学園で有名な『氷』の美人姉妹を助けたくらいで、俺の平凡な生活は変わらない……と、思っていた。 作:沙悟寺 綾太郎
「一週間。ほんと、お世話になりました」
キャリーケースを携えて、俺は深く頭を下げる。
時刻は、日朝《にちあさ》の九時。
ちょうどスーツと仮面をつけたヒーローが悪役と戦っている頃だ。
「喜一がいないと、寂しくなる」
「そうね、白葉。でも、遠い場所でもないし。落ち着いたら、遊びに行きましょう?」
「うん、エロ本探しする」
「それはやめておきなさい。……喜一君、いつでも来てね」
そう言って、銀花さんは俺の手を持ち上げて、ぎゅっと握った。
「はい。何か困ったことがあれば呼んでください」
「分かってる。頼らせてもらうわね」
この一週間で、銀花さんとの距離はかなり縮まったようだ。今のように、平然と触れてくれるようになったし、よく笑顔を見せてくれる。
「……二人、なんか雰囲気が変。まさか、ヤった?」
「「やってない!!」」
無論、やってはいない。やってはいない、のだが……。
昨日の夜のことは、とても白葉には言えないな。そう思った。
あれは昨日、牧場から帰ってきて、夕食とお風呂を済ませてしばらく。
夜の十一時を回った頃だった。
「喜一君。起きている? 今、少しいいかしら?」
「あ、はーい。起きてます」
俺はその時ちょうど荷造りをしていた。と言っても、もともとスーツケース一つでこっちに来ているのだからあまり時間は掛からなかったけれど。
「入ってもいい?」
「どうぞどうぞ」
扉が開き、銀花さんが中へ入ってきた。
少し緊張しているような面持ち。しかも、胸には枕を抱えていて、それが何処か子どもじみて見える。
「どうかしました?」
「えーと、その……明日、出て行くのよね」
「そうですね、一応」
明日からは、新居での生活が始まるわけだ。やや遅れはとったが、それでも二人との楽しかった生活を考慮すれば、なんてことはない。
「……私にも、分からないの。けれど、その、今日は貴方と一緒にいたくて」
「ぐっ!?」
な、なんて破壊力だ。口から心臓が飛び出すかと思った。
「そ、そうですか。俺は全然構いませんよ?」
「ありがとう、それじゃお邪魔するわね」
銀花さんはベッドに座る。やっぱり心なしかそわそわしている。
「えーと、何か話をしましょうか」
「いえ、大丈夫よ。その……また、一緒に寝れたら、と思っているだけだから」
おぅ、可愛すぎないか? なんか表情が上手く作れないんだが。
「そ、そーなんですね」
「……ごめんなさい、迷惑かしら?」
「いえいえ! そんなわけありませんよ!」
拒絶のしようがないだろ、こんなの。可愛すぎるんだから!
「そう、良かった」
荷造りを終えた俺は、そのままベッドに入る。すると、言葉通り銀花さんが隣に来る。
俺の部屋のベッドはシングル。銀花さんの使っているものより、一回り小さい。だから、肩と肩が触れて、耳をすませば鼓動も聞こえてくる。
「ねえ、喜一君」
「はい、なんでしょう?」
「もう少し、この家にいてもいいのよ? きっと白葉も、勿論私だって歓迎する」
それは魅力的な提案だ。けれど、もう決まってしまったこと。どうしょうもない。
「そこまで言ってもらえて、光栄です。ほんと。でも、母に迷惑をかけるわけにもいきませんし」
「そう、なんだ。残念ね」
銀花さんは寝返りを打って、俺の方を向いた。凄くドキドキする距離だ。
「喜一君も、こっち向いて」
「は、はい」
俺は銀花さんに向き直る。
長いまつ毛と、銀色の髪。満足そうな表情。その全てが、俺の鼓動を加速させる。
そして、どうしても二人との関係をこれで終わりにはしたくなかった。
「また、遊びに来てもいいですか?」
「ええ、勿論よ。毎週末でも、毎日でも。私も君に会いたい」
「こ、光栄です。けど、そ、それはちょっと多くないですか?」
なんだか、距離が縮まったを通り越してその……なんていうか。
「喜一君。今の会話、恋人同士みたいね」
「っ!? そ、そうですね!? あはは……は」
あ、やばい。この状況はまずい。
長いまつ毛、頬にあたる柔らかな吐息。頭がどうにかなりそうになる。
「ねえ、喜一君」
「は、はい」
「──ありがとう、助けてくれて」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
時間が止まったように。それでいて胸の中はぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
「喜一君?」
「あ……えーと、いえ……その、見惚れてしまっただけです」
美しいなんて、そんなチープな言葉で、今の銀花さんを表現できようもない。
それほどに、銀花さんの表情は綺麗だった。
「あ、そうだ。喜一君。お礼をしたいの。だから、目を閉じてくれるかしら?」
「え? 何をするつもり、ですか?」
「いいから」
俺は大人しく、目を閉じた。まあ、流石にビンタとかはされないと思うが……。
「喜一……君」
顔が、近づいてきたのが息遣いの距離で、分かった。
「あ、あのー、銀花さん?」
俺が困惑して、声を上げるのとほぼ同時だった。
──ちゅっと柔らかい感覚が頬にした。
「っ!? え!? ぎ、銀花さんっ!?」
「っっっ……さ、さあ、今日は寝ましょう?」
一瞬のことに、俺が目を白黒させていると、銀花さんは顔を真っ赤にしながら、寝返りを打った。
そんな状況で、まともに眠れるわけもなく、俺は朝を迎え、現在へと至るのだ。
「では、また来ます」
「ええ。また、いつでも来て」
そうして、俺は二人の家を出た。
別に今生の別れというわけでもないけれど、それなりには寂しいものだ。
俺は住宅街から駅へと向かう。
徒歩にして二十分くらいでつきそうだ。
「道を開けてくださいー」
なんて考えながら俺がスーツケースを引っ張って歩いていると、横を甲高いサイレンを鳴らした消防車が駆け抜けた。
「……むむ、日朝から忙しいなぁ」
休日なのに、本当にご苦労様だ。怪人か? 怪人でも出たのか?
「ねえ、ちょっと聞いた? この近くで火事ですって」「ええ。知ってるわ。でも、幸い怪我人は出ていないそうよ」
流石は、都会。お隣さん同士の距離が近いから、こういった情報はすぐに伝わるのだろう。
うん、お隣さんまで徒歩三十分とかないのは凄くいいな。
快晴の空の下、ご機嫌で歩いていた俺はそこから数分歩いたところで、ふと違和感に気づく。
「おいおいおいおいさーすがに嫌な予感がしてきたぞー」
向かっているのは、駅から程なくのマンション。とはいえど、別に人通りの多いような場所ではないのだ。
なのに、随分と……。
「あっちだあっち!」「結構、凄いことになってるんだってよ!」
あー、うん。なんかオチが読めてきた。
そうして、母からのメールに記されていた住所へと辿り着いた。
「……おうまい、がー」
そう。そこにマンションなぞ、存在しなかった。そこにあったのは。
「炎の柱だな、こりゃ」
煌々と赤い烈火を迸らせながら、黒煙を立ち伸ばせるマンション。もはや、煙で壁のほとんどが見えない。
まあ、一言でこの状況を言うのであれば。
──新居 is バーニングってところだろう。
「……えーと、銀花さんですか? あの、凄く言いにくいのですが……」
そうして、再び家なき子へと逆戻りを果たした俺は、銀花さんへと電話を掛けるのだった。
どうやら、二人との共同生活は、まだ終わらないらしい。