善意による悪意 ークトゥルフ神話ー   作:ダンチ

9 / 28
9 光崎宅その後

 光崎宅を後にした時、俺の全身に冷や汗が(にじ)んでいた。日が落ちかけ、気温が下がったせいだろうか。それとも色んな幻覚を見た拒絶反応なのだろうか。体の芯が冷えたままだ。

 

 家を出た瞬間、空気が軽くなった。まるで水の中から地上に上がったような、急激な圧力の変化。深く息を吸い込む。ああ、ようやく普通に呼吸ができる。時計を見る。思ったより短い時間しか経っていなかった。しかし、感覚的には何時間もいたような気がする。あの家の中では、時間の流れが違っていたみたいだ。

 

 パトカーに乗り込むと、春野が助手席でシートベルトを付け終わり、俺の方に振り向いた。

 

「光崎さん、いい人でしたね!」

 春野の無邪気な言葉に、俺は何も答えられなかった。

 

 いい人。

 

 光崎がどういう人物であったかなんて、考える余裕すらなかった。あの家の中で感じたもの——あれは何だったのか。言葉にできない。言葉にしたくない。春野に聞いてみたかった。光崎がよだれを垂らしたかどうか、家族写真の表情が変わったかどうか。春野も同じものを見ているのなら、少し気持ちが軽くなる気がする。

 

 だが、聞けなかった。「何の話ですか?」と返されたら。

 

「北島さん?」

 春野の声で我に返った。何か言わなければ。この沈黙を埋めなければ。

 

「……いや、あれはおかしいだろ」

 口をついて出たのは、光崎宅で感じた恐怖ではなかった。

 

「え? 何がですか?」

「犯人への同情だ。家族を殺されて、その殺人鬼が無罪になった。それなのに『権藤真澄(ごんどうますみ)も被害者』だと?」

 

 自分でも驚いた。なぜ今、この話を——いや、これでいい。これなら説明できる。言葉にできる。あの家で感じたものより、ずっと。

 

「でも、裁判で無罪になったんですよね?」

「無罪だからといって、無実なわけではない」

 

 言っていいことと悪いことがある。分かっている。だが、口が止まらなかった。

 

「当時、証拠は山ほどあった。指紋も、被害者から検出された皮膚片も、目撃証言も。全てが権藤真澄(ごんどうますみ)の犯行を示していた」

「じゃあなんで無罪に?」

「……噂だけどな。権藤昇(ごんどうのぼる)の政治的圧力があったんじゃないかって、当時は警視庁内で(ささや)かれてた」

「政治的圧力? どんな内容ですか?」

「裁判官に口利きしたっていう内容だ」

「でも裏金とか口利きの証拠とかないんですよね?」

「ああ、あくまで噂だ。国会議員の息子だから。それ以上の証拠は何もない」

 

 春野が首をかしげている。

 

「公式には、証拠の提出方法に不備があったとか、そういう理由だったって光崎も言ってたな」

「でも実際は?」

「分からん。誰も口には出さない。だが——」

 

 窓の外に目をやった。

 

「みんな、心のどこかで思ってる。司法介入があったってな」

 春野がしばらく黙り込んだ。色々と考えをまとめているのだろうか。少し経ってから質問の方向性が変わる。

 

「北島さんの部下の清水さんは……どうして遺族対応を? 捜査一課の刑事ですよね?」

「ああ、清水は勝手にやってた。俺は止めたんだぞ」

「止めたんですか?」

「当たり前だろ。捜査一課の刑事が遺族対応なんて、職務範囲外だ。普通、地域安全課とかそういう部署がやるもんだ。しかも勤務時間外に勝手に通って——」

 

 声が大きくなっていた。

 

「俺は何度も注意した。『やめろ』『お前の仕事じゃない』『地域課に任せろ』ってな。何度も何度も言った」

「それで清水さんは?」

「あの馬鹿は聞かなかったよ」

 

 言葉と同時に思わず、ハンドルを叩いた。ドンッという鈍い音。握りこぶしの側面が少し痛む。

 

「『でも、光崎さんは一人なんです』『このために僕は警察を目指したんです』——綺麗事ばっかり。一人? だから何だ。遺族が一人でいることなんて珍しくもない。お前が関わったところで何が変わる。何も変わらない」

 

 春野が息を呑んだ気配がした。口からでた感情はもう止められなかった。

 

「清水は馬鹿だ。正義感だけで動いて、自分の立場も考えない。俺の立場も考えない。上から何度注意されたか分かるか? 『お前の部下は何をやってるんだ』って」

 

「北島さん——」

「で、結局自殺しやがった」

 声が震える。

 

「勝手に関わって、勝手に絶望して、勝手に死にやがった。俺に何も言わずに。相談もなしに。ただ——ただ、死にやがった」

 

 車内が静まり返った。自分の呼吸の音だけが聞こえた。言いすぎた。分かっている。だが、止められなかった。光崎の家を出てから、ずっと胸の奥で何かが暴れていた。それが今、口から溢れ出した。春野が何も言わないのが、かえって(こた)えた。

 

「勤務中に、倉庫で。拳銃で」

 声が平坦になっていくのが自分でも分かった。

 

「それで北島さんは……」

「左遷されたよ。『部下の管理ができなかった』ってな」

 窓の外を見た。

 

「面倒なことになった」

「面倒なこと、ですか?」

 隣にいる春野の声が遠くから聞こえるような気がした。

 

「ああ、面倒だよ」

 俺は続けた。

 

