波は引いて、氷が溶けた   作:なめなめろう(旧名:ELDERSIGN)

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蜘蛛の糸

 

 

「――長い歳月を生きた、賢い蛹が言いました。蜘蛛の糸を三千回周れ。変わらなければ三千回。さらに変わらなければ、もう三千回。その言葉に希望を抱いた蜘蛛は、言われた通りにくるくると蜘蛛の糸の上を数えきれないほど周りました。けれど蜘蛛の糸は、蜘蛛の糸のままでした」

 

 絵本らしく柔らかなタッチで描かれた、糸の周囲を周る蜘蛛。それをヨシヒデは悲しそうな目で見ていた。次のページを捲る。

 

「蜘蛛は絶望し、羽化してしまった蝶に怒りながら言いました。何故何も変わらないのか、と。ひらひらと空を舞う蝶は答えます。出られない蜘蛛の糸にすっかり絶望し、空を見ても何も思わなくなること。それだけが蜘蛛の糸から自由になる方法なのだと。その言葉を最後に、蝶はどこかへと飛んでいきました。おしまい。……どう思った? 娘」

「可哀想……言った通りにしたのに……」

「そうだな。でも、きっとそう言わなければ蝶は蝶になる前に蜘蛛に喰われていただろう。蝶も生きるために蜘蛛を騙したんだ。それでも、蝶が蜘蛛に言ったことは本心だろうけどね」

 

 俺の言葉にヨシヒデは不満げに頬を膨らませた。

 

「じゃあ父さんは蝶の言ってたこと、どう思うの?」

「ふむ……まあ一理あるだろう」

 

 足枷、執着、希望。そういったものが果てしない苦しみを作り出す。けれど。

 

「けれど、それには幸せもないんだ。そういう生き方をすると、後には何も残らないんだよ、愛する娘。だから、大切なものはしっかりと握っておくんだ。諦めてはいけないよ」

 

 ……そしてそれを俺に教えてくれたのは、ヨシヒデ、君なんだ。

 

 わかったようなわからないような。そういう表情でヨシヒデは曖昧に頷いた。

 

「ねえ……じゃあ蜘蛛は空を飛べるの? 諦めないで蜘蛛の糸を周ればいつかは飛べるようになるのかな……」

「……これが何かわかるか?」

 

 懐から俺はあるものを取り出した。

 

「スプーンとフォーク! あとは……フォークみたいなスプーン?」

「そうだ、フォプーン」

「……スフォーク!」

「そうだ、フォプーン」

 

 どうしてヨシヒデはスフォーク派なのだろう。フォプーンだと思うんだけどな。

 

「蜘蛛が一本の長い糸を出す。その糸が風に吹かれて、凧揚げのように上がって……蜘蛛は空を飛ぶ。蝶や鳥みたいに自由に飛ぶことはできないけれど、実は蜘蛛は空を飛べるんだよ。そうやって蜘蛛は空を飛んで、世界を旅するんだ」

「知らなかった……!」

「この話はな、このフォプーンと同じなんだ」

 

 ヨシヒデの目の前にフォプーンを掲げる。ツルッとした銀の凸面にヨシヒデの顔が映った。

 

「空を飛ぶために蜘蛛の糸を捨てるか、蜘蛛の糸を使うために地を這うか。その二つしかないように見えるけれど、蜘蛛の糸のままで、空を飛ぶことだってできるんだ。どちらか一つではなく、合わせることが答えになり得るんだよ。それを覚えておくんだ、娘」

 

 子供には少し難しい話だ。おそらくちゃんと理解はできないだろう。でも、何度も何度も話すことになる。だから大丈夫だ。

 

「さて、そろそろ時間だ。今日はここまで。次の時間は……ヴァレンチーナのところか」

「うん……」

 

 そう言うヨシヒデの目には涙が溜まっていた。

 

「やっぱり、嫌か?」

 

 ゆっくり、こくりと頷いた。

 

「すまない、ヨシヒデ。今はまだ俺にしてやれることはないんだ。でも、辛かったらここにおいで。もし泣いていたら抱きしめて慰めてあげよう。もし傷ができたら絆創膏を貼ってあげよう。そして疲れたなら、絵本を読んであげよう。まだ途中の絵本がある。その結末が気になるだろう?」

「うん……」

「なら、ここで待っているから。いつでもね」

「わかった……頑張る」

 

 ググッと背筋を伸ばして精一杯の気合いを入れると、ヨシヒデはその小さな足取りでトタトタと部屋から出て行った。

 

「そうだ……今は、まだ。その時じゃない」

 

 指令の端末機を力一杯握りしめる。ギリギリと鈍い音がした。

 

 チャンスは一回だけだ。そう、あの日だけ。だからそれまでは、ただ愛そう。

 

 その日、端末機から指令の音は一度もしなかった。

 

 

 

 

 

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