光崎宅を後にした時、俺の全身に冷や汗が
家を出た瞬間、空気が軽くなった。まるで水の中から地上に上がったような、急激な圧力の変化。深く息を吸い込む。ああ、ようやく普通に呼吸ができる。時計を見る。思ったより短い時間しか経っていなかった。しかし、感覚的には何時間もいたような気がする。あの家の中では、時間の流れが違っていたみたいだ。
パトカーに乗り込むと、春野が助手席でシートベルトを付け終わり、俺の方に振り向いた。
「光崎さん、いい人でしたね!」
春野の無邪気な言葉に、俺は何も答えられなかった。
いい人。
光崎がどういう人物であったかなんて、考える余裕すらなかった。あの家の中で感じたもの——あれは何だったのか。言葉にできない。言葉にしたくない。春野に聞いてみたかった。光崎がよだれを垂らしたかどうか、家族写真の表情が変わったかどうか。春野も同じものを見ているのなら、少し気持ちが軽くなる気がする。
だが、聞けなかった。「何の話ですか?」と返されたら。
「北島さん?」
春野の声で我に返った。何か言わなければ。この沈黙を埋めなければ。
「……いや、あれはおかしいだろ」
口をついて出たのは、光崎宅で感じた恐怖ではなかった。
「え? 何がですか?」
「犯人への同情だ。家族を殺されて、その殺人鬼が無罪になった。それなのに『
自分でも驚いた。なぜ今、この話を——いや、これでいい。これなら説明できる。言葉にできる。あの家で感じたものより、ずっと。
「でも、裁判で無罪になったんですよね?」
「無罪だからといって、無実なわけではない」
言っていいことと悪いことがある。分かっている。だが、口が止まらなかった。
「当時、証拠は山ほどあった。指紋も、被害者から検出された皮膚片も、目撃証言も。全てが
「じゃあなんで無罪に?」
「……噂だけどな。
「政治的圧力? どんな内容ですか?」
「裁判官に口利きしたっていう内容だ」
「でも裏金とか口利きの証拠とかないんですよね?」
「ああ、あくまで噂だ。国会議員の息子だから。それ以上の証拠は何もない」
春野が首をかしげている。
「公式には、証拠の提出方法に不備があったとか、そういう理由だったって光崎も言ってたな」
「でも実際は?」
「分からん。誰も口には出さない。だが——」
窓の外に目をやった。
「みんな、心のどこかで思ってる。司法介入があったってな」
春野がしばらく黙り込んだ。色々と考えをまとめているのだろうか。少し経ってから質問の方向性が変わる。
「北島さんの部下の清水さんは……どうして遺族対応を? 捜査一課の刑事ですよね?」
「ああ、清水は勝手にやってた。俺は止めたんだぞ」
「止めたんですか?」
「当たり前だろ。捜査一課の刑事が遺族対応なんて、職務範囲外だ。普通、地域安全課とかそういう部署がやるもんだ。しかも勤務時間外に勝手に通って——」
声が大きくなっていた。
「俺は何度も注意した。『やめろ』『お前の仕事じゃない』『地域課に任せろ』ってな。何度も何度も言った」
「それで清水さんは?」
「あの馬鹿は聞かなかったよ」
言葉と同時に思わず、ハンドルを叩いた。ドンッという鈍い音。握りこぶしの側面が少し痛む。
「『でも、光崎さんは一人なんです』『このために僕は警察を目指したんです』——綺麗事ばっかり。一人? だから何だ。遺族が一人でいることなんて珍しくもない。お前が関わったところで何が変わる。何も変わらない」
春野が息を呑んだ気配がした。口からでた感情はもう止められなかった。
「清水は馬鹿だ。正義感だけで動いて、自分の立場も考えない。俺の立場も考えない。上から何度注意されたか分かるか? 『お前の部下は何をやってるんだ』って」
「北島さん——」
「で、結局自殺しやがった」
声が震える。
「勝手に関わって、勝手に絶望して、勝手に死にやがった。俺に何も言わずに。相談もなしに。ただ——ただ、死にやがった」
車内が静まり返った。自分の呼吸の音だけが聞こえた。言いすぎた。分かっている。だが、止められなかった。光崎の家を出てから、ずっと胸の奥で何かが暴れていた。それが今、口から溢れ出した。春野が何も言わないのが、かえって
「勤務中に、倉庫で。拳銃で」
声が平坦になっていくのが自分でも分かった。
「それで北島さんは……」
「左遷されたよ。『部下の管理ができなかった』ってな」
窓の外を見た。
「面倒なことになった」
「面倒なこと、ですか?」
隣にいる春野の声が遠くから聞こえるような気がした。
「ああ、面倒だよ」
俺は続けた。
「書類は山ほど書かされるし、聴取は何度も受けるし」
「確かにそれは面倒ですね」
「なあ、分かるか? ずっと仕事を頑張って、憧れの警視庁捜査一課まで行って、そこで殺しの案件を受け持って、それで昇進して警部補に。これからだってのに。俺だって人生があった。ずっと頑張ってきた。それを警察官の使命だからとかなんだ言って自殺して。本当にクソ野郎だろ。死ぬなら海の底にでも沈んでろよ」
