学園で有名な『氷』の美人姉妹を助けたくらいで、俺の平凡な生活は変わらない……と、思っていた。 作:沙悟寺 綾太郎
「俺さ、野球辞めようと思う」
去年の冬。
大野木 公也は浅く積もった雪の中、静かな早朝の公園で、ふと偶然出会った茅田 優子へと溢した。
大野木 公也にしてみれば、愛犬の散歩。茅田 優子にとっては日課の散歩。その二つが重なった。
「腰が、さ。結構ひどいらしくてな。このまま続ければ、最悪立てなくなるかもしれないらしい」
別に同情をして欲しかったわけでも、話を聞いて欲しかったわけでもなかった。
それでも、大野木がそう口にしたのには、理由があった。
「そう、なんだね」
優子は大野木の連れたレトリバーの首元と頭を優しく撫でていた。
「ああ。これ以上は……ダメみたいなんだ」
白い息が二つ、風に巻かれて消えてゆく。
お互いにそれ以上に、何も言葉を持ち合わせていなかったし、何を言えばいいかも分からなかった。
正解などないし、それにもっとも近い選択肢を導き出そうにも、十五年ほどの短い人生ではあまりにも難しいことだった。
絶望や挫折。
そういった経験を一つずつ乗り越えて来れたならば、違う答えを持ち合わせたのだろう。けれど、初めての大きな挫折に対しては、二人ともどう向き合えば良いのか、分からずにいた。
「ごめんな、いきなりこんなこと話して」
巻きついたリードが擦れて、手の甲が少し赤くなっていた。それがやけに気になったのは、指先が酷く
「うんうん。気にしないで。大野木君の弱音……って言っていいのか分からないけど、こう言うこと話してくれるのって始めてだから、ちょっと新鮮な気がする」
優子は慎重に一つ、また一つと言葉を選ぶように言った。気遣ってか、普段と同じ明るい声だった。
「ま、きつい練習をもうしなくていいって言うなら、お釣りが来るくらいだけどな。高校からは他にやりたいことだって、いくらでも出来るだろうし」
冷たい空気と沈黙の狭間で、レトリバーは場の雰囲気を読んだように、几帳面に座ったまま動こうとはしない。
「……嘘は、ダメだよ。大野木君は辛い練習なんかと大好きな野球を比べて、嫌がったりなんかしないでしょ?」
「そうかも、な」
いつも通り。そう振る舞おうとして、失敗したのだとすぐに自ら気づかされた。
「話してよ。本当に、大野木君が思ってることを」
柔らかく、暖かく包み込むように優子は笑いかける。
「……分かった」
返事をして、大きく息を吸い込んだ。
「俺は野球が好きで、本当は──辞めたくない」
一瞬、言ったことを後悔する。それくらいに、胸が張り裂けるように傷んだから。
そうだ、好きなのだ。たったそれだけなのだ。
「なんで……なんで俺なんだよ。くそ。ああ、そうだよ! 俺は野球が大好きなんだ!」
一度、堰を切ってしまえば、途端に多く溢れ出した。
「プロにだってなりたかった! 甲子園でヒーローにだってなりたかった!!」
「うん」
「練習で手を抜いたことだってなかった! 最後の一瞬まで頑張った! 頑張り抜いたんだ!」
「知ってるよ。ずっと、大野木君が頑張ってたの、私は知ってる」
「……茅田との、約束だって……あった、あったんだよ!」
確かに自分の実力など、大したことはない。上を見れば、多くの怪物が巣食う世界だ。
だけど、例えそうであったとしても、好きなのだ。どうしようもなく、野球が。
プロにならなくとも、なれないだろうけれど、それでも人生を通して、ずっと関わっていたかった。
「よく言えました」
「本当に、ごめんな。こんな……どうしようもない、ことなのに、聞かせちゃって」
「いいの。私が受け止めてあげることで、大野木君が少しでも楽になれるなら。それに、辞めたとしても、野球を嫌いになったらそれこそ寂しいよ」
優子は立ち上がると、手を伸ばして大野木の頭に触れた。そっと寄り添うように。
