学園で有名な『氷』の美人姉妹を助けたくらいで、俺の平凡な生活は変わらない……と、思っていた。   作:沙悟寺 綾太郎

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第30話

 

「俺さ、野球辞めようと思う」

 

 去年の冬。

 大野木 公也は浅く積もった雪の中、静かな早朝の公園で、ふと偶然出会った茅田 優子へと溢した。

 

 大野木 公也にしてみれば、愛犬の散歩。茅田 優子にとっては日課の散歩。その二つが重なった。

 

「腰が、さ。結構ひどいらしくてな。このまま続ければ、最悪立てなくなるかもしれないらしい」

 

 別に同情をして欲しかったわけでも、話を聞いて欲しかったわけでもなかった。

 それでも、大野木がそう口にしたのには、理由があった。

 

「そう、なんだね」

 

 優子は大野木の連れたレトリバーの首元と頭を優しく撫でていた。

 

「ああ。これ以上は……ダメみたいなんだ」

 

 白い息が二つ、風に巻かれて消えてゆく。

 お互いにそれ以上に、何も言葉を持ち合わせていなかったし、何を言えばいいかも分からなかった。

 

 正解などないし、それにもっとも近い選択肢を導き出そうにも、十五年ほどの短い人生ではあまりにも難しいことだった。

 

 絶望や挫折。

 そういった経験を一つずつ乗り越えて来れたならば、違う答えを持ち合わせたのだろう。けれど、初めての大きな挫折に対しては、二人ともどう向き合えば良いのか、分からずにいた。

 

「ごめんな、いきなりこんなこと話して」

 

 巻きついたリードが擦れて、手の甲が少し赤くなっていた。それがやけに気になったのは、指先が酷く(かじか)んでいたからだろう。

 

「うんうん。気にしないで。大野木君の弱音……って言っていいのか分からないけど、こう言うこと話してくれるのって始めてだから、ちょっと新鮮な気がする」

 

 優子は慎重に一つ、また一つと言葉を選ぶように言った。気遣ってか、普段と同じ明るい声だった。

 

「ま、きつい練習をもうしなくていいって言うなら、お釣りが来るくらいだけどな。高校からは他にやりたいことだって、いくらでも出来るだろうし」

 

 冷たい空気と沈黙の狭間で、レトリバーは場の雰囲気を読んだように、几帳面に座ったまま動こうとはしない。

 

「……嘘は、ダメだよ。大野木君は辛い練習なんかと大好きな野球を比べて、嫌がったりなんかしないでしょ?」

 

「そうかも、な」

 

 いつも通り。そう振る舞おうとして、失敗したのだとすぐに自ら気づかされた。

 

「話してよ。本当に、大野木君が思ってることを」

 

 柔らかく、暖かく包み込むように優子は笑いかける。

 

「……分かった」

 

 返事をして、大きく息を吸い込んだ。

 

「俺は野球が好きで、本当は──辞めたくない」

 

 一瞬、言ったことを後悔する。それくらいに、胸が張り裂けるように傷んだから。

 

 そうだ、好きなのだ。たったそれだけなのだ。

 

「なんで……なんで俺なんだよ。くそ。ああ、そうだよ! 俺は野球が大好きなんだ!」

 

 一度、堰を切ってしまえば、途端に多く溢れ出した。

 

「プロにだってなりたかった! 甲子園でヒーローにだってなりたかった!!」

 

「うん」

 

「練習で手を抜いたことだってなかった! 最後の一瞬まで頑張った! 頑張り抜いたんだ!」

 

「知ってるよ。ずっと、大野木君が頑張ってたの、私は知ってる」

 

「……茅田との、約束だって……あった、あったんだよ!」

 

 確かに自分の実力など、大したことはない。上を見れば、多くの怪物が巣食う世界だ。

 だけど、例えそうであったとしても、好きなのだ。どうしようもなく、野球が。

 

 プロにならなくとも、なれないだろうけれど、それでも人生を通して、ずっと関わっていたかった。

 

「よく言えました」

 

「本当に、ごめんな。こんな……どうしようもない、ことなのに、聞かせちゃって」

 

「いいの。私が受け止めてあげることで、大野木君が少しでも楽になれるなら。それに、辞めたとしても、野球を嫌いになったらそれこそ寂しいよ」

 

 優子は立ち上がると、手を伸ばして大野木の頭に触れた。そっと寄り添うように。

 

「それに、さ? 私はね、大野木君があの約束を、覚えていてくれただけで、凄く嬉しいから」

 

