいなものですよ」
「でも、妻はいつもつけていました」
「素敵ですね! 娘さん、優しい子だったんですね!」
春野が満面の笑みで答えた。和やかな話題だ。俺はホッと息をついた。その瞬間だった。
写真の中の奥さんと娘の表情が、変わった。笑顔が消えている。険しい顔。いや、険しいというより——怒っている。何かを拒絶している。こちらを睨んでいる。
俺は写真から目を離した。息が浅い。手が震えている。これは言い訳できない。確実に変わった。見間違いじゃない。春野を見た。春野は何も気づいていない。普通の顔をしている。俺だけか。また俺だけなのか。さっきから何なんだ。何が起きている。勘弁してくれよ。ずっと怖いじゃないか。
もう一度、写真を見た。普通の笑顔だった。穏やかな家族の笑顔。何も変わっていない。
その時。
奥さんの首元のブローチが光った。青い光。一瞬だけ。脈打つような光。
「わあ、綺麗! 光ってる!」
春野の声が聞こえた。違う。春野は蛍光灯の反射を見ているだけだろう。あの脈打つ光には気づいていないと思う。写真の表情が変わったことにも、気づいていない。
ストレスだ。そうに決まっている。光崎に会う緊張で、俺の目がおかしくなっているだけだ。そうだ。そういうことにしておこう。
「すみません、お手洗いお借りできますか?」
春野が突然立ち上がった。
「ああ、奥の廊下の突き当たりです」
光崎が場所を教える。
「ありがとうございます!」
春野が元気よく立ち上がって奥に向かった。勝手にお邪魔してお手洗いを借りる警察官がいるか。バカチンが。漏らしていいから俺を一人にしないでくれ。そう願ってもドタドタと間抜けな足音を立てて、俺の味方はどこかに行ってしまった。
春野がいなくなり、光崎と二人きりになった。
沈黙。
何を話せばいいのか分からない。三年前のことを謝るべきか。いや、何を謝る? 俺は何も悪いことをしていない。清水が勝手に遺族に関わり、勝手に絶望し、勝手に。
でも、この男の前でそれを言えるか? 光崎は黙って湯呑を見つめている。責めるでもない。許すでもない。ただ、そこにいる。
この沈黙が痛い。
俺は視線を逃がした。壁。床。テーブルの木目。どこを見ても落ち着かない。かといって光崎の顔を見ることもできない。
「あの」
声が出た。自分でも何を言うつもりなのか分からなかった。
「三年前は……」
続きが出てこない。何だ。何を言おうとしている。大変でしたね、か? 白々しい。お悔やみ申し上げます、か? 三年遅い。清水のことは残念でした、か? こっちの都合だ。
光崎がこちらを見た。目が合った。穏やかな目だった。何も求めていない目。何も責めていない目。それが一番きつい。怒ってくれた方がまだ楽だ。
「いえ」
光崎が静かに首を振った。
「お気になさらず」
その言葉で、俺は完全に詰んだ。何も言えなくなった。リビングの空気が、更にじわりと重くなっていく気がした。それまでもずっとずっと閉塞感があったが。
いや、しかし、息苦しい。まるで水の中にいるような圧迫感。窓は開いているのに、空気が動いていない。
その時、家の奥から小さく春野の声が聞こえてきた。
「わあ、きれいな部屋ですね!」
聞こえてきた言葉に耳を疑った。あいつ、勝手に他の部屋を覗き回ってるな。
「あ、この部屋にも写真がいっぱい!」
春野の無邪気な声が続く。
「色とりどりの折り鶴もたくさん飾ってありますね! すごい!」
俺は慌てて立ち上がり、部屋を見回っている悪徳警察官もどきを呼び戻す。
「春野!」
しかし春野は既に戻ってきていた。屈託のない笑顔でリビングのドアを開けてきた。
