学園で有名な『氷』の美人姉妹を助けたくらいで、俺の平凡な生活は変わらない……と、思っていた。 作:沙悟寺 綾太郎
「──行くぞ。大野木」
振りかぶり、放つ。
懐かしい感覚がした。指先がボールを引っ掻く、押し出したボールは鋭く、真っ直ぐに飛んでゆく。
「ナイスボール。これが、本気か……全然違うな」
球速にしてみれば、最高で142キロ。中学三年の時にたまたまスピードガンで出た数字だ。以降は、野球を辞めてしまっているから、少し落ちているだろうけど。
「打てそうか?」
「は、当然……って言いたいところだけど、ちょっと慣れるまではしんどそうだな」
夕日が沈み、夜の帷が深く暗闇を染める時間。グラウンドには俺と大野木だけがいた。
……いや、もう一人いたわ。
「はっや! 凄いねー。150キロくらい出てる?」
「礼堂先輩……茶化すなら、帰ってもらって良いですか?」
バッティングネットの裏。何処から持ってきたパイプ椅子に座っていたのは、礼堂 美桜だ。
時刻は19時半を回っているから、ここを使用するには生徒会として監督義務がある、だそうだ。なまじ、説得力があるから断れない。
「次はー? 変化球とか?」
「確かに。右であれだけ投げられるんだ。カーブとスライダーは投げられるとして、他のもあるんだろ? 持ち球」
「あるには、あるけど」
あれ、あんまり好きじゃないんだよな。とはいえ、とりあえず投げるか。
マウンドの横のプラスチックケースからボールを一つ持ち上げる。
「……えーと、こんな感じか」
昔使っていたボールよりずっと綺麗な縫い目をしているからまだ少しピンとは来ない。
が、なんとかなりそうだ。
「じゃあ、投げるぞ」
「おう、ばっちこい」
フォームは同じ、変えるのは握り方だけだ。
縫い目に対して、十字になるように握るストレート。
今度は、縫い目を外して人差し指と中指で挟み込む握り。
結果、ボールの回転数は下がり、マグヌス効果による揚力が消える。
つまり、ボールの軌道は。
「っ! フォークボールかっ!」
大野木が振り抜いたバットのやや下をボールは通り、ネットへと捕まる。
「……えーと、落ちた。よね? 今の」
「フォークボールってやつっす」
「あー、これがかー。聞いたことある、フォークボール」
やっぱり礼堂先輩は野球に興味はないようだった。単語くらいは聞いたことあるみたいだけど。
「それで、その球って凄いの?」
「かなり。投げるにしても腕に負荷もあるし、指の長さも関係するから誰にでも投げられるボールじゃないっすね」
「へぇー、そんなの隠してたんだー」
「うぐっ、いや、別に隠してたって訳じゃ……ないんだけどな」
「まあ、とりあえず次は当ててみせる」
大野木は楽しそうに笑って、構えを取り直した。
「当てさせるかよ、後十球くらいはな」
そうして、白熱した勝負が続くこと三十分ほど。流石に今日のところはタイムアップとなった。
「くっそぉ、惜しいところまでもいけなかったかぁ」
「腰は、大丈夫か?」
スイングをかなりしていた。動きにおかしなところはなかったが、心配だ。
「痛み止めは打ってる。まあ、走ったりするよりかはだいぶマシだな」
なんでもないかのように、大野木は体を伸ばしてみせた。……無理をしているのは、間違いないのだろう。けれど、とても俺なんかに大野木を止められるわけがない。
「よし、じゃあそろそろ帰るわ。ありがとな、真壁。こんな時間まで付き合ってくれて。あと、礼堂先輩もありがとうございます」
「おうよ、また明日」
「ばいばーい」
とまあ、遠ざかる大野木の背中を見送ったわけであるが。
「それじゃ、今からは私に付き合ってもらうよ?」
「ええ、分かってます」
交換条件。今この状況を作ってくれた礼堂先輩の頼みだ、拒否のしようがない。
「じゃ、資料室にゴー」
「え? 資料室ですか?」
「あれ、説明してなかったっけ? 私がして欲しい、こと」
ふふふ、と悪戯っ子のように礼堂先輩は笑う。そうして、手を引いてきた。
「とりあえず、行こっか」
そうして、校舎の3階。教室二つ分ほどの広さを誇る資料室へと入室する。
「へいへーい、頑張るよー」
「……マジで何をさせる気ですか?」
少し埃っぽい空気が鼻につく。掃除が行き届いていないのは明白だ。
壁際や部屋を区分けするように並んだ本棚。そして、足元には数えるだけでも苦労しそうな数のダンボールが積み上げられている。
「こほん。真壁君に手伝ってもらいたいのはね。ズバリ、宝探しなんだよ」
「……と、言いますと?」
「実はね? 私には欲しいものがあるんだ。ここに」
手をぐるりと回して、礼堂先輩は俺の視線を周囲のダンボールと資料へと誘導した。
「……つまり、資料を探せばいいんですかね?」
「正しくは、職員会議の議事録だね。三年前の七月二十七日。金曜日のね」
「三年前……それは中々骨が折れそうですね」
「まーね。しかも、中等部の奴だし。この中の何処かの一冊にある、たった一ページ」
「ん、中等部の資料もここにあるんですね」
「うん。一昨年だったかな? 中等部の資料室を改装工事したんだよ。その時、こっちに運び込んで、そのままになってるってわけ」
「なるほど」
「んじゃ、宝探し開始ー」
「え、あ、はい」
***
「……だから、こんなに帰りが遅くなったのね」
「はい、すみません」
俺が家に帰れたのは、午後九時を僅かに回った頃だった。
リビング。銀花さんが作り置いていてくれた夕食が机の上には並んでいた。
「すみません、家事の手伝い出来なくて」
二階で服を着替え終えた俺は、椅子に腰を下ろす。いやぁ、なんか色々と疲れた。
「全然平気よ。また私が疲れてしまった時にでもしてくれればいいから。……添い寝もね?」
ぐわぁ。可愛い。というか、しっかり者で家庭的で頭も良くて……銀花さんは本当に非の打ち所がない人だ。
「それで、その議事録は見つかったの?」
俺が味噌汁を啜る正面で、銀花さんは暖かい紅茶の入ったマグカップに角砂糖を一つ落とした。
「いいえ、今日はダメでした。ダンボール二つ目を見終わった辺りで見回りの先生に怒られてしまいまして」
「凄いのね、生徒会の権力って。確か資料室はほとんどの生徒は立ち入り禁止のはずだもの」
「そうなんですね……通りで、埃っぽかったわけか」
わざわざ掃除するのも手間だしなぁ。あれだけものが多ければ。
「ねえ、喜一君」
ぽつんと、銀花さんは俺の名を呼んだ。何処か心配そうなか細い声だった。
「はい、なんでしょう?」
「私は貴方に助けてもらって、凄く感謝してる。だから、強くは言えない。でも、ね? 喜一君は誰かのために頑張りすぎている気がする」
「……そう、見えますかね」
「ええ。私にはそう見える。だから……喜一君が困ったり、辛くなったら私に頼ってね? 甘えてくれるのも嫌じゃないから」
甘え……る? 銀花さんに? なんだ、その幸せしかない響き。
「じゃあ、お願いしてもいいですか? いつか俺がしんどくなってしまったら」
「ええ。いつでも」
そうして、夜は更けていく。いつも通りの平和な夜。けれど、その日は何処か甘酸っぱい雰囲気が確かに俺と銀花さんの間で流れていた気がする。