「……茅田も、覚えててくれたんだな」

 

「勿論。小学二年生の時の、私のために甲子園でホームランを打つってやつだよね?」

 

「お、おう。なんか今になって恥ずかしくなってきたわ」

 

「私、結構嬉しかったんだよ? あんな風に言ってもらえて」

 

 もう果たせない約束だ。けれど、今でもまだ大切で。

 だから、最後にホームランを打つ。そう決めた。

 

 誰が見ても、甲子園の高い壁の上を通過したと、超えていったと頷くようなものを。

 大野木 公也は打ちたいのだ。

 

***

 

「……んで? 何か言い訳があるなら聞いてあげるけど?」

 

「いや、その……色々と忙しくてですね? ほら、部活祭とかあったじゃないですか?」

 

 昼休みも終わりにさしかかった頃。俺は屋上に呼び出されていた。

 

 もう5分もしたら、チャイムが鳴るだろうなぁ。帰りてぇ……。

 

「あっ? もう言い訳は終わり? 全然聞いてなかったわー」

 

「酷っ!」

 

「んで? 首尾の方はどうなの? 見つかった?」

 

 はあ、と欠伸をする芹川先輩は気だるげに背を壁に預け、スマホを取り出す。

 全然期待してなさそうだなぁ。まあ、正直当てにされても困るけど。

 

 だが、今日は違う。そう、何故ならきちんと成果を手にしていたからだ!

 

「ふっふっふ。先輩、どうせ『こいつじゃ、まあ無理だよなぁー』って思っているんでしょうけど、当てが外れましたね?」

 

「え? まじで見つけてきたの?」

 

 引くわぁー、と何故か気持ち悪がった目を向けてきた。本当になんだ、この人。

 

「で、どんなやつ?」

 

「どんな……えーと、真面目な……いや、違うか……あ、明るくて面白い人です」

 

「うっわ、もうちょいなんか褒めるとこなかったわけ?」

 

「最近知り合ったばかりなので、あんまり詳しくないだけですよ。失礼だなぁ」

 

「へぇー、それで名前は?」

 

 早く、と急かすように芹川先輩は尋ねてくる。むむむ、流石の俺(おおらかさに定評のある)でも、この態度はちょっとイラッとするぞ。

 

「その前に、お礼とかして貰えます?」

 

「は? 何言ってんの?」

 

「じゃなきゃ、教えませんから」

 

「あんた……いや、そうね。たまにはご褒美が欲しいのは分かる」

 

 芹川先輩は組んだ腕を解いて、一歩二歩と近づいてくる。

 だ、大丈夫だよな? このまま回転蹴りとか、二重の極みとか、シークレットソード紅蓮腕(カタコト)とか、飛んでこないよな?

 

「……」

 

「えーと、芹川先輩?」

 

「くっ、あんたなんかに……」

 

 え、何? その表情。羞恥と悔しさが混ざり合ったような……あ、そうだ、例えるならあれだ。

 

 『私に乱暴する気でしょ? エロ同人みたいに!』 ……または、『くっ殺せ! たとえ体は屈しても心までは(ry』みたいな顔だ。

 

「あ、ありが……」

 

「え?」

 

「だから、ありが……と」

 

「聞こえないですね、全然」

 

 意地悪なのは自覚していたが、これくらいは許されるはずだ。……初対面で蹴りを繰り出すよりはマシだろう。

 

「だからぁ!! ありがとって言ってんのよ!!」

 

「はい、どういたしまして」

 

 よし。これで俺の気も晴れた。

 

「話を戻しますね。えーと、俺が見つけた飼い主候補の人の名前は、ですね?」

 

「よーし、言って、早く。……言った瞬間、ぶん殴ってやる」

 

「二年の──礼堂 美桜先輩です」

 

 俺がその名を挙げた瞬間だった。

 突如として、芹川先輩に異変が起こる。

 

「……礼堂 美桜?」

 

 すっと、半ばブチ切れかけていたその表情から感情が消え失せたのだった。

 

「礼堂先輩を、知ってるんですか?」

 

「だったら?」

 

 芹川先輩は眉間に深く皺を寄せる。

 うわ、めっちゃ機嫌悪そう。顔が鬼だ、鬼の形相だ。

 

「どういう関係なのか、ちょっと気になるってだけです」

 

「そう。んじゃ、教えてあげる。こそこそ嗅ぎ回られるのも嫌だし」

 

 芹川先輩は仕方なく、と言った感じで小さく白状した。

 

「礼堂 美桜とあたしは──幼馴染なのよ」

 

 

 

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