波は引いて、氷が溶けた 作:なめなめろう(旧名:ELDERSIGN)
最近、一人自分の部屋で目を瞑ると、波の音が聞こえてくる。穏やかで、足首を濡らす低い波の音が。
風が吹く。どんどんと波は引いていって……そこが限界だ。後はもう、押し寄せるだけ。目一杯波は引いたから、今度は強く風に押されて全てを攫っていくだろう。浜辺にある立派な砂の城も。
でも。今回だけは動かないことにしたんだ。波は初めて風に逆らって、逆らい続けて、壊したくないものを壊さないようにその場で耐える。
そうすると、波はその大切な砂の城に触れることはできないけれど、守れる。見つめていられる。それがどんなに遠くても。
もちろん、いつかは砂の城も崩れるだろう。諸行無常。生々流転。形あるものは必ず滅びる。永遠なんてものはこの世にない。けれど、いつか来る終わりがどんな終わりなのかを選ぶことはできる。先延ばしにだってできる。それが大切なんだと、今は思う。
ピピッという音が聴こえて、ゆっくりと目を開けた。無機質な青色に輝く指令の文字。届いた指令は、ヨシヒデがこの蜘蛛の巣を出て行った日に来たものと同じだった。
『抵抗してはならない。期限は一日』
運命の時が来た。
◇◇◇
「少しだけ、この箱の中に入っていろ」
アラヤと約束をするヨシヒデ。彼女は俺に全く気づいていなかった。
ゆっくりと近づく。一歩、また一歩。今までの時間を名残惜しみながら。
「娘、今までどうだった?」
「ッ!?」
その呼びかけでようやく俺の存在に気づいたヨシヒデは、肩をビクリと震わせて飛び上がり、背中にアラヤを隠した。
「リアン……なんでお前がここに……」
額に滲む冷や汗。ヨシヒデは俺に金庫とアラヤを見られ、焦っていた。阿頼耶識の柄に手をかける。
「それを振るうのはやめなさい」
「黙れ。少しでも近づいたら……斬る」
「おかあさん……」
アラヤは不安そうにヨシヒデの服をギュッと掴んだ。
「……蜘蛛の巣から出してあげよう。アラヤと二人でどこかへ行きなさい。指の力が及ばないところまで」
「……なんだと?」
けたたましくビープ音が鳴る。どうやら俺のこの行動は指令からすれば看過できないらしい。
「リアン、何を考えてる? お前は今までずっと指令通りに……」
「そうだな。だから、今回くらいは指令に背いてもいいだろう? ずっと従ってきたから、それくらい許されるさ」
戸惑いと、疑いの目。突然落ちてきた蜘蛛の糸に、ヨシヒデは戸惑っていた。ふむ。なら、その疑惑を晴らそう。
床に端末機を投げ捨てる。そしてそれをバキリ、と踏み砕いた。ビープ音はそれを最後に止まった。
「……信じて、いいんだな」
そう言うヨシヒデの目は、長い間見ていなかった純粋な目だった。疑惑なき綺麗な赤色の目だった。
「一つ、条件がある。阿頼耶識を置いていきなさい。代わりに、ここにただの刀がある。だが、こっちの方が使いやすいだろう」
「……わかった」
こちらが刀を投げてよこすと、向こうもポンと阿頼耶識を投げ渡す。
「他の親方は俺がなんとかしよう。俺が他の親方を襲撃し、騒ぎになっている間にここを出るんだ。……その後は自分の力でなんとかできるはずだ。そうだろう?」
「なんでこんなことをする。今更どんな心変わりだ」
「……娘、昔言った蜘蛛の話の本を覚えているか? ヨシヒデ、アラヤ。君たちだけは、この蜘蛛の巣に落ちたわけじゃない。ここで生まれた存在だ。俺たち親方は無様にもこの蜘蛛の巣にかかってしまったが、君たちは違うんだ。決して断ち切れない糸を出し続けろ。そして俺が風になろう。そうすれば、飛べるはずだ」
「……は。笑えるな」
ヨシヒデがアラヤを抱え、俺の側を通る。
「ああ、そうだ、娘。煙草、そのままやめろ」
「わかってる。じゃあな……父さん」
そしてぐんと踏み込む音が聴こえたかと思うと、ヨシヒデの気配は一瞬にしてなくなった。
「父さん……か」
以前、指令によって何度か煙草を吸ったことがある。特にどうとも思わなかったが、無性に今は煙草が恋しくなった。代わりに、はーっと深く息を吐いた。
「寂しいな」
でも、今はもう暖かいから、大丈夫だ。
「さて、最後の仕事をしよう」
あと2話で完結します。