「光崎さん、二階のお部屋に折り鶴がたくさん飾ってありましたけど、折り紙がお好きなんですか?」
お前は何をしているんだ。勝手に家の中を見て回るな。しかも二階まで行ったのか。流石に怒られるぞ。いや、俺が怒られる。お前の上司は俺だ。
しかし、光崎は怒らなかった。表情が変わった。それまでの落ち着いた雰囲気が消えた。目が輝き始めた。頬が紅潮している。さっきまでと違い、嬉しそうだ。
「ああ、あれは……」
声のトーンが違う。熱がこもっている。
「娘の
「娘さん?」
春野が首をかしげる。
「
光崎が身を乗り出した。テーブルに手をついている。前のめりだ。距離が近い。
「特に鶴を折るのが上手で。八歳なのに、もう五百羽以上折っていたんです」
さっきまで遺族として淡々と語っていた男が、娘の昔話になった途端にこれか。嬉しそうだ。楽しそうだ。目が
「五百羽もすごいですね! もうちょっと頑張れば千羽鶴ですよ!」
春野が感嘆の声を上げる。
「ええ、すごかったんです」
光崎の声が次第に高揚していく。
「二月三日、陽菜の誕生日の朝のことです。七時十五分に起きて、『お父さん、今日は私の誕生日だよ』と言ってくれました」
妙に詳しい。いや、誕生日の朝なら覚えているのも当然か。
「朝ごはんの後、陽菜は新しい折り紙セットを開けました。赤、青、黄色、緑…………十二色入りのセット。陽菜は赤い折り紙を選んで、七時四十八分から鶴を折り始めたんです。『お父さん、見て見て』と嬉しそうに見せてくれて。その鶴の羽の角度は完璧でした。右の羽が二十三度、左の羽が二十四度。ほんの少しだけ違うんですが、それがかえって自然な感じを出していて」
光崎が早口になっていく。さっきまでのゆったりとした喋り方じゃない。羽の角度、そんなこと、普通覚えているか? というかただ見ただけの景色で角度まで把握しているわけがない。
「夜にみんなでケーキを食べたんです。ケーキのろうそくは八本。ピンク色のろうそくで、一本だけ少し斜めに刺さっていました。陽菜が息を吹きかけた時、左から三番目のろうそくが最初に消えました。一度に全部のろうそくは消えなかったので二回目に他のろうそくも全部消えて。『やった!』と陽菜が喜んで。そうそう、その日の朝食は、妻の美咲が作った特別なフレンチトーストでした。卵二個、美咲は左手で卵を割りました。殻が三つに割れて、最初の破片は流し台の左端に落ちました」
光崎の早口が捲し立てるように止まらない。目が輝いている。語れば語るほど、表情が生き生きとしていく。嬉しそうだ。幸せそうだ。三年前の誕生日の朝を、録画でも再生するみたいに語っている。卵の殻が落ちた場所まで。
「でもそれが、陽菜の最後の誕生日でした」
光崎が一息ついた。悲しんでいるように見えるはずだった。でも、さっきの恍惚の表情が頭にこびりついている。この男の悲しみが、本当に悲しみなのか分からなくなっていた。俺は口を開きかけた。
「毎日思い出しているんです」
光崎が俺の出かけの言葉を遮った。俺たちを見た。目が濡れたように光っていた。
「朝起きた時、夜寝る前、一日に何度も。あの日の朝のこと、全部。そうすれば、忘れずに済むから」
「毎日……ですか?」
春野が聞いた。
「ええ、毎日」
光崎が微笑んだ。
「義務のように、儀式のように。そうしないと……なんていうか、いなくなっちゃう気がして」
光崎の言葉。家族を失った人間の率直な気持ち。この言葉は重かった。また
「——あの、清水刑事のことなんですけど」
まずい。
「光崎さんと仲が良かったって聞いたんですが、今どうしてるんですか?」
遮ろうとした。遅かった。 楽しそうにしていた光崎の表情が、変わった。さっきまで輝いていた目から、光が消えた。顔が青ざめる。唇が震えている。