「書類は山ほど書かされるし、聴取は何度も受けるし」

「確かにそれは面倒ですね」

「なあ、分かるか? ずっと仕事を頑張って、憧れの警視庁捜査一課まで行って、そこで殺しの案件を受け持って、それで昇進して警部補に。これからだってのに。俺だって人生があった。ずっと頑張ってきた。それを警察官の使命だからとかなんだ言って自殺して。本当にクソ野郎だろ。死ぬなら海の底にでも沈んでろよ」

 

「清水さんのこと嫌いなんですか?」

「……葬式には行った。一応」

 俺は視線を前方に向けたまま答えた。

 

「でも、途中で帰った」

「なんでですか?」

「清水の家族が泣いてた」

 言葉が勝手に出てきた。

 

「奥さんが、ずっとすすり泣いててな。声を殺して泣いてるんだけど、それが会場中に響いて。女のすすり泣きなんて小さな音なはずなんだがな。意外と響くんだ。こりゃ新発見だ」

 息を吐いた。

 

「で、そうだ——息子だ。清水には息子がいたんだ。確か五歳くらいだったか」

「息子さんが?」

「ああ」

 ハンドルを強く握りしめた。

 

「そのガキが、ずっと泣きわめいてた。『パパ、パパ』って。棺の前で、ずっと」

 春野が何も言わない。

 

「相当喚き散らしていてな。周りの大人が『静かにしなさい』って言っても、泣き止まない。当たり前だよな。五歳のガキに、父親が死んだなんて耐えられるわけがない」

「……そうですね」

「で、面白いのがな。そのガキの泣き声を聞いてたら」

 

 ハンドルを握る手が白くなっていた。

 

「なんか、俺を責めてるように聞こえるんだよ」

「え?」

「『パパ、パパ』って泣き声が、『お前のせいだ、お前のせいだ』って」

 目を閉じた。

 

「奥さんのすすり泣きも、親族の嗚咽も、全部。全部が俺を責めてるように感じた」

 声が掠れた。

 

「どいつこいつも揃いも揃って下向いて、落とした百円玉でも探してんのか? 人生であんなに他人の頭頂部を見たのは初めてだ。……でも特にそのガキの泣き声が、どうしようもなく、耐えられなかった」

 春野が黙って聞いている。

 

「だから、俺……」

「逃げたんですか」

 春野が静かに言った。

 

「ああ、逃げた。よくわかったな。警察官より探偵になるといい」

 短く笑った。

 

「葬式の最中に、駐車場まで全力で走った。参列者の前を、礼服姿で全力疾走だ。最高だろ」

「そうなんですね」

 

 春野が答えた。その声があまりにも普通すぎて、俺は思わず春野を見た。非難も、同情も、何もない。いつもと同じ、春野の声だった。

 

「……それだけか?」

「え? 何がですか?」

「いや……」

 

 前を向いた。何を期待していたんだ、俺は。

 

「あ、でも」

 春野が言った。

 

「だから北島さん、子供の声が苦手なんですか? 聞き込み調査の時にすごい顔してたんで」

「……ああ」

 認めた。

 

「地域安全課に来てから、特にな。子供が泣いてると、あの時のことを思い出す」

「葬式の?」

「ああ。あのガキの泣き声が、ずっと耳に残ってる」

 春野が首をかしげた。

 

「でも、その息子さん。北島さんを責めてたわけじゃないですよね?」

「……そうだな」

「ただ、お父さんがいなくなって、悲しくて泣いてただけですよね」

「そうだ」

「じゃあ、北島さんが勝手に『責められてる』って思っただけじゃないですか?」

 

 俺は答えられなかった。そうだ。あのガキは、ただ泣いていただけだ。俺を責めていたわけじゃない。俺が勝手に、そう思い込んでいただけだ。

 

「…そうかもな」

 俺は小さく呟いた。しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 

 

「そういえば」

 春野が口を開いた。

 

「光崎さんの記憶、すごく詳しかったですね」

 俺は少し間を置いてから答えた。

 

「……ああ」

「三年前の誕生日の朝の出来事を、分単位で覚えてるって」

「異常だ」

 自分でも驚くほど、声が低かった。

 

「毎日思い出してるって言ってましたね」

「ああ。まるで毎日、同じ録画を見直してるみたいだ」

 春野が首をかしげる。

 

「家族を失った悲しみで、記憶に執着してるんじゃないですか?」

「そうかもしれん」

 俺は答えた。

 

「でも、あの様子は尋常じゃない。語ってる時の表情……まるで楽しんでいるようだった」

「楽しんでる?」

「ああ。清水のことを聞かれた時だけ、本当に苦しそうだった。でも家族の話の時は——」

 

 言葉が途切れた。脳裏によぎる、目が輝いていた。あの時の光崎の目が。

 

「北島さん?」

「……いや、何でもない」

 

 首を振った。考えすぎだ。俺たちの仕事は聞き取りだけで、あとは刑事課に任せればいい。

 

「北島さん、これで僕達の仕事って終わりですか?」

「ああ。刑事課に報告して終わりだ」

「まあ、そうですよね……ちぇ、もうちょいやりたかったな」

 

「お疲れ様。結果としては頑張ったんじゃないか」

 春野は何か言いかけて、やめた。笑顔でニコニコ。どうやらご機嫌になったようだ。

 

 俺は先程の吐露を思い出して死にたくなっていたから、そうやって別のことを考えていてくれると助かる。若者の前で感情爆発なんて、この歳の男がやるものでもない。車は神山警察署へと向かっていた。バックミラーに映る夕日が、やけに赤かった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。