波は引いて、氷が溶けた 作:なめなめろう(旧名:ELDERSIGN)
黒く、それでありながら光沢のある金属のような液体。神託端末機カドゥケウスから溢れた、その特異点の技術にも似た性質を持つ液体は、指令に従って一瞬にして形を変える。
ある時は軽く、ある時は重く、そして柔らかく、硬い。それの形を定めることは、都市の意思のみが行える。強力な武器であることを疑う余地はないが、正直扱いにくい。故に、祝福にして呪いだ。
ぬるり、とカドゥケウスが大きく膨張し、青い花びらが散ると共に一瞬で液体が変形し硬化する。
「鎌か。当たりだな」
大きく振り回して横に薙ぐ。鎌自体を振り回すというよりは、身体全身を使って振るう感覚。そうすることで強い遠心力がかかってより速度と威力が乗る。
白衣を着た研究員達の上半身と下半身が泣き別れていく。断末魔さえあげることなく倒れ、何が起こったか理解することなく死んでいく。余計な苦痛は与えたくない。鎌が出てきたのはそういう意味でも当たりだ。
「まだ気配があるな……?」
僅かに感じた気配。それを始末するためにもう一度鎌を構える。すると突然、鎌はドロドロと溶け始めて、まともに物も切れなさそうなペーパーナイフへと変わった。
「ああ……そういうことか」
すっかり忘れていたな。おそらくこの気配はアラヤだろう。なら俺の仕事はここまでのはずだ。
「さてと。帰ろうか」
カドゥケウスを胸元のポケットへとしまい、俺は生命工学研究所を後にした。
◇◇◇
その日、ヨシヒデはアラヤを連れて蜘蛛の巣へと帰ってきた。まだ碌に話もしていないだろうに、ヨシヒデの眼には既にアラヤに対する慈しみが滲んでいた。母親の顔をしていた。
「リアン。先に始末したなら言え」
「ん? ああ、すまない。次からは気をつけるよ」
ヨシヒデは俺のことをお父さん、父さんとは呼ばなくなり、名前で呼ぶようになった。それがどこか他人行儀で悲しくなったが、子どもが成長するというのはそういうことだ。
「……さて、今日はどんな絵本を読もうか」
「……俺ももう大きくなった。いちいち絵本を読んでもらうような歳じゃない」
「そうか。寂しくなるな」
「…………」
ヨシヒデは俺のその言葉に少しだけ目を細めた。視線には僅かな嫌悪感が込められている。近頃は、俺のする行動や発言が全て指令によるものだと思っているから。きっと俺がどんな言葉を投げかけたとしても意味はないだろう。それが疑いというものだから。
「愛する娘。こっちに来なさい」
「はぁ……」
手招きをすると渋々ヨシヒデは俺の隣へと座った。
「で、なんだ」
「お前はこれから、絵本を読んでもらう立場から絵本を読んであげる立場になる。そうだろう?」
「…………」
「絵本の読み方を教えてあげよう。きっと、役に立つ」
何冊もの絵本が並べられた本棚から、比較的小さな子どものための絵本を取り出す。結末も幸せに終わるような物語だ。
「……栞が挟まっているな。読んでいたのか?」
「流石に覚えていないだろうけど、今まで一緒に読んできたものには全てこうやってしおりを挟んでおいているんだ。またすぐに続きから読めるように」
「それも指令か?」
「…………」
娘の思春期というものは辛いものだ。冷たい言葉に心を刺される。けれど、こうやって俺の心を傷つけるのも、癒すのも、結局は娘にしかできないことだと思うと、なんだか満足する心地もある。それは俺がヨシヒデを愛していることの証左であるから。
「これは俺の意思だ。指令とは一切関係ないんだよ、娘。こんな風に言っても信じてくれないだろうけど。それでも、俺がお前を愛していることだけは本当だ」
「どうだかな」
そう言いながらもヨシヒデの耳は少しだけ赤くなった、気がする。
「さて、まずは普通に絵本を読んでごらん」
「……むかしむかし、あるところに」
ヨシヒデが俺が開いた絵本の文字を読み上げていく。自然と距離が近くなって、懐かしい気持ちになった。
「――めでたしめでたし。……どうだ、リアン?」
「ふむ……もう少しゆっくり読んでもいいかもしれないな。それに、感情が平坦だ。登場人物に合わせて声色を変えてやるといい。読んでいる最中に絵を指差してあげるのも大切だ」
「そうか」
ヨシヒデの横顔を見る。久しく見ていなかった、絵本を食い入るように見る目。頭の中でどうやってアラヤに読み聞かせてやるかをシミュレーションしているんだろう。
「娘。そういえば一番大切なことを伝え忘れていた」
「なんだ」
「読み終わった後に、どうだったか、どう思ったのかを聞いてあげるんだ。例えば、この後はどうなると思う、誰が好きだった、みたいに。自然と内容を思い返して考える力が身につく。でも、読み終わってすぐに聞いてはいけないんだ。物語を咀嚼しているなら、それを待ってあげるんだよ」
「…………」
ヨシヒデは少し目を瞑った。今まで俺がどんな風に読み聞かせていたのかを思い返している様子だった。
「一々そんなことを考えていたんだな」
「ああ。それが親というものだ」
「ふん……」
不満げな声だったが、それが照れ隠しであることは誰の目にも明らかだった。
「俺はもう行く」
「そうか。なら、これを持っていくといい」
手渡すのは数冊の絵本。俺のおすすめだ。
「……懐かしいな」
「そうだろう? 優れた絵本は、世代を超えて読み継がれていく。子どもの時に触れた物語に、親になって再び触れる。そうすると、子どもの時とは違ったことを思ったり感じたりするものさ。娘、お前も読み聞かせる中でまた学ぶことがあるはずだ。俺もそうだったから」
「……わかった。ありがとう」
絵本を抱えたヨシヒデが部屋から出ていく。ついこの間まで、小さな足で駆け出していたヨシヒデ。その背中がやけに大きく見えた。
やがてその背中も見えなくなって。俺はようやく廊下から目を離した。
「ふぅ……」
本棚に並べられている絵本を一つ一つ取り出していく。ほとんどの絵本には栞が挟まっていた。そしてその栞が挟まっているページを開く。
たった見開き一ページ。それだけで十分だった。今まで通り過ぎていった思い出が蘇っていく。どんなふうに読んだのか、その時ヨシヒデはどんな反応をして、どんなことを言ったのか。背丈はこのくらいで、言葉遣いは……。
そうやって丁寧に記憶を辿る。そして俺は栞を抜き取った。一冊ずつ、栞を抜き取っていく。
そうだ、この日から俺がヨシヒデに絵本を読み聞かせることはなくなる。少なくとも俺が下水道で死んだ昔の世界ではそうだった。この挟んでいた栞は全て意味のないものになる。
なら、抜き取ってしまおう。そして俺の思い出がなくなったまっさらな絵本を、ヨシヒデに手渡すんだ。今度はアラヤとヨシヒデの思い出を挟み込めるように。
1時間をかけて全ての栞を抜き取って、机には栞の山ができた。そしてそれが、今まで俺がヨシヒデと積み重ねてきた時間そのものだった。
それを俺は静かに拾い上げて、誰にも触れられないように、大切にしまった。
まもなく終わりが来る。だからこれは、子離れの儀式だった。