「清水さんのこと嫌いなんですか?」
「……葬式には行った。一応」
俺は視線を前方に向けたまま答えた。
「でも、途中で帰った」
「なんでですか?」
「清水の家族が泣いてた」
言葉が勝手に出てきた。
「奥さんが、ずっとすすり泣いててな。声を殺して泣いてるんだけど、それが会場中に響いて。女のすすり泣きなんて小さな音なはずなんだがな。意外と響くんだ。こりゃ新発見だ」
息を吐いた。
「で、そうだ——息子だ。清水には息子がいたんだ。確か五歳くらいだったか」
「息子さんが?」
「ああ」
ハンドルを強く握りしめた。
「そのガキが、ずっと泣きわめいてた。『パパ、パパ』って。棺の前で、ずっと」
春野が何も言わない。
「相当喚き散らしていてな。周りの大人が『静かにしなさい』って言っても、泣き止まない。当たり前だよな。五歳のガキに、父親が死んだなんて耐えられるわけがない」
「……そうですね」
「で、面白いのがな。そのガキの泣き声を聞いてたら」
ハンドルを握る手が白くなっていた。
「なんか、俺を責めてるように聞こえるんだよ」
「え?」
「『パパ、パパ』って泣き声が、『お前のせいだ、お前のせいだ』って」
目を閉じた。
「奥さんのすすり泣きも、親族の嗚咽も、全部。全部が俺を責めてるように感じた」
声が掠れた。
「どいつこいつも揃いも揃って下向いて、落とした百円玉でも探してんのか? 人生であんなに他人の頭頂部を見たのは初めてだ。……でも特にそのガキの泣き声が、どうしようもなく、耐えられなかった」
春野が黙って聞いている。
「だから、俺……」
「逃げたんですか」
春野が静かに言った。
「ああ、逃げた。よくわかったな。警察官より探偵になるといい」
短く笑った。
「葬式の最中に、駐車場まで全力で走った。参列者の前を、礼服姿で全力疾走だ。最高だろ」
「そうなんですね」
春野が答えた。その声があまりにも普通すぎて、俺は思わず春野を見た。非難も、同情も、何もない。いつもと同じ、春野の声だった。
「……それだけか?」
「え? 何がですか?」
「いや……」
前を向いた。何を期待していたんだ、俺は。
「あ、でも」
春野が言った。
「だから北島さん、子供の声が苦手なんですか? 聞き込み調査の時にすごい顔してたんで」
「……ああ」
認めた。
「地域安全課に来てから、特にな。子供が泣いてると、あの時のことを思い出す」
「葬式の?」
「ああ。あのガキの泣き声が、ずっと耳に残ってる」
春野が首をかしげた。
「でも、その息子さん。北島さんを責めてたわけじゃないですよね?」
「……そうだな」
「ただ、お父さんがいなくなって、悲しくて泣いてただけですよね」
「そうだ」
「じゃあ、北島さんが勝手に『責められてる』って思っただけじゃないですか?」
俺は答えられなかった。そうだ。あのガキは、ただ泣いていただけだ。俺を責めていたわけじゃない。俺が勝手に、そう思い込んでいただけだ。
「…そうかもな」
俺は小さく呟いた。しばらく、誰も何も言わなかった。
「そういえば」
春野が口を開いた。
「光崎さんの記憶、すごく詳しかったですね」
俺は少し間を置いてから答えた。
「……ああ」
「三年前の誕生日の朝の出来事を、分単位で覚えてるって」
「異常だ」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「毎日思い出してるって言ってましたね」
「ああ。まるで毎日、同じ録画を見直してるみたいだ」
春野が首をかしげる。
「家族を失った悲しみで、記憶に執着してるんじゃないですか?」
「そうかもしれん」
俺は答えた。
「でも、あの様子は尋常じゃない。語ってる時の表情……まるで楽しんでいるようだった」
「楽しんでる?」
「ああ。清水のことを聞かれた時だけ、本当に苦しそうだった。でも家族の話の時は——」
言葉が途切れた。脳裏によぎる、目が輝いていた。あの時の光崎の目が。
「北島さん?」
「……いや、何でもない」
首を振った。考えすぎだ。俺たちの仕事は聞き取りだけで、あとは刑事課に任せればいい。
「北島さん、これで僕達の仕事って終わりですか?」
「ああ。刑事課に報告して終わりだ」
「まあ、そうですよね……ちぇ、もうちょいやりたかったな」
「お疲れ様。結果としては頑張ったんじゃないか」
春野は何か言いかけて、やめた。笑顔でニコニコ。どうやらご機嫌になったようだ。
俺は先程の吐露を思い出して死にたくなっていたから、そうやって別のことを考えていてくれると助かる。若者の前で感情爆発なんて、この歳の男がやるものでもない。車は神山警察署へと向かっていた。バックミラーに映る夕日が、やけに赤かった。