「それに、さ? 私はね、大野木君があの約束を、覚えていてくれただけで、凄く嬉しいから」
「……茅田も、覚えててくれたんだな」
「勿論。小学二年生の時の、私のために甲子園でホームランを打つってやつだよね?」
「お、おう。なんか今になって恥ずかしくなってきたわ」
「私、結構嬉しかったんだよ? あんな風に言ってもらえて」
もう果たせない約束だ。けれど、今でもまだ大切で。
だから、最後にホームランを打つ。そう決めた。
誰が見ても、甲子園の高い壁の上を通過したと、超えていったと頷くようなものを。
大野木 公也は打ちたいのだ。
***
「……んで? 何か言い訳があるなら聞いてあげるけど?」
「いや、その……色々と忙しくてですね? ほら、部活祭とかあったじゃないですか?」
昼休みも終わりにさしかかった頃。俺は屋上に呼び出されていた。
もう5分もしたら、チャイムが鳴るだろうなぁ。帰りてぇ……。
「あっ? もう言い訳は終わり? 全然聞いてなかったわー」
「酷っ!」
「んで? 首尾の方はどうなの? 見つかった?」
はあ、と欠伸をする芹川先輩は気だるげに背を壁に預け、スマホを取り出す。
全然期待してなさそうだなぁ。まあ、正直当てにされても困るけど。
だが、今日は違う。そう、何故ならきちんと成果を手にしていたからだ!
「ふっふっふ。先輩、どうせ『こいつじゃ、まあ無理だよなぁー』って思っているんでしょうけど、当てが外れましたね?」
「え? まじで見つけてきたの?」
引くわぁー、と何故か気持ち悪がった目を向けてきた。本当になんだ、この人。
「で、どんなやつ?」
「どんな……えーと、真面目な……いや、違うか……あ、明るくて面白い人です」
「うっわ、もうちょいなんか褒めるとこなかったわけ?」
「最近知り合ったばかりなので、あんまり詳しくないだけですよ。失礼だなぁ」
「へぇー、それで名前は?」
早く、と急かすように芹川先輩は尋ねてくる。むむむ、流石の俺(おおらかさに定評のある)でも、この態度はちょっとイラッとするぞ。
「その前に、お礼とかして貰えます?」
「は? 何言ってんの?」
「じゃなきゃ、教えませんから」
「あんた……いや、そうね。たまにはご褒美が欲しいのは分かる」
芹川先輩は組んだ腕を解いて、一歩二歩と近づいてくる。
だ、大丈夫だよな? このまま回転蹴りとか、二重の極みとか、シークレットソード紅蓮腕(カタコト)とか、飛んでこないよな?
「……」
「えーと、芹川先輩?」
「くっ、あんたなんかに……」
え、何? その表情。羞恥と悔しさが混ざり合ったような……あ、そうだ、例えるならあれだ。
『私に乱暴する気でしょ? エロ同人みたいに!』 ……または、『くっ殺せ! たとえ体は屈しても心までは(ry』みたいな顔だ。
「あ、ありが……」
「え?」
「だから、ありが……と」
「聞こえないですね、全然」
意地悪なのは自覚していたが、これくらいは許されるはずだ。……初対面で蹴りを繰り出すよりはマシだろう。
「だからぁ!! ありがとって言ってんのよ!!」
「はい、どういたしまして」
よし。これで俺の気も晴れた。
「話を戻しますね。えーと、俺が見つけた飼い主候補の人の名前は、ですね?」
「よーし、言って、早く。……言った瞬間、ぶん殴ってやる」
「二年の──礼堂 美桜先輩です」
俺がその名を挙げた瞬間だった。
突如として、芹川先輩に異変が起こる。
「……礼堂 美桜?」
すっと、半ばブチ切れかけていたその表情から感情が消え失せたのだった。
「礼堂先輩を、知ってるんですか?」
「だったら?」
芹川先輩は眉間に深く皺を寄せる。
うわ、めっちゃ機嫌悪そう。顔が鬼だ、鬼の形相だ。
「どういう関係なのか、ちょっと気になるってだけです」
「そう。んじゃ、教えてあげる。こそこそ嗅ぎ回られるのも嫌だし」
芹川先輩は仕方なく、と言った感じで小さく白状した。
「礼堂 美桜とあたしは──幼馴染なのよ」