「清水さんは……お亡くなりになったと聞いています」
「……え」
春野が固まった。こちらを見た。目が「聞いてないんですけど」と言っている。当たり前だ、言ってないんだから。俺はこの無言の追求から目を逸らさざるを得なかった。
「……同僚の方なのに、ご存知なかったんですか?」
光崎が春野を見た。当然の疑問だ。同僚だと言って自宅に入ってきた人間が、その同僚の生死を知らない。
「僕は一緒に働いたことないですよ! 北島さんはありますよね?」
春野がこちらを見た。悪びれた様子がない。嘘をついた自覚すらないのか、こいつは。でもその目は俺に言っている。黙ってたのはお前だろ、お前が処理しろ、と。
「……ああ、私の部下でした」
それだけ答えた。それ以上は、言えなかった。
「清水さんには、本当にお世話になりました」
ほんの少しばかりの静寂の後、光崎が静かに言った。
「清水さんは何度も私のところに来てくれました。仕事が終わった後の夜遅くに、休日にも。本当は遺族対応なんてお仕事ではなかったはずなのに」
知っている。俺も知っている。清水がどれだけこの事件にのめり込んでいたか。何度も止めた。お前の仕事じゃないと言った。でも、あいつは聞かなかった。
「『光崎さん、大丈夫ですか』『何か困ったことはありませんか』って。ただ話を聞いてくれるだけでも、どれだけ救われたか」
光崎の目に涙が滲んでいた。春野がメモを取る手を止めている。俺は黙っていた。何も言えなかった。口を挟む資格が自分にあるのか、疑問を持ってしまったからだ。
「妻と娘が亡くなってから裁判まで時間がかかりました。そんな辛い期間も声をかけて支えてくれたんです」
光崎の声が詰まった。
「でも無罪判決が出た後、清水さんからの連絡が途絶えました」
「途絶えた?」
春野が聞き返した。
「ええ。それまで毎週のように来てくれていたのに、判決の後は一度も。電話をかけても出てくれなくて」
光崎が震える手でお茶を口に運ぼうとした。できなかった。湯呑をテーブルに戻す。
「そして、二ヶ月後……ニュースで知りました」
光崎の声が小さくなった。
「『警視庁の刑事が拳銃で自殺』という見出しで。清水さんの名前が出ていて」
「拳銃で……」
光崎が顔を覆った。
「私のために、あまりにも戦いすぎて。私のせいで、清水さんは……」
違う。お前のせいじゃない。清水は勝手に、勝手にのめり込んだ。勝手に絶望して、勝手に死んだ。お前のせいじゃない。誰のせいでもない。あいつが勝手に選んだ結末だ。
「……あなたのせいじゃないですよ」
口から出た声は、思ったより掠れていた。光崎が顔を上げた。俺を見た。俺は光崎の目を見れなかった。
「そうでしょうか」
光崎が続けた。
「もし私が、もっと強く『もう大丈夫です』と言っていれば」
俺は何も言えなかった。清水に注意したことがある。お前の仕事じゃない、やめろと。清水は聞かなかった。そして俺は、それ以上止めなかった。光崎の言葉が刺さる。止めていれば。
しばらくして、光崎が顔を上げた。
「でも…………」
光崎が言った。
「あの日の記憶は、決して忘れません」
空気が変わった。
「陽菜が着ていた黄色いリボンのワンピース。『お父さん、かわいい?』と聞いてくれた時の笑顔。ケーキのろうそくを吹き消した時の嬉しそうな顔。全部、全部覚えています」
光崎の声が熱を帯びていく。さっきまで顔を覆って震えていた男が。清水の死を語って涙を滲ませていた男が。
「毎日、何度も思い出します。そうすることが、私に残された唯一のことだから」
光崎が微笑んだ。その顔を、俺は直視できなかった。